1
亜麻色の髪を軽く揺らし、小鳥のように岩を伝ってくるふらんそわーずを振り返り、あるべるとはのんびり声をかけた。
「ホントによかったのか?アイツ、相当むくれてたぞ」
「アイツって…じょーのこと?」
「ああ」
「…しかたないわ。だって、じょーに摘み草はできないもの。草の区別が全然できないのよ…いくら教えてもだめ」
「それもそうだろうが…荷物持ちに連れてきてもよかったんじゃないのか?」
「そんなにたくさんの荷物にはならないし…それにね、待っているだけなんて、あの人、きっとすぐ飽きちゃうわ…そうなると大変よ、早く帰ろう帰ろう…って」
「はは、なるほどな」
たしかにそうかもしれない。
あるべるとは笑いをかみ殺しながら、ふらんそわーずに手を差し伸べた。
目的地の丘に引っ張り上げる。
明るく開けたそこには、とりどりの山菜が芽を吹いていた。
「ほう…!さすが張大人だ。こんな場所をよく…」
「ホントね……やっぱり、じょーにも来てもらったほうがよかったかしら…」
「…うむ。これだけたくさんあれば、ヤツが手当たり次第に摘んでも、案外大丈夫だったかもしれないな?」
「まあ、まさか…!」
ふらんそわーずは楽しそうに笑った。
2
用意してきた篭はすぐいっぱいになった。
そのままてきぱき引き返そうとするふらんそわーずを、しかし、あるべるとはひきとめた。
ここのところ、彼女は働きづめに働いている。
少し、息抜きをさせてやりたかった。
これぐらい、働いているうちに入らない…と、彼女は笑う。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
彼女の生家…大納言家での暮らしは、想像を超える過酷なものだったのかもしれない。
それに、何より働くことを感謝してもらえるのがとても嬉しい、とも彼女は言う。
それもきっと本当のことだろう。
しかし……
「やっぱりじょーを連れてくればよかったな。こうなると、アイツの笛が欲しいところだ」
「…そうねえ…」
さすがに、琴を持ってくるわけにはいかない。
そんな思いが通じたのか、ふらんそわーずは無邪気に微笑し、あるべるとを見上げた。
「いつか、和琴を教えてもらえないかしら」
「和琴…?俺にか?」
「奥の深い琴だと、母に聞いたわ…弾く者の心が、そのまま音色に表れるって」
「…そうだな。なに、俺が教えるまでもない…お前なら、少し稽古するだけで、きっと見事に弾くだろう」
彼女の奏でる箏の音をふと思い出し、あるべるとはわずかに目を細めた。
が、ふらんそわーずは小さく首を振った。
「まあ、簡単な手ほどきならいつでもするが…だが、後は自分で自分の音色を探すしかない。そういう琴だ」
「…ええ」
うなずいたふらんそわーずはそのまま遠くを見る目になり、口をつぐんだ。
あるべるとがぽつり、と尋ねる。
「疲れた、か?」
「…あ。ごめんなさい…ええ、少し……あ!」
引き寄せられ、仰向けに倒れながら、ふらんそわーずは大きく目を見開いた。
柔らかく抱き留められていた。
「ある…べると…?」
「眠っていけ。大丈夫だ」
きょとん、とアルベルトを見上げていたフランソワーズは、やがて彼の穏やかな眼差しに微笑み、そのまま静かに目を閉じた。
3
寝過ごしちゃったわ、と慌てるふらんそわーずの後をゆっくり追いながら、あるべるとは淡く紅に染まった夕焼け雲を見上げていた。
…そんなに、急ぐことはないだろう。
何度かそう言いかけようとして、やめる。
「お日さまが傾いてくると、どうしようもなく気が急くのよ…ああ、あれもしてなかった、これもまだ…って」
どうして、君がいつもそんなに忙しそうにしているのか…あのころはわからなかった。
俺たちには、時間が…時間だけは、ありあまるほどあると思いこんでいたから。
君は、わかっていたのか、ひるだ…?
ならば、お前も……
「…あ!」
「ウ…?なに…っ!」
突然、ふらんそわーずが短い悲鳴を上げた。足を滑らせたらしい。
ぽん、と宙に放り出された篭を咄嗟に受け止め、いやこっちじゃないだろう、と狼狽しながら、あるべるとは地面に転がった彼女に懸命に駆け寄った。
「大丈夫かっ!」
「え、ええ…ああ…驚いたわ…ごめんなさい」
「…ったく!こんな山道を走ったりするからだ……どこか痛めたか?」
「いい…え。大したことは……」
小さく呻きながら、フランソワーズはそろそろと立ち上がろうとした…が、どうやら足首をくじいたらしい。
「ある…べると?」
「歩かない方がいいだろう」
「でも…!」
あるべるとはさっさと自分の篭を下ろし、ふらんそわーずの篭と並べて道の端へと押しやった。
「コイツはあとで取りに来ればいい…ほら」
そのまま抱き上げようと彼女に手を差し伸べたとき。
背後で、微かに風が動いた。
「張々湖大人が待ちくたびれてるよ…それ、ちゃんと持って帰らなかったら叱られるんじゃない?」
「…じょー!」
「二人とも、何やってるんだよ、いったい…!」
険しいまなざしに、あるべるとは思わず肩をすくめていた。
4
じょーは黙々と先に立って歩いた。
あるべるとがのんびりと話しかける。
「よく、ここがわかったな、じょー」
「…わかったわけじゃない。もうここだけだったから」
「ここだけ?じゃ、お前、おれたちをずーっと探しまわってたのか?それはまた…」
「ごめんなさいね、じょー…やっぱり、はじめから一緒に来てもらえばよかったわね」
「そうだよ。結局荷物持ちさせられることに変わりないんだもんな」
ふらんそわーずがくすくす笑う気配がする。
腹立たしいから、じょーは振り返ったりしない。
あるべるとはじょーの視線にも全くひるまず、ふらんそわーずを離そうとはしなかった。
だから、じょーとしては、道ばたに置かれた二つの篭を抱え上げるしかなかったわけで。
いくらなんでも、僕はそっちを持ちたいから取り替えてくれ、と言うわけにはいかない。
「あるべると…下ろして。たぶん、もう歩けるわ」
「……」
「…あるべると?…ねえ」
「いいから!おとなしくしてろよ、ふらんそわーず!」
ついに振り返り、じょーはふらんそわーずを叱りつけた。
「もし歩けるとしても、これより早くは無理だろう?急がないと…張大人が待ってるのに…!」
「そういうことだ…な。わかったか?」
「…はい」
「まあ、そんなに急ぐこともない。見事な春の夕暮れじゃないか、じょー」
あるべるとの言葉につられ、じょーはふと空を仰いだ。
…本当だ。
が、素直にそう言うのも何だか面白くない。
「山の桜もみんな散ってしまった。春は、もう終わりだよ」
「…そう、だな」
ぼんやり相づちをうったとき。
あるべるとの腕に、微かな震えが伝わった。
花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき
「…ふらんそわーず?」
「今、何か言った?」
ふらんそわーずは、いいえ、と微笑み、小さく首を振った。
あるべるとは、ごくわずか、彼女を抱く腕に力を込めた。
5
夜更けてから、そうっと部屋に入ってきた二人に、あるべるとは思わず首をかしげた。ふらんそわーずが遠慮がちに請う。
「あるべると…琴を」
「ああ。かまわん…が」
なんで、コイツもいるんだ?
「今日は、じょーも笛を聞かせてくれるんですって」
「ほう…?珍しいな、じょー。俺と合わせる気になったのか」
「…たまにはね」
笑いをかみ殺しながら、あるべるとは琴の支度を始めた。
どうやら、昼のことが相当コタえたらしい。
一体、どれだけ俺たちを探しまわったのか。
「では…ゆく春を惜しむ管弦の遊び……というところか?」
「…なんかそれ、辛気くさいなぁ」
「そういう季節だもの、仕方ないわ」
たしなめるようなふらんそわーずの言葉に肩をすくめると、じょーはいきなり笛を構え、澄み通った音色で明るいひと節を奏でた。
「…なるほど?」
あるべるとは面白そうに微笑し、自分の手元に和琴を引き寄せ、ふらんそわーずには箏を押しやりながら、手すさびのように軽く弦をかき鳴らしていった。
じょー…あるべると…。
ふらんそわーずは箏に手を置くことも忘れ、ぼんやりと二人を見つめていた。
どこか愁いを帯びた音色と明るく軽やかな音色が静かに絡み合っていく。
やがて、ひときわ華やかな響きを残し、二つの音色が同時に鳴りやんだ瞬間。
ごく低く流れる声がふらんそわーずの耳に届いた。
あかなくに散りぬる花のおもかげや風に知られぬさくらなるらん
「…あるべる…と?」
思わず声を漏らすと、彼は微かにうなずいた…ように見えた。
花は散る。
春はゆく。
だが、それを悲しむことはない。
花は根に帰り、鳥は古巣に帰る。
そして、ゆく春のとまり、それは……
「やめておこう、今夜は」
「…え?」
あるべるとは和琴をさっさと部屋の隅に片付け、どこかわざとらしくあくびをすると、その場に寝ころんでしまった。
「…あの」
「後はお前たちが弾け。たまには聞き役も悪くない」
6
「春のとまりを…知る人ぞなき…」
二人が去った後、静寂の中であるべるとは低くつぶやいた。
そうなのかもしれない。
だが…知る必要などないのだ。
花は根に。
鳥は古巣に。
そして、春は……
目を閉じると、薄紅の夕焼けが瞼に広がる。
急がなくちゃ、と幸せそうに繰り返しながら、遠ざかる後ろ姿。
引き留めることはない。
彼女がどこに向かったのか…俺は、知っているから。
二度と散らされることのない…風の知らない場所に、彼女はいる。
俺だけが知る場所に。
だから、ふらんそわーず。
お前も怯えることはない。
帰る場所を失っても…それがどこだかわからなくても。
あいつは、きっとお前を探し出す。
お前を迎えに来る。
だから、怯えることはない。
君たちは、咲くがいい。
短い春を…命のかぎりに。
ただ、俺たちを…信じて。
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