Jealousy





 
「…っ!」
 
フランソワーズは思わず悲鳴が上がりそうになるのをこらえた。
ぎゅっと唇を結ぶ。
靴の中が何かでべとべとになっていた。
 
接着剤だ。
そうっと脱いでみたが、遅かった。
 
「用意できたぞ?どうした、フランソワーズ?」
 
ひょこっとのぞいたジェットに、フランソワーズは困惑しつつも、懸命に笑顔を作った。
 
「ごめんなさい、ジェット…無理みたい」
「無理じゃねーよ、すっ飛ばしてやるからよ」
「ううん…ほら」
「あぁ?…うげっ!」
 
息をのんだジェットは唇をゆがめた。
 
「あのガキ…だな?」
「違うと…思うわ。だって…さっき、あんなに叱られて…もうしないって約束して…」
「ゆっとくがな、フランソワーズ。不良の卵に『約束』って言葉は理解できねーんだ」
 
俺もそうだったからよーくわかる。
 
「ああいうガキとはあくまで拳でコミュニケーションを…」
「やめて…!たいしたことじゃないんだから…ほら、これ、水溶性の糊だわ…洗えばとれるもの」
 
ジェットは肩をすくめた。
 
 
 
ストッキングを脱いで足をふいていると、背後に気配がした。
思わずびくっと振り返る。
 
茶色の髪の子供が立っていた。
 
「…ジョー」
「どうしたの?お出かけ、しないの?」
「……」
 
どう答えたらいいのかわからない。
フランソワーズは天使のように…と形容してもさしつかえないと思われるその無邪気な澄んだ瞳を途方にくれて見返した。
 
「…ぼくのせい?」
「ジョー…あの」
 
フランソワーズは深呼吸してから、そっと首を振った。
 
「そうじゃないわ…あなたのせいじゃないのよ…行きたくなくなっただけ…今日はずっとうちにいることにしたの」
「…そう」
 
にこっと笑うと、子供は駆け出した…が。
次の瞬間、鈍い音がした。
 
「ジョー?転んだの…?アルベルト…!」
「離せ…!離せよ〜っ!」
 
アルベルトが、子供の首根っこを捕まえていた。
 
「ジョー。お前には言葉が通じないらしいな」
「なんでだよっ?」
「わからなくてかまわん。通じないんだからな」
 
アルベルトはわあわあ暴れる子供を軽々と抱え上げ、あっという間にズボンとパンツを引き下ろし、むき出しになった尻を続けざまに叩いた。
 
「やめて!アルベルト、やめてよ…!」
「黙ってろ、フランソワーズ!」
 
あっという間に子供の尻はうっすら赤くなった…が。
子供はぎゅっと唇を引き結び、声一つ立てない。
やがて、元通りにズボンをはかされ、床におろされた子供は、燃えるような目つきでアルベルトをにらみつけた。
 
「いいか、二度とするな。ヒトのモノに手をつけないのは、基本中の基本だ」
「もう…アルベルトったら…!」
 
フランソワーズはそっと子供を抱き寄せようとした…が。
その手は思い切りはねつけられた。
 
「触るな、クソババア!」
 
…硬直。
 
二人の大人があっけにとられている間に、子供は足音荒く外へ飛び出していった。
 
「とことん性根が腐ってやがるな、あのガキ…!」
「…違うわ」
 
フランソワーズは力なく首を振った。
 
「ジョーは…ただ、私が嫌いなのよ」
「…なに?」
「だって…他のみんなには、こんなこと絶対しないもの。今だって…あなたにあんなに叩かれて悔しかったはずなのに、何も言わずに我慢して…自分が悪いって、ちゃんとわかってるのよ…聞き分けのいい、辛抱強い子だわ」
「まあ、たしかに…そうだな…わかりやすいというか何というか」
「…え?」
「いや…とにかく、何がどうであろうと、フツウに共同生活ができる程度のしつけはしないとな」
 
こんなことがいつまで続くのかはまた別の問題としてだ。
 
 
 
異変が起きたのは、夜中だった。
001はちょうど夜の時期に入っていたので、彼の助言を求めることもできなかった…が。
目覚めていたからといって、彼に何か助言ができたのかと考えると、実に怪しい。
 
009が、眠っている間に子供になってしまったのだった。
 
目覚めた子供は、本人の話によると、5歳。
自分は島村ジョーだと主張した。
住所を聞いてみると、おそらく彼が育ったと思われる孤児院で。
更に話を聞くうちに、彼がいわゆる「過去」から来たらしい、ということもわかった。
…しかし。
それ以上のことは何もわからなかった。
 
ギルモアは、一昼夜研究室にこもり、懸命に何が起きたのかを追及しようとした…が、わからない。
ただ…
 
「説明はつかんが、これはその、タイムスリップというよりは、記憶喪失のようなモノじゃないかと思う…なぜか、心だけではなく肉体も退行してしまった…というか。じゃが…この子は生身じゃ。その辺も含めて、さっぱりわけがわからん」
 
わからなくても、子供の世話はしなければならなかった。
 
見知らぬ外国人の大人に囲まれても、子供…ジョーはそれほど臆した様子を見せず、用意された張々湖の料理に歓声を上げ、元気に平らげてしまった。
順応力はある子供らしい。
009らしいといえばらしいのだが。
 
彼は、自分が孤児院から「追放」されてここに送られた、と理解しているようだった。
それまでにも、2回ほど施設を変わったのだという。
一度は、里親がつきそうになったこともあったとか。
だが、どこにもなじめず、脱走を繰り返し……
 
その辺の話は、以前009からちらっと聞いたことと重なる。
 
009はよく、自分が手のつけられない悪ガキで、もてあまされていた…と言っていたが。
実際暮らしてみると、どこが悪ガキなのか、というぐらい、賢く優しく聞き分けのいい子供だった。
…と、仲間たちが思っていたのは、最初の数日だけだった。
 
ほどなく、彼は「悪ガキ」の本性を発揮し始めた。
ただし、その矛先はただ一人、フランソワーズにのみ、ひたすら向いていたのだった。
 
ジョーが暴れ初めてから、フランソワーズの部屋は引っかき回され、服も何着となく破かれたり汚されたりした。
居間で彼女が彼の前を通り過ぎようとすると、必ず足をひっかける。
彼女から壊れ物を手渡されれば必ず落っことす。
くだらないといえばくだらないのだが、執拗なまでの嫌がらせだった。
 
とがめられると、素直に「ごめんなさい」と言う。
涙を浮かべることもあったりする。
…が、数秒後には同じコトを繰り返すのだった。
 
サイボーグたちは…ことにフランソワーズは、やがて、ほとほと疲れ果ててしまった。
彼が何を考えているのか、さっぱりわからないのだった。
 
 
 
今日は、バレエの舞台を見に行く予定で。
もともとは、どこからかチケットを貰ってきたということで、ジョーが珍しく彼女を誘い、二人で行く約束になっていたのだ。
 
こんなことになった今、研究所を離れる気になれない…と渋るフランソワーズを、仲間たちは熱心に説得した。
彼女には気晴らしが必要だと、誰もが思っていた。
結局、ジェットがエスコート役を引き受け、準備していたのだが…
そこに、妨害が入った。
 
フランソワーズはよそゆきのワンピースを二着台無しにされた。
もちろんジョーの仕業だ。
が、やはりあきらめよう、としたところに、アルベルトが魔法使いさながらの素早さで新しい服を用意したのだった。
 
「ここでアイツに屈するのはよくないぜ!」
 
ジェットも力強く言い、すっかり遅れた時間を取り戻すべく、いざとなったら飛行も辞さない勢いを見せていた。
…が。
最後の靴攻撃で、肝心のフランソワーズが気力を使い果たしてしまったのだから、どうにもならなかった。
 
フランソワーズは、心で何度も仲間たちに謝りながら、力なく自室のドアを開け…息を呑んだ。
ジョーが、部屋の真ん中で、向こうを向いて立っている。
 
びくん、と振り返った彼の手の中にあるものに気づき、フランソワーズは思わず悲痛な声を上げた。
 
「ジョー、それは…それは、とても大切なものなの…!」
「……」
 
ジョーは迷うようにフランソワーズを見つめ…持っていたガラスのオルゴールに目を落とした。
フランソワーズは震える手を伸ばした。
 
「ね?お願い…返してちょうだい」
「…!」
 
茶色の目にふと暗い影がよぎった。
はっとしたときは、もう遅かった。
 
オルゴールは床にたたき付けられ、粉々に砕け散った。
 
「いや…!」
 
思わず悲鳴を上げ、フランソワーズはその場に座り込んだ。
大きな青い目から、涙があふれるのを、ジョーは食い入るように見つめ、物も言わず部屋を飛び出していった。
 
追わなくては、と思うのに、体が動かなかい。
フランソワーズは涙をぽろぽろこぼしながら、光る破片を見つめていた。
 
オルゴールは、ジョーから贈られたものだった。
彼が遠征を終えて帰ってきたある日、ほんの気まぐれのように、「おみやげだよ」と手渡した包み。
彼から贈り物をもらったのは、それが最初で…そして、最後だった。
 
 
方々探し回った仲間たちが、ジョーを見つけて連れ戻してきたのは、もう夜中に近い時間だった。
フランソワーズの前に突き出されたジョーは、しかし、いつものように「ごめんなさい」とは言わなかった。
 
「壊れたものは、元に戻せない…だから、謝るしかないんだよ。ジョー、きみは悪いことをしたと思っているんだろう?」
 
ピュンマに優しく諭されても、ジョーは堅く唇をかみしめていた。
張々湖がため息をつきながら、食事の載ったトレーを運んできた。
 
「とにかく、食べるヨロシ…昼も夜も食べてない、体によくないね…」
 
それでも、動こうとしない。
うつむいていたフランソワーズが、静かに言った。
 
「ジョー、お腹がすいているでしょう…?」
「…っ!」
 
不意に弾かれたように顔を上げたジョーは、すぐに目を背けた。
が、次の瞬間、彼は大きく目を見開き、硬直した。
フランソワーズに堅く抱きしめられていたのだった。
 
「こんな夜遅くまで…一人で…ゴハンも食べないで…悪い子…!」
 
フランソワーズは栗色の髪に頬を押しつけ、ぎゅっと目をつぶった。
また涙があふれる。
 
「……」
 
ジェットが何か言いかけて…口を噤み、つと横を向いた。
アルベルトはほうっと大きな息をついていた。
 
やがて。
見開かれたままの栗色の目から、大粒の涙がこぼれるのを、仲間たちは見た…が。
誰も何も言わなかった。
 
 
 
べそをかきながら遅い夕食を食べ、ピュンマに手を引かれて寝室に向かうジョーを見送ると、フランソワーズはソファに身を沈めるように座った。
結局、ジョーは一言も謝らなかった。
 
「…疲れただろう?」
 
低い声に顔を上げると、灰青の目がめずらしく柔らかい光をたたえて見下ろしている。
フランソワーズは弱々しく笑った。
 
「あなたこそ…みんなに迷惑をかけてしまったわ…私がいけなかったの。あんなことで…取り乱したりして。ジョーを驚かせてしまったのね」
「あんなこと…?そうなのか?」
「……」
 
アルベルトは、フランソワーズの頭を軽くぽん、と叩いてソファに座った。
 
「悪いが…熱い紅茶が欲しいな」
「あ…わかったわ…ブランデーは?」
「ああ、頼む」
 
 
ベッドにもぐりこむなり、規則正しい寝息を立て始めた子供に、ピュンマは思わずくすっと笑った。
 
「ったく…どこまできみらしいんだろう、ジョー…」
 
反応はない。
ピュンマは、子供の柔らかい髪をそうっと撫でてやった。
 
「そんなに…フランソワーズが好きなのかい…?馬鹿だなあ…」
 
焦ることなんかないのに。
彼女は、誰が見たって君のものだよ。
そう思っていないのは君だけなんだけどな。
 
ぱたん、と戸が閉まる音を確かめてから、ジョーはそうっと目を開いた。
眠れない。
 
柔らかくて温かかった…あの人。
そして…今聞いた、笑いを含んだ声。
 
「…馬鹿だなあ…」
 
その二つがぐるぐると頭の中を回る。
額が熱くなってきた。
 
ジョーはぱっと起きあがった。
枕元に置かれている水を飲もうと手を伸ばした…が。
いつものコップはない。
 
そうだ。
今日、僕を寝かせたのはあの人じゃなかった。
だから、水がないんだ。
 
あの人は…もしかしたら、まだ…
泣いて、いるんだろうか。
 
ジョーはこっそりベッドを滑り降りた。
音を立てないように扉をあけ、足音を忍ばせて階段を下りる。
 
台所に行こうとしたとき、居間のドアから、少しだけ光がもれているのに気付いた。
近づいてそっとのぞきこむと、ブランデーの香りが鼻をかすめた。
そして。
ジョーは悲鳴が出そうになるのを危うく押さえた。
 
ソファの上で銀髪の男が、隣に座る少女を抱きしめている。
大きな手で、なだめるように、あの亜麻色の髪を撫でながら。
 
息が止まりそうになったとき。
愛しげに少女を見下ろしていた、男の灰青色の目がふと上がり…ジョーの目とぶつかった。
身動き…できなかった。
 
男の目は、明らかに笑いを含んでいた。
 
「そんなに…フランソワーズが好きなのかい…?馬鹿だなあ…」
 
耳の奥で、さっきの言葉がよみがえる。
 
ジョーは少しずつ…少しずつ後ずさりした。
どうやって部屋にたどりついたのか、わからない。
夢中でベッドに潜り込み、布団をかぶった。
 
涙が止まらない。
シーツを無茶苦茶に握りしめ、嗚咽を抑えようとしたけれど、無駄だった。
 
こんなに泣いていたら、誰かに聞こえてしまう。
そう思っても、止まらない。
烈しくしゃくりあげながら、ジョーはひたすら布団に顔を押しつけていた。
 
 
 
翌日から、ジョーの嫌がらせはぴたっと止まった。
 
彼はきわめて聞き分けよくおとなしく、フランソワーズにも屈託のない笑顔を向けるようになった。
仲間たちはようやく胸をなで下ろした…が。
 
フランソワーズは何となく不安な気持ちになるのだった。
うまく説明できない…のだけど。
ジョーの目から光が失われているような気がしてならない。
 
やがて、ジョーは少しずつ食が細くなり、口数も少なくなっていった。
心配したフランソワーズが優しくスプーンをむけると、素直に口を開け、はにかんだ微笑を見せる。
が、自分でそれ以上箸を進めようとはしない。
 
無理に食べさせるのもよくない、と張々湖は笑ったが…
やはり気にかかるのだった。
フランソワーズは、子供の口に合いそうなおやつを、あれこれ作ってみることにした。
 
今日は…バターサブレ。
ジョーの好きな自動車の形をした型を使ってみた。
 
紅茶をいれようとしていると、台所の入り口にジョーが立っていた。
 
「あ…ジョー。これからおやつよ…おなかすいた?」
「…ウン」
 
ジョーは控えめにうなずいた。
思わずため息が出そうになるのを押さえ、フランソワーズは笑顔を作った。
 
「…あの、フランソワーズ」
「え…?」
 
ジョーが、つかつかと近づき、並べられたティーカップの方を勢いよく指さした。
 
「俺も…アレ」
「…アレ…って?」
 
首をかしげたフランソワーズは、ジョーが指さしている小瓶に気付き、ますます不思議そうな顔つきになった。
 
「これ…のこと?」
「ウン」
「あのね、ジョー…これはブランデー。お酒なの…まだ、あなたには…」
「いいから!」
「…でも」
 
ジョーはじれったそうにフランソワーズの手から瓶をひったくり、踏み台の上に飛び乗ると、自分のカップにそれを一気に注ぎ込んだ。
 
「あ!ダメよ、ジョー!そんなにいれたら…ブランデーはね、ほんの少しだけたらすのよ」
「だったら、作ってよ!俺だって、そういうのがいいんだ!」
「…ジョ…?」
 
わけがわからなかった…が、久しぶりに彼の頬にわずかながら紅がさしているのを見て、フランソワーズはどこかほっとしていた。
優しく言う。
 
「ジョーは…ミルクにしない?私と同じよ」
「フランソワーズと?」
「ええ…それではいや?」
 
ジョーは黙ってカップを押しやり、踏み台から降りた。
フランソワーズは思わず微笑し、栗色の髪をそっと撫でるようにした。
 
「いいこね…あ。アルベルトは…本を読んでいたから、降りてこないかしら。運んであげなくちゃ」
「…俺が行く」
「え…?」
「俺が持って行く」
「で、でも…でもね、ジョー…カップはとても熱いし…もしやけどしたりしたら…」
「張々湖が言った…!フランソワーズの手伝いをしろって…!」
 
テコでも動かない、といった風情に、フランソワーズは思わず瞬きした。
また始まったのかもしれない…と思いながら、しかし、心は軽かった。
 
そうよ、それがあなたなのかもしれない、ジョー…よかった。
 
フランソワーズはそっと小さいトレーに、カップとサブレの皿をのせ、ゆっくりジョーに渡した。
 
「それじゃ…お願いね。気をつけて」
 
ジョーは返事もせず、トレーを捧げ持つと、慎重な足取りで出ていった。
 
これなら、たぶん…大丈夫。
フランソワーズはほっと息をつき、くすっと笑った。
 
 
 
本から目を上げ、ジョーを見下ろし、アルベルトは面白くもなさそうにつぶやいた。
 
「なんだ…坊主か」
 
トレーをアルベルトに手渡しながら、ジョーは鋭く言った。
 
「俺の名前は坊主じゃない」
「…ふん」
 
アルベルトは、自動車型のサブレを小馬鹿にしたようにつまみ上げ、にやっと笑った。
思わず拳を握りしめるジョーを冷ややかに見下ろす。
 
「フランソワーズを呼んできてくれないか?」
「どうして?」
「お前に話す必要はない」
「…用なら、俺が伝える」
 
灰青色の目が鋭い光を放った。
アルベルトは椅子から腰を上げると、少しもたじろがずにらみ返しているジョーの顎をつかみ、上を向かせた。
地を這うような低く冷たい声。
 
「ナメたコト言ってると殺すぞ、チビ。フランソワーズは、俺の女だ」
「…っ!」
 
ジョーは顔色を変えてアルベルトの手を振り払い、燃えるような一瞥を投げると、黙って部屋を出て行った。
 
「ふーん?」
 
入れ替わるように入ってきた赤毛の男に、アルベルトは肩をすくめた。
 
「そいつは俺も初耳だったな、アルベルト」
「…馬鹿が」
「ガキ相手に何ムキになってるんだ、おっさん?大事な妹が苛められたのがそんなに悔しかったか?」
「何言ってやがる」
 
アルベルトはカップを取り上げると、唇をゆがめて笑った。
 
「大体…アレのどこがガキだ?」
「たしかに…『俺の名前は坊主じゃない』『用なら俺が伝える』ってまぁ、幼児の言うことじゃねえな」
 
面白そうにうなずくジェットに、アルベルトはさりげなく言った。
 
「フランには何も言うなよ」
「あぁ、わかってる。俺も仲間の血を見るのはちょっとな」
「…ダンケ」
 
アルベルトはまた肩をすくめた。
 
 
 
ジョーが元に戻ったのは、その翌朝だった。
…というか。
 
目が覚めたら、こうだった、と彼は言うのだった。
それ以上のことは何もわからないらしい。
 
わからない…と言えば、ジョーは子供の姿だったときのことも何も覚えていなかった。
 
とにかく、再発防止のために研究だけはしておかなければならない、と主張するギルモアの声にもいつもの張りはなく。
ジョーの心身に何も異常が認められないことが確認された時点で、誰もがこのことはなかったことにしよう、と密かに心を決めたのだった。
わけのわからないことを考えても、およそ意味はないし。
その上、彼らには、他に考えなければならないことが山のようにあるのだった。
 
…しかし。
 
「…フランソワーズ」
 
思い詰めたように声をかけられ、フランソワーズは驚いて振り返った。
ジョーが落ち着かない様子で立っている。
 
「どう…したの、ジョー?…まさか、何か調子が」
「い、いや…そうじゃない…別にどこか悪いわけじゃないんだ、ホントだよ」
 
慌てて「どこも悪くない」と繰り返しながら、ジョーは途方にくれたように、フランソワーズを見つめた。
 
「それじゃ…どうしたの?そんな顔して…」
「…うん。実は…その」
 
うつむいたジョーは、やがて思い切ったように顔を上げた。
 
「教えてほしいんだ。僕が、君に何をしたのか」
「…え?」
「子供だったとき、君に何をした?…なんだかみんなの様子が変だから、聞いてみたんだけど…誰も教えてくれない」
「…ジョー」
 
一気に困惑した表情になったフランソワーズに、ジョーは不吉な予感が当たっていたことを確信した。
 
「僕は…君を困らせたんだね?いや…そんなものじゃない…きっと、ヒドイことを…そうなんだろう?」
「そんなこと…ないわ」
「嘘だ!」
「少し、イタズラはしたわよ…でも、子供にはよくある…」
「違う…!僕はフツウの子供じゃなかったからね…それは自分が一番よく知ってることだ。教えてくれ。僕は、君に何を…」
「ジョー、あの…」
「部屋を荒らしたり、服を台無しにしたり、クソババアって言ったり、大事なモノを壊したり、足をひっかけて転ばせたり…そういうようなことを、したんじゃないのか?」
「……」
 
フランソワーズはあっけにとられてジョーを見つめた。
その表情に、ジョーは思わずうめき声を上げ、無茶苦茶に頭をかきむしった。
 
「そうなんだ、やっぱり…!」
「あ…あの…」
 
あなた、記憶があるの…?と言いそうになるのを、フランソワーズは危うく呑み込んだ。
そんなことを言ったら、彼の言葉を全面的に肯定することになってしまうではないか。
 
「ごめん…!許してくれ、フランソワーズ…許せないかもしれないけど…そうだ、せめて僕が台無しにしたモノを弁償させてくれるよね…それですむことじゃないってわかってるけど…」
「もう…いいのよ、ジョーったら」
「よくないよ…!僕が壊したものって、何?全部教えてくれ」
 
フランソワーズはふと微笑んだ。
 
「それじゃ…ひとつだけ。オルゴールよ」
「…オルゴール?」
「あなたがくれたでしょう?ガラスの…それだけでいいわ」
 
あ…と、ジョーは目を丸くし、ぱっとうつむいた。
わずかに頬を紅潮させ、つぶやくように言う。
 
「そんな…もの、別にどうでも」
「…まあ」
 
フランソワーズは肩をすくめた。
 
「あなたって…そういう人なのよね」
「…え?」
「それに、気を遣わなくてもいいのよ…だって、もうわかっているんだもの」
「わかってる…って、何が?」
「あなたが…私を本当はどう思っているか」
「…フランソワーズ?」
 
フランソワーズがうつむいたのを見て、ジョーはますます慌てた。
そんな彼を気にとめる風もなく、彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべ、囁くように言った。
 
「いいのよ…子供って、嘘をつけないでしょう?」
「ちょっと…!ちょっと、待ってくれよ、フランソワーズ!その…僕が君に意地悪したとして、その…それはきっと…」
「好きだから意地悪した…って言ってくれるの…?ありがとう…優しいのね」
「フランソワーズ!待って…!」
 
そっけなく背を向けたフランソワーズを追いかけようとしたとき、芳香がふっと鼻孔をくすぐった。
反射的に振り返ったジョーに、紅茶を片手にしたアルベルトがにやっと笑いかけた。
 
「どうした?早く追いかけろ」
「アル…ベルト…?」
「…フン」
 
アルベルトはゆっくりとブランデー入りの紅茶を一口含み、あいた片手でジョーの頭をもみくちゃにした。
 
「な、何するんだよ…っ!」
「何か…イヤなことでも思い出したようだからな…だが…言っておくが、あれは冗談だ」
「冗談…何が」
「本気にするなよ、バカ」
「バカって…いきなり、なんだよ?」
「いいから、追いかけろ…それにオルゴール一つぐらいケチケチするんじゃねえ」
「…言っておくけどね」
 
気遣わしげにフランソワーズの背中を目で追いながらも、ジョーはアルベルトを素早くにらみつけた。
 
「あのオルゴールは、彼女のためだけに作ってもらったんだ!同じものなんて、この世に一つもないし、二度と作れない!」
「…ほう?」
「…って、あぁもう、フランソワーズ!待てよ〜っ!」
 
なるほど。
 
アルベルトは思わず唸った。
 
やっぱり、チビのくせにすげぇヤツだった…ってことか。
ちゃーんと何を壊すべきか、わかってやがったんだな。
 
ふと目を上げると、ジョーはなんとかフランソワーズを捕まえ、あれこれ懸命に話しかけていた。
アルベルトは喉の奥で笑いをかみ殺し、つぶやいた。
 
「やっぱり、バカじゃねえか」
 
そういうときは、黙って抱きしめりゃいいんだよ。
ったく…とことん手のかかるガキだ。