思えば、平穏な日々だった。
それは、破れて初めてわかることで……なんて、前アルベルトおじさんが言っていたことがあるかもしれない。
フランソワーズが、倒れた。
ちょうどジェロニモおじさんがいてくれて、おかげで、彼女をメンテナンスルームへすぐ運び込むことができた。
とはいっても、彼女は地下への階段を降り始めるかどうかというところで意識を取り戻し、大丈夫、とか言うのだった。
「ごめんなさい……貧血かしら」
「サイボーグが、貧血?」
苛立ちがそのまま声に出てしまった。
案の定、フランソワーズは恨めしそうに僕を見上げ、意地悪ね、と言う。
ホントに意地悪しているように見えてしまうだろう。
彼女は今でも少女のままの姿だが……僕は40才になろうとしている。
意地悪、というか。
下手をするとセクハラとかパワハラとかだ。
フランソワーズは、今では僕の「助手」ということになっている。表向きは。
とにかく彼女を寝かせ、モニターをつないでみた。
メカの異常は、ない。
まさか貧血ではないだろうけれど、いずれにしても生体部分の問題か。
「年かしら……?」
首をかしげ、のんびりつぶやいている彼女に思わず溜息が出そうになった。
しかし、情けないが、僕の手に負えない……という予感がすることも確かだ。
「しかたない……博士にお願いしてみよう」
「え?!でも……」
「大丈夫、ここのところお元気そうだし」
ギルモア博士は彼女のいうところの「年」のためだろう、最近ではめったにメンテナンスルームに足を踏み入れることはない。
技術的なことはオマエに任せた、とおっしゃってずいぶんたつが、サイボーグについての知識や思想の深さについては僕など彼の足元にも及ばない。
少なくとも、フランソワーズがこんな風になったことは、僕の記憶にない。
初めてのトラブルなら、博士の助力は是非ほしいところだ。
「たしかにあまり煩わせてしまうのは申し訳ないけれど……そういえば博士って、おいくつになられるんだろうな?」
「さあ……私と同じぐらいなのは確かよ」
「……フランソワーズ」
それって、何の意味もない情報だよね。
いや、凄い意味があるかもしれないけど、そこは考えたくない。
完全にアタマを抱えた僕に、フランソワーズはあら、と肩をすくめた。
博士は20才ぐらいは一気に若返ったような勢いでフランソワーズを診察してくれた。
が、やはりわからない……と言うのだった。
フランソワーズの不調はその間にも断続的に続いた。
「わからないなぁ……今日も気分が悪い、って、何も食べていないんです。とりあえず点滴はしておいたけれど……」
「大人のおかゆもダメだった……んじゃな?」
「ええ。というか、基本、水もダメなんですよね……もっとも、それでいてヘンなモノを食べたがったり……発熱しているわけではないんですが、頭痛もひどいみたいです……まるで、つわりだなぁ…?」
「……な、んじゃと、ジョー?」
「え?」
『まぁ、そういうことだね……おめでとう、ジョー』
「な、なんとっ?!本当かね、イワン?」
「本当って……何が、ですか?」
『つわり。……フランソワーズは、妊娠しているってこと。覚え、あるでしょ?』
それから僕が、たっぷり1分間はぼーっと突っ立っていたと、イワンは言うのだった。
そんなはずないだろうとは思うけれど。
サイボーグが妊娠するんですか、と慌てる僕に、博士は、サイボーグについてははっきり言えないが、フランソワーズが妊娠していることはたしかだ、と生真面目に答えた。
別に僕を煙に巻くつもりではなくて、博士はそういう人なのだ。
「うーむ。たしかに、想定はしておらなんだが……」
「それはつまり、彼女はもともと戦闘サイボーグだから、想定する意味がほぼなかったってことですよね?」
「そういうことじゃの。生殖器については、いろいろな意味で、除去するとリスクが高いと考えられたからできる限り残しただけで、特に目的があったわけではない」
――できる限り。
僕の脳裡に咄嗟に浮かんだのは、何度も見た009……オヤジの設計図だった。
ぎっしりと埋め込まれたパーツ。
そのどの隙間に生殖器があったのか……考えてみたことはないが、なぜ考えてみなかったのだろう。
フランソワーズについては、隙間は十分あった。
生殖のための機能はかなりシッカリ残っている……というのだが。
「まあ、わからないことだらけじゃの……どうなるのか、やってみないことには……」
「そんな、無茶苦茶な……!」
「しかし、中絶はできんじゃろう?……あの子は承知せんよ」
「……」
たしかに、そうだった。
それからの数ヶ月間……文字通り、僕たちは息を詰めるようにして過ごした。
フランソワーズの体調がいつ変わるかわからない。
限界は、くるのか……それとも。
不安の中で僕たちにできることは、せいぜい超未熟児用の保育器をメンテナンス室に備え、更にそれに改良を加えていくことだけだった。
そんな中、もしかしたらフランソワーズだけは比較的のんびりしていたのかもしれない。
それでよかったのだけど。
彼女は口癖のように「大丈夫よ」と言っていた。
そして、その通りになったのだ。
「普通の」場合なら、と算出した出産予定日に、きっちり陣痛がきて。
大慌てに慌てた僕たちに囲まれて、フランソワーズはあくまで気丈に振る舞い……そして。
男の子が、生まれた。
名前は……さすがに、ジョーはやめよう、と誰もが思った。
栗色の髪と赤褐色の瞳の赤ん坊。
駆けつけたおじさんたちは、口を揃えて「ジョーに生き写しだ」と言った。
たぶん、僕ではなくオヤジの方だ。
「母親がフランソワーズだからか?全体に、色素が薄いな」
「うん。ジョーがちょうどこんな感じだったよね。そもそも彼の孫なんだから、似ていて当たり前なんだけど」
「そりゃそうだが……ジョーの方がなんだ、血は濃いはずなんだが、こう見てると、むしろそれよりも……」
「まあ、ジョーだってかなり似てたからね」
「なんか、ややこしいアルな?」
――まったくだ。
「そうねえ……私、よく自分は009のおばあちゃんみたいなモノだって思っていたけれど……孫の孫を産んでしまったんだわ」
「あのね、フランソワーズ」
「長生きしてよかった」
「……う」
そう言われてしまったら、そして幸せそうに微笑まれてしまったら、僕としては何も言えない。
僕にしたって、世間の感覚で言えば、かなり年を取ってから初めて……それも、最愛の妻との間に子供を授かったのだ。幸せでないはずもない。
それでも、このむやみに幸せそうなサイボーグたちの中にいると、なんだかそういうことが全て後回しになってしまうのだ。
そして、もしかすると誰よりも幸せそうだったのは……おじいちゃま……ギルモア博士だったかもしれない。
文字取り、涙を流して赤ん坊の誕生を喜んだ博士は、それから間もなく静かに世を去った。
最後の、人生で最も貴く美しい仕事を成し遂げることができたと微笑んで。
この奇跡……フランソワーズの出産は、僕とイワンにいろいろと興味深いデータを残すことになった。
たとえば、サイボーグの老化について。
フランソワーズは少なくとも、子供を産むことができるだけの体だった。
と、いうことは、彼女の生体部分はまだ衰えていない、そこに流れる時間は極めて緩やかだったということだ。
一方で、彼女は普通の女性と同じ妊娠期間を経て出産した。
しかし、これについては、育ったのは受精卵……別の個体だから、あまり参考にならない、とイワンは言う。
『全てのヒントになるのは受胎までにかかった時間だ……君も彼女も生殖能力そのものに問題はなかったのなら、ちょっと時間がかかりすぎている』
「たしかに………ね。排卵にかかる時間が彼女の場合普通ではなかったということか」
『たぶん、2人目はないな……君がもたない。一人息子になるよ。大事に育てたまえ』
「言われるまでもないよ、イワン。第一、もともと子供ってそういうものだろう?代わりなんかいない」
彼女がサイボーグにされたのは19才の頃だという。
そこから考えれば……いや、そう簡単な話ではない。女性が出産することのできる期間はかなり長いし、個人差も大きい。
もし、彼女の寿命について考えるのであれば……この膨大なデータも、それほど役には立たないだろう。
ただ。
子供を産んでから、フランソワーズは以前に比べ明らかに弱っているように見えた。
おそらく、自分とは全く異なるペースを持つ受精卵を、いわば超特急で育てざるを得なかった負担からだろう、とイワンと僕は考えた。
それなら、授乳だってよくないはずだ。
しかし、フランソワーズは僕たちの心配を笑って……そして、断固として斥けた。
少しずつ少しずつ命を削りながら……それは見ているだけで十分わかった……彼女は、赤ん坊に美しい乳房を含ませ続けた。
僕たちは、彼女を説得するべきだった。
でも、できなかった……それは。
僕も、イワンも、生まれてからずっと何度となく彼女に投じた切ないまでの夢……叶うはずのない夢が現実の姿になる、という誘惑にあらがえなかったからだ。
そして、もしオヤジ……009が生きていれば。
彼もきっと僕たちと同じだっただろう。
その年の僕の誕生日に、張大人は「これでジョーも不惑アル!」と驚いたように笑っていた。
僕の大事な人たち。その中で、僕だけが年をとっていく。
そんな状態をようやく自然なものとして受け入れることができた、と僕は感じていた。
その点ではたしかに、不惑、といえるかもしれない。
でも、甘かった。
そんな単純な話ではなかったのだ。
漠然とした不安をぬぐえないまま、僕はフランソワーズとともに、僕たちの子供を慈しみ、育てた。
少女のような母親と、彼女と親子ほどに年が離れているように見える父親。
それだけでも十分に風変わりな夫婦だっただろうけれど。
でも、それだけではなかった。
そして、それにも関わらず、僕たちは幸せだった。
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