この町で


 
「寒いっ!」
「……」
「チクショウ、寒いぞ、ジョーっ!」
 
道行く人々は皆大きな買い物袋をかかえ、ひたすら急いでいる。
派手にわめき散らす背の高い赤毛の青年を振り返ってみる者もいなかった。
 
「なんでこんなに寒いんだ?あぁっ?!」
「…冬だから」
 
隣にいた茶色の髪の青年がぽつん、とつぶやく。
 
「そんなことは俺だってわかるぜ、お利口なシマムラ君よ?…そうじゃなくてだな、どーして、この南国がこんなに寒いのかということだっ!向こうの方がずーっとマシだぜ、これじゃ」
「だったら、帰れ」
「けっ!可愛げのないヤツ…!大掃除手伝ってくれって泣いて頼んだのはどこの誰だったっけな?」
「僕は知らないな。でも、そんなヤツがいるならそっちに行ってやれよ、ジェット…今すぐね」
「なんだと〜っ?!てめっ、昨日食った餅返せっ!俺様がはるばる運んでやった正月用の…」
 
つかみかかろうとしたジェットを、身をふっと沈めて軽く避ける。
もちろん、お互いホンキではない。
中学の頃からコイツはずっとこうだ。一体いくつになったら…
 
…が。
いきなり、背後で女性の小さい悲鳴が上がった。
しまった、と思ったときは遅かった。
狙いが外れて、勢いあまったジェットが、通行人と衝突してしまったらしい。
ジョーは慌てて振り返った。
 
「わ、わりぃ…!大丈夫か?!」
 
ジェットも慌てふためいて身をかがめ、突き飛ばされた女性に手を貸している。
ジョーは素早く彼女が落とした荷物を拾い集めた。
 
「…あ、足…」
 
ジェットに抱え起こされた女性は、辛そうに目を閉じ、足首を押さえていた。
 
「怪我…したのか?…おいジョー、この辺に病院…」
「いえ…大丈夫…です、ごめんなさい…少し、ひねっただけですから…」
 
ふと顔を上げた女性の青い目に、ジョーは息をのんだ。
言葉が出てこない。
 
「あ…ジョー、それ…この人の荷物、それだけだったか?」
「…あ、ああ」
 
女性は、食い入るように見つめているジョーを少し怪訝そうに見やり…それからジェットを見上げ、弱々しく微笑んだ。
 
「ごめんなさい…大げさに転んじゃって…」
「いや…!その、俺たちがこんなトコロでガキみたいにふざけてたから…すまねぇ。ホントに足、大丈夫か?」
「…ええ」
 
ジェットは、ぼんやり突っ立っているジョーから荷物をひったくり、女性に渡した。
 
「…ありがとうございます」
 
彼女はふわっと微笑み、軽く頭を下げてから少し足を引くようにして歩き出した。
 
「…すっげー…キレイな人だなぁ…」
 
ジェットのつぶやきが遠く聞こえる。
ジョーは遠ざかる細い背中を憑かれたように見つめていた。
 
キレイな人…?
そう…だ。
ちっとも変わっていない。
あの…微笑。
明るい、青い瞳。
 
「やっぱり…こっちには美人が多いのかね?…でも、今の彼女、どこかで見たような…女優ってわけじゃねえよな…」
 
元気そうだった。
やっぱり、この町にいたんだ。
本当に…いたんだ。
 
「ああっ!」
 
いきなりジェットが大声を上げ、目を見開いた。
間髪を入れず、両手を振り上げ、彼女の背中に向かって怒鳴る。
 
「アルヌールさあ〜んっ!!!」
 
身も蓋もない大声に、通行人が次々振り返る。
そして。
彼女が、足を止め…ゆっくり振り返った。
 
「俺っ!俺だよ、ジェット・リンク…!スカール学園っ!!!」
 
彼女の唇が、小さく動いた。
次の瞬間、花のような笑顔が広がった。
 
「…委員長さん?!」
「やったっ!覚えててくれたんだ…!」
 
ジェットは口笛を吹くなり、彼女に駆け寄り、その両肩を掴んで勢いよく揺さぶった。
 
「すっげぇ!来た甲斐があったぜ…!アルヌールさん、時間あるか?お茶飲もうぜ…そうだ、お詫びにおごらせてくれよ…おい、ジョー!」
「…いいのよ、委員長さん…お友達と一緒なんでしょう…?」
「お友達…って、コイツだぜ…覚えてるか?ジョーだよ…ほら…」
「…ジョー…って…」
 
彼女はちょっと瞬きして、ジョーを振り返り…ハッと目を見開いた。
 
「…島村くん…?!」
「そうそう!あの問題児!…今は一応大学生なんだぜ!」
「まあ…二人で旅行なの?」
「いや…旅行…っつーか…まぁ、立ち話もなんだから…な、アルヌールさん、どっか入ろう!」
「でも…あなたたち…」
「いいから!…ほら!」
 
ジェットは彼女の肩を抱くようにして歩き始めた。
まだぼんやり立っているジョーを苛立たしげに振り返り、呼ぶ。
ジョーはゆっくり歩き出した。
 
やっぱり…いたんだ。
…この町に。
 
 
 
「驚いたわ…また会えるなんて…それに、島村くんがここに住んでいたなんて…」
「コイツ、変わり者だからさ…なんとかって教授の講義をどーしても受けたくて、受験したのはここ一本…で、合格だもんな…っとに可愛げがないぜ!」
 
フランソワーズはくすくす笑った。
 
「すごいわ。イナカの大学だけど…医学部だもの…優秀なのね、島村くん」
「あ、でも、コイツ、医者になるツモリじゃないみたいだから安心してくれよ、アルヌールさん」
「…うるさいな」
「こんな愛想のないヤツ、医者になんかなれないって…その、なんとかいう教授と、何か怪しい研究に走るつもりでさ…」
「まあ、研究者を目指すの?」
「もう…いいだろ、ジェット…行こう」
 
立上がり、レシートを掴もうとするジョーを、ジェットは険しい目で睨んだ。
 
「なんだよ…!せっかくの再会…」
「さっきから携帯が鳴りっぱなしじゃないか…待ってるんだろ?」
「…なっ!…こ、こいつ…っ!」
 
慌てるジェットに、フランソワーズは瞬きした。
 
「あ…ごめんなさい…待ち合わせ、してたのね…つい楽しくて…話し込んでしまって」
「いいえ…ご迷惑かけたのは僕たちですから…それじゃ…」
 
さっさと立上がり、レジに向かうジョーに舌打ちすると、ジェットは照れくさそうにフランソワーズに合図し、席を立った。
 
店を出ると、日が傾きかけていた。
腕時計をちらっと眺め、ジェットは肩をすくめた。
 
「…ったくっ!意地が悪いよな、オマエって…相変わらず」
「きみほどじゃないさ…彼女と旅行中に友達のトコロに泊りにいく…だけでも相当ヒンシュクだと思うけど?」
 
ジェットはぐ、と言葉に詰まった。
 
「お、オマエ…まさか」
「心配するな…黙っててやるよ」
「何を、エラそうに…っ!」
「ほら、また鳴った」
「うるせえっ!…マナーモードにしてるんだ、いちいちチェックするなよっ!」
「早く行ってやれよ…かわいそうじゃないか」
 
ジェットはち、と舌打ちし、小声でわりぃ、と呟いた。
 
駅へ向かったジェットを見送ってから、ゆっくりバス停に向かおうとしたジョーは、ハッと足を止めた。
遠くに亜麻色の髪が見え隠れしている。
少しずつ、少しずつ…遠ざかって。
 
ジョーはぎゅっと唇を噛み、人混みをかき分けるように走り出した。
 
 
 
いきなり肩を掴まれ、フランソワーズは驚いて振り返った。
 
「…島村…くん…?!」
「足…!」
「え…?」
 
ジョーは険しい目でフランソワーズを睨んだ。
 
「大丈夫じゃ…ないじゃないか…!」
「…あ」
 
ずるずる引っ張られ、道端のベンチに座らされた。
その場に膝をつくなり、有無を言わさず靴を脱がせるジョーに、フランソワーズは慌てた。
 
「あ、あの…島村くん」
「…腫れてる」
「大丈夫よ…だから…少し捻っただけ…っ!」
 
軽く足首を曲げられた途端、激痛が走った。
唇を噛むフランソワーズをじっと見上げ、ジョーはそっと彼女の足を離し、靴を履かせた。
 
「病院へ、行こう」
「…でも…今日は日曜日だから…」
 
おずおずつぶやくフランソワーズに構わず、ジョーは立ち上がり、彼女の荷物を抱えた。
 
「知ってるところがある。近いから」
「…島村くん」
「ガイドって…立ち仕事だろう?」
 
帰ったら、湿布をするから大丈夫よ…と言いかけたとき、ジョーは既に荷物を持ったまますたすた歩き始めていた。
 
「島村くん…!」
「走るな…!」
 
慌てて立上がったフランソワーズを、ジョーは振り返りざま鋭く制した。
 
 
少し歩くと、住宅街に入った。
見たところ、医院でもなんでもなさそうな民家の門の前でジョーは立ち止まり、インターフォンを鳴らした。
 
「…ギルモア博士…島村です」
 
ほどなく、門が開き、大きな鼻の老人が現われた。
 
「なんじゃ、ジョー…何かあったのか…うん?」
「…この人の足を、診ていただけませんか」
「足…じゃと?」
「…あ、あの…私…」
 
やがて、老人はうなずき、ジョーに目配せすると、家に入った。
フランソワーズは戸惑いながらも、二人の後についていった。
 
 
 
「何、それ?あきれた…!あなたって、よっぽどのお人好しね、フランソワーズ!」
 
昼食のテーブルで、ビーナが肩をすくめた。
 
「でも…テーピングもとっても上手にしてくれたし…ホントによく効くクスリだったみたい…すぐに痛みがひいて、今はほら…なんでもないの」
「信じられない…少しは警戒しなさいよ…!知らない若いオトコについていって、わけのわからない家に引っ張り込まれて…」
「知らない人じゃないもの…スカール学園の生徒さんよ…それに、ギルモア博士だって、大学の先生で…」
「だから…!それは結果オーライってことでしょ?私が言ってるのは、心がけの話!」
 
言われてみればそうかもしれなかった。
でも。
フランソワーズはふっと昨日のジョーの真剣なまなざしを思い浮かべた。
 
あんな目をされたら…疑うわけにはいかないもの。
島村くん…変わってないのね。
とても大人っぽくなっていたから…はじめは全然わからなかったけど…でも。
 
「でも…スカール学園…か。ふふっ、たしかにあの修学旅行は印象的だったわ…」
「…ええ」
「それに、あなたは修学旅行の仕事、あれが初めてだったっけ…」
「…そうね。ホントに楽しかったわ」
 
二人はふと見つめ合い…微笑んだ。
 
 
私がいいというまで来なさい…と、言われたとおり、フランソワーズは仕事帰りにギルモア邸を訪れた。
ビーナに知られたら、また何か言われるかもしれない…と思いつつ。
 
インターフォンを鳴らすと、若い男性の声が応じた。
ややあって、門を開けたのは、ジョーだった。
 
「こんばんは…昨日はありがとうございました」
「…どう?」
「ええ…痛みはもうないの…本当に助かったわ」
「…入って」
 
フランソワーズが差し出した小さい菓子折を、ジョーはちょっと唇を曲げてそっけなく受け取った。
案内された居間で、昨日と同じソファをすすめられ、座っていると、昨日と同じようにジョーがお茶を運んできた。
おしぼりと茶碗をきっちりした手つきで並べる。
 
「…慣れてるのね」
「……。」
「教授の助手もしているの…?」
 
返事がない。
フランソワーズがうつむいて口を噤んだとき…治療の準備を整えたギルモアが入ってきた。
 
 
「うむ…だいぶ、よくなったようじゃ…な」
 
ひととおり触診し、テーピングをしなおすと、ギルモアは満足そうにうなずいた。
 
「本当に…ありがとうございます」
「うむ…なに、この子が迷惑をかけたというのじゃから、申し訳ないことじゃった。ジョー、もう暗いから送ってさしあげなさい」
「はい」
「あ…いいえ、大丈夫です…いつも、もっと遅い時間に帰って…」
「まあ、いいから…そうじゃ、万一何かあったらココへ…」
 
ギルモアはごそごそポケットを探り、名刺を取り出した。
 
「ジョー、お前もお渡ししておきなさい。この前作ったじゃろ」
「…え」
「お前が、当事者なんじゃぞ」
 
ジョーは小さく息をついた。
二人から名刺を渡され、フランソワーズも慌ててバッグを探った。
 
「…ほう!バスガイドさんじゃったのかね…なら、足は大切にせねば…いや、本当にたいしたことがなくてよかったわい」
 
 
 
二人はゆっくり肩を並べて歩いていた。
住宅地を抜け…街に入る。
 
「お食事、していきましょうか…今度は私がご馳走するわ」
「…いえ」
「ご馳走…ってほどじゃないけど…あなたには本当にお世話になったもの…あのときも」
「……」
 
うつむくジョーをちらっと見上げ、フランソワーズは小声で言った。
 
「…ごめんなさいね」
「……」
「ずっと…あなたに、謝りたかった…」
 
ふと顔を上げたジョーの目をじっと見つめて、フランソワーズは少し震える声で続けた。
 
「…ごめんなさい。あなたに…ひどいことをしたわ」
「……」
「私…本当に…未熟で…あなたの気持ちも考えなくて……」
 
ジョーが、つと眼をそらした。
フランソワーズは軽く唇を噛んでから、懸命に笑顔を作った。
 
「ね、だから…お詫びもさせて。そうだわ、いいお店があるの…島村くんはまだお酒ダメよね…そうしたら…」
「いいです」
「…島村くん」
「本当に…いいですから…それじゃ、ここで。お休みなさい…お大事に」
「……」
 
くるっと背中を向け、遠ざかっていくジョーを、フランソワーズはぼうっと見つめていた。
 
もう、会えないかもしれない。
 
ふとそう思ったとき。
突然彼が立ち止まり、勢いよくふり返った。
 
「僕も…!」
 
息が止りそうになった。
フランソワーズは目を大きく見開き、ジョーを見つめた。
体が微かに震える。
 
「僕も、あなたに、謝りたかった…!」
 
身じろぎもしないフランソワーズに、ジョーは夢中で怒鳴った。
 
「ずっと…ずっと、謝りたかった…!ごめん!」
「……」
「聞こえた?!」
 
声にならない。
フランソワーズは一生懸命、何度も大きくうなずいた。
ジョーが高く手を挙げ…笑った、ように見えた。
 
「さようなら…!」
「……」
「さようなら、アルヌールさん…!元気で…!」
 
さようなら…と、言おうとした喉から、嗚咽がこみ上げる。
頬に流れる涙を拭くことも忘れ、フランソワーズは手を振った。
走り出した彼の背中が、見えなくなるまで。
 
 
 
シーズンオフで、しかも平日。
市内観光ツアーに来るのは、まばらな当日客だけだった。
 
「ようこそいらっしゃいました…よろしくお願いします」
 
ぽつりぽつりとバスに乗り込む客に丁寧に頭を下げる。
発車まであと5分…客はいまのところ、7人。
 
「じゃ、よろしく、アルヌールさん」
 
初老の運転手が機嫌良く微笑み、運転席に乗り込む。
笑顔を返すと、お客さんだよ…と目配せされた。
慌てて振り返り…フランソワーズは息を呑んだ。
 
「…あ」
「やあ…よろしく頼みますよ、お嬢さん」
 
どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた、鼻の大きな老人。
そして、その後ろに、心なしか顔を赤くしたジョーが立っていた。
 
「博士…早く乗ってください。つかえてるんですから」
「なんじゃ、やかましい…つかえてるのはお前だけじゃないか…のう、お嬢さん、ええと…」
「アルヌールです…フランソワーズ・アルヌール…嬉しいですわ、ギルモア博士…市内観光ツアーへ、ようこそ」
「ふふ…この子に、この町をちゃんと紹介してやろうと思っての…ちょっと暇ができたんで…」
「そうですか…さあ、どうぞお乗りください…一生懸命ご案内しますから」
 
ジョーはそそくさと会釈し、ギルモアを押し込むようにしてバスに乗り込んだ。
出発時間を確かめ、フランソワーズは運転手に告げた。
 
「お客様は9名さまです」
「了解…のんびり行きましょうか」
「はい」
 
がくん、とバスが揺れ、ゆっくり発車する。
フランソワーズは大きく深呼吸して、深々と頭を下げた。
顔をあげると、茶色の澄んだ瞳が見つめている。
わけもなく胸が弾んだ。
 
「みなさま、おはようございます…本日は市内観光ツアーにおこしいただき、ありがとうございます。わたくしは本日みなさまのご案内をさせていただきます、フランソワーズ・アルヌールと申します…」
 
 
 
やれやれ…と腰を伸ばしながらカバンを置くギルモアを、銀髪の少年が面白そうに微笑しながら迎えた。
 
「こんばんは、ギルモア博士…観光は楽しかったですか?」
「…いや、まあそれなりに新鮮じゃったの…イワン、ガモ君はまだかね?」
「ええ…どうぞお入りください…お疲れでしょう…ジョーは一緒じゃないんですか?」
「それがの、どうもお前の言ったとおりになりそうなんじゃよ、イワン…!」
「え?…も、もう…ですか?」
「いやいや、話は中でさせてもらおう…ガモ君もそのうち帰るんじゃろう…?」
 
 
「ふーん?それじゃ…島村は、そのバスガイドと食事に…?」
「まるで映画のような展開でのう…たったあれしかおらなんだ客の中に、ひどく酔っぱらった柄の悪いのがおって、彼女に絡んだわけじゃから…全く信じられん。しかも昼間からじゃぞ!」
「面白そうだなぁ…僕も行けばよかった!ジョーって、そんなにケンカ、強かったんだ!」
「お前は学校があったろうが…ふん、しかしあの島村がよく女と食事なんかに…わしが誘ってもとうとう首を縦に振ったことはなかったぞ、あの頑固者」
「…父さんに誘われたって…嬉しくないでしょう」
「…そんなものかな」
 
憮然と腕を組む父親に、イワンはくすくす笑った。
ギルモアは満足そうに微笑しながら一人何度もうなずいた。
 
「あの展開じゃからの…さすがのあの子も断れなかったようじゃ…アルヌールさんも、可愛がられておるんじゃの…彼女を助けたというんで、運転手やら同僚のバスガイドやらにも礼を言われて英雄扱い…ふふ、あれは誘われたというより、寄ってたかって拉致された…という感じじゃったよ」
「ええ〜っ?二人だけで行ったんじゃないの?それじゃ、ダメだよ〜!」
「まあ、慌てるな、イワン…これでいいんじゃよ…ゆっくり…ゆっくりでいいんじゃ。慎重の上にも慎重を期すべきことじゃから…」
「ギルモア博士…もしかして、僕の言ったこと…ホンキにしてる?」
「しておるとも…!優秀な人材確保のためなら、わしは手段を選ばんぞ!」
 
イワンはちょっと肩をすくめた。
ガモはふん、と鼻で笑い、息子をこづいた。
 
「まあ…お前もそのうちわかるだろう…それに、島村のためにも悪くない計画だ。研究者には、なかなか結婚のチャンスがない…ぼんやりしておると、ギルモア君のようになってしまう」
「ガモ君っ!」
「結婚…?やんなっちゃうな…僕は、ほんの冗談で言ったのに…」
「いや、イワン…お前は天才じゃ…!これで大丈夫。お前の言ったとおり、あの娘はこの土地の者じゃからの…彼女を娶れば、ジョーは絶対にわしのトコロから離れまいて…」
 
酒も入っていないのに、異様に盛り上がり始めた父とその親友を居間に残し、イワンは自分の勉強部屋に向かった。
 
まったく、父さんといい、ギルモア博士といい…優秀な人達だと思うけど、どうしてああなのかな?
ジョーも、そのうちあんなになっちゃうんだろうか?
…やだなぁ。
 
溜息をつき、書棚から参考書を取りだし、広げる。
無口で愛想がないけれど、心根は優しいジョーを、イワンはすぐ好きになった。
父やギルモアの言うとおり、彼がこの土地にいつまでもいてくれたら本当にいいと思う。
 
「アルヌールさん…か」
 
まだ会ったことも見たこともない…けど。
あのギルモアが、キレイな女性だ…としか言わなかったのだ。
人を見るとまず骨格がどうだの筋肉の形がどうだのと言い出してはヒンシュクを買うあの老人が。
 
よっぽどきれいな人なんだろう…と、イワンは溜息をついた。
 
よろしく頼むよ、ジョー。
とにかくがんばって…みんなで応援するからさ。
それで、うまくいったら、その人、僕にも見せてよね。
楽しみだな。
 
ぐい、と両手を上げ、背筋を伸ばして深呼吸してから、イワンは参考書にかがみ込んだ。
 
 
窓の外には美しい冬の月が浮かび、澄んだ光を放っている。
でも、イワンはそれを知らない。
考えてもみなかった。
 
昨日までのジョーが、そうだったように。