静夜思


 床前看月光   床前 月光を看る
 
 疑是地上霜   疑うらくは是れ地上の霜かと
 
 挙頭望山月   頭(こうべ)を挙げて 山月を望み
 
 低頭思故郷   頭を低(た)れて 故郷を思う
 
                   (李白「静夜思 」)                       
 
 
 
 
眩しくて、目を開いた。
 
思わず飛び起きそうになって、私は慌てて傍らをのぞいた。
…よかった。
起こしていないわね。
 
彼のきれいな頬が白く浮かび上がっている。
降りたての雪みたいに白く。
 
こっそり毛布から抜け出した。
気付かれたら、叱られるに決まってるから…そうっと。
いいわよね…少しだけ…だもの。
 
もう敵なんていないわ。
大丈夫。
 
この林をぬけると、草原が広がっている。
もちろん、私ならここからでも見えるけれど…
でも、力を使わずに見たいの。
その場所に立ちたいのよ。
 
ああ、なんて強い光。
木漏れ日みたいに、地面をぼうっと…まだらに照らしている。
…それとも。
これも…「力」で見えているのかしら?
 
いつの間にか駆け足になっていた。
息をはずませて、林をぬけて…私は立ちすくんだ。
 
一面の銀色…!
 
深呼吸して、ブーツを脱いで…そっと足を踏み出してみる。
裸足には…乾いた草の感触。
そう…よね。
霜じゃないわ。
凍ってなんかいない。そんなはずないもの。
 
でも。
なんて…
 
子供の頃、兄さんが読んでくれた絵本に、こんな景色があったわ。
どこまでも広がる銀色の世界を歩く少女。
凍る世界の果てに囚われた、愛する人を捜す少女。
 
とても怖かったのに…
その絵はとてもきれいで。
だから、ますます怖くて。
 
あのころは…思いもしなかった。
こんなことになるなんて。
 
…兄さん。
 
目を上げ、月を見つめた。
眩しい、白い光。
 
変わっていないわ…何も変わっていない、私たち。
 
雲の上で見る月がどんなにきれいか、よく私に話してくれた。
月に恋しているのかもしれない、と。
それは危険な恋なんだと…笑っていた。
 
私は、今でも怖いのかもしれない…少しだけ。
手を伸ばして、その光をあびたら…凍り付いてしまいそうで。
僅かな曇りもない、眩しい白い光。
 
あなたはなんでも知っているわ…いつも静かに私を見ている。
その、澄み切った光で。
私のこの身体も…今日犯した罪も。
 
…でも。
でも、お月さま。
私は…もう引き返さない。
 
あなたが統べる、あの遠くの山影に、私は行かなければならないの。
愛する人を捜しに行った少女のように。
あなたが凍らせた、この輝く大地を…どこまでも。
裸足のままで。
 
汚れない凍った光が、銀の刃が降り注ぐ大地。
怖くないわ。
私は、引き返さない。
 
兄さん。
あなたが焦がれた光を…目指した場所を、私も見つめているのかもしれない。
 
大丈夫。
私には…帰るところがある。
どこにいても…こうして目を閉じれば…心の奥底に。
 
怖くないわ。
…兄さん。
目を閉じれば、あの頃のままで、微笑んでくれる…あなたがいるから。
 
もう…二度と会えなくても。
二度と行くことはかなわない、時空の彼方。
私の故郷。
それでも…こうして、目を閉じれば。
 
私たち…何も変わっていない。
 
 
 
鋭い風と一緒に、ただならぬ怒気を含んだ声が背中にぶつかった。
 
「フランソワーズ!!」
 
…あぁ、見つかっちゃった。
 
どんな顔で振り返ろうかしら。
笑ったら…絶対叱られるし。
 
じゃ、泣いてみせたら?
…それが、いいかも。
 
心を決めた瞬間、息がとまるほど抱きしめられていた。
 
「どうし…たんだよ、一人で…こんなトコロまで…っ!」
 
ジョー…?
震えてるの…?
 
「まだ、どこに敵がいるかわからないのに!」
 
そんなことないわよ。
もしそうでも、私が一番先に気付くはずだし…
それに、どのみち、加速したあなたが間に合わないほど遠くじゃないわ、ここ。
 
叱られるのを忘れて、口答えしかけて…私は息をのんだ。
 
「…心配…した」
 
…やだ。先に泣かれちゃった。
それ、反則よ、ジョー。
 
腕の中でそっと振り向いて…彼の冷たい肩を抱きしめた。
…ごめんなさい。
 
月の光が、銀の荒野に立つ私たちを照らしている。
どんな色に…見えるのかしら。
 
彼が、涙に濡れた頬を、隠すように私の肩に押し付けた。
そっと柔らかい髪を指で梳きながら、私はこっそり月を見上げた。
 
 
何も怖くない。
私には…帰るところが、あるから。