僕らが一緒に暮らし始めて最初の五月を迎えた、その日のことだった。
朝、起きていくと、食卓のそれぞれの席に、スズランの花が置かれている。
博士の席と、僕の席。どちらにも二枝ずつ、透明のフィルムに包まれて、根元にはリボンが結ばれて。
ぼーっとそれを見下ろしていると、フランソワーズがキッチンからやって来た。
「今日は五月一日でしょう」
ウン。
「フランスでは、大事なひとにスズランを贈る日なの」
へーえ。
「オムレツ、ケチャップでいい?」
ウン。
「博士はまだ起きていらっしゃらないかしら」
「顔、洗ってたよ」
「じゃ、もうオムレツ焼き始めても大丈夫ね」
フランソワーズは、ぱたぱたと足音をたて、キッチンへ戻ってゆく。
入れ代わりに、博士がダイニングに顔を出した。
「お、ジョー?何をニヤついておるのじゃ?」
え?
ニヤついてるって、なんだろ?
「おぉっ?スズラン――おお、そうか、今日は五月一日か」
フランス人じゃないくせに、博士はスズランの習慣を知っているらしい。
ちいさな花束を取り上げ、自分のほうがニヤニヤしている。
――ウン。
僕は別に、ニヤニヤなんかしていなかったはずだ。
ニヤつく理由なんか、ない。
ということは、ふつうにしていてもニヤけた顔をしているということなんだろうか、僕は。
時々、グレートが、
『ジョーはいいよなあ、そのニヤけた顔が女を呼ぶんだよな、きっと』
とかなんとか厭味を言ってきたものだったけど、ウン、そうか、博士にもそれを言われちゃったというわけか。
でも、そんなの――なんか、冗談じゃないや。
頬を、きゅっと引き締めておく。
***
「五月一日には、誰でもスズランを売っていいのよ。なんの許可もいらないの。だって、スズランをもらった人は幸福になれるっていうんですもの、幸福を振りまくことが咎められてはいけないわ」
でも、“売る”んだよなあ?お金と幸福が引き換えになってるような気が、しないでもないような・・・。
「そういう下世話な捉え方、しないで」
フランソワーズにピシリとやられ、僕はフォークをくわえたまま肩をすくめる。
・・・こわいなあ、もう。
僕、別に思ったことを言葉にしてはいないのに。
彼女は、いつもそう。
いくら耳の聡いサイボーグだからといって、イワンじゃあるまいし、心のなかの声を聞くことなんて出来ないはずなのに、僕が言いたいこと、言おうとしていることの大概を、先取りして言い当てる。
まあ、僕の表情を読んでいるってことなんだろうけど。
アルベルトやジェットや、他のみんなの心は読んだりしないくせに、僕のだけは、ぴったりと当ててくる。
・・・僕、それだけわかりやすいってことなんだろうか。
「まあ、ジョーの言うこと、間違ってもいないような気はするけど」
やがてフランソワーズは、ちょっと頬を染め、テレた顔で笑った。
それは、とても可愛らしい様子だった。
「私、子どものころ、ママンが育てたスズランをお兄ちゃんとふたりで全部、切って持ち出して売って、おこづかいにしていたもの。そのお金でお菓子を買うのが、私の“幸福”だったわ。なつかしいな。そういえば、それって黙って勝手にしていたことだけど、ママンは一度も怒らなかったの。たぶん、ママン、私たちがそうするのをわかってて、そのために、スズランを育ててくれていたんでしょうね」
ウン。
きっと、そうなんだろうな。
そういうひとに育てられたから、フランソワーズはこういう女の子になったんだろう。
そして。
子どもたちのささやかな幸福のためにスズランを育てることが、フランソワーズのお母さんの幸福でも、あったのだろう・・・。
***
朝食のあと、フランソワーズは後かたづけのために立ち上がり。
僕は、てきぱきと動くフランソワーズをぼーっと見つめ。
ギルモア博士は、そんな僕を、どこか苦い目で見ていた。
なんでだろ?
そちらも、ぼーっと見ていると。
博士は、やがて、困ったように口を開く。
「ジョー」
「はい?」
「いいから、そんなにニヤつくのは、やめなさい」
え?
***
ニヤついてる?
って、なんだろう?
***
朝食のあと、自分の部屋にいると、洗濯物を干し終えたフランソワーズが、
「ジョー、いいかしら?」
軽く、ドアをノックする。
「うん」
そっと、ドアが開く。
隙間から、フランソワーズの顔がのぞく。
ふわん、と揺れる髪。踊るような足どり。
彼女は僕の部屋に入ってくると、
「ああ、やっぱり!」
得意気な、大きな声を上げた。
「え、なに?」
「スズランよ。ジョーのことだから、机の上にでも放り出しているに違いないって思って、来てみたの。ほら、やっぱり」
フランソワーズの指がさす先には、さっきの、彼女から贈られたスズランの花束。
確かに、机の上に置いてある。
でも、僕としては“放り出した”なんてつもりじゃないんだけどな。
あくまでも“置いてある”わけで・・・。
「もうっ、――ジョーってば。・・・待っててね」
くすくす笑いながら、スズランを手に僕の部屋を出てゆく。
そして、しばらくするとスズランは、なんだかキレイなコップに生けられ、戻ってきたのだった。もちろん、フランソワーズも一緒に。
「これならスズランが絶対、映えると思って、一緒に買ってきたのよ」
フランソワーズは、コップを指さす。
どうやらそれは、コップではないらしい。彼女の解説によると、故郷で暮らしていたころ愛用していたデイリーユースにピッタリな雑貨がいっぱいのブランドの花器で、日本でもそのブランドのものが手に入ると知って嬉しくていろいろながめているうちに見つけたもの――なんだとか。
ちなみにそれが置かれている店には僕も行ったことがあるらしいけど、彼女が喜ぶ「いいものがいっぱいのお店」は、たくさんあるので、どこのことか、まったくわからない。けど、いいや。
とにかく彼女は、僕に贈ってくれたスズランを、自分の満足いくように飾り、ご満悦だ。
僕も、もらっただけでは無駄に枯らせてしまったに違いないスズランが愛らしく咲き誇り、満足だった。
「ありがとう」
そう言うと、フランソワーズは目を伏せ、はにかみ、微笑む。
***
そして夕方。
「ジョー、お夕飯よ」
フランソワーズに呼ばれ、僕は自室から出た。
ずっと、博士から借りた本を読んでいたので、呼ばれて気づいたときには外が真っ暗になっていて、びっくりした。
あわてて食堂に行くと、もう、博士は席についている。それどころか、食べ始めてもいる。
「悪いな、ジョー」
「いえ、僕が遅すぎたんでしょう?」
「フランソワーズは、もう三度もおまえを呼びにいっていたぞ?」
気づかなかった。
でも、それはよくあることなので。
フランソワーズは、怒りもせず、笑っている。
でも彼女の食事は、手つかずのまま。僕を待っていてくれたのだ。
しかも、温かく食べるべきものはまだ食卓になく、僕が来たのを見てから立ち上がり、キッチンで温めてきてくれた。
「ありがとう。いただきます」
そして、食事が始まる。
会話の中心は、フランソワーズ。
仲間のこととか、外で見た面白いこととか、いろんな話をしてくれる。
楽しい。
食後には、コーヒーか緑茶が出る。「どっちがいい?」と訊かれるから、僕はいつも「お茶」と答える。でも時々、コーヒーが飲みたいこともあるから、こうしていちいち訊ねてもらえるのは、とてもありがたい。
博士も、そう。日によって答えが違う。今日は「コーヒー」と答え、そして。
なぜか、博士は不審な動きをするのだった。つまり、フランソワーズがコーヒーを淹れるため席をはずしている間に、もぞもぞと動いて・・・。
何かを、背中に隠し持った。
すぐ、彼女は戻ってくる。
「さ、どうぞ」
博士の前にコーヒーを置く。
すると博士は、後ろ手に隠していたものをサッと取り出す。
「――あら」
「いや、あの・・・、五月一日、じゃから、のぅ」
テレて、頬を赤く染めたりなんかしている、博士。
その手には、一本だけのスズラン。ラッピングなんかされていなくて、むきだしのままの・・・。
「私に、くださるんですか?」
「もちろんじゃ」
とは言いつつ、
「おまえさんがくれた花のうちの、一本をお返し、なんじゃが、の」
博士は、もう片方の手で頭を掻いた。
フランソワーズは、それをそっと受け取る。
「嬉しいわ。ありがとうございます、博士」
スズランに顔を近づけ、においをかぐ。
「・・・なつかしい」
そんな感想を口にし、くすっと笑う。
僕は、ぼーっとそれを見ている。
「私も幸福、いただいちゃった」
僕を見て微笑むので、よかったね、という気持ちを込めて、大きく頷いてやった。
すると。
博士がまた、言うのだった。
「ジョー、おまえさんもニヤニヤばかりしておらんと、フランソワーズへの贈り物はないのか?」
「え?」
僕は、ぽかんと博士を見る。
・・・ニヤニヤ?
そんなの、してないんだけどな。
と、驚いたのと。
・・・僕からフランソワーズへの贈り物?
と、きょとんとしたのと。
その、ふたつの気持ちが“ぽかん”になった。
食卓に、奇妙な沈黙が広がる。
そして。
まずは博士が笑いだすのだ。
「いい、いいよジョー、そんなに考え込まんでも」
いったい何がおかしいのか・・・博士は、ひどく幸福そうに笑っている。
やがてフランソワーズも、つられたように肩をふるわせ始めた。
「もう、博士ってば。そういうのを“人が悪い”って言うんですよ」
「いや、それでも一応、なあ、訊いてみないと」
え?
え、え?
なんの話だろう?
僕が笑われてるのかな?
わからないけど。
意地悪な空気は、そこにない。
だから、僕もなぜか、とても幸福な気持ちでいられるのだった。
ウン、なんだかよくわからないんだけど。
***
それでも。
自室に引き上げたあと、僕はちゃんと気がついた。
フランソワーズは僕と博士に“幸福”をくれた。たぶん、今は眠っているイワンにも、彼女はおなじ“幸福”を贈っているだろう。そして博士もフランソワーズへ“幸福”をお返しした。
じゃあ、僕は?
僕も、なんとかしないと・・・。
とは、思うのだけど。
いい案が、浮かばない。
博士みたいに、彼女がくれたものの半分を返すのも手だし、どうせ僕には気の利いたことなんか出来やしないんだから、博士の真似をさせてもらいたいところでは、ある。
でも、それには大きな問題があるのだ。
つまり、フランソワーズがせっかく愛らしく生けてくれたアレを、壊さなければならなくなる、ということ。
それは、いやだ。
だったら、どうしよう?
解決策を思いつけないまま、それでも五月一日が終わってしまってはいけないと、僕は夜更けに彼女の部屋を訪ねた。
***
ノックを、一回。
「ジョー?」
わかってくれる。
「うん」
「どうぞ?」
ドアを開けてなかに入ると、彼女はもうシャワーを浴びたあとで、パジャマの上にカーディガンを羽織ろうとしていた。
一応、女の子のたしなみとして、パジャマのままではいけないと思ったのだろう。・・・そんなの、僕なんだから、いらないのに。
「あのさ」
とだけ言うと、彼女はもう、クスリと笑った。
「スズラン?」
ウン。
「ばかねぇ、ジョーは、いいのよ?」
え、なんで?
「だって、ジョーは私に、たくさんたくさんの“幸福”を、もうくれているんだもの。・・・そうだわ。あなたがスズランを贈らなければならない相手は、ギルモア博士よ」
「え、博士に花を贈るの?」
「おかしい?」
花は、女の子に贈りたいよ。
「母の日にお母さんにカーネーションを贈るのと同じよ。男の子だって贈るでしょ?――あ、これは一般論ですからね?僕にはお母さんがいないからなんとかかんとか、って拗ねちゃだめよ?それは昔のこと。今は、五月一日にスズランを贈るべく相手が、ジョーには、ちゃーんといるんですからね?」
・・・先を越された。
僕は、ただ苦笑する。
ウン、もうそのことは気にならないよ。
そこは、ちゃんと満たされてるから。
でもさ。
「花は、女の子に贈るものだよ」
「じゃあ、私以外の誰かに贈る?」
僕は、あわてて首を、ふるふると振った。
冗談じゃない。
「ばかね。そうよ、冗談よ」
フランソワーズは、スズランの花を振ったらそんな音がするんじゃないかと思われるような、可憐な笑い声をたてる。
・・・ひどいな。
くちびるを尖らせる僕を、しばらく彼女は笑って見ていたけれど、やがてそれを、やさしく収めた。
「あのね、本当にね、ジョーはもう、私になんにもくれなくていいの」
フランソワーズの手が僕の前髪に伸び、そっとかき上げ、額に――あたたかなくちびるが、触れる。
***
私はね。
もう、ジョーには、たくさんたくさんのものをもらったから。
ううん――、もらった、というのとは違うのかしら。
あのね。
私、一度、あなたを失くしているでしょう?
ええそうよ、ヨミの事件の、最後・・・。
あのときのこと、私は一生、忘れてはいけないと思うの。
手のなかからね、何もかもがこぼれ落ちてゆくような、もう本当に空虚な――……なんて言ったらいいのかしら、この世のすべてが無に書き換えられてゆくような、ぽかんとした感覚を、私、味わったの。
自分という存在が、この世から消えちゃうの。ふわふわと、空気のなかに溶け込んでゆくの。
あんなの、もう二度と、ないと思う。
アルベルトがね、私に訊くのよ。
『009をすきだったのかい?』
って。
私、『みんなもそうでしょ』って答えた。そうしたら、彼、『そういう意味じゃない』って・・・。
ばかよねぇ、私。私以外のひとには見え見えだったのに、私自身はそこで初めて、あなたのことを好きだって気づいたの。
でも、気づいた途端、すべては私の手からこぼれ落ちていった・・・。
でも。
***
「あなたは、還ってきてくれた」
「イワンのおかげでね」
「誰のおかげでも、いいわ。私にとっては、あなたが還ってきてくれたこと、その事実だけが大事なの」
「・・・フランソワーズ?」
彼女の手が、僕の手を、そっと取る。
「あなたは、ここにいる」
やさしく、やさしく、手の甲を撫でてくれる。
「他には、何もいらないの」
でも。
「あなたがここにいること、それ自体が、私にとっては“あなたからの贈り物”なの」
でも、フランソワーズ。
「あなたがここにいて、私はあなたに触れることが出来て、あなたを愛することが出来て――。それ以上の“幸福”って、あるかしら?私には、そんなものは探せない」
でもね。
「ここにいてね」
僕の手を握りしめ、彼女は、そっと寄り添ってくる。
僕は、やわらかくあたたかな彼女を、こわさないように受け止める。
「ここに、いてね。それだけでいいの」
***
本当に、それだけでいいのか?
僕には、よくわからない。
でも、じゃあどうするんだ、どうすればいいと思うんだ?
と訊ねられても、僕のなかから答えが出てくることなんか、ないだろう。
だったらこれで、いいのかな?
・・・いいのかなあ?
わからないけれど。
フランソワーズが「いい」と言うなら、いいのだろうか。
ともあれ。
僕は彼女に満たされている。
好きだとか愛しているとかそういうのはもう超越したところで。
僕は、満たされている。
フランソワーズは、僕にとって、ただ、
『すべて』
だ。
いや、
『僕の愛のすべて』
だとか、そんな歯の浮くような、笑っちゃうほど僕には似合わなさそうな、そういうモノでは、なくて。
『僕のなかにある欠けた部分を満たしてくれる、すべて』
なのだ。
彼女がいてくれるから、僕は『僕』として完成することが出来ている。
・・・ウン。
そういう、もの。
とりあえず、そのことだけは自覚しているんだけど・・・。
***
今日も、博士は僕を、苦い顔で見つめる。
そして言うのだ。
「ジョー、いいから、ニヤニヤするのはやめなさい」
それが、どうにも自覚できない。
僕がいつ、ニヤニヤしてるっていうんだろう?
「だから、つまり――、フランソワーズを見ているとき、じゃろう?」
え?
「儂には、そのときのフランソワーズの、いったい何がそんなに可愛らしいのかさっぱりわからんのじゃが――、おまえにとっては可愛くて仕方ないらしいのぅ?・・・ま、仲よしなのは、よいことじゃ」
えー・・・――?
(強制終了っ)
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