約束の日


 
早朝の電話でたたき起こされることは慣れている。
が、いつもと確実に違ったのは、受話器から聞こえてきたのが、常に冷静沈着なアルベルト・ハインリヒの、珍しく動揺を隠しきれない声だったということだ。
とりあえず適当に身支度を調え、来いと言われたホテルの一室に駆け込むなり、ピュンマは思わず呆然と立ちつくした。
 
「うっわー」
 
それしか声が出ない。
アルベルトは部屋の真ん中に立っていた。腕組みをしたまま微動だにしない。
仕方なく彼の脇をすり抜け、開け放たれた窓辺に立ち、しみじみと下をのぞきこむと、ピュンマは感極まったように言った。
 
「コレって、ホントにやる奴がいるんだ。初めて見たなあ」
「俺もだ」
「で、フランソワーズは?まさか、落ちたのかい?」
「それなら、呼ぶのはオマエじゃない。葬儀屋だ」
 
救急車を飛び越えて葬儀屋になるところが、彼らしいと言えなくもない。
 
「とにかく、とりあえず…コレを片づけようか、アルベルト。君、警察を呼んで現場検証するつもりじゃないんだろ?」
「当然だ!」
 
怒ったように言うのは、片づけなければならないことに今まで気付かなかった自分への苛立ちだろう。アルベルトがこんなに動転しているのを見たのは、初めてだった。
ピュンマは、シーツを裂いて結び合わせたヒモを窓からずるずると引っ張り上げ、柵にしっかり縛りつけられていた結び目を器用にほどいた。
 
「一体どうしたんだい、フランソワーズは?審査員にセクハラでもされたのかな?」
「わからん」
「でも、まあ…日暮れまでには帰ってくるさ。彼女だって、今日がどういう日なのかはよく知ってるはずだからね…プレッシャーに耐えられなかった…ってことかもしれないし」
「プレッシャーだと?」
 
アルベルトが呻いた。
 
「俺の知る限り、アイツほどその言葉から遠い所にいる女はいないっ!」
 
 
 
ここのところ、やたらと人が多いと思ったら、何でも近くの町で、世界的に有名な映画祭が開催されているのだそうだ。
へえ、と驚くジョーを、ジェットは鼻でせせら笑い、コレだから日本人は、とかなんとか言う。とりあえず聞き流しておく。
始めは口の悪さと粗暴な行動にうんざりしたけれど、この赤毛の先輩は結構気がいい男なんだと、最近わかってきたジョーだった。
今日も、彼が休暇なのを見越して、さりげなくクルマを貸してくれたりする。
社名入りのさえないクルマだが、もちろんジョーとしては非常に助かるのだった。
 
「あ、ジョー。そのクルマな、ドアロックきかないから」
「…え」
「ま、この辺じゃフツウのことだ…財布盗まれないようにしろよ、坊や」
 
う。とジョーは言葉に詰まった。
この国に来てから、もう3回もスリにあっている。
 
あってはいるのだが、実際にジョーが財布を盗まれたことは一度もない。瞬時に気づき、犯人を取り押さえては警察につきだしているからだった。
そろそろ、スリの間でも、オマエについての回覧板が回ってるころだろう、とジェットは真顔で言うのだが、もちろんそんなはずもなく。
日本人は童顔だし、特に自分はなんだか年少に見られやすい。スリたちにナメられているのかもしれない。
マジメに、回覧板でも回してくれないかなーと、ジョーは思う。
 
古いクルマだが、さすがに整備はきっちりされている。
特に、昨夜はジョー自身も念入りにメンテナンスを施したのだ。町中でエンジントラブル…なんてことになったら、スリより面倒だし、何より自分たちの恥になるだろう。
 
海沿いの道をしばらくのんびり走り回ってから、ジェットに「坊や向けだ」と教わったカフェの前にクルマを停めた。路駐についてはあまり気にしなくていい、と教えてくれたのもジェット。
彼は時々とんでもない嘘を教えてジョーをからかうのだが、本当に大事なことははずさない。そういう意味では信頼できる先輩だった。
 
ジェットが絶品だと言った、なんとかモカ、という冷たい飲み物は、信じられないくらい甘かった。一口で顔をしかめ、ジョーは肩をすくめた。からかわれたのか、彼の味覚が自分とズレているのか…はよくわからない。
ぼんやり辺りを見回すと、一人の客は自分だけだった。
それ以上飲む気にならなかったので、ジョーはなんとなく客の会話に耳を傾けるのだった。
どうやら、映画祭の話題に夢中になっているらしい。
 
映画なんて、ほとんど見たことがないけれど…せっかくだから見にいってみようかな、と思いかけたものの、別の客の会話から、もう今日がその映画祭の最終日で作品の上映は全て終了、夜に各賞の発表イベントを残すのみとなっているらしいことを知り、ジョーはちょっと落胆した。
 
どうも、そういう巡り合わせなんだよな、僕は……
 
グラスの中身を大量に残したまま立ち上がろうとしたとき、物問いたげな心配そうなウェイトレスの視線に気付いた。ジョーは慌てて残りを一気飲みすると、そそくさと金を払い、店を出た。なんだか冷たさと甘さが頭の芯にまで届いたようで、くらくらする。
足早にクルマに向かい……ジョーはぎくり、と立ちすくんだ。
 
なんだ???
 
クルマの助手席で、少女が眠っている。
ジョーは思わず辺りを見回し、ちょっと気を取り直してから、念のためクルマの周りをぐるっと回ってみた。
間違いなく、自分が乗ってきて、ここに停めた会社のクルマだ。
 
少女は亜麻色の髪を二つに分け、三つ編みにして垂らしていた。何の飾りもない白いシャツブラウスにジーンズ。真新しい白いスニーカー。会社の誰かの妹かお嬢さんだろうか、と考えつつ、ジョーは首をひねった。
それにしては、こんな女の子は見たことがない…と思うのだった。
 
とにかく、起きてもらわなければ。
 
ようやく決心をして、ドアに手をかけたとき、ぱちっと少女が目を開いた。
大きな青い目だった。
 
あっけにとられるジョーをまじまじと見つめてから、彼女はにこっとはにかむように笑った。
ついつられて微笑してしまう。
わけがわからない。
 
「私、フランソワーズっていうの。あなたは?」
「僕は、ジョー」
「素敵な名前ね…このクルマ、あなたの?」
「いや…ウチの会社の」
「あら…!それじゃお仕事だったのね…ごめんなさい…!」
 
あわてておりようとする少女を、ジョーは咄嗟におさえた。
 
「仕事じゃないんだ。息抜きに走っていただけで…あのさ、どこか行きたいところがあるんだったら、ついでに送っていくけど…って、こんなクルマでよかったら」
「嬉しいわ…とても気持ちのいいクルマね」
 
少女がまたにこにこする。なんだか息苦しい気持ちになってきたジョーは急いで運転席に乗り込んだ。
ハンドルを握り、キーを回すと、ようやく少し落ち着いてきたような気がする。
 
「それじゃ…どこに行くんだい?」
「あなたが行きたいところ」
「…ええと」
「私も息抜きしているところなのよ」
「……」
「…ジョー?」
 
ジョーは深呼吸してから言った。
 
「その…さ。僕は、この国によく慣れていないんだけど…」
「まあ、外国の方なのね?どちらからいらしたの?」
「日本」
「日本…!知ってるわ!」
「…ええと。それで、だから、つまり…こういうとき、このまま君を連れてっちゃって、いいものなのかな?」
「…え?」
 
心底いぶかしそうに見つめる澄んだ瞳に、ジョーはそれ以上言葉を繋ぐことができなかった。
 
わけがわからないけど…怪しいといえばこれ以上怪しいことってないような気もするけど……
でも、大丈夫だろう、たぶん。
この子は悪い子じゃなさそうだ。全然。
 
何の根拠もなかったが、ジョーは無理矢理そう思いこむことにした。
 
「それじゃ、行くよ…うーんと、僕は買い物するつもりだったんだけど」
「わかったわ、つきあう」
「面白い買い物じゃないよ?クルマの整備に使うものをいろいろと…」
「そういうのって、私初めて…!楽しみだわ」
 
まあ、いいや!
 
ジョーはギアを入れ、アクセルを踏んだ。
 
少なくとも、スリじゃなさそうだしな、この子。
 
 
 
一緒に連れてはきたものの、やはりどう考えても女の子の喜びそうな店ではない。
店内に入るなり、ジョーはひそかに後悔した。
が、フランソワーズは目を輝かせて、ずらっと並んだエンジンオイルの缶やらタイヤやらワックスやら工具やらを見回している。たしかに、もの珍しいには違いない。
 
「ねえ、ジョー?」
「…へっ?」
 
ジョーは驚いて振り返った。彼女が楽しそうにしているので、つい安心して、自分の買い物に没頭していたのだった。
大きな青い目がじーっとのぞき込むように見つめている。
 
「ジョーは、クルマの整備をする人なの?」
「…うん…まあ…」
 
何となく言葉を濁す。
そうといえばそうだけど、ちょっと違う。
が、どう違うのかをこの見ず知らずの異国の少女に丁寧に話すのは気後れがした。
 
「それは、責任の重い仕事ね」
「え」
「そうでしょう…あなたの仕事には、クルマに乗る人の命がかかっているんですもの」
「……」
 
咄嗟に返事ができない。
昨日、同じコトを言われ、怒鳴られ、頬を張られたばかりだ。
とはいえ、ジョーが仕事に手抜きをしていたわけではない。ミスをしたわけでもない。命じられたことについて、ふと疑問に思ったことを口に出しただけだ。
 
あの主任、オマエが嫌いなんだよ、と、ジェットはつまらなそうに言った。
 
ジョーを殴った主任は、整備工場の古株という男だった。若い頃は、それなりの野心も持っていたらしい…という噂も聞く。
つまりは、嫉妬だろう、とジョーはジェットの言葉から何となく理解した。
不愉快ではあるが、仕方のないことだ…と思う。たしかに、子供のように見える自分は、彼の神経を逆撫でするのかもしれない。彼は、かつて見た夢に向かっている異国の少年によって、否応なしに敗残者である自分の惨めさを思い知らされているのだろう。
 
…の、だろう…か?
 
まっすぐに見つめるフランソワーズの目は生き生きと澄んで、美しかった。
彼女は心からジョーの「仕事」に感嘆し、それを賞賛しているように見える。
何となく居心地の悪い気分になってきて、ジョーは口早に言った。
 
「そんなもんじゃない。僕は…僕なんか、全然。まだ……半人前で。ちゃんとした仕事なんて、できたことがないんだ」
 
それなのに、口ばっかり生意気で。
だから、あの人は怒ったのかもしれない。
 
フランソワーズはけげんそうに見つめていたが、やがてにっこり微笑んだ。
 
「私もね、まだまだ半人前なのよ」
「君って……学生じゃないの?」
「ふふっ、やっぱり子供に見られちゃうのね…でも私、きっとあなたよりずうっとお姉さんよ?」
「そう…かなあ…」
 
女性の年齢についてあれこれ言うべきではないことぐらい、ジョーも理解している。
相手がもしかしたら自分より年上の女性かもしれないのだとしたら、なおさらのこと。
ジョーは、さりげなく話題を変えようとした。
 
「じゃ、さ…君の仕事って何?」
「何に見える?」
「…わからないから聞いてるんだよ」
「わからない、かぁ……」
 
フランソワーズは不思議な微笑を浮かべた。
思わずどきり、として、ジョーはふと顔を背けた。
 
「きっと、半人前だから、わからないのね!」
 
歌うように言うと、彼女はいきなりジョーの左腕にぶらさがった。
ぎょっと身を引こうとしたはずみで、右手に抱えた荷物を落としそうになり、ジョーは慌てた。
 
「こ、これで…買い物は終わりだ」
「そう…?」
「お金、払ってくる…ちょっと放して」
「…はい」
 
フランソワーズは素直にジョーから離れ、こっそり肩をすくめた。
 
 
 
「とにかく、二人でココにいても仕方ない…僕は、フランソワーズを探してくるよ」
「しかし」
「君は…その、きっといろいろ忙しくなる…だろう?」
 
気遣うような視線に、アルベルトは唇をゆがめた。
 
「探しても、無駄だ。アイツは多分、かなり念入りに準備していたんだろうから…な」
「それはそうだろうけど…でも、じっとしているのも性に合わないからね…そういう仕事だし」
「待て、ピュンマ、オマエまさか…!」
「まさか…ってなんだよ、アルベルト・ハインリヒ?君はまさか、僕が妹同然の幼なじみを売って手柄を立てようとする屑野郎だと思ってるのか?」
「……いや。すまん」
「ま、そう思われても仕方ないけどね…最近の僕ときたら…!」
「ピュンマ…俺は」
「冗談だよ、アルベルト…たしかにちょっとフランソワーズには会わないようにしてたんだけど…ぜーったい嫌味を言われるに決まってる」
「あいつは……わかってる。わかっているさ、ピュンマ」
「……うん。もちろん」
 
ピュンマは穏やかに微笑し、軽く手を振ると、部屋を駆け出していった。
足音ひとつ立てず、風のように。
 
妹同然の幼なじみ……か。
 
アルベルトは首にかけたロケットをひっぱりだし、ぱちん、と蓋を弾いた。
微笑む写真の女性につぶやきかける。
 
「ヒルダ…俺は、間違っているか…?」
 
返事はない。
 
「たしかに、彼女は若い。若すぎるかもしれない…が、彼女には天分がある。ただの女優じゃなく、人を幸せな気持ちにすることのできる…何かが。だから、俺は……」
 
早く、この少女を世に出したかった。
出さなければならないと、アルベルトは思った。
そして、その直感どおり、フランソワーズは出る舞台ごとに人々に愛され、必要とされていった。あっという間に映画出演のオファーが殺到した。
 
映画には、力がある。
アルベルトはそう信じている。
 
人は、もしかしたら戦わずにはいられない生き物なのかもしれない。
ヒルダを…彼の恋人を永遠に奪ったのは、文字通り、隣人同士が殺し合った内戦だった。
どうしようもない、人間と人間の間に生まれる憎しみ。
 
だが…
人は、人を愛することもできる。
その姿に、心を一つにして感動することができる。
そう信じて、アルベルトはヒルダとともに映画の世界に身を投じていたのだった。
そして、彼女を失い、放心の彼の前に現れたのが、フランソワーズ・アルヌールだった。
 
青い瞳に希望の光を強く湛え、微笑む少女。
この天使のような笑顔を、凛と澄んだ声を、世界の隅々にまで届けたい、とアルベルトは心から願った。
 
それは儚い光にすぎないかもしれない…が、どんなに小さくとも、たしかに闇を照らす光であるならば。
それなら…それこそが、俺がこの命を賭けて成し遂げるべき、生涯の仕事となるだろう。
 
アルベルトは、寝食を忘れてフランソワーズ・アルヌールのプロデュースに打ち込んだ。
彼の思いを、フランソワーズも理解していた。
それは、私には重すぎる仕事だわ、と時につぶやきながらも、彼女は映画の世界を作り上げることを心から愛していた……はずだった。
しかし。
 
「彼女は、まだ17才。そうだった…そうだよな、ヒルダ……俺は…」
 
アルベルトは唇を噛み、うつむいていた…が、やがてゆっくりと顔を上げた。
ぼやぼやしてはいられない。
フランソワーズ・アルヌールは、この映画祭の主演女優賞最有力候補としてノミネートされている。
今夜の受賞式までに彼女が戻ってくることは間違いない。それについて、アルベルトは彼女を塵ほども疑っていなかった。むしろ、だからこそ彼女は逃げたのだ。ひととき、ほんのひとときの自由を求めて。
 
彼女が戻るまで、マスコミにそれと悟らせないようにする。
それが、自分の使命だと、アルベルトは決意していた。
 
俺には、それぐらいしかしてやれることがない、フランソワーズ。
今夜かぎりで、お前はお前だけのものでなくなるだろう…永遠に。
だから……せめて。
 
 
 
あの一番先まで行きたい、というフランソワーズに引きずられるようにして、ジョーは波打ち際の岩場をひょいひょいと歩いていた。かなり足場は危ないのだが、彼女には手を貸す必要もない。何かスポーツでもしている子なのかな、とジョーはふと思った。
 
「きれいー!」
 
いきなりフランソワーズが叫んだ。「一番先」にたどり着いたのだった。
追いついたジョーも、目の前に広がる海の青さに思わず目を細めた。
 
「すごいなあ…!」
「ジョー、あなたは、日本の人なんでしょう?」
「…うん」
「日本は海に囲まれている国だって聞いたわ」
「そうだよ。でも……海って、こんなにきれいなものだったなんて、知らなかった」
「私も!…こんなにきれいなものが、この世界にはあるのね…」
 
夢見るような口調に、ジョーはちらっとフランソワーズを見やり、思わず息をのんだ。
バラ色の頬。深く澄んだ瞳。風に揺れる亜麻色の髪。
 
こんな、きれいなものが。
この、世界には。
 
ぼんやり心で繰り返すジョーに、フランソワーズはけげんそうなまなざしを向けた。
 
「ジョーは、そう思わない?」
「……うん」
 
やっとの思いでなんとかうなずく。
フランソワーズは嬉しそうに微笑した。
 
「来てよかった…!ずいぶん元気が出たわ」
「…元気…?」
「ええ。私、少し…弱気になっていたの。今、私がしていること…こんなことが何になるのかしら…って」
「君、何か、難しいことをしているの?」
「いいえ。それに、何より大好きなことをしているのよ。だから、何でもないはずだったのに…」
「何より大好きなこと、か…僕もそうだ」
「ジョーも?」
「うん…でも、そうだな、やっぱり迷うことはある。こんなことをして、何になるんだろう…って」
「……ええ」
「今も、そう思った」
「え?」
 
ジョーははにかむように笑い、空を見上げた。
 
「僕には、どうしてもやりたいことがある。だから、いろんなことを犠牲にしてきた。捨ててきたんだ。そうしなければ、前に進めなかったから」
「……」
「でも…そうやって、僕は…きっと、大切なものまで捨ててきた。僕のやりたいことなんて…それに比べたら、そんなに価値があることじゃないのかもしれない」
「…そんな」
「そうさ。もっと大切な…素晴らしいものが、きっとたくさんある。この世界には」
 
たとえば、今の君のように。
 
そう、こっそり心で付け加え、ジョーは口をつぐんだ。
 
「やっぱり…いろいろなことを…犠牲にしなければならないのね…」
「フランソワーズ?」
「わかってる…それは、こわくない…でも、私は…」
「…君にも、やりたいことがあるの…?どんな?」
 
真剣なまなざしに引かれるように、フランソワーズは小さく言った。
 
「世界が平和になって、世界中の人たちが幸せになれるように…そのために…」
「…え?」
 
あっけにとられて見つめているジョーに、フランソワーズははっと口をつぐみ、みるみる頬を染めた。
 
「ごめんなさい…笑わないで…!こんなこと、言うつもりじゃなかったのに…」
「世界が…平和に…?」
「…ジョー」
「……そうか」
 
ジョーはふと微笑んだ。
泣き出しそうなフランソワーズの両肩にそっと手を置き、そのまま胸に抱き寄せる。
初めて会った女の子にこんな大胆なことが出来る自分に驚きながらも、そうせずにはいられなかった。
ジョーは低く言った。
 
「君が言うと、本当になるような気がする」
「…ジョー?」
「そうなるよ、きっと……だから、がんばって」
「……」
「やっぱり…僕の夢なんて、ちっぽけだな…なんだか、恥ずかしい」
「…ジョー」
 
フランソワーズは素早く涙を指ではらい、笑った。
 
「ジョーの夢…って、何?教えて」
「ダメだよ…恥ずかしいから」
「そんなの、ずるいわ」
「ずるくない……あ!」
「…え?」
 
ジョーの視線につられて振り返ったフランソワーズは目を大きく見開いた。
いつのまにか、潮が上がり、通ってきた岩場が波の下になろうとしている。
 
「大変だ、戻らなきゃ…」
「え、ええ」
 
今度はジョーが前に立った。
潮はぐんぐん上がってくる。
フランソワーズが泳げるのかどうかはわからなかったけれど、泳げたとしても、水着を着ているわけでもないのに、海水でびしょぬれになってしまうのは困るだろう。
ジョーは素早く岩から岩へととび移っていった。
 
「よし!」
 
最後の岩を蹴り、どうにか波が来ないところまで戻ってから振り返ると、フランソワーズが低い岩の上で立ちすくんでいた。
 
「どうした?」
 
慌てて駆け戻る。
フランソワーズは途方にくれた表情でジョーを見上げた。
あっという間に潮が上がり、つい今し方ジョーが足場にした岩が既に沈んでしまっている。
が、ジョーは迷わなかった。
 
「ここまで、跳ぶんだ、フランソワーズ」
「…え!」
「跳べるよ…君だったら」
「でも…」
「大丈夫、その格好なら…思い切り岩を蹴って…早く!」
「でも、ジョー!」
「着地のことは心配するな、僕がつかまえるから…!早くしないとずぶぬれになる!」
「……」
 
フランソワーズは怯えた目で岩場を見下ろし、波を振り返り…そして、ジョーを見上げた。
それに応え、力づけるようにうなずきかけた瞬間、白いスニーカーが、とん、と岩を蹴った。
 
「きゃあっ!」
「…っ!」
 
飛び移ろうとした岩に、フランソワーズの足はわずかに届かなかった。
そのまま岩から滑り落ちそうになった彼女を、ジョーは素早く支え、引っ張り上げながら抱きかかえた。
 
「もう、大丈夫…」
「…ええ」
 
微かに震えるフランソワーズを、ジョーがもう一度しっかり抱き寄せたときだった。
背後で、鋭いクラクションが鳴った。
フランソワーズはぱっと顔を上げ、ジョーの肩越しにそのクルマを見つめた。
 
「…どうした?」
「…ジョー」
 
フランソワーズは目を閉じ、ジョーの胸にぎゅっと額を押しつけた。
 
「私を…覚えていて」
「フランソワーズ?」
「今日の私を。ただの女の子だったフランソワーズを、あなたは覚えていて」
「何を…言ってるんだ?」
「ごめんなさい、ジョー…もう会えないわ」
「フランソワーズ、いったい…?」
「ううん…あなたにだけじゃない…私は、もう誰にも会えない…私自身にも…だから、お願い…私を覚えていて!」
 
驚くジョーの胸を突き放すようにして離れ、フランソワーズは道路へと駆け上がっていった。
何も考えられないまま、ジョーは彼女の後を追った。
 
「待て、フランソワーズ…待てよっ!」
 
クラクションを鳴らした高級車に、彼女は飛び乗った。
追いついたジョーが、閉まりかけたドアを力任せにとどめようとしたときだった。後ろからいきなり羽交い締めにされた。
 
「な…!離せっ!なんだ、お前っ?」
「それはこっちのセリフだと思うんだけどな、坊や」
「やめて、ピュンマ!その人は何も知らないの!」
「まあ、そう…だろうね」
「…っ!」
 
道路に叩き付けられ、転がりながら、ジョーは自分を見下ろしている黒い肌の青年を、火のような視線でにらみつけた。
 
「…どうやら、かなり迷惑をかけたらしいね…すまない。で、すまないついでに申し訳ないが、今日この子に出会ったことは、忘れてくれないか?」
「イヤだ…!」
「うーん。だったら…そうだな、今日この子に出会ったことについては誰にも言わないと…約束してほしい。それならどうだい?」
「……」
「フランソワーズ、それでいいだろう?」
 
微かにうなずく気配がクルマの中でした。
ジョーは唇を噛み、立ち上がった。
 
「誰にも…言わない。言えるような話じゃない…アンタにだってな!」
「…そう、か。感謝する」
 
青年はジョーに右手を差し出し、黙殺され…息をつくと、無言のまま運転席に乗り込んだ。
やがて、クルマが走り去り、ジョーはのろのろと振り返った。そのまま海岸の駐車場に戻ろうとして、彼はふと足元に落ちている紙片に気付いた。青年が落としていったものに違いない。
 
それは、一枚の名刺だった。
 
 
 
「前々から聞きたいと思っていたんだが……」
「なんだい?」
 
ピュンマは振り返り、ネクタイをぐいぐい緩めているアルベルトにおどけてカメラを向けた。不機嫌そうにそれを手ではらいながら、アルベルトは言った。
 
「そもそも、だ。なんで、あの坊やは…お前に連絡ができたんだ?」
「ああ。あの『映画祭脱走事件』のとき、僕が彼の前に名刺を…落としちゃってね、それでアシがついた」
「…名刺?」
「そうさ。あのぼんやりしたジョーでも、さすがに映画祭で彼女が主演女優賞をとった…のには気付いたらしくてさ…それから2ヶ月ぐらいたってからかな、初めて僕に会いたい、と言ってきたのは」
「…そんな、昔の話なのか?」
「うん。彼はさ、なんていうんだろう…一種の修行みたいな感じだったようだね、あの会社でクルマの整備やら何やらの『勉強』に来てたんだ。それが終わって日本に帰るときになって、思い切って連絡してきたらしい」
「会って…どうしんたんだ?まさか、お前、彼女をアイツに会わせたり……」
「するわけないだろ…ってか、できるわけないじゃないか、特にあの頃は。それに、そういう話なら断っていたさ…そうだな、何をしたってわけじゃない、ただ会って、仕事やら何やらの話をしただけさ。そういえば、彼はあのとき何がしたかったのかな?」
「お前こそ、何がしたかったんだ?名刺を落とした…だと?ふざけるな」
 
ピュンマは肩をすくめ、君にはかなわないな…と苦笑した。
 
「記者の直感…ってヤツ?ちょっと、感じたモノがあったんだよ、彼から…それに、彼が使っていた、あの会社のクルマ…あんな子供みたいな東洋人が、なんでアレに乗ってるんだろう…って、咄嗟に思ってね」
「……待て、お前…」
「スクープを狙うには、待ってるだけじゃダメってことさ…まあ、ちょっとした種まき…ってとこかな?こんなにうまくいくことは滅多にないけどね」
「呆れた奴だな…!」
「もっとも、こんなに時間がかかるなんて、予想外だったけど…僕は、ジョーがF1レーサーとしてデビューしたとき…ではないにしても、遅くとも初優勝したときには何か言ってくると思ってたんだけどなあ…」
「ふん…まあ、その分ゆっくり準備ができたんだ…ったく、これでようやく…」
「肩の荷がおりた…かい?」
「まあ、な」
 
楽しそうに笑いながらも、ピュンマは荷造りの手を休めない。そんな彼をじっと見つめながら、アルベルトはぽつりと言った。
 
「今度は…ムアンバ、だってな」
「…ああ」
「メタルX…か?」
「そんなところかな」
「……死ぬなよ」
 
ふと顔を上げ、ピュンマはアルベルトの目を見つめ、微笑した。
 
「君が言うとすごみがあるな、そのセリフ」
「冗談で言ってるわけじゃない」
「わかってる…おかげさまで、ジョーからも軍資金をたっぷりもらったしね…無理はしないよ。死んだら、元も子もない。焦ったりしないさ」
「…なら、いいが」
「人々に真実を伝えることが、平和を築く力になることもある。それが、僕の戦い方だ」
「そうだったな」
「ハネムーンの見送りには行けないけど…二人によろしく伝えてくれ」
「…ああ」
 
ハネムーン…か。
 
アルベルトはひそかにつぶやいた。
 
ありゃ、旅行じゃない、移動だ。
新婚早々、たった3日で離ればなれになるとは……な。
 
だが、これ以上のスケジュール調整は不可能だった。
悪いな、フランソワーズ。
お前はお前だけのモノじゃない。それは、ジョーも同じことかもしれないが。
それでも。
 
それでも、お前たちは…きっと。
 
 
 
「見て、ジョー…!なんてきれいな夕焼けなんでしょう…!」
「…本当だ」
「こんなきれいな海、初めて見たわ…」
「僕は、二回目かな」
 
フランソワーズは目を丸くして、ジョーを振り返り、くすくす笑った。
 
「意地悪ね」
「え?…なんで?」
「ねえ、ジョー…私…変わった?あの時の私の方が、あなたは好き…?」
 
そういうことか、とジョーは苦笑し、フランソワーズをそっと抱き寄せた。
 
「君は…君だよ、フランソワーズ。約束したじゃないか」
「…ジョー」
「僕は…君を忘れていない。君は、君のままだ…そうでなかったら」
 
ジョーは不意に口をつぐんだ。もの問いたげに見つめるフランソワーズから視線をそらし、小さく息をつく。
 
「…ジョー?」
「そうでなかったら…こうして、君に触れることなんて…とても」
「…それは…私も同じことなのに…」
「フランソワーズ」
「色々な人がこっそり言っているわ…F1のトップレーサーと大女優…二人きりですごせる日なんて、一年に数えるほどしかない…こんな結婚、もつはずない…って」
「言いたいヤツには言わせておけばいいよ…それに、ホントのことは誰にも言わない…って約束したんだし…ね」
「まあ…誰と?」
「ピュンマさ……忘れちゃった?」
「…ジョーったら…!」
 
甘えるように寄り添うフランソワーズを強く抱きしめ、ジョーは目を閉じた。
 
忘れない…そうじゃない、忘れられなかったんだ。
君の前では、僕はあの頃と同じ、何の力もない少年のような気がするよ。
…でも。
 
それでも、僕は君を忘れられなかった。諦めることができなかった。
僕の本当の夢は、レーサーになることじゃなかった、君を抱きしめること。
君の…すべてを。
 
それは、果たせない夢だとわかってる。
君はすべてを僕に与えて、それですむ人じゃない。
君を待ってる人が、世界中にいる。
 
でも、そんな君だから…だから、僕は。
 
「…ジョー」
「…なんだい?」
「もう一度…私を…私に戻して」
「フランソワーズ」
「だって…明日になれば、もう……」
 
ジョーは涙ぐむフランソワーズの言葉を唇で塞いだ。
そのまま彼女をそっとベッドに抱き下ろし、窓のカーテンを引く。
 
 
僕だけが知っている、本当の君。
君だけが知っている、本当の僕。
 
僕たちは、忘れないように…忘れないように、生きていこう。
どんな困難に遭ったときも。
夢破れ、絶望に沈んだときも。
 
君が忘れても…僕が覚えているよ、本当の君を。
だから…恐れないで、フランソワーズ。
 
僕が初めて、世界の美しさを知った…あの日。
あの日、君と約束したように、僕は守っていこう。
この美しさと…それから君と。
命が続く限り、僕は守る。
 
だから、何も恐れないで、フランソワーズ。
 
僕たちは…ずっとそうやって、生きていくのだから。
どこまでも二人で、生きていくのだから。