2005/10/9

色紙


 
「あとは島村くんだけよっ!」
 
険しい顔のシンシアが迫る。
突き出されたのは、女子の手によるものらしいイラストでパステルカラーに彩られた色紙。
真ん中に「フランソワーズ先生ご結婚おめでとうございます!」とある。
 
一人ぐらい書かなくたって、絵でも適当に埋めとけばバレないんじゃないか、と思いながらも、ジョーはふと溜息をついた。
 
そんなこと、ない…か。
あの人は、ちゃんと気付くだろう。
 
几帳面に薄い鉛筆線で40に分けられたブロック。
メッセージがちまちまと窮屈そうにひしめく色紙に、最後のブロックがぽっかりあいていた。
そこに、埋めなければならないのだという。
祝福の、言葉を。
 
ペンを握ったまま動かないジョーに、シンシアはいらいらと言った。
 
「何でもいいじゃない!『おめでとうございます』とか『お幸せに』とか…男子はみんな短いのばっかりだし」
 
何でもいい、か。
それは、そうだ。
 
ジョーは几帳面な字で、シンシアの言葉をそのままなぞっていった。
 
最後に、島村ジョー、ときっちり書く。
それで、終わりだった。
 
 
 
ドクター・ギルモアが出席する次の研究発表会の通知に、カール・エッカーマンの名前がある…と、ジョーはとうに気付いていたし、フランソワーズも気付いているだろう、と思った。
だからといって、何か彼女に言うことがあるというわけでもない。
 
ドクター・ギルモアの研究所で彼女と暮らすようになってから、もう5年がすぎていた。
はじめの頃は、うっかり「アルヌール先生」と口走ってしまったりもしたけれど、さすがにこのごろはそういうこともない。
 
ちょっと来て、とフランソワーズに呼ばれ、キッチンへ入ったジョーは、ぎっちり詰まった冷凍庫の中身に目を丸くした。
 
「…どうしたの、コレ?」
「あなたのゴハンよ…ちゃんと食べてね。今度の研究発表会、なんだか長くかかりそうなの」
「長く…って。会期は決まってるよ。3日間じゃなかった?」
「そうなんだけど…その後でね、博士に、お話したい方がたくさんあるらしくて……」
 
なるほど…と、ジョーは納得した。
偏屈で知られるギルモアが、公の場に出ることはあまりない。
ここぞとばかりに若い研究者たちに囲まれることは想像にかたくなかった。
 
「大変そうだなあ……君も」
「…そう…かもしれないわね」
 
フランソワーズは肩をすくめた。
研究者たちと機嫌良く話をしてくれればいいのだが、何かでヘソを曲げられると、ギルモアはワガママな子供のように手がつけられない。
そんなとき、彼とまともに話ができるのはフランソワーズだけなのだった。
 
「とにかく、私たちが留守の間、ちゃんとコレを食べること…いい?アナタも博士と同じで…実験に夢中になると、何も見えなくなってしまうんだから……もし、帰ってきたとき、この冷凍庫がちゃんと空になってなかったら……」
「罰として一人で教室掃除ですか、アルヌール先生?」
 
おどけるジョーに、フランソワーズはくすくす笑い、そうよ、覚悟なさい、と言った。
 
 
そして、それから1週間後。
冷凍庫の中はほぼ空に近づいた。
ギルモアは上機嫌で研究所に戻り……
 
 
その傍らにフランソワーズの姿はなかった。
 
 
 
「向こうで、エッカーマン君に会ってな…あぁ、息子の方じゃ」
「…はい」
 
フランソワーズが冷凍していったシチューを温め、パンを適当に切り、ジョーは黙々と夕食のテーブルを整えていった。
 
「おお、これはうまそうじゃ…向こうでは毎日パーティまがいの食事ばかりで、年寄りには少々キツかったの…」
「…エッカーマン先生は、お元気そうでしたか?」
 
穏やかに尋ねるジョーに、ギルモアは、ああ、と思い出したようにうなずいた。
 
「そうか、オマエは彼の教え子でもあったの…元気じゃったよ…フランソワーズが少しも変わらんといって感心しておったわ」
「……」
「どうして別れてしまったのかの…あの二人は」
「お似合い、だったですよね」
「…そう思うか?」
 
ジョーは黙って微笑した。
ギルモアは何か考えながらぼんやりとパンをちぎっていたが、やがて、ぽつりと言った。
 
「で…フランソワーズを借りたい、とエッカーマン君が申し出ての」
「……」
「いや、借りたい、というのはおかしな表現じゃが…彼の研究に、彼女が興味を持ったらしいんじゃな…何やら二人で楽しそうに議論しておったが……で、そのうち彼の研究室で実際のデータを見たらどうか、ということになって…」
「…そうですか」
「明後日、帰るそうじゃ…それまでならその…冷凍庫もまだもってるじゃろうと彼女は言うんじゃが…」
「ええ、そうですね…ぴったりです」
 
フランソワーズらしい、とジョーは思った。
ギルモアも同感だったらしい。
 
 
フランソワーズから電話が来たのは、夕食が終わってしばらくしてからだった。
 
「ごめんなさいね、ジョー…ワガママを言って…そっちは大丈夫?」
「うん。ゆっくりしてくるといいよ」
「まさか…!あと2日だけよ。それ以上あなたたちだけにしておいたら、あとで大変なのは私だもの…そうだわ、ゴハン、ちゃんと残ってるでしょうね?」
「うん、もちろん…それで、どうかしたの?」
「ええ、あの…申し訳ないんだけど、私の部屋にある資料を送ってほしいの。さっきそっちにメールしたから、それに返信してくれればいいわ」
 
フランソワーズは手短にそれが収められているディスクの番号と、ファイル名を伝えた。
ジョーが電話を切り、PCを立ち上げると、既にメールは届いている。
 
フランソワーズの部屋はきっちり整頓されていた。
ディスクが収められたケースも彼女が言った場所にちゃんとある。
それを引っ張り出そうとしたジョーの手がふと止まった。
 
棚の隅に、四角い色紙がひっそりと立てられていた。
そうっと引き出してみる。
 
「フランソワーズ先生ご結婚おめでとうございます!」
 
 
あの、色紙だった。
 
 
 
やっと静かになった。
 
フリーウェイに入って、もう2時間。
夜明けが近い。
 
さっきまで小言を言いまくっていたフランソワーズが、すうすう寝息を立てている。ジョーはひっそり笑った。
 
求められたディスクのコピーを持ち、深夜訪れたジョーに、フランソワーズは呆れ、怒った。
…が。
 
「どうしようもないわ…!私も帰るわよ、ジョー。このままアナタを一人で帰したら、居眠り運転が心配だし、かといって、アナタをここに泊めたら、誰が博士に朝ご飯を用意するの?」
「まさか。居眠りなんて…」
「あら!カールが言ってたわ、アナタは居眠りの常習犯だった…って!」
「それは…」
「とにかく、事故を起こしてからじゃ遅いもの…!ああもう、あなたって、どうしていつもこうなのかしら…!」
 
いつも、こう…って。
なんだよ、それ。
 
この人にとっては、僕はいつまでも13才の少年のままなのかもしれない。
ふとそう思い、ジョーは軽く深呼吸した。
 
フランソワーズは慌ただしく精算をすませ、カールへのメッセージを書き、ディスクと一緒にホテルのフロントに託した。
 
「たしかに、資料は早く欲しかったわ…でも、コンピューターのトラブルなら、そう電話してくれればよかったのよ…第一、ココまであなたがわざわざ届けるよりもマシな方法はいくらでもあるでしょう?どうしてそっちを思いつかないのかしら?本当にあなたは変わらないのね…立派な大人になったと思ったのに…」
 
反論はしない。
ハンドルを握りながら、ジョーはひたすら沈黙し、彼女の小言をやりすごした。
13才の少年のように。
 
そして。
ジョーの居眠りを見張る、と言い張っていたはずのフランソワーズは、結局寝息を立てているのだった。
やはり、疲れていたのだろう。
 
 
ごめんなさい、アルヌール先生。
 
ジョーはひそかに心でつぶやいた。
 
どうしてここまで来たか…って。
それは、たぶん、こうして来ることができるようになったから。
あなたのもとに。
 
あのときは…できなかった。
今は、できる。
 
それだけが、変わったことなのかもしれない。
それだけで、十分だけど。
 
 
いつか、聞いてみたい…と、ジョーは思った。
身の回りのものをほとんど何ももたず、ギルモア研究所にやってきたフランソワーズが、どうしてあの色紙を持ってきたのか。
 
 
あなたは…誰を想って、あれをしまっていたのだろう。
あなたの心にいたのは…違う、今もいるのは……誰?
 
今は、聞けない。
 
 
それでも…
僕は、こうしてあなたのもとに来ることができるようになった。
あのときはできなかった。
 
いつか、聞いてみたい。
あなたの返事を恐れることがないくらい、僕が強くなれたら、そのときに。
 
 
遠くの地平線がぼんやりと明るくなってきた。
新しい一日の始まりを、彼女と一緒に見たい、とジョーは思った。
 
けれど。
居眠りを僕に気付かれた…と思ったら、あなたはきっと機嫌を悪くするんだろうな。
僕の、アルヌール先生。
 
 
ジョーはさりげなくラジオのスイッチを入れた。
静かな音楽が流れ出し、やがて助手席で微かにみじろぐ気配がした。
 
夜が明ける。
ジョーは大きく息を吸い、アクセルを踏み込んだ。