車内アナウンスが降りるべき駅を告げる辺りで窓に跡をつけた滴はジョーが改札を抜けた時には本降りになっていた。
向こう側の空が青いので通り雨かも知れない、そう思うとわざわざ駅の売店で傘を買う気も、タクシー待ちの列に並ぶ気も起きず、雨宿りを決め込むことにしたジョーは通る人の邪魔にならないような柱の前に移動すると持っていた文庫本を広げる。
「うわー、最悪!雨だよ!」
「天気予報、大外れ。今日は1日晴れるって言ってたのに」
「走って帰ろうか?」
子ども特有の、辺りをはばからないよく通る大声に紙面から顔を上げ、ふと見ると、ランドセルを背負った男の子が二人歩いて行く。ランドセルにぶら下げた定期券が歩くリズムにのせてゆらゆらと揺れる。
…
「雨、やまなかったね」
「走って帰ろうよ、島村くん」
…
そんな幼い日にクラスメイトと交わした会話を不意に思い出した。
小学校のある一時期、とても仲が良かった男の子。
名前が思い出せなくてしばらく考える。
…あぁ、そうだ『井上くん』だ
その日の朝は雲一つない晴天で、登校する時に誰も傘の心配なんてしていなかったし、実際登校した時に学校の玄関の傘立てにあったのも、誰かが置き忘れた傘が数本だけだった。それが、給食を食べて、さぁ、外で遊ぼうなんて話をしたとたんに校庭に黒い染みが落ち、あっという間に土砂降りになった。
「こういう降り方はすぐに止むんだよ」
前の席に座る井上くんが窓に流れる雨だれを見ているジョーに声をかけた。
「なら、授業が終わる頃には止むね。僕、傘、持ってこなかったよ。井上くんは?」
ぼくも、と言った井上くんと、二人で窓の外を見るとさっきよりは雨脚が弱くなった気がして、ジョーはほっとする。この雨の中を濡れて帰るのはあまりうれしくない。
井上くんは、ジョーが施設の子だとか、髪の色がみんなと違うとか、そんなことには頓着せずにいつも声をかけてくれる。ジョーがクラスの中で「友だち」と呼べる数少ない人物だ。ジョーが落とした消しゴムを拾って渡してくれるし、ドッジボールにも誘ってくれる。遠足や観察学習でグループを作らなくてはいけない時に誘ってくれるのも彼だ。
学校が終わった後、井上くんの習い事(たしか、水泳と習字だった)がない日に彼の家に遊びに行ったりもした。優しそうなお母さんが、お盆にのせたカルピスと手作りのクッキーをおやつに、出してくれた。
5時間目の算数の授業が終わって、帰りの会が始まる頃になっても雨脚を弱めたまま雨は止むことがなかった。
二人で玄関のガラスの扉越しに外を眺める。
「雨、止まなかったね」
ジョーがちょっと残念そうに微笑しながら言うと井上くんはかぶっていた野球帽をくるっと回して言った。
「走って帰ろうよ、島村くん」
ジョーが聞き返す間もなく、そう言うと井上くんは雨の降る外へと飛び出した。
「まってよ、ねぇ…」
そう言って彼を追いかけようとして、ジョーは足を止めた。
雨の中走っていった井上くんにさしかけられる黄色い傘。
嬉しそうに見上げる笑顔。
赤い傘を差した井上くんのお母さん。
ジョーの所に井上くんの声は届かなかったけど、止まない雨にお母さんが向かえに来てくれたということはよく分かる。
こういう突然の雨降りの日に、傘を持った『お母さん』が子どもを迎えにくるのは珍しい話ではない。井上くんのお母さんだけではなく、何人かの傘を持ったお母さんが校門に立っている。
井上くんはお母さんが渡した傘をパッと開くと、くるりとまわした。さっき野球帽をそうしたように。
…雨、止まないかなぁ
お母さんと一緒に歩いて行く井上くんの背中を見送りながら、ジョーがぼんやりしていると突然、井上くんが振り返り、こちらに駆けだしてきた。
「しまむらくん!」
ばたん、と音をたてガラス戸が開き、少し息を弾ませた井上くんが手に持っていた黄色い傘をジョーに差しだした。
「これよかったら、使って」
「え?」
「ぼくはお母さんと一緒に帰るからいらないんだ」
じゃ、また明日ね
そう言うと井上くんはジョーの方を振り向きもせず、また、走り出す。
今度は目的を持って、まっすぐ。
お母さんが何か言いながら井上くんの頭をハンカチで拭く。
それから、二人は一本の傘で仲良く帰って行った。
井上くんの後ろ姿を見送った後、ジョーは傘立てにその傘を突っ込んだ。
うつむいて歩く頬が濡れるたび手の甲でぬぐいながら、ジョーは雨の中、帰院した。
…そうだ、結局、あのあと、井上くんとはだんだん話さなくなったんだ
傘をきちんと返した記憶もない。
…それから僕は・・・
口元に浮かぶ皮肉な笑み。
「ジョー?」
雑踏の中、声をかけられ不意に意識を引き戻された。
目の前に赤い傘が飛び込む。
「駅に着いたのなら電話してくれれば良かったのに」
フランソワーズが少しあきれたように言う。
「たしかこの時間に着くって言っていたでしょ?お買い物もあったし…」
駅に立ち寄ってみたのだと言う。
「帰るでしょ?」
フランソワーズが持ってきた傘を受け取り、二人並んで歩いていると駅の出口、結局走って帰るのは止めたらしく、先刻の小学生が二人、雨宿りしている。
考えるより前に、彼らに傘を渡していた。
「これよかったら、使って」
雨がまだ降り続く駅前のロータリー。
フランソワーズが少し、あきれたような笑顔で傘を差し出す。
「せっかく迎えに来たのに濡れて帰るわけにいかないでしょ?」
小さな子どもになって、駐車場までのわずかな距離、赤い傘と一緒に歩いた。
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