2006/3/4

あした


 
ジョーが口をきいてくれないのよ……と、溜息まじりにこぼすフランソワーズを、カールは思わずまじまじと見つめてしまった。
ややあって、そうだ、この人はこういう人だったし、そういうトコロだって僕は好きだったんじゃないか…思い直し、彼はようやく口を開いた。
 
「一応言っておくんだけど…」
「なあに…?」
「たしかに、僕たちは今、なんというか…他人なんだよね。でも、僕はやっぱり君が好きだし、こうしているととても幸せだし…君も、こうして会いに来てくれるってことは、少なくともその辺のトコロ、さすがに了解してくれていると思うんだ」
「…カール?」
「だから、つまり…」
「あの。あなたの言うことは間違ってないわ。でも……でもね、私…」
 
フランソワーズはうつむいていた目を上げ、まっすぐにカールを見つめ返し、思いつめた表情で口を開きかけた。
澄み通った青い瞳は昔のままで、それゆえ胸が鋭く痛む。
カールはあわてて彼女を遮った。
 
「ストップ!…いいよ、わかってるからさ……カンベンしてくれ、フランソワーズ。君は何度僕を振るつもりなんだ?」
「…ごめんなさい」
 
さっと頬を染め、申し訳なさそうにうつむく仕草も愛らしい。
だから、どうしようもないのだ。
カールはこっそり息をつくと、優しく問い直した。
 
「いや、僕の方こそ、話の腰を折っちゃって、ごめん…で、ジョーがどうしたんだい?口をきいてくれないって…どういうこと?」
「私の言い方がいけなかったんだと思うの…でも…ジョーだって、そろそろ身を固めることを考えてもいい年だもの。だから、私……彼のためだと思って、思い切って話したのよ、ヘレンのこと」
「ヘレン…?ヘレンって、もしかして、ヘレン・プワワーク?」
「ええ」
「懐かしい名前だなあ……で、彼女がどうかしたの?」
「ヘレン、今でもジョーを好きなんですって……真剣なの。この間、相談されちゃって」
「…うん?」
「ヘレンは本当にいい子よ…だから、よけいなおせっかいだってわかってはいたけど、でも」
「…おせっかい…?まさか君、ソレをジョーに話しちゃったのかい?」
「まさか…って。やっぱり、話してはいけないことだった…と思う?」
「ホントかよ、おい……」
 
思わずつぶやいたカールを、フランソワーズは心配そうにのぞいた。
 
 
 
相変わらず愛想のないヤツだなあ…と、カールはややウンザリしながらも、目を合わせようとしないジョーに話しかけた。
 
「この間、フランソワーズに会ってね」
「知ってます」
「あ、そう」
「彼女は、いつも外出先をボードに書いていきますから」
「へえ……君もそうしてるの?」
「ときどきは」
「ふーん。マメだな…まあ、共同生活ってのはそういうモノなんだろうなあ…」
 
不機嫌そうに黙り込んでいる青年を眺めつつコーヒーを一口すすってみる。
俺は一体何やってんだ、と自嘲気味になる思考を無理矢理ねじ伏せ、カールはさりげなく続けた。
 
「彼女、落ち込んでたぜ……君が口をきいてくれないって」
「……」
「考えてみれば、昔っから、君はそういうヤツだし、その辺、彼女だって十分わかってるはずなんだが…わかってはいても、ツライものはツライみたいなんだよなあ…」
「すみません」
「いや、僕に謝られても」
「彼女にも謝りますから、ご心配なく」
「で、ヘレンには会ったのかい?」
 
ジョーはぱっと顔を上げ、烈しい怒りのこもった眼差しでカールをにらみつけた。
 
「あなたには、関係ないでしょう!」
「まあな。でも、フランソワーズが落ち込んでたから……」
「それだって、あなたには関係ないことだ」
「そんなことはないぞ、ジョー。僕は彼女を愛している」
「……っ!」
「もちろん、振られたけどね…今だって同じだ。そう告白したところでまた振られる……とっくに諦めてはいるんだが、だから愛することもやめられるかっていうと、どうもそうはいかないらしい」
「……」
「人を愛するってのは、そういうことなのかもしれない。他の女性を愛してみようと思ったこともあったが、ダメだった。彼女と過ごした3年間に勝る幸せを感じたことはいまだにない」
「……」
「まあ、そうだな。そこへいくと、君なんかは13の年から彼女しか知らないわけだし、考えてみたら、彼女がココに来て君と暮らすようになってもう7年だ。だから、無理といえば無理かもしれないんだが……」
「何を、おっしゃりたいんですか?」
「…もう、諦めろよ」
 
カールはさらっと言い、そのままじっとジョーを見つめた。
短い沈黙の後、ジョーは言った。
 
「イヤです」
「…ふん?」
「僕は、あなたとは違う……失礼します」
「ああ、伝票おいていってくれ…やっぱりこのサンドイッチ食いたくなった」
 
ジョーは持ち上げかけた伝票を押しつけるようにテーブルに戻し、紙幣を一枚置くと、足早に店を出て行った。
 
「慌て者。この店のコーヒーはこれじゃ足りないぞ、坊や」
 
カールは肩をすくめ、紙幣をポケットにしまいながらウェイトレスを呼んだ。
 
「スモークサーモンのサンドイッチひとつ…それから、コーヒーをもう一杯頼む」
 
 
 
ドクター・ギルモアが倒れた、と聞いたのは、それから一月後だった。
あわてふためく父を連れて病院にかけつけると、彼は案外元気そうだった。
付き添っていたフランソワーズも、笑顔で二人を迎えた。
 
「過労だったんですって…点滴を受けて、すっかり元気になられたわ…退院したがって、もう、大変」
「ははっ、それは大変だ…でもよかった。大したことなくて」
「ええ…反省しちゃった。私たちがついていたのに…ドクターにこんなに無理をさせてしまっていたなんて」
「いやいや、アルヌールさんのせいじゃありませんぞ。ギルモアくんは昔からこうだったですわい」
 
カールの父親はのんびりと言い、フランソワーズを慰めた。
ふとあたりを見回すカールに、フランソワーズは、ああ、と微笑した。
 
「ジョーは、研究所よ…ドクター・ギルモアの命令で」
「…なるほど」
「可哀相なの。ベッドから電話であれこれ指図してるみたいなのよね、ドクターったら…今度はジョーが倒れちゃうんじゃないかしら」
「まさか…!そんなカワイイ奴じゃないでしょう」
「…まあ!」
 
フランソワーズは悪戯っぽくカールをにらみつけた。
その表情にも、思わず微笑してしまう。
 
「そういえばさ…口をきいてくれるようになったのかい?」
「ええ…あなたが、何か話して下さったんでしょう、ジョーに…ありがとう」
「アイツ、そんなこと言った?」
「いいえ。でも、わかったの。なんとなく」
「…そうか」
 
ちらっと時計を見上げ、夕食は?と囁くカールに、フランソワーズは笑顔で首を振った。
 
「研究所に戻るわ……今日はジョーにちゃんとした晩ご飯、食べさせてあげないと」
「…了解」
「また、今度ね」
「ホント?」
「ええ…お礼もしたいし…今日のことも。お父様にもよろしく伝えてね」
 
うなずくと、フランソワーズはあでやかな笑みを残して去っていった。
ぼんやりその後ろ姿を見送りながら、カールはまた溜息をついた。
 
 
 
夕食のテーブルを整えると、フランソワーズは研究室のドアをノックした。
返事はない。
 
ジョーは、ずっと研究室にこもりきって、ドクター・ギルモアの指示した実験データの整理に没頭していた。
一度夢中になってしまうと、何があろうと目にも耳にも入らなくなるところは、そっくりな師弟だと、つくづくフランソワーズは思う。
それでも、今日はいくらなんでもちゃんとした食事をさせなければならない、と、彼女は決意を固めていた。
 
ドアに鍵はかかっていない。
 
「開けるわよ、ジョー!」
 
厳しい声と共に勢いよくドアを開け、フランソワーズは大きく目を見開いた。
部屋は真っ暗だった。
 
「…ジョー?…どこにいるの?」
 
耳をすますと、人の気配は…する。
じーっと目をこらしていたフランソワーズは、ようやく壁際に座り込んでいるジョーの姿を見つけた。
とりあえず灯りをつける。
 
「ジョー、どうしたの…?具合でも悪いの?だから無理しちゃダメだって言ったのに…」
 
抱えた膝の間に顔を埋めるようにして身動きもしない彼に足早に近づき、そっとしゃがみこむと、フランソワーズは小さく息をのんだ。
 
「…ジョー?」
 
彼の肩は細かく震え、息づかいも荒く、どこか熱っぽい。
慌てて額に当てようとした手は、次の瞬間、烈しく振り払われた。
 
「ジョー、どうしたの…?泣いていたの?」
「…なんでも…ない」
「嘘…!どこか苦しいの?それとも…」
「なんでも、ないから!」
「…ジョー」
 
ジョーはぎゅっと唇を噛み、うつむいていた…が、やがて、小さく深呼吸を繰り返しながら、顔を上げると、弱々しく微笑んだ。
 
「…ごめん。ゴハン、何?…おなかすいた」
「食べられそう?」
「…ウン…あの」
「なあに…?」
「ドクター…元気に…なった?」
 
微かに震える声が、フランソワーズの胸に響く。
彼女は優しく微笑し、そうっとジョーの頭を胸に抱き寄せながら、囁くように言った。
 
「…ええ。今週中に退院できるんですって…もう、大丈夫よ」
「…ウン」
 
ジョーはまた唇を噛んだ。
そうしていないと、涙がとめどなくあふれてしまうような気がした。
 
 
 
おいしかった、ありがとう…と席を立とうとしたジョーを、フランソワーズは呼び止めた。
 
「今日はもう寝ないとダメ…今度はあなたが倒れてしまうわ」
「そんなこと…」
「いいえ、ダメ。ドクターが倒れてから、あなた…ほとんど寝ていないんじゃない?」
「……」
「さっきも言ったけれど…もう大丈夫なのよ…心配、しないで」
「…ウン」
 
忘れかけていた。
3人で過ごす研究所の暮らしが、あまりに長く、穏やかで、優しい日々だったから。
 
「それに…ね、ジョー」
「……」
「もちろん、ドクターはお元気なのよ…だから、こんなこと言うの…おかしいんだけど……もし…もしも、そうじゃなくなる時が、きても…あなたは一人じゃないわ」
 
ジョーははっと顔を上げ、フランソワーズを見つめた。
すがりつく視線を受け止めながら、彼女は言い聞かせるように続けた。
 
「そうよ……あなたは、一人じゃない」
「…フランソワーズ」
「わかってる…?」
 
ジョーはしばらくの沈黙の後、小さく…しかし、強くうなずいた。
フランソワーズはほっと息をついた。
 
「そう…なら、よかっ……?!」
 
いきなり抱きしめられ、フランソワーズは大きく目を見開いた。
ジョーがあえぐように問う。
 
「あなたは…いてくれる?…ずっと…ずっと、ここに」
「……」
「フランソワーズ…?」
 
フランソワーズも堅く唇を噛んだ。
声を出したら涙が出そうで。
そのまま何かが崩れてしまいそうで。
 
彼女は、ただうなずいた。
ジョーの腕に力がこもる。
 
「だったら…いいんだ。もう、何もいらない…あなたが、ここにいてくれるなら、僕は……」
「…ジョー」
 
でも、それでは。
それでは、あなたはいつまでも一人のままだわ。
あなたは……
 
言葉にならない。
フランソワーズはそっとジョーの背中に両腕を回し、優しく抱き返した。
 
「僕は、あなただけでいい…ここにいて、ずっと…」
「…ええ」
「本当に…?」
「本当よ、ジョー…ね…もう、おやすみなさい」
「……」
 
ジョーはふと腕の力をゆるめた。
そろそろとフランソワーズを離し、うつむいたまま、おやすみなさい…とつぶやいた。
 
 
 
退院するなり、研究室に直行したギルモアを、フランソワーズはあきれ顔で見送り、笑いをこらえているジョーを振り返った。
 
「ホントに…ドクターったら。お茶ぐらい召し上がればいいのに」
「せっかく、ケーキを焼いたのに…?」
「そうよ…!もう、二人で全部食べちゃいましょうね、ジョー!」
 
とうとうくすくす笑い出したジョーをちらっと見やり、フランソワーズはキッチンへさっさと歩き出した。
開け放した窓から、新鮮な風が流れてくる。
いつもと同じ、穏やかな午後。
 
終わることなんてないと思っていた。
今だって、想像もできない。
…でも。
いつか、終わりがくる。
 
それまで…それまでは、あなたのそばにいるわ、ジョー。
 
…いつか。
いつか、あなたが本当に一人ではなくなる日がくるまで。
あなたが、本当に旅立つ日がくるまで。
いつか、遠い明日。
 
それまでは、あなたのそばにいるわ。