1
風は冷たかったが、華やかな空気がまだ体に優しく残っている気がする。
フランソワーズは、軽く深呼吸した。
ずいぶん、引き留められたけれど、明日もレッスンがあるから、と部屋を出た。
場をしらけさせてしまっただろうか。
そうならないように気をつけたつもりだったけれど……
「姉さん、本当にいいヒトはいないの?」
半ばからかうように、半ば本気で尋ねた弟の澄んだ目を思い出す。
「私の理想は高いの」
「…ったく!これだから、姉さんは…ホント、心配だよ」
「生意気ね」
「真面目に心配してるんだよ…もちろん、結婚する必要なんかないさ…でも、姉さんときたらボーイフレンドの一人もいないみたいに見えるんだよなあ…ねえ、本気でバレエが恋人なのかい?」
父さんと母さんのことはもう、オレにまかせていいよ。
姉さんも、幸せになってほしい。
さりげなく耳元で囁いた弟。
いつのまに、こんなに大人になっていたんだろうと思う。
私は…変わらないのに。
ふと足を止め、明るい窓を振り返った。
これから、弟が愛する人と暮らす部屋。
どうか幸せに、と精一杯の思いを込めて祈った。
2
最後に仲間に会ったのは、去年のメンテナンスのときだった。
研究所にいたのは、ギルモア博士と、イワンと、今は博士の助手をしているジョー。
助手…といっても、数年の間に、彼はかなりの知識と技術を身につけていて、フランソワーズを驚かせた。
メンテナンスも、ほとんどは彼の手でなされたようなものだった。
メンテナンスの結果は良好だった。
最後のデータを注意深くチェックしていたジョーが、ほっとしたように表情を緩め、顔を上げた。
「よかった…異常はない。そうだな、念のためあと2、3日はここにいてもらいたいけれど…来週になったらいつでも帰れるよ」
明日町にでるから、ついでに飛行機の手配をしておこうか?いつがいい?と、気さくに話しかける ジョーの笑顔に、用意していたはずの言葉がしぼんでいく。
変わっていない…あなたは。
いつも私が幸せであるようにと祈ってくれる。
どこにいてもかまわない、幸せでいてくれるなら…と。
だから、私も幸せであろうとするしかないんだわ。
あなたの…知らない、遠いところで。
それが、あなたの願いならば。
でも、私は…
私の願いは。
「…どうした?」
「え、ええ…ジョー、少しお手伝いしていきましょうか?来週はアルベルトがくるんでしょう?」
「大丈夫だよ…それに君は」
「ええ、メンテナンスのことはわからないし、何もできないけれど…でも家事ぐらいなら」
「あ、そういう意味じゃないよ!その…君は、早くレッスンに戻った方がいいんじゃないかってこ とで…」
「舞台に立つわけじゃないもの…少しぐらい休んでも構わないわ」
「僕に気をつかうことはないんだよ、フランソワーズ…僕は、ここでこうして暮らしていることが 楽しいんだ。メンテナンスのときはたしかに少し忙しくなるけど…それだって楽しい」
大丈夫だから、とジョーは微笑した。
フランソワーズもようやく笑顔を返した。
あなたは、本当に変わっていない。
何も求めようとしない。
だから…私の願いも叶うことがない。
フランソワーズは予定どおり、翌週パリに発った。
ジョーに見送られ、飛び立った飛行機の中で、そっと胸に手を当てる。
ブラウスの下の細い鎖と、その先にある、小さな堅い金属の感触を指で探り、確かめた。
3
「003は、召集しない」
009の静かな、しかし厳しい声に仲間たちは黙り込んだ。
「彼女の能力には及ばないけれど、新しい小型レーダーを開発した。当座不自由することはないはずだ」
「そういう言い方はないだろう、009…彼女とレーダーを比べようっていうのか?」
「そうじゃない…ただ」
「…まあ、な」
004がゆっくり顔を上げた。
「オマエの気持ちもわからなくはない、009…だが、とにかく003抜きに戦うことは…」
「たしかに、不可能だ。それは僕もわかっている。でも…今度の事件は、それほど大きいものでは ないと思う。彼女の力が必要になったときは、呼びに行くつもりだ」
「それ…中途半端なことアルねえ…009、003はそんなやり方、望んでいないと思うアルよ」
「そうさ、彼女だって、俺達の仲間だ…いや…『家族』だろう?」
「…ジェット?」
「忘れたのか、ジョー…あのときの、彼女の言葉を」
…忘れるはずはない。
009はぎゅっと唇を結んだ。
だから、僕はこれまで生きてこられた。これからも戦っていける。
でも…だからこそ。
「呼ばなければ、むしろ彼女は危険な目にあうんじゃないのかい?」
「008?」
「敵が彼女を狙う可能性は…ないのか?」
009は首を振った。
「ほとんどないと思う。もしあったとしても…彼らは彼女を人質として利用しようとするだろう。 そうなったら、必ず助け出す」
「必ず…か?」
「ここに呼び寄せて一緒に戦ったとしても、完全に彼女を守りきれる保証なんかない。同じことだ 」
再び沈黙が落ちる。
009はぐるっと仲間たちを見回し、立ち上がった。
「それじゃ…明日、出発しよう」
4
事は、予想していたより大きかった。
敵はかつてのNBGとまではいかないまでも、その核となりうる程度の組織ではあることが、次第にわかってきた。
003を呼び出すことを最後まで躊躇していた009も、彼女が必要である、と認めざるを得なかった。
「まだ、眠っていなかったのか、009…そろそろフランスだぜ」
「…004」
「緊張して眠れないか?」
「…まさか」
009は苦笑し、手の中に何かを隠すようなそぶりを見せた。
首をかしげる004に気づき、009は隠しかけた掌をそっと彼の前で広げた。
「…覚えているかい、アルベルト?」
「これ…は…!」
「ガンダールさんの…数珠から一つもらった」
「……」
「あの人との約束を…また果たせなかった。僕たちは」
つらそうにうつむく009の生真面目な表情に、004は思わず微笑した。
「そう簡単にはいかないさ」
「そうだね。でも…少なくとも、あのとき僕は…あれを最後の戦いにしたいと…できると思っていた」
「……」
「ガンダールさんも、人間に作られたんだ…人間は、悪を作り出すだけじゃない。だったら」
「彼は、ただ作られたわけじゃなかっただろう?あの三つ子の影として生まれた。善が生まれれば 、そこには同時に悪も生まれる」
「アルベルト」
「俺達の戦いは、終わることがない」
「……」
黙ったまま掌で数珠玉をもてあそんでいる009に、004は思い出したように言った。
「ずいぶん、久しぶりだな」
「…003…かい?」
「ああ。オマエはメンテナンスのときに会ったんだろう?元気だったか?」
「そうだね。もうすぐ弟が結婚するんだ…って言っていた」
「……」
「僕は」
「…009」
遮ろうとした004を、009は挑むように見返した。
「僕は、今まで何をしていたんだろう?結局、ガンダールさんの願いにも応えられず、彼女をまた家族から引き離して…!」
「彼女の家族は…俺たちじゃないか」
「アルベルト…?」
「あのとき、彼女はそう言った」
「あれは…あのときは!」
「そうだな。あのとき…俺たちは、生きて帰れるとは思っていなかった…誰一人。彼女も、俺たちと死ぬことを選んだ」
「そんな選択は、二度とさせない」
そう決めるのは、おまえではないだろう。
言いかけた言葉を004はのみこんだ。
厳しい光を放って遠くを見つめ始めた茶色の目は、あくまで生真面目だった。
5
尾行されている。
足早に歩きながら、フランソワーズはそう思った。
久しぶりに耳のスイッチを入れると、微かな機械音をキャッチすることができた。
ロボットか、サイボーグか。
はっきりとはわからなかったが、少なくとも「フツウの」機械音ではない。
もちろん、仲間でもなかった。
音はどこまでもついてくる。
つかず、はなれず。
私の正体を知っている相手。
少なくとも、そう思っていた方が間違いなさそうね。
心でつぶやき、フランソワーズは、相手の目的を確かめるため、わざと人目の少ない道を選んだ。
もし、襲うつもりなら、このチャンスをとらえるだろうし。
もし、自分を泳がせてなんらかの情報をつかむつもりでいるのなら……
ふと、ジョーの笑顔が脳裏に浮かんだ。
あの人は、知っていたのかしら。
何かが…また、起きようとしているのなら、そのことを。
…あの人は。
「…いけない!」
フランソワーズは、ハッと顔を上げた。
前の小道から子供が飛び出してくる。
「来てはだめ!」
叫びながら、体当たりするように子供を抱きしめ、地面に転がった。
同時に、かすめたレーザーが髪を焼いた。
サイボーグだわ!
初めてはっきりと相手の姿を確かめ、フランソワーズは唇を噛んだ。
NBGの戦闘員と同じタイプの量産型サイボーグだった。
相手は一人しかいない。
スーパーガンがあれば、どうにかできるかもしれないが、今はナイフひとつ持っていない。それに 、この子供を……
「坊や、いいこだからお姉さんの言うことをよくきいて。起きたら、すぐあっちへ走るのよ。絶対に立ち止まったり、振り向いたりしてはだめ……いい?」
おびえきった表情でうなずく子供に素早くキスをすると、フランソワーズはすっと立ち上がり、振り返った。
「行きなさい!」
駆けだした子供の背をかばうように立ちふさがり、フランソワーズは続けざまに放たれたレーザーを肩で受けた。
「あなたは私に用があるのでしょう?!」
叫びながら、相手に突進する。
武器をもたない、ほとんど生身の少女ではあっても、彼女は003だった。
相手が戦闘に不慣れなことを悟るや、素早く銃をたたき落とし、みぞおちに深く肘を打ち込み、沈めた。
…しかし。
子供の足音が遠ざかるのを確かめ、フランソワーズは静かに顔を上げた。
もう一人、いる。
6
「さすが、003…見事なものだ」
肩の傷から、血がとめどなく流れ始めていた。
透視するまでもなく、近づいてくる男が高性能のサイボーグであることを、その駆動音が彼女に告げていた。
「そんなに怖い顔をしなくてもいい。オマエにこれ以上の危害を加えることはしない。おとなしく 、われわれに協力してくれるなら…な」
「……」
フランソワーズはぎゅっと胸元を握りしめた。
私を003と知る、高性能のサイボーグ。
それを作り出す技術力を持つ、組織。
つまり…それは。
いつか、こんな日が来るということは、わかっていた。
ただ…そのときは。
そのときは、私は…あなたたちとともに。
いいえ、あなたと…ともに。
ジョー、あなたは…知っていたの?
知って…いたのね。
それなら…
「003…オマエには教えてほしいことが山ほどある。無駄な抵抗はやめろ。オマエ一人に、何が できる?」
私一人でも、できること。
あなたたちの仲間として…003として、できること。
ひとつだけ、あるわ。
私は、この人の手に落ちたりしない。
私は、003だもの。
あなたが…どう思っていようとも。
…009!
フランソワーズは、ぐっと歯を食いしばり、ブラウスの上から小さなペンダントを指で確かめると 、その細い鎖を思い切り引きちぎった。
7
「…っ!」
「003かっ?!」
弾かれたように004が振り返るのと同時に、009はスイッチを噛み、姿を消した。
「…チクショウ!」
間違いなく003だった。
彼女に、何かが起きた。
少なくとも、ここから通信が届く距離のところで。
「一足…遅かったのか?」
歯ぎしりする思いで素早くあたりを見回した004は、子供の泣き声に眉を上げた。
声の方に向かって、闇雲に駆け出す。
「おい、どうした、坊主?…何か怖いことでも…」
「お、おねえちゃん…おねえちゃんが……!」
両肩を揺すぶり、問いただしても、子供の言葉はほとんど意味をなさず、指さす方角もふらふらと おぼつかない。
思わず舌打ちしたとき、鈍い爆発音が耳に飛び込んだ。
続いて流れてくる硝煙の気配。
004はほとんど反射的に身を翻した。
「009…!」
やがて、004は息をのみ、立ち止まった。
サイボーグの残骸らしい機械類が散らばり、くすぶる中、009が膝を折っている。
その腕に、目を閉じた003を抱きしめて。
「大丈夫か、009…!003は?」
「肩を撃たれたようだ、たぶん大丈夫……気を失っているだけだよ」
それきり009は口をつぐんだ。
しかし、穏やかな言葉とは裏腹な、蒼白ともいえる彼の顔色に、004は眉を寄せた。
「動かせるか?」
「ああ。でも、彼女の部屋はもう危険かもしれない」
「…そうだな。宿に連れて行くしかない。とにかく、早く手当してやれ。俺は念のためこの辺を回 ってこよう…大丈夫だとは思うが、万一、彼女の家族に何かあったら…」
「うん…そうしてくれると安心だ。ありがとう、004」
立てるのか?という問いを、004はあやうくのみこみ、009の肩を軽くたたいた。
大きく深呼吸を繰り返し、009はゆっくり立ち上がった。
8
目を開けると、白い見慣れない天井が映った。
思わず飛び起き、声を上げかけた003を、009は軽く押さえた。
「大丈夫……僕だよ、フランソワーズ」
「……」
大きく目を見開いている003に、009は苦笑した。
「わからなかったかい……?」
「…ジョー」
「傷…痛む?応急処置しかできなかったから」
「…どう……して?」
「遅れて、すまなかった。迎えにきたんだ」
ぼんやり009を見つめていた003は、彼の手の中にあるものに気づき、息をのんだ。
009は鎖のちぎれたペンダントのヘッド部分を、彼女に見せるように指でつまみ上げ、そのまま はさみつぶした。
「……」
「やっぱり…君だったんだね」
「……」
「まさか、と思ったけど……よりによって、コレの中に隠していたなんて」
009の足下に、ペンダントの残骸と混じって、白い粉末が散らばった。
003はぎゅっと毛布を握りしめ、唇を噛んだ。
「どうして…どうしてなんだ、フランソワーズ?」
「みんなに迷惑をかけたくなかったの」
「…迷惑?」
「あの人、自白剤を使おうとしたわ」
「だから、その前に自分で命を絶とうと?いや、そうじゃないよ、フランソワーズ…僕が聞きたいのは、そもそもどうして君がコレを持ち出したか、ということだ!」
研究所に保管してあった、毒薬のサンプルがなくなっているのに009が気づいたのは、数ヶ月前のことだった。
ギルモアは、たぶん003じゃろう…と力なく言った。
その薬は、改造度の高いサイボーグには効果を現さない。
もちろん、それを用いて生身の他人を殺そうと考える者がいるはずもない。
何か考えがあってのことじゃろう、あの子を信じよう、とギルモアは言った。
そうするしかないと、009も思った。
メンテナンスに現れる003はいつも優しく、翳りがない。
…しかし。
「あなたは言ったわね…死ぬときは一人だって」
「……」
「私も…そうだと思ったの」
「フランソワーズ」
「本当に飲まなければならない時がくるかどうかは、わからなかったけど…ただ、一人で生きて、 一人で死ぬためには、これが必要になるのかもしれない…って思ったのよ」
「何を、馬鹿な…!一人で、だって?君には家族がいるじゃないか…!」
003は弱々しく微笑んだ。
「私の家族は……あなたたちよ、ジョー」
9
003の傷は軽かった。
ギルモアの手当が終わると、彼女は赤い防護服に身を包み、仲間たちの前に現れた。
「心配かけて、ごめんなさい…みんな」
「待っていたよ、003」
「やーれやれ、これでやーっと、このトロくさいレーダーと格闘しなくてすむのか…!ったくよ〜」
「何言ってるアルか007!かわいそうに、まだ傷治ってない003を、早速こき使うツモリかね?」
003はくすくす笑った。
「ホントね…私なんかいなくてもいい、って思ってたくせに」
「まさか…!そう嘯いてやがったのはジョーだけさ……だろ?」
007が皮肉たっぷりに向けた視線を、無言の笑顔で受け流すと、009は003に歩み寄り、その右手を取った。
「…ジョー?」
「新しいお守りだよ…持っていて」
目を丸くした003は、握らされた右手をそっと開いた。
銀の鎖の先に、青い貴石のペンダントヘッドが繊細な光を放っている。
002が口笛を吹いた。
「オマエにしちゃ堂々と珍しいことするじゃねえか、ジョー?熱でもあるんじゃねーのか?」
「…そうかもしれないね」
003はありがとう、とつぶやき、ペンダントを防護服の中に隠すようにかけた。
そんな彼女に、009はゆっくりうなずきながら、言った。
「お帰り…フランソワーズ」
「……」
「待たせてしまって、ごめん。本当に」
君は、僕たちを…僕を家族だと言ってくれた。
あのとき、僕がどんなにうれしかったか…たぶん、君は知らない。
そして、僕も知らない。
君の言葉の重さを。
家族を知らない僕が、それを本当に知ることは、きっとこれからもないだろう。
だから僕は間違えた。間違えて…君を追いつめた。
君に思いこませてしまった。
自分は一人ぼっちだと……帰る場所をなくしてしまったと。
ごめん、フランソワーズ。
…でも。
003はそっと首を振り、009の頬に軽く唇を寄せると、くるっと振り返り、仲間たちに微笑んだ。
「ただいま、ジョー…それに、みんな」
「ああ。お帰り」
「お帰り、003…待ってたぜ!」
口々に返る言葉に小さくうなずきながら、003は素早く涙を払った。
009は軽く彼女の背中を押し、席に座るよう促した。
「出発しよう…!」
でも、フランソワーズ。
間違えても間違えても…僕はきっと君の前に立つ。
そうせずに、いられないから。
僕たちはあと何度間違えるのだろうか。
でも、何度間違えても、僕は君を取り返す。
そして、贈り直そう。
何度でも、僕の思いを。
お帰り、フランソワーズ。
遅くなってごめん。悲しい思いをさせてごめん。
君の悲しみを、どう償えばいいか、ぼくにはわからない。
…でも。
お帰り、フランソワーズ。
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