2012/10/28

 
 
1 心の中に神はいる!
 
石ノ森さんが天使篇の頃から言っていた、「人間の中に善と悪がある」というのは、こういうことだったのか……ってか、いや、文字通り考えればそうなるって、そうとしかならない……と納得したのだった。
 
これは、映画全体に言えることなのだけど、神山さんって、すごく素直というか頭のいい人なんだなーと思うわけで。こういう人に、このテーマを扱ってもらえたというのが「009」にとっては奇跡だ、という感じがするのだった。
 
結局「彼の声」とは、「彼」としか言いようのないモノで。
それを「彼とは誰だろう?」と、自分の外に探そうとすると、しまむらがそうだったように(ギルモアの声と思っていたらしい)間違ってしまう。
実際、「彼の声」を聞くほとんどの人は、「彼=自分」ということがわからないので、自爆テロをしてしまうのだ。
 
映画では、しまむらに「彼の声」が聞こえた理由そのものを、しまむら自身のパーソナリティではなく、サイボーグ化された特殊な脳にある、としているのが面白いのだった。
これで、話がすっきりしたというか、整理しやすくなったと思う。
しまむら自身のパーソナリティに「神」の根拠を置いてしまったら、ますます混乱するというか。
加速装置――脳のイメージから、この入口を見つけ出した神山さんのひらめきっていうのは、やっぱりすごい。
 
人間の中に、「神」はあらかじめ仕組まれていて、今、どうしてかはわからないけれど、その個々の神が姿を現した……というのが、この映画の「事件」である。
その事件そのものについては、解決はされていないし、原因究明もされていない。
しまむらたちはただ、その解釈に成功しただけ、だと言っていい。
が、もともと、解釈するしかないのだった。
 
これは完結篇でもそうだと思うけれど、人の中の善とか悪とかの問題を「解決」するのは無理なのだ。
あるのは解決ではない。
善・悪の問題によって起きる混乱を整理し、自分なりに受け止め、それでも生きるしかない。
その整理の仕方が「解釈」であって、それができるかどうか、どうするのか、というのが作品としての問題になる。
 
映画には映画の解釈があり、完結篇には完結篇の解釈があるだろう。
それはそれぞれの作品としての個性だが、目的は同じ、ということ。
 
しまむらは、神と対峙したけれど、闘ってはいない。
そもそも、神と闘うことなどできない。神は自分なのだから。
が、対峙することはできる。それが天使篇で言う「レジスタンス」なんだろうなーと思う。
 
「彼の声」を聞き、それは「正義をなせ」ということだ、としまむらはまず解釈した。
その解釈で世界を見ると、人間は悪の心に満ちている。
その人間が作りあげた高層ビル群こそ、倒すべき巨悪の象徴に見えてくる。
しまむらも、だから「正義をなす」ためにビル爆破を考えた。
そのとき、彼の中にあったのは「ギルモアの声」であり、それは彼が経験していた過去の戦いそのものだったといえる。
 
しまむらは、かつて「正義の戦い」を、命がけで敢行し、その方向性は結果として間違っていなかった……が、わかってやっていたわけではなかったのだ。
だから、解釈を間違えた。
 
しまむらが再会したギルモアは、完全に間違っていた。
研究所での彼の敵についての解釈は、かなり興味深い。
おそらく、かつての彼らの戦いはそういうものだっただろうし、私たちが知っている「009」でもそうだったのだ。
 
ギルモアは、21世紀型の「死の商人」である具体的な組織を特定し、それが「敵」である、と設定した上で戦いを始めようとする。
 
が、「彼の声」が動かしている世界は、その考えでは救えない。
しまむらはそれを直観したのだと思う。
 
敵は外にいない。
だから、敵として外を叩くと間違える。必ず間違える。
正義をなすつもりが、悪となってしまうのだった。
 
わからないまま、しまむらはとにかく自分を戦場に送れ、とギルモアに迫る。
わかっているのは、「戦えるのは自分だけ」ということで、それがしまむらを動かすのだった。
 
送られた戦場で、しまむらは002と対峙する。
彼ら二人の目的は一致していた。
 
しまむらは002の具体的な目的と思いが自分と同じであることを確かめ、002が「彼の声」とは別系統の流れで動いていることを確かめ、微笑しつつ落ちていく。
 
ここはちょっとわかりづらい言い方になっているのだが、「僕は彼の声に従って、パイロットを支援する」という言葉は、自分の立場は君とは違う、ということを示しているのだろう。
 
具体的な「支援」というのは、結局のところ、おそらくパイロットを止めるということだろう。もし002が「彼の声」によって動いているなら、002の目的も最終的にはドバイ破壊のはず。だったら同じ「彼の声」を聞いた者として、その過ちを阻止する、ということだ。フツーに考えれば、戦闘機より002の方が強いから、しまむらとしてはそうするべきだろう。
 
002に宣戦布告をしたかのように見えるこのセリフのあと、実際にはしまむらは微笑を浮かべつつあっさり落ちていく。「おとなしく帰るよ」を実践し、あとはまかせた、ということなのだろう。
そもそも002がいるなら、009が空で闘う必要はない。彼は地上にいた方が効率がよい。
 
僕達の立場はこれまでどおり、僕は僕のやり方で行く、でも君は仲間だ、というのがしまむらのメッセージだと思う。
 
核の危険をもっと肌で深刻に感じていたら、二人はわかりやすく、ラストのように必死で共闘していたのだろう……けれど、わからなかったのだから仕方がない。
仕方がない、ではすまされない結果ではあったけれど。
 
核にのまれるドバイで走るしまむらは、とにかく生きるために走っている。
あの予告編でのホンキ走り(笑)は、コレだったのかーと思うと、なんだか気の毒だが、しまむらはもともと闘うためではなく生きるために走っている人……なので、そう思うと、本当にしまむららしい走り方、と言える。
 
しまむらは走りながら、初めて「間違っていた」ことを完全に悟る。
これは正義ではない。「彼の声」が求める結果ではない、ということを悟るのだった。
 
廃墟を歩くしまむらは、本当の意味で「ひとり」だ。
自分は生き延びてしまう。
それはそうだ。
この世界で、しまむらに敵はいない。あり得ないほど強い。
それもまた、「009」の原則のひとつかもしれない。
 
強いからこそ、外の敵と戦う戦いの果てはこうなる。
しまむらはひとりになるのだ。
 
が、ひとりであるはずの世界にトモエが現れる。
トモエに抱かれ、しまむらは「彼の声」の真実を直観する。
 
それは、トモエ――003の言葉でこう表現される。
 
神は、超えられない試練を与えない。
 
と。
 
 
2 002と「彼の声」
 
映画の中で、002はすごく大変な(涙)思いをするのだった。
 
「彼の声」を聞く者は、みんなそれを「自分の内側」から聞いている。
002に、その声は聞こえなかった。
それが彼らしさだとも言えるし、だからこそしまむらと対立するのだとも思う。
 
俺にとっての正義は、俺の邪魔をする者を排除することだ!
 
と言う002の言葉は一見無茶苦茶(笑)だが、とても正しい。
しまむらがやっていることも要するに同じだと言える。
 
しまむらは、自分の内側にある何かに動かされ、闘う。
002は、自分の外側から刺激され、闘う。
 
二人にとっては、それぞれ相手が闘う根拠としているモノがまったくの荒唐無稽なモノに見えてしまう。だから対立する。
が、結局は同じなのだ。
 
002の「彼の声」の聞き方はスゴイ。
正確には002が……ではなく、神山さんがスゴイ、ということだけど。
 
「009」では、彼らの戦いが人間たちに褒め称えられることがまずない。
どちらかというと、石を投げられる(倒)わけで。
それもまた、完結篇につながる要素なのだけど。
 
今回も(?)最大規模の戦闘は、ギルモア研究所総攻撃(倒)だった。
やっぱりそうなのか!(泣笑)と、妙に感動したのだけれど。
 
実際の戦闘に直面したのは004、5、6。
が、彼らを「人類の敵」に仕立て上げようとしている陰謀を直接見たのは002で、これも象徴的なのだ。
002は、いつも外から動かされる。
 
内なる怒りは、彼に感知されない。
そして、やはり外から(笑)強制的に意識を奪われ、彼は昏倒……しかける。
が、その一瞬前、002は「闘う」のだった。
#たしかに、「一瞬」あれば十分です。このスピード感というか、処理の仕方も神山さんのすごさかも。
#米軍、頭悪すぎる……ってか、冷戦終わってちょっと油断してたのか(踊)
 
そして、002はペンタゴンを破壊し、「敵」である人間……それは同僚でもある……を殺し、明らかに忌まわしい存在となった自分をビデオカメラによって外側から見る。
それで「記憶」が戻ったりはしないのも、また002らしい。
「彼の声」に動かされ闘う自分の姿を、その自覚はないまま、彼は「見る」ことのみによって理解する。
彼の場合、自分にも「彼の声」が聞こえていたのだ……そして、その戦いは間違っている、ということを、こうして完全に自分の外から見て認めるのだった。
これはこれでつらいと思う(涙)
 
が、002のおかげで問題はかなり整理される。
しまむらが「敵」を探して闘おうとしていた自分が結局「間違っていた」のだと、ドバイの惨劇で知ったように、002もまた、自分が「間違っていた」ことを目の当たりにしたのだ。
彼の場合、自分で手を下しているだけに、強烈にツライ……けれど。
 
仮に002にしまむらと同じ経験をさせても、やはり核攻撃をした「敵」に怒りを向ける、ということしかできないだろう。それでは何の解決にもならない。
ちなみに、しまむらが002と同じ体験をしたら、速攻で首くくって話が終わっちゃうかもしれないのだった(倒)
#ゆっとくが首くくったって死ねないぞお前の場合>しまむら(しみじみ)やめれ(涙)
 
しまむらにはしまむらの、002には002のやり方がある。
この辺りもリアルだし、ラストの説得力にもつながるのだった。
 
 
3 003と「彼の声」
 
「彼の声」を003が直接聞くことは、映画の中ではなかった。
が、009が脳をいじられたことによって「彼の声」を聞くなら、003にもその可能性は十分あるはず……なのだった。
 
これも「009」らしいのだけど、003はしまむらを「愛する」ことによって彼を全面的に肯定し、支援する。
しまむらは「彼の声」を聞いて闘うわけだけど、結果として、彼は神の意志を実行することになるし、それはつまり神として動くということでもある。
そうすると、003の立場はやはりその配偶者……ってことで「巫女」なのだろう。
 
ジョーを信じましょう。彼は昔と同じ……ジョーのままよ。
 
と、彼女は言う。
彼女には「ジョーのまま」と表現されているモノが見える、ということだ。
それが「彼の声」なのだと考えてもよい。
 
しまむら自身にもわからなかった「彼の声」の正体を、003は「見る」ことができていたのだと思う。
それが、彼女と「彼の声」の関わり方となった。
 
ギルモアが003をしまむらの「監視」役としたのは、しまむらが「ジョーのまま」でいなければならないからだった。そういう意味で、ギルモアは「正義」の管理者である。
これも、結果としては正しかったのだけれど、わかってやっていたわけではなかった(笑)ので、状況が変わる中でギルモアはサイボーグたちの信頼を失っていく。
 
002の「なぜお前がリーダーなんだ?」という問いは、もちろん「俺じゃなくて」という意味を含んではいるだろうが、根本的な問題として、そのように「絶対の正義」がある、と自信を持ってふるまうギルモアを信じ切れず、従って、その「絶対の正義」の象徴とする「009」の存在自体が認められなかった、ということなのだろう。
002のその感覚はもっともだと思う。
 
が、結果としてギルモアのしたこと自体は正しかったし、実際に間違いを犯し実行するより前に、しまむらが本当の「彼の声」に覚醒してくれたので、助かった……というか(笑)
 
003にも、何かがわかっていたとは思えない。
ただ、彼女はしまむらを愛しつつ監視していた。
そして、「愛」は決して間違えないのだ。
これも「009」だなーと思う(しみじみ)
 
003の特殊な脳の力は「愛」を媒介として、しまむらの中に「トモエ」を作った。
トモエはしまむらでありつつ003でもある。
 
しまむらは廃墟でひとりになった。
「敵」を想定し、戦い続けるだけなら、その戦いの果てには自分以外のモノは残らない。つまり、絶望と孤独しか残らない。
最強の存在だからこそ、しまむらにはそれが本当の意味でわかったし、体感もできたのだ。
 
それでも、生き残っている。
何のために?としまむらは思う。
 
どうして僕は生き残ってしまったのか
 
この問いは重い。
戦いが終わり、「敵」がいなくなり、ひとりになった。
そして生きている。
それなら、自分は何をなすべきなのか。何をなしたかったのか。
 
わからなくなったしまむらの前にトモエが現れる。
驚くしまむらに、トモエは変わらない微笑を向ける。
「平和」だったヒルズでそうしたようにごくフツウに話しかけ、笑い、しまむらをなぐさめる。
トモエにとって、そこがヒルズであろうが廃墟であろうが、問題ではないのだ。
 
つまり、戦いの果てにしまむらは決してひとりではない、のだった。
なぜかはわからないが、トモエも残る。変わらない笑顔でよりそう彼女が残る。
もしそうなら。
 
彼女を守り、彼女を失わないためにはどうしたらよいのか。
それが、次に彼のなすべきことになる。
それこそが「正義」なのだった。
 
核ミサイルを止めに行くとしまむらが決めたのは、シンプルに言えば「君を守るため」だったはずだ。
 
このときのために生かされた
 
と、009は言う。文字通り、本当にその通りの意味で。
そして、003はそれを受け入れた。
 
恋人を失いたくない、ましてそれが自分のためだというなら、やめてほしい。
どうせ死ぬなら、ここで、自分と一緒に死んでほしい。
 
と、フツウなら思うところだろう。
が、003はしまむらを行かせる。
 
001は、しまむらにではなく003に「いいのかい?」と念を押す。
「彼の声」の体現者であるしまむらの行動は、人間には止められない。
可能性を握るのは巫女である003だけだ。
だから、003は人間代表(笑)として003に「いいのかい?」と聞く。
そして、003はうなずくのだった。
 
巫女は、神に仕えるモノだ。
神と交感しひとつになり、そうなった自分が地上に在ることによって、神を地上にとどめる。
それが、巫女の役割である。
 
神とひとつになれなければ、巫女として存在そのものが無意味となる。
だから、003はしまむらの意志にうなずく。
 
その後、003がなすべきことは「祈る」ことのみなのだ。
神に、地上に戻ってくれと祈る。ひたすら祈る。
 
彼は、超えられない試練を与えない。
 
祈る003はそう思っていた。
トモエが言ったように。
そう信じ、何があっても神とひとつであろうとするのが巫女の在り方だ。
 
だから、しまむらが本当に神となり、003が本当に巫女となれば、しまむらは地上に戻る。離れられないのだから、戻らざるを得ない。
そしてだからこそ、しまむらは003を地上におかなければ……守らなければならないのだった。
 
 
4 「正義の味方たち」の地平
 
そして、物語は一見不思議なラストシーンを迎える。
 
しまむらはベッドの中で目ざめる。
彼を包むのは、穏やかな「日常」そのものだ。
 
そこにはサイボーグたちがいて、ギルモアがいる。
そして、他の人間の姿は見えない。
 
何が起きたのか。
ここはどこなのか。
 
映画ははっきりと語らない。
が、時間が経過するうちに、ああ、ここは私たちがよく知っている「あの」「海辺のギルモア研究所」じゃないか……!と感じたのだった。
 
サイボーグたちは再びギルモアのもとに集結する。
002はギルモアと握手を交わす。
これが「サイボーグ009」としての「正義の味方」の在り方だ。
 
ギルモアも、サイボーグたちも、私たちも、わかっていなかった。
心をひとつにして正義のために身をなげうって闘う彼らをかつて見ていながら、誰もわかってはいなかったのだ。
 
ギルモアも、サイボーグたちも、私たちも、敵はブラックゴーストだと思っていた。
それは事実として間違いではない。
が、違う。
 
彼らはあくまで「正義」として「悪」と闘う。
別にブラックゴーストと闘っているわけではないし、それを滅ぼしたからといって闘いが終わるわけでもない。
だから「正義の味方」なのだ。
その原則は揺るがない。
 
彼らのいる場所は、決して現実から乖離した世界ではない。009の妄想世界(笑)というわけでもない。
紛れもなく現実の世界なのだ。少なくとも、映画の中では。
かつて、マンガの中でギルモア研究所がそういう場所であったように。
 
世界の混乱は継続している。
あの、しまむらたちが闘った世界がそのまま継続している。
廃墟となったドバイ、リーダーシップを失ったアメリカ、そして「彼の声」は決して止んでいないだろう。世界は混乱を極めているに違いない。それをギルモアは告げる。
 
しかし。
彼らは、闘うのだ。
本当の正義を掲げて。
 
それは、「悪」を排除する闘いではない。
悪もまた、人間の中にある。
そして彼らは、あくまで人間を……しまむらにとっての「トモエ」を守るために闘うのだった。
 
その闘いに終わりはないし、勝利もない。
「009」で延々そうしていたように、彼らはただ、その時々現れた邪悪なモノと闘い、人々を救う道を模索する。
 
斃れることなくそれを続ける。
それが「神の試練」だ。
超えられない試練はない。そう信じて、彼らは闘う。
 
その闘いが終わり、平和が訪れるとするなら。
それはすべての人間が、彼らの地平に達するとき……だろう。
そんなときがくるとは思えない。が、それを信じて闘い続けること自体が「神の試練」なのだった。
 
それをなしたのは、彼らが初めてではない。最後でもないだろう。
そのことを、月面の「天使の化石」は暗示する。
 
ラストシーンは、再構成された「かつてのギルモア研究所」なのだと思う。
それは、マジメに考えれば、当時だってものすごく非現実的な世界だった。
 
その世界を一旦破壊し、再構成したために、なんだかわかりにくくなっている……が、本質は変わらない。
007はどこからどうやって来たのか誰が動かしているのかわからない船で到着する。
003はどこで営業しているのかわからないパン屋からパンを買ってくる。
 
その世界には船があり、パン屋があるのだ。間違いない。
が、そこで働く人間は姿を現さない。
もちろん、インサイドストーリーには登場させることができるだろうけれど(笑)
 
少し戻るが、映画の中で「え?」と思ったのは、破壊されるギルモア研究所で「一般人」が働いていたことだった。
思えば、超銀の国際宇宙科学研究所(?)にも所員はいたし、ギルモアもそこにいたけれど、そこは決してギルモア研究所ではなかった。
その傍らに小さく描かれたギルモア研究所は、むしろ、こっちの大きい研究所は、ギルモア研究所じゃないからね!と念を押すためだけにあるようなものだった。
私たちは、知らず知らずのうちに、念入りに、ギルモア研究所を「現実」から乖離させていたのだった。
 
しかし、この映画のギルモア研究所には所員がいる。
彼らは、総攻撃によって皆殺しにされてしまう。
これが「ギルモア研究所」の現実なのだ。
 
しまむらの記憶をリセットした理由について、ギルモアは、「変化がない」ことによる精神的負担を減らすため、と説明していた。そうしなければ、彼は耐えられない、発狂してしまうかも……ということだろう。
そんな危険を冒してまで、しまむらは「ジョーのまま」「正義」そのものでなければならなかった。
 
「ジョーのまま」の本質がわからないまま、それでも彼こそが最後の「正義」と考えたギルモアはとにかくその当時の「009」そのものを、あらゆる意味で「そのままに」保持しようとした。
 
それが現実と絶望的に乖離していることをギルモアは知っていた。本当の意味ではわかっていなかったが、事実として知ってはいたのだ。
 
怪獣と闘うとき、ビルを踏みつぶしている、ということを自覚してしまったら、正義の味方であるウルトラマンは決して身動きできない。
正義の味方が正義をなすためには、現実との切り離しがどうしても必要だ。
私たちは、それを無意識のうちにやってきた。
 
この映画のラストシーンは、私たちが無意識の中でそれをごまかし続けることを許さなかった……といえる。
しまむらたちは、まさに「009」の世界の中で自然に生きているだけだ。
だから、それを「不思議」と思う私たちの方が、考えなければならないのだった。
どうすれば、彼らとふれあえるのか。
 
彼らはもうごまかさない。
だから、これは私たちに与えられた宿題、だと言える。
そういう風にして「009」は幕を下ろす。
 
もちろん、物語自体はいつでも、どのようにでも、再び幕を開けるだろう。
新しいギルモア研究所に集う、昔ながらの……新しい「009」の物語として。
 
彼らの居場所が「003のセーフハウス」というのも象徴的だ。
彼女が、彼らを現実につないでいる。それだけが、残されたファンタジーだといってよい。
 
そして、それは「愛」なのだった。