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五周目


  1   誘惑(原作)
 
 
今、研究所にフランソワーズはいない。
 
空港で二人を迎えたとき、そう告げると、ジェットは明らかに不服そうな表情になった。
ピュンマは、そう、とさりげなく流しながら、いつごろ帰ってくるんだい?とこれもまたさりげなく尋ねた。
 
言われてみれば、いつ帰ってくるのか、ちゃんと聞いていなかったかもしれない。
そう気付いたとき、僕は少しだけ狼狽した。
 
「友達と旅行に出かけたんだ。いつまでだって言ってたっけなあ……」
「ノンキなヤツだな、オマエ…友達だと?男じゃないだろうな?」
「何言ってるんだ、ジェット…ジョーに八つ当たりするなよ」
「なんだよ、八つ当たりって?」
 
二人のやりとりを笑ってやりすごし、おかげで少し冷静になれた。
僕はゆっくり言った。
 
「セリーヌ・ノエリーっていうファッションモデルさんさ…ジェットなら知ってるんじゃないか?有名な人らしいよ。やっと休暇がとれて、パリに行くっていうから、フランソワーズも一緒に行くことにしたんだって」
「じゃ、彼女はパリにいるのか……ふうん」
 
ピュンマが考え込む顔になった。
僕と同じことを考えているんだろうと思ったから、先に言っておくことにする。
 
「パリに帰るのはすごく久しぶりなんじゃないかな…いいチャンスだったと思う」
「…そうだね。いい友達ができてよかったな、フランソワーズ」
「うん」
 
これで、この話は終わりだ。
終わりにしてもらう。
 
そういう気持ちを十分のせて僕は笑顔を作り、二人を…長年、極限状態をともに切り抜けてきた…つまり、ある意味では僕自身同然の仲間たちを、順々に見た。
 
だから、その話はそれで終わった。
 
 
 
こんなに、フランソワーズのことばかり考えていたことは、今までなかったような気がする。
僕は、どうかしているのかもしれない。
 
はじまりは、彼女が街であの一流カメラマンとかいう男に声をかけられたことだ。
彼女は、ひどく嬉しそうにそれを僕とギルモア博士に告げ、彼のスタジオに行ってみたい、と言うのだ。
女の子はわからない。
 
彼女があんなに嬉しそうだったのは……それはもちろん、そんな風に彼に声をかけられることが、彼女が飛び抜けて美しく魅力的だってことの証明だから…なんだろう。
 
でも、彼女は今まで鏡を見て…とまでは言わないけど、周囲の人間全て…もちろん、僕も含めて…の反応から、そのことを知り抜いていたはずだ。
彼女にとって、美しさを賞賛される、なんてことは、呼吸するように当たり前のことだろう。
それを今更そんなに喜ぶなんて、馬鹿げている。
 
と思うのは、僕自身のことを振り返ってみたりするからだ。
僕は、魅力的な外見をしているらしい。
自分ではわからないけれど、子供の頃から、周囲がそう評価していることはよく知っていた。
だから、面と向かってそういうことを言われても、困惑はするけど嬉しくなったりなんかしない。
 
あのとき、もっと強く止めればよかった。
今では、そう思う。
僕の心にうかんだ、よくわからない不快感は、結構根深いものだったのだから。
今ならわかる。
 
でも、彼女がとても嬉しそうな顔をしていたから…
本当に珍しく、彼女自身のために何かを願ってくれたから…
そして、それを僕に告げてくれたから…
 
だから、僕は落ちた。
でも僕は、あくまで自分の直感を信じるべきだったんだ。
戦う時のように。
 
そうだ、あのとき、戦いは始まっていた。
戦いなら、勝たなければならない。
まして、相手が得体のしれない手強い敵ならば、少しの油断が命取りになるものだ。
 
実際のところ、僕はどうかしているのかもしれないのだけど。
 
 
 
研究所の居間に収まってから、ジェットにしつこく求められ、僕はスタジオから送られてきた彼女とセリーヌの写真をしぶしぶ出してみせた。
予想通り、二人は一瞬息をのみ、それから感極まったように溜息をつく。
僕の反応と一緒だ。
 
「へえ……さすがプロってのは……大したもんだ」
「本当だね、キレイに写ってる…というか、違う人みたいだな……でも、やっぱりフランソワーズだ」
「ああ、こっちのオンナも確かに見たことがあるな…いいオンナだ。だが、フランソワーズも負けてないじゃねえか」
「うん、彼女がキレイな娘だってことは僕たちも十分わかってたつもりだったけどね…それにしても」
「で、このオンナと親しくなって、今は一緒にパリ旅行か…なるほど…」
「そんなに親しくなったってことは…ココに来たりもしたのかい?」
 
少し気遣わしげに尋ねるピュンマに、僕はうなずいた。
 
「僕も博士も会っていないけど…2、3回来たらしい。彼女もよく出かけてるし」
「ふーん」
「…で。僕たちのことは?フランソワーズ、この人に話したのか?」
「少し、話したって」
「少し…?」
「それ以上…具体的には知らない。遠回しな言い方をしたみたいだよ」
「……」
 
ピュンマは黙り込んだ。ジェットもふん、と鼻をならしたきりだ。
こういうのは、彼らにだって…僕自身にも、経験がないことじゃない。「外」の人間と関わるなら、避けられないことだ。
フランソワーズにそれが起きたのは初めて…僕が知る限りでは初めてだと思うけど。でも、初めて、というのは彼女を信頼しない理由にはならない。
やがて、ピュンマがぽつん、と言った。
 
「フランソワーズのことだから…心配はいらないだろうな」
「うん」
 
僕は短く、でもしっかりうなずいてみせた。もちろんだ。
ジェットが無言のままゆっくり目を閉じる。
つまり、了解、ということだ。
 
フランソワーズから電話がきたのはその晩だった。
予定通り、明日の午後、成田に着くという。
ということは、やはり僕は彼女から予定を聞いていたのだ。
 
ジェットとピュンマが来ているよ、と告げると、彼女はまあ!と心から嬉しそうに言った。
その息づかいが伝わるようで、思わず受話器を握りしめる。
 
そうだよ。
だから早く……早く、帰っておいで。
 
そう言いそうになるのを懸命にこらえ、空港まで迎えに行くよ、とだけ言うと、彼女は笑って、いいの、と答えた。
 
「セリーヌが車を空港に置いてきているの。送ってもらうわ」
「でも……」
「通り道だからいいんですって。少し、回り道だけど……」
 
彼女の声の向こうに明るい声が小さく聞こえる。
セリーヌが何か言っているらしい。
 
「…もう、わかったわよ、セリーヌ……!ごめんなさいジョー、あのね、いいんですって…ふふ、きっと空港についたら、もう少しおしゃべりしたいって思うにきまってるもの……のんびり帰るわ。少し遅くなっても大丈夫よね、ジェットたち、しばらくいるんでしょう?」
「ああ」
 
ゆっくりしておいで、と続けようとして、言えなかった。
僕はそのまましばらく彼女の楽しそうな声を聞いて、そして受話器を置いた。
 
どうかしている。
やっぱり、僕はどうかしている。
 
…いや。
そうだろうか?
 
もしかしたら。
どうかしているのは、もしかしたら……君なのかもしれない、フランソワーズ。
 
 
 
フランソワーズは、明らかにぎょっとした顔で立ち止まり、僕を見上げた。
 
「…ジョー」
「フランソワーズ?…お友達?」
 
怪訝そうに僕を覗く、この少女がセリーヌだろう。
ぼんやり予想していたとおりの…たしかにそばかすだらけで、内気そうで…ちょっと地味な感じの女性だった。
 
「お帰り、フランソワーズ……はじめまして、僕は島村ジョーといいます」
「は、はじめ…まして」
 
僕が差し出した右手を、セリーヌはおずおず握った。
よほど驚いたのだろう、自己紹介も忘れている。
フランソワーズが咎めるように僕を睨んだ。
 
「ジョーったら…びっくりしたわ…いったい、どうしたの?昨日、迎えにはこなくてもいいって……」
「うん。でも、どうしても来ちゃ、だめだった…かい?」
「…え?」
 
ふっとフランソワーズの表情が変わった。
彼女が何を思ったか、手に取るようにわかる僕は、何も言わない。
これで、終わりだ。
 
セリーヌにはもっと抵抗されるかもしれない、と思っていたのだけど、彼女はフランソワーズの話から想像できたように、心弱い女だった。
見知らぬ男である僕と、挨拶以上の会話を交わすことすら恐れるように彼女はあっさり引き下がり、それじゃ、また…と、フランソワーズに手を振った。
 
「…ジョー?」
 
セリーヌが見えなくなると、フランソワーズは厳しい表情で僕をまっすぐ見つめてきた。
それは、そうだろう。
わかっていたから、僕はさっさと彼女の荷物を受け取り、駐車場へと歩き始めた。
 
「待って、ジョー…何が、あったの?教えて…まさか、また……」
 
返事はしない。それが、返事だ。
フランソワーズははっと口を噤み、遠くを見る目になった。
 
彼女の表情の中で、僕が一番美しいと思っているのが、この索敵中のまなざしだと知ったら、彼女は怒るだろうか。
それとも、嘆くだろうか。
 
もっとゆっくり眺めていたい気持ちを抑え、向き直ると、僕は先を急いだ。
辺りに怪しい気配がないことを確かめれば、彼女はまた何か尋ねてくるだろう。
そう長い時間、ごまかすことはできない。
 
わかっていた。
僕が戦う相手は、あの弱々しい少女、セリーヌ・ノエリーなどではない。
もっと強く、美しく、恐ろしい……そして、誰よりも愛しい、この少女。
 
勝てる見込みがあるかどうかはわからない。
でも、負けるわけにはいかないから。
 
僕は無言のまま助手席のドアを開け、無言のまま運転席に座った。
空港を出て、高速に乗るまでは、彼女に何も言わせない。
まず、戦いはそこからだ。
 
 
 
「本当に…事件じゃない…のね?」
「ああ」
「それじゃ…どうして」
「…なんだか、待ちきれなくなったんだ…遅くなる、みたいなこと言ってただろ?」
 
拗ねた子供のような顔をしてみせる。
フランソワーズの周りで張り詰めていた空気がふとほどけた。
 
「あきれた。それでわざわざ迎えにきてくれたの?心配性ね。遅くなる…って、まさか真夜中になるなんてことはないわ。夕ご飯の支度はちゃんとできるようにと思っていたのよ」
「君こそ、心配性だな…夕ご飯のことなんて考えなくてもいいさ…それより疲れてるだろう?少し眠ったら?」
 
言い終わらないうちに、僕はすっと片手を伸ばし、彼女の肩を抱き寄せるようにした。
彼女が一瞬身を堅くしたのは、驚いたからだろう。
構わずそのまま肩を抱いていると、やがて、彼女はそうっと僕の方にもたれかかってきた。
 
「片手運転なんて、ダメよ…ジョー」
「大丈夫さ」
「…ダメ」
 
じっと睨まれている。
その強い視線が愛しくて、僕は笑った。
静かに彼女の肩に回した手を外し、ハンドルを握りなおす。
 
「これで安心したかい?このままおやすみ…フランソワーズ」
「……」
 
返事はない。
が、僕の肩にもたれかかる亜麻色の頭がほんの少し重くなった。
ほどなく、小さな寝息が聞こえ始める。
何とも言えない幸福感に包まれ、僕はひそかに心でつぶやいた。
 
フランソワーズ。
君は、僕のものだ。
誰にも渡さない。
 
……君、自身にも。
 
 
 
言葉は、武器にならない。
だから、全て無言で通した。
 
締め切ったガレージの中は薄暗い。
そっと唇を離すと、フランソワーズは苦しそうに大きく息を吸い込んだ。
それを確かめてから、今度は素早く片手で口を塞ぎ、シートを倒す。
抱きしめたまま、ブラウスのボタンを外していくと、彼女はいっそう激しくもがき、塞がれた声の代わりに脳波通信を開いた。
 
『ジョー、何をするの?やめて…!こんな、ところで……』
 
返事はしない。
僕はただ僕のありったけの思いを、腕に、指先に、吐息に込めて、ひたすら彼女を愛撫した。
ふと彼女の全身から力が抜ける。
もう少しだ。
そうっと口を塞いでいた手を離し、涙をうかべている青い瞳を見つめた。
 
「どう、して……?」
 
咎める声は、もうすっかり細い。
僕の、勝ちだ。
 
当然といえば当然だった。
僕はそれこそ周到に罠を用意し、全身全霊で彼女を追い込んだのだから。
そして彼女の方は何も覚悟をしていなかった。
 
卑劣…かもしれない。
でも、手段を選んではいられない。
 
僕は、やはり無言のまま彼女をいっそう強く抱き寄せ、再び唇を奪った。
 
『いや……!』
 
本当にいやなら、逃げればいい。
僕をふりほどき、大きな声で助けを求めればいい。
でも、彼女はそうしない。
もちろんだ。
 
僕は、初めて口を開いた。
柔らかい耳に、熱い吐息とともに囁く。
嘘であり真実でもある…言葉にならない、僕の思い。
 
「会いたかった。君と、こうしたくてたまらなかった……」
 
愛しているよ、フランソワーズ。
 
 
 
それでも、油断はしない。
ぐったりと身をゆだねるフランソワーズを抱き上げ、僕は暗くなった階段を上った。
 
ジェットもピュンマも…博士とイワンすらこの家にいないことに、彼女は気付いているだろうか。
気付いていても、もうそれを僕に糺す余裕などないだろうけれど。
 
それでも、油断はしない。
僕は、迷わず彼女の部屋の前を通り過ぎ、自分の寝室に入った。
ベッドにそうっと彼女を下ろし、そのまま見つめる。
 
僕の、フランソワーズ。
 
声には出さない。
声に出すと、全てが消えてしまいそうでこわいのだ。
ああ、僕は、まだこわがっているのか。
彼女は、こんなにも、僕のものなのに。
 
「ジョー……私…」
「パリは…楽しかったかい…?」
 
優しく尋ねる。
彼女は、少し怯えた目で僕を見つめ、おずおずとうなずいた。
 
「そうか……よかった」
「怒っているの?ジョー……私が…帰ったから…」
「…まさか。僕が怒っているように、見える?」
「…わからない…でも」
 
こわい、と彼女の唇が動いた。
不意に愛しさがこみ上げる。
 
僕の、フランソワーズ。
僕の……
 
うっとりと唇を重ねようとしたときだった。
僕は、凍り付いた。
 
青く澄んだ瞳の奥に、強い光が瞬いたのだ。
宇宙の深奥から放たれた、星の光のように。
 
「きみ、は…!」
「ジョー…?」
 
油断はしない。
していないはずのに……!
 
いきなり荒々しく喉を吸われ、フランソワーズが、小さく苦しげな悲鳴を上げる。
かまうものか!
 
油断はしない。
決して手をゆるめない。
それなのに、どんなに追い詰めても、奪っても、奪い尽くせない。
 
だから、君は美しい。
だから、君は恐ろしい。
 
だから……愛しい。
 
 
 
そうっと身を起こした。
死んだように眠るフランソワーズの髪にキスを落とし、ゆっくりベッドをおりて、僕は机の引き出しからあの写真をとりだした。
 
二人の美しい少女が向かい合い、互いを見つめている。
うっとりと夢見るように……もしくは、むさぼり合うように。
 
一人は生身。
一人はサイボーグ。
 
と、仮に言ってみたところで、それに何の意味があるだろう。
少女たちは、そっくり同じだった。
あらゆる情熱と憧憬を込め、ただ互いの姿だけを見つめている。
それが世界の全てであるかのように。
 
その片方がフランソワーズだなんて、僕は信じない。
考えたくない。
 
サイボーグ003。
僕の、恋人。
いや、そうじゃない。
僕の恋人であり、母であり、故郷でもある…僕のためだけに生まれた、運命の女。
 
だから、彼女はサイボーグとなった。
選ばれたのだ、僕のために。
僕と出会う、ただそれだけのために。
 
だから、フランソワーズ……!
 
僕は、写真をゆっくり裂いた。
こんなことをしても意味はない。
でも……
 
窓を開け、粉々になった写真を闇へと返す。
その深い闇の奥に、またあの星が瞬いた気がして、僕はぎゅっと目を閉じた。
 
僕は、何も恐れない。
誰にも負けない。
 
彼女を僕から奪おうとした奴らは、これまで何人もいた。
彼女が気付かなかったときも、僕だけは気付いていた。
 
その誰をも恐れたことはない。
僕は、必ず勝つからだ。
誰であろうと。
彼女を得るための戦いを恐れたことなどない。
 
その僕が、ただひとり恐れるのは。
いつか君を僕から奪うだろう、ただ一人の人は……
 
君、自身だ。
 
あの星を瞳の奥に持つ、美しいフランソワーズ。
…でも。
…だから。
 
背中で、微かな気配がした。
振り返ると、フランソワーズが小さく肩を震わせている。
ああ、夜風が当たったんだね。
 
僕は、慎重に窓を閉め直し、ベッドに戻った。
そうっとのぞき込むと、長い睫毛がわずかに揺れる。
咄嗟に、その瞼に強く唇を押し当てた。
 
君の奥には、まだあの星が瞬いているかもしれないから。
だから、君はいつも瞼を閉ざしたままで……ただ、僕を感じて。
 
 
フランソワーズが身じろぎする。
少し冷えた華奢な体を抱きしめ、僕はまた口づけを繰り返した。
 
目ざめさせない。
永遠に封じ込めてみせる。
戦い抜く。
手段は選ばない。
君は、僕のものだ。
 
君は、サイボーグ003。
僕の恋人であり、母であり……そして。
永遠の、故郷。
 
 
そう、僕はきっと、どうかしている。
ほんの少しだけど、君が僕から目をそらしたからだ。
君が、僕より大事なものを見つけかけたから。
だから、フランソワーズ……
 
君はいつもここにいなければならないんだ。
ただ僕の、この腕の中に。
 


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