息子は、まっすぐ育った……と思う。
どう見ても普通ではない家族を素直に愛し、受け入れ、巣立っていった。
その彼が、間もなくここに戻るという。
僕から、この研究所を本格的に受け継ぐために。
誰よりもそれを喜びながら、不安をも隠せなかったのが、フランソワーズだ。
あの子にその義務はない、と彼女は何度も首を振った。
「私のためなら……考え直さなければいけないわ。ジョー、そう言ってあげて」
「言ったよ、もちろん。……フランソワーズ、彼はもう大人なんだ。十分すぎるぐらいに」
「……」
「どうした……?」
「でも……あの子はそれでよくても。お嫁さんは……」
僕は思わず吹き出してしまった。
まったく、君って人は……!
「まだ懲りていないのか?……そんな心配は必要ない。あのときのように、どうせ、彼は君の言うことなんか聞かないよ」
「まあ!……そうとは限らなくてよ。あの子はあなたとは違うかもしれないわ!」
「うん。違ってくれないと……困るな」
「……ジョー」
「アイツには、諦めてもらわないと。……それに、何といっても本当の母親だからね、君は」
僕は、あの頃と同じ……少女のようにしか見えない彼女の亜麻色の髪をそっとなでつけてやった。
フランソワーズは、もう歩くことがほとんどできなくなっている。
もちろん、人工皮膚も人工筋肉も、交換さえすれば衰えることはない。
衰えたのは、それを動かし、調整する生体機能の方だ。
イワンと僕とで、バランスを何度も調整し、年齢相応の動きがスムーズにできるようにメンテナンスを繰り返した。
しかし、それも限界に近づいている。
僕は、彼女に付き添い「介護」をしているわけだが……そういう僕自身にこそ、端から見れば介護が必要な年齢だ。
イワンやおじさんたちがいなければ、たぶんどうにもならなかっただろう。
今、僕たちは……一人暮らしの偏屈な元科学者と、体の弱い孫娘、ということにでもなるだろうか。
そこに、彼女の兄である優秀な孫が帰ってくるのだ。
なるほど、無理のないシナリオに見える。
僕たちは、結局研究所の場所を変えなかった。
変える必要がなかったのだ。
アルベルトおじさん流に言えば、まず第一に何者かによって破壊されたりしなかったから……だが。
もうひとつ。
僕たちが動かなくても、周囲がめまぐるしく動いていったのだ。
たとえば、あの頃……僕がフランソワーズを妻とした頃のことを知っている人間など、この近辺にはいない。
まして、彼女が子供の僕を育てていた頃までさかのぼれば、何をかいわんや、だ。
思えば彼女は僕や息子のために、小学校に保護者として何度も顔を出していたし、知り合いも少なくなかったはずだ。
……それでも。
そういうものアルね、と、張大人はくすくす笑った。
それを言うなら、私だって、まだ同じところで店やってるアル!
年取らないね、大将……なんて、ノンキに言うお客さんばかりアルよ。
そういうもの、なのかもしれない。
フランソワーズは009に出会った頃、自分を「おばあちゃん」とよく自嘲したのだというけれど。
たしかに、それは間違っていなかっただろうけれど。
その後の二人……僕も含めて考えれば、そんなことは問題にもならない小さなことだった。
あの頃のフランソワーズに、君は80年後にはこうなっているんだよと説明しても聞いてはもらえなかっただろうけれど。
サイボーグ。
オヤジ……009には、ほんのわずかな時間と気が遠くなるような凄まじい力が渡されていた。
その全てで戦い抜いた彼が守ったものは、たしかに大きい。
でも、決してこの世の全てではない。
もしも、彼が生きていたら……彼は、今でも戦っていたのだろうか?
そして、その傍らに、003もいたのだろうか?
たぶん、そうしていただろう。
戦い続ける彼らに、子供を産み育てるヒマなどなかったはずだし。
それに、子供を産み育てさえしなければ……たぶん、003もここまで衰弱はしていなかった。
他のサイボーグたち……おじさんたちは、あの頃とほとんど何も変わっていないのだ。
息子は、10月になったら帰るということになった。
それなら……と、おじさんたちも久しぶりに集まるのだという。
9月29日……オヤジの命日に。
その日は、誰も知らない僕とフランソワーズの記念日でもある。
ふと思いついて数えてみたら、あれから55年……だった。
ちょっときりがいいというか、面白い数字だな……と思い、調べてみると、55年目の結婚記念日をエメラルド婚式、というのだという。
金婚式、というのは聞いたことがあったが。
いかにも宝飾業界の苦し紛れ、という感じがして、思わず失笑した……が。
――エメラルド。
不意に、フランソワーズの碧の瞳が僕の脳裡をよぎった。
それは、美しく堅く……しかし、内部に無数の傷を持つ、壊れやすい石なのだという。
僕は、その日のうちにピュンマおじさんにメールを送った。
もちろん、可能な限り美しく彼女にふさわしいその宝石を探してもらうためだ。
おじさんは相当苦心したらしい。
何につけても仕事の早い彼が、それを研究所へ届けてくれたのは、依頼してから数ヶ月後、もう9月も下旬に入ってからのことだった。
僕が恭しくその美しい指輪をフランソワーズの左の薬指に嵌めてやると、彼女は少女のように……まさしく少女なのだが……頬を染め、涙ぐんだ。
「ありがとう、ジョー……とてもきれいね」
「やることが遅くて、本当にごめん。僕はいつも君を待たせてばかりだ」
「いいえ……それに、今度は私があなたを待たせる番だもの」
「……フランソワーズ」
「この指輪……あの子にあげてね。いつか、あの子にお嫁さんがきてくれたら」
「僕にその約束はできない……そうだな、イワンに頼んでみればいい」
「ジョー……」
「僕は、そんなに待てないから」
「ジョー、でも……」
僕はそっとフランソワーズを抱き寄せ、囁くように言った。
「わかってる……ちゃんと君を見送るよ。心配しないで」
「……」
「僕は、そのために生まれたんだ」
「ありがとう、ジョー……ごめんなさい」
その日は、きっと近い。
もしかしたら、息子は……間に合わないかもしれない。
でも、その方がいい。
僕は、その日を君と二人だけで迎えたい。
最近、夢を見るようになった。
ずっと昔……聞こえていた、あの若者の声。
中学生の頃。
ギルモア博士から母の形見だと渡された黄色い長い布は……009たちの戦闘コスチュームだったのだそうだ。
夢に出てくる若者は、それではなく、黒みを帯びた赤い布を風にたなびかせていた。
若者は、もう僕に語りかけはしない。
彼が時に血を吐くように繰り返し呼んでいるのは、たぶん……003だ。
君たちは、どこかで幸せになっていたのではないのか?
君たちは、まだどこかで戦い続けているのか?
それとも……それこそが、君たちの幸せだというのか?
夢から覚め、僕はぼんやりと身を起こし……静かな寝息を立てるフランソワーズの頬にそっと触れ……その白い手をとった。
指に輝く緑色の宝石。
君はまもなく消えるだろう。
僕に、この形見を残して。
その日を畏れていないといえば、嘘になる。
でも、僕は逃げたりしない。
ささやかではあるけれど、それが僕の戦いだと思うから。
フランソワーズ。
君は、かつて僕を失った……そして、僕も、君を失った。
でも、僕たちはまた出会えたんだ。
何度別れようと、僕たちはまた巡り会う。
彼らだって、きっとそれを知っている。
だから……戦えるんだ。
今はゆっくりおやすみ、フランソワーズ。
そして、ほんの少し眠ったらまた会おう。
また……僕たちは。
――いつまでも。
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