4    バレンタイン・デー
 
 
甘い匂いに、ジョーが思わずキッチンをのぞき込むと、フランソワーズが見慣れない調理器具を並べ、難しい表情で鍋を……というか、鍋に差し込んである温度計を睨んでいる。
チョコレートの匂いだ、と気づき、バレンタインデー、とまた気づく。
……と、いうことは。
 
「フランソワーズ、それ、もしかして……」
「ごめんなさい、ちょっと待って」
 
彼女には珍しいぴしゃっとした口調で遮られ、ジョーはわずかにひるんだ。
やがて、彼女は慌ただしく鍋を持ち上げ、どろっとした茶色い……おそらくは溶けたチョコレート……を、大きなトレーの上に流しこみ、すぐさまヘラで素早くかき回し始めた。
 
意外に力仕事だということを見て取り、手伝おうかと言いかけたが、どうも彼女はむやみにかき回しているわけではないようだったので、ジョーは言葉をのみこんだ。
それにしても、ずいぶん大量のチョコレート……に見える。
固めたら小さくなるのかもしれないが……それにしても。
 
そういえば、この間、フランソワーズは親しくなったという国際宇宙研究所の女性職員とショッピングに出かけていた。
おそらく、彼女との会話の中で、フランソワーズは「日本の」バレンタインデーについて色々と知識を得たのだろう。
 
「……これで大丈夫……たぶん」
「終わったのかい?」
 
独り言のようなつぶやきにジョーが応えると、彼女は驚いて振り返った。
どうやら、忘れられていたようだ。
 
「ごめんなさい。つい……一番大変なトコロが終わったの。あと、もう少しよ」
「チョコレートだね。ずいぶんたくさんできるんじゃないか?」
「ええ……60人分ぐらいかしら」
「ええっ?!」
 
さすがに驚いた。
そして、まさか……と思ったとおりのことを彼女はジョーに打ち明けるのだった。
 
「研究所の皆さんに、バレンタインデーのチョコレートを贈るのよ。いつも博士がお世話になっているでしょう?」
「そういう、ことか……」
 
自分は、もちろん彼女からチョコレートをもらったことなどない。
新しく覚えた日本の習慣……といっても、「義理」から入るあたり、なんというか彼女らしいなあ……という気がふとして、ジョーは思わず息をついた。
 
 
 
やがてできあがった丸いチョコレートを、小さい透明な袋に詰めてはリボンを結んでいくフランソワーズをぼんやり見つめ、袋詰めぐらいなら手伝えるよな、と、ジョーはようやく思いついた。
 
「あ……ありがとう。助かるわ、ジョー」
「ふたつずつ、入れればいいのかい?」
「ええ。少ないかしら…?田村さんはそれぐらいでいいって言うのだけど」
 
そういえば、そんな名前の女性だったかもしれない。
ジョーは迷いながらうなずいた。
 
「まあ……大丈夫じゃないかな」
「本当?……よかった。あなたがそう言うなら安心だわ」
 
どういう意味だろう、と首をかしげ、ああそうか、とすぐに得心する。
もちろん、いわゆる義理チョコをもらった経験はジョーにも十分あるのだった。
 
さすがにリボンを結ぶのはもうひとつ自信がなく、それはフランソワーズに任せることにして、ジョーはひたすら袋詰めを続けた。
フランソワーズも自然にそれに合わせ、作業は流れるようにはかどった。
 
「君、これを明日……研究所に行って、一人ずつ手渡しするのかい?」
「いいえ。田村さんに預けるの。集めたり、配ったりする係が毎年交代するんですって」
「へえ……大変なんだな」
「そうね……男の人はもらうだけだから気楽ね、って言ってたわ」
 
そんなモノだったのかな、とジョーはレーサーをしていた頃のことを思いだそうとしてみたが、やはりどうもはっきりした記憶はない。
もちろんファンからチョコレートは大量に贈られてきたし、お礼のメッセージ原稿を書いたりもしたが、それはファンサービスであり、仕事の一環だった。
特に変わったモノや高価なモノについては「これは持って帰るか?」と尋ねられたこともあったが、それは不公平というものだろう、と思ったジョーは生真面目に断り、受け取りはしなかった。
 
それとは別に、仕事で直接関わる女性たちからのチョコレートもあって、こちらは受け取らざるを得なかったが、たしかに、思えばひとりずつから渡されたわけではなく、まとめて袋に入ったものをがさ、と受け取ったものだ。
あれもきっと当番がいたんだろうなあ……と今さらだが、思ったりする。
 
そのチョコレートのひとつひとつが、誰からのモノであるかをいちいち考えたことなどない。
説明もされなかった。
と、いうことは、コレもそういう風に研究所員たちに渡されていくのだろうか。
それとも……
 
と、そこまで考えて、ジョーはフランソワーズがせっせと結んでいるリボンに目をやった。
水色の細いサテンのリボンは、いかにも業務用、といったリールから順々に切り取られている。
 
「そんなリボンまで売っているんだね」
「そうねえ……これも田村さんが用意してくださったの。袋もよ」
「……なるほど」
 
なんとなく合点がいった。
色が水色なのも、もしかしたら偶然ではないのかもしれない。
 
「一覧表が添付されたりするのかもなあ……」
「え…?何のこと?」
「……いや」
 
たぶん、そうだろうな、とジョーは思う。
偏見かもしれないが、超一流の女性科学者集団なのだ。物事の識別管理に手を抜くとは思えない。
異様な感じがしないでもないが、いっそすがすがしいという気もする。
 
しかし、ということは。
明日は、あの研究所で働く全ての男性が「フランソワーズさんの手作りチョコレート」を二粒ずつ、しみじみ味わうことになるのだった。
モノのついでにいつのまにか食べてしまう、などということはあり得ない。
絶対に、誰もが、しみじみ味わうに違いない。
 
丸いチョコレートは、一つ残らずきっちりと袋に収まり、余りはなかった。
初めて見る彼女の手作りチョコレートの、味見ぐらいさせてもらえるかと僅かに期待していたジョーは、もしかしたら、フランソワーズも理系の女性なのかもしれない、とふと思った。
 
 
 
一ヶ月後。
 
玄関に届けられた赤いバラの大束にフランソワーズは驚き、差出人の名前の入ったカードを見て、幸せそうに頬を染めた。
覚えていてくれたんだわ……とつぶやく。
ギルモアの護衛で数日前に旅立ったときには、そんなそぶりは見せなかったのが、いかにもジョーらしい。
 
 
日本の習慣や発想には、まだわからないところがたくさんある。
義理、と言われているチョコレートを冗談でも渡すわけにはいかないと思ったから、あの日、余りがないように気を付けたのに、袋詰めを終えたとき、ジョーは明かに不機嫌そうだった。
 
バレンタインデー当日には、田村からギルモアとジョーに、と紙袋が届けられた。
中に入っていたのは、色とりどりのリボンがついたチョコレートの包みと、リボンの色で贈り主がわかるように添えられた一覧表だった。
 
フランソワーズは、田村のアドバイスに従い、ジョーのために別にチョコレートを用意しておいた。
届けられた義理チョコと一緒に渡してしまうのもどうだろうと思っていたのに、ギルモアと一緒にそれらをいくぶん興味深そうに吟味していたジョーがふと目を上げたとき、フランソワーズは我知らず、用意していた包みを差し出してしまった。
そして、彼が驚いた様子もなく、不機嫌な様子もなく、格段嬉しそうでもなく、ありがとうとそれを受け取ったので、フランソワーズは安堵と失望を同時に味わった。
 
恋の告白、というのをしなかったから、いわゆる「本命」であることが伝わらなかったのかしら……と、フランソワーズはその後何度か思い返した。
が、あの状況で、ギルモアもいる前で、そんなことができるはずがない。
二人きりのときでも、できるという自信はなかったけれど。
 
 
でも、何も伝わらなかったわけではなかったんだわ……と、フランソワーズはそっと花束に頬を寄せた。
これが「義理」に対する「義理」の応答とは思えない。
少なくとも、そう感じることを責められたりはしないだろう、とフランソワーズは思う。
不思議な習慣ではあるけれど、たいていの日本人が、ジョーのように言葉を苦手とする性質をもっているのなら、こういう伝達方法にもうなづけるところがあるような気がするのだった。
 
しかし。
さらに数時間後、これもまた当番であるらしい男性研究所員から「お返し」がぎっしり詰まった途方もなく巨大な箱が幾つも届けられたとき、フランソワーズはまた考え込んだ。
そういえば、「倍返し」というような言葉を田村からちらっと聞いたような覚えもある。
 
 
やがて研究所に帰ってきたジョーもまた、その箱に目を丸くし、深く嘆息することになる。
花束なんて生ぬるかった、いや、それ以前に、やっぱりモノではどうにも伝わらないよなあ……と身にしみた彼が、その夜、フランソワーズに対してとった手段は、それでもやはり言葉ではなかったのだけれど。
 
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