リボン
 
幼女がびくん、と身体をふるわせる。
同時に、少年も、びくっと手を引っ込め。
 
ぽと、とカーラーが床に落ち、転がった。
 
「おい…またかよ、ジョー〜〜????」
 
カンベンしてくれ…と、ジェットはぼやきつつ、フランソワーズに鼻をいじらせている。
大きな青い目が必死の色を湛えて見つめているので、動くに動けない。
 
「ご…ごめん…」
「やっぱり、お前には無理だって!」
「き、君だって…できなかったクセにっ!」
「だからさ〜、アルベルトにやらせようぜ〜」
 
…やだっ!
 
ジョーは唇をかみしめ、カーラーを拾った。
 
 
 
コトの起こりは、絵本だった。
 
フランソワーズが絵本の「おひめさま」の絵をことのほか気に入ったので…
さっそくグレートが「おひめさま変身セット」一式を買い込んできた。
 
「言っておくが…ホンモノだからなっ!」
 
グレートが大いばりで取り出したドレスやら靴やらリボンやら。
その質の高さに、ピュンマが唸った。
 
「す…ごいな…」
 
よくこんなお金持ってるね〜と感心するピュンマに、グレートは笑った。
 
「スポンサーは張大人だよ…これ着せてな、店の客寄せに…」
「なんだってえっ?!」
 
飛び上がるように立ち上がったジョーの声に、おとなしく積み木で遊んでいたフランソワーズも飛び上がった。
 
「ふええええええ〜〜んんんん!!!」
 
「あ!ご、ごめん…ごめん、びっくりしたね…泣かないでよ…」
「…ったくっ!」
 
舌打ちしてジョーを睨み付け、グレートはよしよし…とフランソワーズを宥めにかかった。
宥めながら手早く買ってきたドレスを着せ付けていく。
 
「ほうら…!どうだっ!」
 
…沈黙。
 
「な、なんなんだコイツ……ち…ちくしょう〜〜っ、俺としたことがこんなチビに…っ…!」
 
ジェットが頭を抱えて呻く。
ジョーも、まばたきも忘れて、ふんわりしたレースの雲に包まれたフランソワーズを凝視した。
 
か…かわいい。
かわいすぎるっ!!!!
 
思わず両手を伸ばすと…
フランソワーズはそそくさとジョーの手を逃れ、グレートの後ろに隠れた。
 
ど、どうしてなんだよ、フランソワーズ〜!!!!
 
 
 
フランソワーズは鏡を見て、はしゃいだ。
おひめさま、おひめさま…と言っているつもりらしい。よくわからないが。
 
…が。
満足しきったグレートの傍らで、ジェットが首をひねった。
 
「なんか…足りなくねえか?」
 
…何が足りないって?
彼女を刺激しないように、遠くから眺めていたジョーが、むっとした表情になる。
 
「うん…そうか、わかったぞ!アタマだ!!」
「…アタマ?」
「ほら…おひめさま…ってのはさ、アタマがこう…くるくるっと!」
 
ジェットは指で大きくらせんを描いて見せた。
怪訝そうな仲間たちをもどかしげに見まわし、いきなり近くにあった孫の手に自分の長い赤毛を巻き付けた。
 
「こうっ!」
「…よせ」
 
地を這うような声で、アルベルトが呻く。
ピュンマも息をつき、言った。
 
「縦ロールになってる…って言いたいの?」
「そうそう、それだよ…!よ〜し、フランソワーズ…兄ちゃんが仕上げをしてやるからな〜」
「…やめろよ、ジェット…!フランソワーズの髪はもともときれいにカールしてるじゃないか」
「でも、おひめさまのカールじゃないからよ…」
「こんな小さい子にそんなこと、よくないぞ!」
「堅いコト言うなって…お前だって、ホントは見たいだろ?」
 
…う。
そ、そう言われれば…って違うっ!
違うぞ、僕は…僕はただ…!
 
ぐるぐる考え始め、口を噤んだピュンマを得意そうに見下ろし、ジェットはフランソワーズを抱き上げた。
 
「よしっ!おひめさま縦ロールしようなっ、フラン!」
 
 
 
結局、ジェットには…できなかった。
 
フランソワーズの髪は、年齢の割にはふさふさと豊かだったが…
あまりに細くて、柔らかくて…すぐに手から滑り落ちてしまう。
 
痛そうにぎゅっと目をつぶるのも可哀想で、強くひっぱることもままならず。
ジェットは5分であっさり投了してしまった。
 
少し離れて部屋の中を行ったり来たりしながら…ジョーはジェットを睨んでいた。
 
彼の手が、絹の金糸のような髪に触れ、掬いあげ、梳くたびに…どうしようもなく苛つく。
あの髪の感触。
指の間を流れていく柔らかい手触りと、しっとりした重さと、微かな甘い香りと。
知っているのは僕だけだったのに。
 
「いや〜、でも子供の髪ってのは…キレイだな…バージンヘアっていうのか?」
 
聞こえよがしにジェットが呟く。
ぎゅっと拳を握りしめた。
怒鳴ったら、また泣かれるから…必死でこらえる。
 
触るな…触るなあああああああああっ!!!!!
 
…程なく。
ジェットが諦め…ほっと息をついたとき。
後ろで、穏やかな声がした。
 
「俺に貸してみろ」
 
…アルベルト?
 
何も考えられなかった。
気付いたら、ジョーはアルベルトの前に両手を広げて仁王立ちになっていた。
 
「ダメだよっ!」
「…なんだ?邪魔だ…どけ、ジョー」
「僕が…僕がやるっ!」
 
…何?
 
ジェットはあっけにとられて振り返った。
フランソワーズが不安げにその鼻を見上げ、彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
 
 
 
べそをかいて逃げまどうフランソワーズを、ジェットがよいしょ、とつかまえた。
 
「大丈夫だって…怖くない怖くない〜」
 
ジェットは、腕の中でじたばたするフランソワーズをぎゅっと抑え込み、ソファに座った。
 
「よっしゃ、ジョー…来い」
「う、うん…!」
 
深呼吸して、ジョーはジェットの前の床に座り、フランソワーズの髪に手を伸ばした。
 
「ふええええええええ〜〜〜ん!!!」
「う…!」
「ひるむな、ジョー!…そのうちあきらめるからよ」
「わ、わかってる…!」
 
ジョーは泣きじゃくるフランソワーズの小さい頭を片手で押え、櫛を構えた。
泣き声はますます烈しく、まるで火がついたようで。
みるみるうちに、フランソワーズの頬は赤く染まり、涙でぐしょぬれになっていた。
 
「何やってるんだっ?!」
 
ピュンマが怒声とともに駆け込んできた。
有無を言わせずフランソワーズをジェットから奪い取り、優しく揺すり上げる。
 
「よしよし…怖かったなぁ?…もう大丈夫だからね〜」
「邪魔するなっ!」
「いいかげんにしろ、二人とも!」
 
ピュンマはジョーとジェットを睨み付けた。
 
「何がおひめさまだ!…この子は、君たちのオモチャじゃないんだぞっ!!!」
「お、オモチャって…俺たちは別にそんなっ!」
 
ジェットは憤然と立ち上がり、ジョーの手からシルクのリボンをひったくった。
それを、くすんくすん鼻を鳴らしているフランソワーズの目の前で振る。
 
「なあ…フラン、お前…これ好きだよな〜?」
 
フランソワーズは目をぱちぱちさせて、リボンを見つめた。
 
「可愛いぞ〜、これをくるくるの頭に結ぶんだぞ〜」
 
小さい手がリボンをぎこちなくつかむ。
ジェットはにやっと笑い、あきれ顔のピュンマからフランソワーズを奪い返した。
 
「ほ〜ら見ろ…こんなにちっこいけど、パリジェンヌなんだからよ…オシャレのためなら、多少のことはガマンできるよな?」
 
 
 
作戦変更。
 
ジェットは、ソファに座って、フランソワーズを膝の上に立たせ、支えた。
自分の方を向かせて。
で、とりあえず鼻をいじらせておく。
 
ジョーは後ろから黙って静かに素早く、彼女の髪をカールする。
 
フランソワーズは、泣かなかった。
 
ジョーの気配に表情を堅くしながらも、一心にジェットの鼻をいじっている。
髪を梳かれたとき、一瞬顔が歪みかけたが…ジェットが何とか宥めすかした。
 
…急げよ、ジョー。
…わかってる。
 
居間の入口に立ち、グレートとアルベルトは見物していた。
 
「何もそこまでしなくても…」
「意地になっているとしか思えんな、あいつら」
 
「夕食までには終るアルかね…?」
台所から、張々湖がひょこっと顔を出す。
二人は振り返らず、ただ手を横に振ってみせた。
 
「なんつーか…あいつ…ジョーってよ…その、あんなに…」
「不器用だった…らしいな」
 
焦っているからなのかもしれないが。
作業は遅々として進まない。
 
「もう20分はたってるぜ…いい加減諦めればいいのにな…」
「ジョーはしつこいからな」
 
それに。
しつこいと言えば…フランソワーズもかなりのモノだ。
2歳の子供がこんなに長時間、緊張に耐え、じっとしていられるモノだろうか?
さすが…さすがだ。
ちびとはいえ、フランソワーズ。
改めて彼女の強靱な精神力に感心するアルベルトだった。
…が。
 
「お、やべっ!…そろそろ限界か?」
 
グレートがつぶやき、飛び出した。
アルベルトも、ゆっくり彼の後を追った。
 
「フランソワーズ〜!」
 
おどけながらグレートはウサギに変身し、ジェットの肩に飛び乗った。
今にも涙がこぼれ落ちそうになっていた青い目が大きく丸く見開かれ…
フランソワーズは声を上げて笑った。
 
「よしよし…いい子だ」
 
アルベルトもズボンの裾をまくり上げ、膝の開け閉めをしてみせた。
 
「さ、サンキュ!…助かったぜ!」
「あ…ありがとう、二人とも…」
 
ジョーは深呼吸した。
 
僕はどうかしてた…みんなにヤキモチ妬くなんて。
フランソワーズが大切なのは、みんな同じなのに。
まして、こんなに小さいフランソワーズなんだ。
 
僕だけの君は…今はいないけど。
でも…君は、ここにいて。
こうやって助けてくれる仲間もいて。
 
焦っちゃ…だめだ。
 
 
 
十数分後。
 
「…できた…っ!」
 
ジョーは大きく息をついた。
同時に、仲間達も一斉に安堵のため息をついた。
間髪を入れず、食堂から威勢のいい声がする。
 
「晩ご飯、できたアル〜!」
「おぉっ!腹減った…!!」
 
ジェットがフランソワーズを床に抱え下ろし、飛ぶように部屋を出て行った。
アルベルトとグレートは一瞬顔を見合わせ…微かに笑うと、食堂に向かった。
 
「…あ」
 
座り込んでいたジョーの前で、亜麻色の頭が向こうを向いている。
取り残されてしまった。
 
…ど…どう…しよう。
 
そろそろ立ち上がり、そろそろ歩き出す。
たぶん、このまま僕が見えなくなれば、とことこ食堂に歩いてくるだろう。
…たぶん。
 
フランソワーズを置き去りにするのは不安だったが。
でも、抱き上げたりすると、また泣くに決まってるし…
 
…ん?
 
ジョーは立ち止まった。
気配がする。
二、三歩歩くと…たしかに。
ぎこちない足音が追ってくる。
 
止まってみる。
…少し遅れて、足音も止まった。
 
…フランソワーズ…?
 
振り返れない。
目が合ったら…きっとまた泣くし。
 
でも…僕についてきてる…のか?
なんだか…ひどくおっかなびっくり…って感じだけど。
 
進もうかどうしようか迷っていると…
ズボンを軽く引っ張られるのを感じた。
 
…フランソワーズ…?
 
振り返れない。
 
ジョーは身を堅くした。
確かに…引っ張られている。後ろの方へ。
慎重に…ゆっくり後ずさりする。
 
ど…うしたんだろう…?
 
フランソワーズに引っ張られ、後ずさりを続け…
やがて、洗面所まで来た。
もうこれ以上下がれない。
後ろに洗面台がある。
 
フランソワーズは止まっている。
 
「…あ…の」
 
やっとの思いで声を出した。
ズボンを握る小さい手がびくっと震えた気がした。
 
「…どう…したの?」
 
もちろん…返事はない。
 
途方にくれ、ジョーがおそるおそる足下を見ると…
薄暗い中で、青い瞳がじっと見上げている。
 
と…とにかく…灯りをつけよう。
 
洗面台の灯りのスイッチを入れる。
 
フランソワーズは眩しそうに目を細め…またジョーを見上げた。
ジョーを見て…その後ろの…
 
…鏡?!
 
ジョーは大きく目を見開いた。
 
「あ…も、もしかして…鏡…見たいの?」
 
返事はない。
だが。
手にわずかに力がこもったような…気も。
 
ジョーは途方にくれた。
 
見せてあげたい…けど。
それには…抱っこしてやらないと。
…仕方ない。誰か呼びに行こう。
 
息をついて廊下に出ようとしたとき。
またぎゅっとズボンをつかまれた。
 
「…フラン…あの…ね、今誰か呼んできてあげる…から…」
 
吸い込まれそうな青い瞳。
ジョーは引きつけられるようにすっとしゃがみこみ…小さい体を抱き上げた。
 
一瞬、緊張が走る…が。
 
鏡を覗き込み、フランソワーズは大きく目を見開いて…笑った。
嬉しそうに小さな手を鏡に伸ばす。
ジョーは慌てて彼女を揺すり上げ、鏡に近づけてやった。
 
鏡の中で、くるん、と大きくカールした髪がリボンと一緒に揺れる。
フランソワーズははしゃぎ声を上げ、ジョーの胸にしがみついた。
 
…あ。
 
心臓が跳ね上がった。
ジョーは小さい体を、そっと抱きしめた。
 
頬を柔らかい髪がくすぐる。
甘い…香り。
 
「フラン…」
 
思わず話しかけながら、青い目を覗き込んだ…瞬間。
思い切り視線がぶつかり。
…硬直。
 
ま、マズイっ!!!!
 
「ふ…ふ…ふええええええええ〜〜ん!!!!!」
 
イワンをもしのぐ泣き声に、仲間達はあたふた駆けつけた。
 
「な…何やってんだ、ジョー?」
「だから、無理強いはダメだって言ったじゃないかっ!」
「ち、違う…違うよぉ〜!」
 
グレートに抱き取られ、泣きじゃくるフランソワーズの頬で、カールした髪が躍り…涙で濡れていった。
 
「…あ〜あ…これじゃすぐ取れちまうな〜」
 
ジェットが残念そうに呟いた。
 
 
 
翌日の午後。
ソファでうたた寝していたジョーは、膝に妙な重みを感じて、はっと目を開いた。
 
…え?!
 
大きな…青い瞳。
 
「え…ええと…あの?」
 
ジョーは自分の膝によじ登っているフランソワーズを見つめた。
まだ…寝ぼけてるのか、僕は…?
 
「あの…あの……どう…したの…?」
 
フランソワーズはびくん、と身を震わせた。
ジョーの身体にも、力が入る。
 
二人は、全身をこわばらせたまま、見つめ合っていた。
 
…やがて。
フランソワーズが、こわごわ…小さい手を差し出した。
しっかり握りしめているのは…リボン。
 
「ええ…と?…」
 
フランソワーズは動かなかった。
じっとリボンを差し出したまま、ジョーを見上げている。
 
む…結べ…ってことか…?
それとも…
 
「…また…その…おひめさま、するの?」
 
フランソワーズは小さくうなずいた。
ジョーがぼんやりリボンを受け取ると、フランソワーズは膝の上でくるっと向きを変え、背中を向けた。
 
…あ。
 
前を向いててくれた方が…やりやすいんだけど。
 
そう思ったが、伝える術はもちろんなく。
ジョーはぎこちない手つきで再びおひめさまカールに挑戦を始めた。
 
…そっか…きっと、そっち向いてやるモノだと思いこんじゃったんだな…
 
笑い出しそうになるのをこらえ、ジョーは黙々と彼女の髪を梳き続けた。
昨日ほどの時間はかからない。
 
「さ、できたよ」
 
声をかけると、フランソワーズは逃げるように膝から滑り降り、とてとて駆けていく。
思わず苦笑した。
が。
居間の入口で、彼女は立ち止まり、振り返って…ジョーを見つめた。
 
そ…うか。
 
ジョーはくすくす笑いながら立ち上がった。
とことこ歩くフランソワーズの後を静かに追う。
 
思ったとおり、彼女は洗面所に入った。
 
…はいはい。
 
そっと抱き上げ、鏡をのぞかせてやる。
…ここまでが僕の仕事。
彼女の気が済んだら、早く下ろしてやらなくちゃ…また泣かれるよな。
 
嬉しそうに鏡をのぞきこみ、ジョーの胸にしがみついていたフランソワーズが、ふっと固まった。
 
…マズイ。下ろさなくちゃ。
 
そう思うのに。
手を離せない。
 
もう少し。
もう少し…こうしていて、フランソワーズ。
もう…少しだけ。
 
 
…数秒後。
火がついたような泣き声が、館を揺るがした。
 
更新日時:
2002/12/19

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Last updated: 2003/8/11