台本を読んでいたジョーが悲鳴を上げた。
「なっ…! こっ、そっ、こっ…!」
ジョーは台本を握りつぶしてしまったが、それに構いもせず、周囲を見回した。
ここはだいぶの山奥。メンバーは立派な西洋造りの家を作るのに忙しく手を動かしていた。
ジョーは金槌を振るっているG.Jrに声をかけた。彼は素っ気なく
「後でな」
と振り向きもせず、口にくわえた釘を次々と壁板に打ち付けた。
ジョーは今度はアルベルトに声をかけた。彼は玄関の扉をすえ付けながらぶっきらぼうに
「なんだ。忙しいんだ」と言い、
「芝居のことなら中の連中に聞け」
と家の中を指差した。ジョーは礼を言って屋内に入った。
何枚もの扉と廊下を抜け、ジョーが大きなかぎ穴の二つついた扉を開けて最後の部屋に入ると、着々と準備がなされているところだった。部屋の真ん中には大きなベッドが置かれ、ピュンマが寝心地が良いようにクッションを並べ、その上にシーツをかけた。その周りには様々なフルーツやお菓子といった食べ物や飾り付け用のお花などが用意されていた。
「お、ジョー」
ジェットが呆然と立つジョーに声をかけた。ジェットはジョーの全身を上から下までながめ、
「なんだ、山猫の着ぐるみが似合ってるな。ペンギンもそうだったが、口の中に顔があるってのも愉快なもんだ」
そう言うとジェットは手にしたガラスボウルをジョーに見せた。ダイス状にカットされたサンセット色のねっとり南国フルーツが山と入っていた。
「準備は万端だぜ。見ろ、マンゴーだ。ベタだけど、やっぱこれだろ?」
言われたジョーは一瞬きょとんとした。次の瞬間、彼は顔から火を吹いた。
「や、違、こ、それは…!」
ジョーは血の巡りが極端になっていたので、口がちっとも回らなかった。ジェットは
「いいってことよ」
とジョーの肩を叩いた。ジョーは山猫の着ぐるみに包まれた手を振って否定を表そうとした。が、肉球のついた短い手を左右に振ってもコミカルな動作になるだけで、ジェットにはちっとも通じなかった。
そこにピュンマが現れた。ピュンマは
「何をやっているんだい、ジェット」
と言い、
「駄目だよ、これは」
とジェットの手からマンゴーの入ったボウルを取り上げた。
ひょっとしたら救いの神?とジョーが期待したのも束の間、ピュンマは
「マンゴーはかぶれる人もいるんだ。彼女もそうだったら、ジョーが悲惨じゃないか」
と言って、そのボウルをジョーに押し付けた。
「ジョー、フランソワーズが来る前に全部たいらげちゃってくれよ」
「え」
ジョーが訳が分からない顔をしていると、ピュンマはにっこり笑って言った。
「ジョー、君が彼女のマンゴーを食べなくてどうするんだい?」
ジョーの顔が噴火した。ジェットが手を出した。
「じゃー俺が喰う」
「! 駄目!」
ジョーはボウルを抱えてジェットから遠ざけた。
ピュンマは部屋中を見渡した。いつの間にか室内はギリシア宮殿の大広間風にしつらえられていて、白い大理石の柱に大きな観葉植物や花々や揺れる薄衣がセットされていた。グレートがバラの花弁をそこかしこに散らした。張々湖が巨大な白鳥の氷像を持ってきて、アイスクリームや冷菓が溶けないよう見た目も美しく飾り立てた。その他のフルーツやお菓子も山盛りてんこ盛りでスタンバイOKだ。そして、それらの中心にはあのベッドが彼女が寝そべるにいい形で用意されてある。
ジョーの体温は着ぐるみの中で臨界点を越えつつあった。
ピュンマはフルーツの山からバナナの大きな房を取り上げた。
「これも駄目だよー」
ジョーは真っ赤になってバナナを受け取ろうとした。ピュンマはにっこり笑って、それを止めて言った。
「ジョー。君がフランソワーズに食べさせるバナナはこれじゃないだろ?」
これは撤収ね、とピュンマは言い、アイよー、と張々湖がバナナを持って退室した。
ジョーはすでに自分の体温で溶けて消えそうである。
「よし、これでオールオッケーだね」
最終チェックをしていたピュンマはジョーに手を上げた。
「じゃ、僕達はこれで。成功を祈るよ」
「待ってくれ、ピュンマ!」
ジョーはようやく人の言葉を話せた。
「これは何だい? 何のためにこんな、こんな、こんなことを…!」
つぶれた台本とマンゴーのボウルを手に泡食って紅潮しているジョー。その肩にピュンマは手を置いた。そして言った。
「ジョー。それはね。誰がために、ということだよ」
「ピュンマいいこと言ったー」
ジェットが冷やかした。まあね、とピュンマはフッと笑い、ジョーに言った。
「ここはもうだいぶの山奥だからね、この家以外に人家はないし、イワンが周囲5kmは誰も立ち入らないようにしてくれてる。僕らは明日のこの時間に迎えに来るから、それまでしっかりやるんだよ」
ピュンマはジョーの表情を見、
「迎えに来るのは三日後ぐらいの方がいいかい?」
と聞き直してくれた。
ジョーはぶんぶん首を横に振った。ピュンマはうなずき、肩に置いた手に力を込めて言った。
「このお芝居の成功はひとえに君にかかっている。フランソワーズは言いくるめてあるから、よろしく頼む」
ジョーは色々言おうとした。否定とか中止とか無理とか。拒絶する気はなかったが、一人の男として彼女とのことをこのように周囲に囃し立てられるのは不本意でもあった。
しかし。
退散〜、と言いながら部屋から出て行きかけたグレートが振り返り、
「…ギルモア博士と吉報を待ってるぞ」
と、目を細めながら言った時、ジョーは拒否する言葉を飲み込んだ。張々湖が怪しいイントネーションで、
「コレ飲む、ビンビンよ」
とジョーにドリンク剤半ダースを渡してくれた。いらないよ、と言おうと思ったら、液剤の瓶には「子宝大当」と赤く大書してあった。ジョーが二の句がつげないでいるうちに、メンバーはああっという間に引き揚げてしまった。ドルフィン号のエンジン音が遠ざかっていく。
「…そんなぁ…」
伝家の宝刀(孫が抱きたいギルモア博士)を持ち出され受入れる気になったものの、心穏やかとは程遠い心境のジョー。くしゃくしゃの台本とむかれたマンゴーと精力剤の瓶を持って、情けない声をあげるしかなかった。
「…どうしよう…」
しかし現実はすぐそこまで迫っていた。扉のノックされる音に、ジョーは飛び上がった。
(な、何?!)
あわあわと手にした物を抱えて右往左往するジョーの耳に、聞き慣れた声が。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
(フランソワーズ!)
慌てながらも、ジョーの耳は、ノック音とフランソワーズの声が外の玄関からのものだということを判別していた。お芝居は始まっていたらしい。
もう一回、ノックとフランソワーズの声。
「ごめんください、山猫さんはいらっしゃいますか?」
ジョーは反射的に返事をしようとした。その視界に、部屋の中央のベッドが飛び込んできた。
ジョーの優秀にして持ち主の意のままにならない脳味噌は、その白いシーツの上に横たわり、甘いクリームと共にジョーを誘うフランソワーズの媚態を想像した。
ジョーは息を呑み込んだ。ついでに気配も殺して、部屋に垂れ下がった薄衣の影に猛スピードで潜り込み隠れた。
ジョーは着ぐるみ姿で紗にくるまり、目をつぶってガタガタと震えながら、通り過ぎるのを願った。
そうは上手くいかなかった。
真面目なフランソワーズは、きちんとお芝居を続行した。
キィと扉の開く音と、
「ごめんくださいませ、失礼いたします…」
フランソワーズのご挨拶と、床を踏む足音。彼女は玄関から次の室に入ってきた。
ジョーはヒィと喉を鳴らした。そして頭だけ薄衣から出した。ジョーには透視能力はついていないが、彼女の気配と、扉に書かれた注意書きを読み上げる声は嫌でも聞き取れた。
「『どうか帽子と外套(ぐわいたう)と靴をおとり下さい。』…?」
フランソワーズは不思議そうな声をあげたが、しかし、注文には従ったようだ。衣擦れの音。ボタンをはずす気配。ファスナーを下げる音。
そして、ジョーが鳥肌を立てて気配を読み取っている目の前に、ぼうっと浮かび上がるようにして、ハンガーラックにかけられたコートと帽子、そしてブーツが姿を現した。
淡いモーヴ色の、袖にファーのついたコート。同色のバラのコサージュのついた白いニット帽。ジョーには茶色か紫色か判断つかないコートと毛糸の帽子としかわからないけれど、それがフランソワーズのものだということは教わらずとも知っていた。
ジョーは恐る恐る隠れていた隙間からはい出した。彼は、部屋の角に突然登場したハンガーラックに近寄り、かけられたフランソワーズのコートに、これも恐る恐る手を伸ばした。
もうちょっとでジョーの指がフランソワーズのコートに触れるところで。
「な、何っ。コートが消えてる!」
フランソワーズの声が響いた。ジョーはビクッとコートから手を引いた。そのままジョーはきょろきょろ落ち着かなく見回して(誰もいないことはわかっているのに)、部屋の隅から隅へ、小動物よろしくちょろちょろと駆けずり回った。
「何だか、怖い…」
フランソワーズの声。それから蝶番の軋む音。彼女は次の間に入った。
忙しなく部屋の端っこを走り回っていたジョーは、次の彼女の台詞に、走るのを止めて、右に左に足踏みステップに切り替えた。
フランソワーズは扉の注文を見て、こう言った。
「ええっ、ここでは服を脱ぐの?」
ジョーはあわてふためいて右に左に行ったり来たり。どうしようと思いつつどうしようもなくて、彼は目についたマンゴーのボウルを取り上げ、何も考えずかっこんだ。
フランソワーズは注文に不審を抱いたようだ。
「変だわ…」
彼女は何もせず、次に続く扉を開けたのだが。
「まあ、お風呂!」
次の室にはミルク風呂が用意されていたのだ。彼女は戻って、注文通りに服を脱ぎ始めた。入浴しないという選択肢は彼女にはないらしい。
衣擦れの音が響き渡り、ジョーを刺激する。パチンパチンとホックをはずす音には、ジョーはそれにあわせて盆踊りのように手を振り上げるのだった。山猫の着ぐるみがステップを踏みながら手を左右に振り上げて必死に踊る。いい光景かもしれない。
さして運動量の多い動きでもないのに、ジョーの息は上がった。息も絶え絶えとはこのことか。追い打ちには、水音。フランソワーズがお風呂に入った音だ。
ちゃぷん。
「いいお湯…」
バスルームらしく声が反響している。臨場感溢れるサウンドは漏れる吐息に強調されて、しかも
「気持ちいい…」
彼女がこぼした台詞の妄想レベルに、ジョーはとうとう七転八倒し始めた。
「ミルク風呂って、ホント、潤うカンジ」
「こんなの、初めて…」
「白くてトロトロしてるのね」
「…飲んでも大丈夫なのかしら…」
山猫の着ぐるみは動くのにむかない。苦しくなってとうとう動きを止め、荒い呼吸を繰り返すジョーの目の前に、とどめが。
先程現れたハンガーラックの手前に、またぼうっと浮かび上がってきた物が一点。
それは脱衣籠。中には当然、現在入浴中のフランソワーズの着衣入り。
籠の一番上には彼女のブラウスが置いてある。その不自然な盛り上がりは、その下にワイヤー入りの物体が潜めてあることが明白だった。
ジョーは唾を飲込んだ。熱にうかされた目で脱衣籠に近づく。コートの時と同じように、彼は恐る恐る手を伸ばした。
ジョーの右手は脱衣籠に入り、震えながらフランソワーズのブラウスをめくった。
下に隠されてあったのは、フランソワーズのファウンデーション。本日は白。レースの縁取りも優美なブラジャーと、お揃いのショーツ。
ジョーの右手はブラウスをめくりあげたまま、左手はそこからのぞくフリルあふれるショーツに伸ばされた。ジョーの指先が繊細なレースに触れた。それをそっとなぞったジョーだったが、次の瞬間、ジョーの右手が彼の左手首をつかんだ。ジョーはそのままの姿勢で飛び退り、脱衣籠の秘宝の勢力圏外まで後退したところで、震える左手を右手でホールドしたまま身をよじってもがいた。
ジョーの煩悶に全く気付かないフランソワーズ、お湯をちゃぷちゃぷいわせながら、
「ん〜、幸せ…」
ミルク風呂を堪能している。
ジョーは眉間に深くシワをよせながら左の本能と右の理性の板挟みとなって悶えあがいた。酸欠になりかけた彼のぼやけた視界に、張々湖のくれた精力剤が存在を赤く自己主張してきた。
ジョーは六本パックを取り上げた。カーテンのかかった窓辺に走り、それを窓から外に放り投げようとした。
ジョーはカーテンをシャッと開けた。窓に見えたそれは壁にガラスをはめてあるだけで開閉できなかった。ジョーはがっくりした。
ジョーはカーテンをシャッと閉めた。そこで思い直した。
(昼間からカーテンを閉め切ってたら、フランソワーズに誤解されるかも…)
この部屋では目的を誤解しようもないが。しかしジョーは、取り繕うかのように、再びカーテンをシャッと開けた。ここでまたジョーは思い直した。
(でも…もし、もしも、そんなようなコトになったら、フランソワーズはカーテンが開いてたら嫌がるかも…)
ジョーはカーテンをシャッと閉めた。ここでまたまたジョーは思い直した。
(いや、開いてても閉めればいいんだし…閉めっぱなしだと、彼女も逃げ場がないかも…)
何の逃げ場?とにかくジョーはカーテンをシャッと開けた。そこからまたジョーはためらって、カーテンをシャッと閉めた。でもすぐまたシャッと開けた。シャッと閉めた。シャッ。シャッ。シャッ。
シャッ。シャッ。シャッ。シャッ。シャッ。シャッ。シャッ……
しばらく部屋にはカーテンレールのこすれる音だけが無限にこだました。
壊れかけたカーテンレールを救ったのは、やはりフランソワーズだった。彼女は
「んん〜、しっとりすべすべv」
と鼻歌まじりにミルク風呂から上がった。水音がジョーの部屋まで届き、ジョーは勢い余って腕を大きく交差させて、ガジャッとカーテンを閉めた。
「あら、これが着替えなの…?」
お風呂から上がったフランソワーズはためらっているようだ。だが彼女が着てきた服は、今ジョーのいる最後の部屋の角に脱衣籠ごと移動してきているので、しょうがない。彼女が身支度を整えだした音に、ジョーはまた部屋をウロウロし始めた。ジョーは冷菓のために用意された氷をかじって頭を冷やそうとしたり隠れられる場所を探したりした。ジョーは中央のベッドと脱衣籠周辺には近寄ろうとせず、ただひたすら無駄にあがいた。
フランソワーズは次の扉を開けた。もうジョーのいる部屋まで、あと扉一枚だ。彼女の気配がひしひしと感じ取れるようになって、ジョーの背筋は総毛立った。
「今度の注文は何かしら」
フランソワーズはジョーの隣の室(へや)で読み上げた。
「『クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、』」
彼女は続けて読んた。
「『耳の後ろはどうですか、うなじは、脇は、おへそのくぼみにもお忘れなく』」
厳重ねえ、と彼女は呟いた。ジョーは自分のへそに目をやった。そしたら、その下の怒張の方が目についてしまって、ジョーは思わず前屈みになった。
ジョーはその姿勢から顔だけ上げた。腰を屈めた状態のジョーの視線の高さは、扉の大きなかぎ穴と同じ高さになっていた。二つ並んだ鍵あなは、ちょうど人間の目と同じ幅だった。
なので、ジョーの優秀にして持ち主の意のままにならない目は、向こうの部屋のフランソワーズをばっちりとらえた。
鍵あなから見たフランソワーズはお風呂上がりでつやつやしていて頬もほてっていて、ジョーには全く目の毒だった。彼女は染めも文様も鮮やかな薄地のガウンをまとっていた。
(なんだか着物みたいだな…)
こう思ったジョーは正しい。キモノガウンだ。ジョーが見ている中、彼女はあっさりそれを脱いだ。
鍵あなからその姿を視認したジョーは心中で絶叫した。
(何、そのヒラヒラでスケスケでギリギリでヤバヤバでキワドいの!)
フランソワーズはガウン以外には最低限しか着けておらず、それもジョーにとっては、素材からみても生地の使用量からみてもデザインからみても目的を果たしておらず、無意味な三角形としか映らないものだった。別の目的なら完遂していることはジョーの本能が証明していたが、彼はそこを見ないフリをして、視界の彼女に集中した。
(一体誰が用意したんだ…)
ジョーの胸中をどす黒いものが渦巻いた。それも一瞬。
ジョーが鍵あなからのぞいていることを彼女は知らない。気付いていない。なので、フランソワーズは最後の一枚もするするっとほどいて脱いだ。全裸になったフランソワーズは硝子の壺を取り上げ、注文通りに、耳、耳の後ろ、うなじ、脇、とはちみつクリームを塗りだした。
ジョーはその様を鍵あなを通して全部見ていた。
ジョーはやっぱり最強のサイボーグだった。本能に征服されようとする中、彼の理性の一部は、今自分の目は血走ってるなあ、鼻息荒いなあ、鼻血も噴きそう、ああ、破裂する、と冷静に状況判断を下していた。
フランソワーズは全く無防備だった。彼女は壺のはちみつクリームを薬指の先にちょんと取り、お腹のおへそのくぼみに差し入れた。それを見ていたジョーの理性はその時、これはノゾキだよ、とズバリ断じた。
(…バレたら、フランソワーズに嫌われる!)
行為の是非より彼女の感情を尊んだジョー、直立して再度バック走を、器用に中心のベッドを避けながら、反対側の壁まで走り抜いた。
さすがにその足音はフランソワーズにも聞こえた。クリームを塗り終えた彼女は、面積極最小限を引き延ばすように着けていたところだったが、すばやく結び、ガウンをまとい、そして、
「ジョー?」
彼女はなんと彼の名前を呼びながら、扉に近づいた。
ジョーはふるふると首を横に振りながら、半ベソで声も出せずに扉の向いの壁に背を張り付けていた。
が。
(…ピュンマはフランソワーズに何て説明したんだろう)
ここでやっと重大な問題に気がついた。
(…ピュンマは「言いくるめてある」って言った。てことは、彼女は目的は知らないんだ…)
台本も読んでいないだろう。もしフランソワーズがこの状況を正確に把握していたら、真面目な彼女のことだもの、緊張して固くなって、ミルク風呂でのあのリラックスした台詞なんか出てこないに決まってる。
それ以前に、こんなお芝居に彼女は参加しない。
(…ということは…)
ジョーは部屋の中心に鎮座するベッドを見た。それ目的のために用意された品々を見た。どう解釈しても、目的は違えそうにない光景だった。
大きな鍵あなが二つついた扉のドアノブが、かちゃりと回った。
ジョーは加速装置も真っ青のスピードでドアに張り付いた。そしてドアノブを握り締め、彼からは引き戸になる扉を体を張って押し止めた。
フランソワーズは驚いた。扉を開けようとしたが、ドアノブが途中で動かなくなり、しかも開けようと押しても開かないのだ。
「何なの?」
ジョー?と、彼女は銀いろのホークとナイフの形が切りだしてある扉に向かって呼んでみた。返事はなかった。が、彼女は扉の向こうに人の気配を感じた。
「ジョー? そこにいるの?」
フランソワーズはもう一度呼んでみた。
「そこにいるのでしょう。開けてちょうだい」
ジョーはちらりと後ろを振り返り、ベッドを見た。そしてドアノブを握る手にますます力を込めた。山猫の着ぐるみなので、うまく握力が出せずに全力を出さなければならないという理由もあったけれど。
「ねえ、ジョー? どうして開けてくれないの?」
フランソワーズが問いかけてくる。
「どうしてって…」
ジョーは口の中でごにょごにょ呟いた。
だって、だってだって、嫌われたくないんだ。拒絶されると傷つくんだよ。
右の理性は泣きそうだった。
でも声に出せず、ジョーはこれだけ言った。
「フランソワーズ、来ちゃ駄目だ」
「ジョー」
フランソワーズはまた言った。
「どうして? ジョー」
ジョーは繰り返した。
「どうしても。入ったら駄目だ」
扉越しの対話は堂々巡りになりかけた。フランソワーズは言った。
「もう。ジョーったら、ピュンマから聞いてないの?」
「え」
ジョーは思わず硬直した。フランソワーズはそれに気付かず言った。
「私、ピュンマから、ジョーにバナナを食べさせてもらえって言われてきたのよ」
ジョーの手から力が抜けた。抵抗がやんだので扉は軽く開き、フランソワーズはたたらを踏みながら室内に入ることになった。
「ジョー」
様々な注文を受けてきたフランソワーズを、山猫の着ぐるみを着たジョーが迎えた。
フランソワーズは扉の陰からまずは顔だけ出してジョーを見た。ジョーは無表情に突っ立っていた。フランソワーズは今度はおずおずと全身を見せた。ジョーの表情は変わらなかった。薄衣の下は裸とほぼ変わらない格好のフランソワーズは、安心したような気落ちしたような顔になった。しかし彼女はすぐに気を取り直して、甘い香り(牛乳とはちみつ)を漂わせながらジョーの前に立った。
「カワイイ♪ こちょこちょ猫ちゃんと同じ毛並みね」
彼女は何の警戒心もなくジョーの着ぐるみの手触りを確かめた。ジョーがうつむいたのを、彼女は照れと思ったようだ。
フランソワーズはジョーから視線をはずし、室内を見回した。
「ジョー、バナナはどこ…」
彼女はギリシア風の室内装飾を見た。山と用意されたフルーツやお菓子を見た。その中心に置かれたベッドを見た。フランソワーズは最後の部屋をぐるりと見、注文の多い料理店の真意を理解した。
フランソワーズは一、二歩、後ずさった。その背は扉に行き着かず、毛の生えた壁に突き当たった。ジョーが彼女の背後をとっていたのだ。ジョーはフランソワーズの両の二の腕をつかみ、向き直らせなくした。
フランソワーズは体をよじったが、ジョーの力は揺るがなかった。フランソワーズは柔らかな毛が自分の体の後ろ半分に密着したのを感じた。着ぐるみの山猫の頭部が自分の肩に乗せられたのも感じた。山猫は彼女の髪の香りを嗅いで、喉を鳴らして、舌なめずりした。
フランソワーズは硬直した。
「ジョー」
彼女は努めて明るく声をあげた。
「私、バナナを食べにきたの」
彼女は前方のフルーツの山に視線を当てて言った。
「あそこにバナナがあるのでしょう?だから、手を放して…」
ジョーはフランソワーズの耳を食みながら言った。
「バナナはあそこじゃないよ」
ジョーはフランソワーズのお尻に腰を押し付けた。フランソワーズはビクッと大きく震えた。ジョーは彼女のやわらかいお尻にすり寄せて、嫌でもわからせてから言った。
「じき固くなって食べごろだよ」
フランソワーズは首を横に振った。そんなのバナナじゃない、逆、とか言ってたけどジョーの耳は都合良く聞き流した。
「フランソワーズ」
ジョーは彼女のうなじを吸い上げた。
「駄目、こんなこと、駄目よ、ジョー」
フランソワーズは抗った。肉球だけど山猫の手が彼女の全身にまとわりつき、ガウンのあわせや裾から入り込んで脇や下腹を撫で、彼女の息を乱した。フランソワーズは小刻みに震えながらあえいだ。
ジョーはフランソワーズから抵抗する気力も奪い取ってから、彼女を自分の方に向かせた。
「フランソワーズ」
ジョーは山猫の着ぐるみの口から顔をのぞかせ、彼女に言った。
「お皿も洗つてありますし、生クリームももうよく泡立てて置きました。あとはあなたと、生クリームをうまくとりあはせて、まつ白なお皿にのせる丈(だ)けです。それともフルウツ・サラドはお嫌ひですか。そんならこれから火を起してチョコレエト・フォンヂユにしてあげませうか」
フランソワーズは目をまん丸くして、それからくすっと笑った。ジョーがあんまり棒読みだったので、お芝居の台詞だとすぐにわかったのだ。
フランソワーズの緊張がほぐれるのを見て、ジョーは言った。
「フランソワーズ、お芝居を続ける?」
ジョーは彼女を心配しているような憂いているような表情になった。
「ボクはフランソワーズとは、こんな状況とかじゃなくて、そのう、真剣にいきたいと思ってるから…」
フランソワーズはジョーの言葉に目を潤ませた。
「ありがとう、ジョー。私も同じ気持ちよ」
フランソワーズは言った。
「不安なのは私よりジョーの方よね」
フランソワーズはジョーの頬に手をあて、ジョーにキスをした。傍から見てると、着ぐるみの山猫に令嬢が顔から食べられているような図だ。実際、食べあっているようなキスだった。
お互い息があがるまでキスしあったあと、フランソワーズはとろんと高揚した目つきでジョーに言った。
「大丈夫よ、ジョー。優しくするわ」
「へ?」
フランソワーズ艶っぽいなー、と、こっちもとろんとしていたジョーは思わず変な声を上げた。
「え、今、何て…?」
とか聞き返しているジョーに構わず、フランソワーズは彼の首や胸元をまさぐった。
「あ、これね」
フランソワーズは着ぐるみの毛の中から、ファスナーを探し出した。フランソワーズはジョーにひたと視線を合わせて妖婉に微笑んだ。
「脱がせてあげる」
チー、と小さく高い音。フランソワーズの繊手が下げられ、つまんだ金具と共に山猫の着ぐるみのファスナーが開けられた。ジョーの体に外気がどうと吹いてきて、でもジョーの血はたぎったままで熱は下がろうとしなかった。
ジョーはフランソワーズに手伝ってもらって山猫の着ぐるみを脱いだ。下に着ていたTシャツもフランソワーズが脱がせてくれたので、彼はスウェットパンツだけになった。
「ジョー」
フランソワーズがジョーの首に手を回してきた。ジョーは彼女の腰に手を回した。二人はちゅっちゅっと交わしあいながら、部屋の中心のベッドに向かった。
ジョーがフランソワーズをベッドに押し倒そうとしたところ、
「あん、駄目よ、ジョー」
フランソワーズがジョーを押し返した。
「ええっ」
ここでお預け?と、ジョーが顔をくしやくしやにして本気で泣きそうになったのを見て、フランソワーズも
「それは私もイヤよ」
と言ってジョーをベッドに寝かせて、彼女は自分からジョーの腰にまたがった。
「…」
ジョーが、どうもをかしいぜ、と思いながら、上に乗っかった彼女のお尻の感触にうっとりしていると、その彼の上で、フランソワーズは目尻を真紅に染めながら、キモノガウンを肩からするりと落とした。
絶景。
ジョーがデレデレと見とれていると、フランソワーズは前にかがんで濃厚なキスをくれた。彼女の胸がジョーの上でやわらかくつぶれてこすりつけられた。
正気を失いつつあるジョーに、フランソワーズはまた婉然と微笑んで、しかし微妙な恥じらいも含ませながら言った。
「気持ちよかったら教えてね…」
ジョーはもうもう、メロメロでトロトロで骨抜きになって、
「すっごく気持ちいいよ…」
としか言えなかった。
「そう? やり過ぎじゃない…?」
フランソワーズはジョーの口元や顎にキスをしながら聞いてきた。
「全然。もっと激しくていいくらい」
「まあ」
フランソワーズは体を下方にずらして、ジョーのスウェットに手をかけた。フランソワーズはジョーの瞳を見つめて言った。
「心配しないでリラックスしてて。美味しく食べてあげるわ」
「ふぇ?」
さすがにこれはジョーのトロけた脳味噌にもインパクトがあった。ジョーは彼のスウェットパンツをずり降ろそうとしているフランソワーズを見た。
とんでもないランジェリー一枚きりの彼女は真剣にジョーの足首からパンツを抜こうとしていた。
ジョーはフランソワーズに聞いてみた。
「フランソワーズ。…「注文の多い料理店」って童話を読んだことある?」
脱がせたスウェットパンツをたたんでいたフランソワーズは、顔を上げてジョーを見て、答えた。
「いいえ? どんなお話?」
ジョーは彼女の問いに答えてやらず、もう一回聞いた。
「…ピュンマには何て言われてきたの?」
フランソワーズは決意を込めてジョーの白ブリーフに手をかけていたが、ジョーに聞かれて、
「山猫軒というレストランの一番奥の室に山猫のジョーがいるから、その、バ、バナナを食べさせてもらっておいでって…」
と答えた。実はフランソワーズはそのあとに「代役もありだから、駄目だったら無理しなくていいよ」とピュンマから言われていたのだが、それはあえてジョーに教えなかった。
そうかあ、そうだよね。ジョーは思った。そうだよね、レストランはフツーは西洋料理を来た人に食べさせるよね。うん、それが正しいんだよね。
ジョーは部屋の角に目をやった。脱ぎ捨てられた山猫の毛皮が放置されてあった。
ジョーは自分の下半身に目をやった。お客様である若い令嬢のフランソワーズが気合いを入れ直してジョーの白ブリーフを脱がそうとしていた。
ジョーとフランソワーズは目が合った。フランソワーズは言った。
「待っててね。もうこれだけだから。すぐ食べてあげる」
ジョーには彼女の吐息が風のように感じられた。
「いただきます」
とフランソワーズは言った。
ジョーは、どこからこうなったんだろうと思った。それから、フランソワーズってば、いつもはねだっても恥ずかしがるだけで全然なのに…、とちょっと悔しくも思った。
でも、ジョーはフランソワーズがブリーフを脱がすのを自分の腰を上げたりして助けたし、彼女の腰のショーツの紐をほどいてあげたりして、
「どうぞ、美味しく召し上がってください…」
と彼女に魂ごと捧げたのだった。
律儀なピュンマ達は、三日後にジョーとフランソワーズを迎えにきた。
二人は疲労困憊していたが、フランソワーズの表情は食べ尽くした達成感に溢れていた。
そして、魂を抜かれてデレデレでメロメロでトロトロで骨抜き腰砕けになったジョーは、ギルモア邸に帰つても、皆にひやかされても、もうもとのとほりになほりませんでした。
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着ぐるみの中は白のランニングシャツと縞パン着用としなかった私を誉めてください。
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