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五周目


  12   帰還(原作)
 
 
ホースからほとばしる飛沫が、ゆっくりと緑の芝生を濡らしていく。
まだそれほど高くはない日差しは、それでも十分に強い。
今日も暑くなりそうだわ…と、フランソワーズは思った。
 
水まきが終わったら、お洗濯をして、それから買い物に行かなくちゃ。
イワンのミルクがなくなりかけていたわ。
あまり暑くならないうちに出かけて……
 
物思いにふけりながら、ふと振り返ったフランソワーズは、一瞬目を丸くしてから、慌てて手元のスイッチを押し、ホースの水を止めた。
いつのまにか芝生の端に現れた少年が、どこか心細そうに立ちつくし、こちらをじっと見ている。
 
「…ジョー。びっくりした」
「ただいま、フランソワーズ」
「お帰りなさい……朝ご飯、食べたの?」
「うん。電車の中で」
「…電車」
「仕事の後、夜行で帰ってきたんだ」
「…そう。それじゃ、すぐ休む?」
「うん」
「お昼は食べる?」
「うん。起こしていいよ」
「わかったわ…暑くなりそうだから、おそうめんでいいかしら?」
「うん」
「これからお洗濯するの…洗濯物、出しておいてね」
「わかった」
 
ジョーはにこっと笑うと、すたすた玄関に向かった。
荷物は、古びた肩掛けカバンひとつ。
出て行ったときと同じ出で立ちだった。
 
帰るなら、電話ぐらいしてくれればいいのに…と口の中でつぶやきながら、フランソワーズはまたホースを握り直した。
 
お買い物にいく前でよかったわ。
おそうめんだけじゃさびしいかしら…でも、なんだか疲れてるみたい。あの様子だと、てんぷらを揚げてもおなかに入らないかもしれないし…焼き茄子とか冷や奴とか…?
コールド・チキンのサラダでもいいかな。
そうだわ、何かくだものがあった方がいいわね。
 
なんとなく心が弾んでいるのに気づき、フランソワーズはひっそり苦笑した。
 
彼が帰ってきたら…もし、帰ってきたら、だけど…聞きたいことや言いたいことがたくさんあったはずなのに。
駄目ね、私。
 
 
 
翌日の朝、ジョーが不意に言った。
 
「明日、行くよ」
「あら…お仕事?戻るの?」
「うん。午後から」
「忙しいのね」
「そうでもないよ…契約もそろそろ終わりだし」
「…そう、なの」
「うん。またしばらく失業だなあ…」
「まあ」
 
ジョーの「仕事」は、あれこれと試行錯誤を重ねた結果、今は「探偵」に落ち着いている。
自分で事務所をもっているわけではなく、小さい所を短期契約で転々としており、今勤めている事務所は、関西の方にあったので、彼は研究所を離れ、事務所近くのアパートに仮住まいをしていたのだった。
 
ジョーが「仕事」についてフランソワーズに何かを語ることはなかった。
守秘義務があるのだから、それは当然のことだと納得している…が、やはり不安にならないわけではない。
危険なことをしているとは思えないが、それでも……
 
「それじゃ、そのうちお引っ越し…するのね。手伝いにいくわ」
「いいよ。そんなに荷物ないし」
「…でも」
「たぶん、向こうの人たちが手伝ってくれるし」
 
…向こうの人たち。
 
「たち」と言っているけれど、実際のところは一人、それも女の子…なんだろうな、とフランソワーズは思う。
一度、研究所に不審な電話がかかってきたことがあった。
若い女性の声で、フランソワーズが応答すると、しばしの沈黙の後、切れてしまったのだ。
ややあって、今度はジョーから「定期連絡」の電話が入ったとき、フランソワーズの耳は、彼の後ろで楽しそうに笑う女性の声を拾った。
あのときの女性だ、とすぐに気づいた。
 
つまり彼女はジョーの同僚か何かで。
それだけのことなのだろうと思う。
思うけれども…
 
「ジョー、最後に夏休みをもらったの?それで帰ってきたの?」
「夏休みはこの間終わった。みんなで海水浴に行ったんだ。楽しかったけど、混んでて大変だったなあ」
「…そう」
 
この人、どうして帰ってきたのかしら。
 
フランソワーズは心で首を傾げた。
この事務所に勤めるようになってから、彼が研究所に帰ったことはほとんどない。
「定期連絡」の電話を入れるのみで…数えてみればもうかれこれ1年になるのだ。
 
それが、あと少しで仕事が終わるときになって。
それも、夏休みをとったばかりなのに。
わざわざほんの二日だけ休んで、帰ってくるなんて……
 
それでも、フランソワーズは「どうして帰ってきたの?」と問いかけはしなかった。
一度、我慢できずにそれを尋ねたとき、彼は無言のまま、困惑しきった視線を返してきたのだった。
その表情があまりにも頼りなく心細そうだったので、フランソワーズは二度と彼にそれを尋ねはしまいと決めていた。
 
 
 
ジョーは帰ってこなかった。
 
そういえば、いつ帰るとも聞いていなかった…ことにフランソワーズが気づいたころには、秋の長雨の季節も終わろうとしていた。
さすがに連絡をとってみようかと思い始めたとき、ジョーから「定期連絡」がきた。
臨時の仕事が入ったので、急遽契約を延長した、というのだった。
いつまでかはわからない、と忙しそうに告げる彼に、そう、とだけ答えた。
 
電話を切り、パリに帰ってみようかな、とふと思った。
イワンやギルモアのことは心配だが、今はちょうどアルベルトが、メンテナンスついでに少し長く滞在する予定で、研究所に戻っている。
 
一週間ほどパリに帰りたい、という彼女にアルベルトは一も二もなく賛成し、後のことは気にするな、と請け合ってくれた。
続けて彼が言った、少し気分転換してこい…という言葉の意味はわかるようなわからないような…だったが。
兄に連絡をとり、飛行機を手配し…と、慌ただしく準備をしてその週は過ぎた。
 
 
「フランソワーズ!お帰り!」
 
ジャンはパリの空港まで迎えにきてくれた。
やや白髪の増えた彼は、それでも輝くような笑顔は昔のままで、妹を抱きしめた。
 
「ただいま…お兄ちゃん」
 
それ以上何も言うことはないような気がした。
ほうっと溜息がもれる。
フランソワーズは子供の頃のように兄の胸にもたれ、目を閉じた。
 
ジャンは、フランソワーズの帰郷に会わせて休暇をとっていた。
軍を退役してからは、仕事も緩やかな勤務になっているのだという。
 
「あの小僧は一緒じゃなかったんだな。一応寝室は用意しておいたんだが…」
「小僧って…あ、ジョーのこと?何言ってるのよ、お兄ちゃんったら…!」
 
妹ににらみつけられ、ジャンは苦笑いした。
兄妹で一緒に暮らしていたころ、「小僧」は、時折妹を訪ねてパリにやってきた。
彼女に対する彼の振る舞いや話し方は、あくまで慇懃で他人行儀で、とても恋仲にある男には見えなかったのだが、それでいて彼は用意された客用寝室をマトモに使っている様子ではなかった。
 
とはいえ、さすがに、妹の寝室にいることを自分にはっきり気取らせるほど間抜けな男でもなかったようだが。
 
ジョーは日本人だから、と妹は恋人の冷淡さをいつもただそれだけですませている。
そう言われれば納得するしかないのだが、やはり、本当に大丈夫なのかコイツら、という気分にはなる。
 
…が。
今回はちょっとつついてみようか、とジャンは妹を優しく抱きながら考えた。
どうも、彼女の様子がいつもと違うような気がしてならない。
もしかしたら、今度こそ彼女が隠していることを聞き出し、心の重荷を下ろしてやることができるかもしれない…と思ったのだった。
 
この日のために、上等のワインと妹の好物をあれこれ既に用意してある。
よし、とジャンはひそかに決意した。
 
そして、その数時間後。
彼は深い後悔の中にいた。
 
作戦は見事に成功した。
妹は初めて、日本での生活について…「小僧」について、これまで隠し続けていた本当の思いを語り始め……
 
語り始めたら、止まらなくなってしまったのだった。
 
 
 
「ジョーは…ジョーはきっと、私に心があるなんて思っていないのよ…!」
「うんうん。ひどいヤツだよなぁ……よく辛抱した、エライぞフランソワーズ…だからな、もう泣くな…で、そろそろ…」
「ひどいヤツだなんて言わないで!お兄ちゃん、ジョーのこと、何も知らないくせに…!」
「…あー。」
 
どうしようもない。
妹は既に言うことが支離滅裂になっていた。
ただ泣きながら「ジョー」はひどい、と繰り返し、それに同調すれば怒り、諫めようとすると泣く。
 
こんなに酒癖が悪いヤツだったかなあ…とジャンは天井を仰いだ。
しかし、しくしく泣きながらすがりついてくる妹はやはり可愛い。
甘えたり相談したりする相手もいない異国の地で、よくわからない日本人の「小僧」を相手に、孤軍奮闘してきたのだ…と思えばいじらしく、酔いも手伝って「小僧」の身勝手さがただ憎らしい。
が、「そんなヤツは見限ってしまえ」と言えば、また妹は烈しく泣くのだった。
 
思えば、兄妹でこんなに酔うほど飲んだことはなかったような気がする。
正体もなく酔っぱらう前に、妹は必ずストップをかけていた。
 
もしかしたら、とジャンは思う。
これがつまり…年を取った…ということなのかもしれない。
自分はもちろん、外見は少しも変わらない妹でも、確実に年齢を重ねているのだ。
そんな風に考えてみたことはなかったが。
 
「…お兄ちゃん?」
 
不意に妹がつぶやいた。
無言のまま、抱きしめる腕にそっと力をこめる。
 
「お兄ちゃん……お兄ちゃん?」
「ああ。ここに、いるよ」
「…うん」
 
ぽろ、とまたこぼれた涙をそっとぬぐってやり、ジャンは子供の頃よくそうしたように妹を椅子から抱き上げた。
 
「…もう寝ろ。その前にたっぷり水を飲んでおかないとな」
「…ごめんなさい」
「辛かったら帰ってくればいい。俺はいつでも…ここにいるから」
 
それは、嘘だ。
 
そうとわかっているはずの妹も、微かにうなずいた。
ジャンはきれいに整えられたベッドに妹を下ろし、涙に濡れた前髪をかき上げるとその額に優しくキスを落とした。
 
本当に……アイツのモノになっちまったんだな。
 
ふと、そう思った。
どうしてそう思ったのかは、わからなかった。
 
 
フランソワーズが日本に発ったのは、それから5日後だった。
その日、急な仕事が入り、ジャンは見送りには行かれなかった。
 
出勤しようとするジャンを、妹は昔のように玄関まで追ってきた。
いろいろありがとう、迷惑をかけてごめんなさい、と恥ずかしそうにアタマを下げる妹を軽くこづき、ジャンはただ笑った。
 
よっぽど辛かったんだろうな、と思う。
 
そんな所に帰すのが、心配でないわけではない。
が、彼女が帰れる場所はそこにしかないのであれば。
 
いつからか、妹は日本へ発つ理由を説明しないようになっていた。
そういうことだろう、とジャンは少しさびしく思う。
 
帰ることに、理由はいらない。
発つことには、理由が必要でも。
 
 
 
ジョーは、まだ戻っていなかった。
 
アルベルトは「アイツ、柄にもなく拗ねていやがったな」とフランソワーズをからかい、当分戻ってこないだろう、と笑った。
フランソワーズの留守中…というか、帰ってくる前日に、ジョーは「定期連絡」をしてきた。
彼女はパリに帰っているところだ、とアルベルトが告げると、ジョーはただ「そう」とだけ答え、僕もしばらく戻れないから…と言ったのだという。
 
「しばらくって…どれくらいかしら」
「さあな」
「…引き留められてるのかな」
「誰に?」
「わからないわ」
「…ふん」
 
やはりまたいつものジョーの「癖」だったのか、とアルベルトは苦々しく思った。
訪ねてきたときから、どうもフランソワーズの様子がおかしかった。
 
ジョーは誰にでも優しい。
その辺り、アルベルトにはどうにも理解ができなかったが、理解できようができまいが、そういう男なのだから仕方がない。
今、彼を「引き留めている」という女性を、ジョーはおそらく愛してなどいまい。が、彼女を冷たく振り払うことも、彼はしない。絶対に。
 
一方で、ジョーは、誰よりも愛している…だろうはず、のフランソワーズにはかなり冷淡なのだ。
それもアルベルトには理解しがたいが、やはりどうしようもない。
 
自分なら…と、アルベルトはひそかに思った。
フランソワーズは、魅力的な少女だ。
その美貌は言うまでもないが、しっかり者で、気だても優しい。
ただ同じ場所にいるだけで、心が和む…そういう少女だった。
 
彼女をほしがる男はいくらでもいるだろう。
自分が恋人なら、彼女を放っておくことなどとてもできない。
むしろ、それについては気が休まることがないだろう、と言ってもいい。
 
たとえば、彼女が他の男にさらわれることなど決してない、という自信がジョーにあるのかというと、どうもそうではないように見える。
もちろん、もとより彼女に関心がないから、そんなことは気にしていない、という様子でもない。
 
フランソワーズはよく「ジョーは日本人だから」と言う。
それで全てを納得するのには無理があるが、とりあえずそう考えるしかない、とアルベルトは思っていた。
 
ついでに言えば、そんなジョーを見限ろうとしないフランソワーズも不思議な少女だと思う。
彼女はあくまで辛抱強く彼を待ち、冷淡な彼を迎え……おそらく、彼が戻ってくれば、おとなしく抱かれてもいるのだ。
わけがわからない。
 
だから、今回、フランソワーズがどこか追い詰められたような表情で、パリに帰りたいと漏らしたとき、アルベルトは妙に救われたような気分になり、是非そうするようにと勧めたのだった。
 
しばらく帰ってこないぐらいでいいんじゃないか、ともひそかに思っていたのだが、ジョーから例の連絡があった翌日、まるでそれがわかっていたかのように、彼女は何の前触れもなく戻ってきた。
偶然といえばそれまでだが、やはりよくわからない二人だ、とアルベルトは思った。
 
 
 
「ま、アイツらのことは、放っておくがいいさ」
 
のんびりとグレートは言い、うまそうにグラスを傾けた。
 
「うむ…あの二人は心配いらんと、ワシも思うわい」
「…それは。俺も、別に心配しているわけでは…」
「たしかに、息抜きやら気分転換やらは必要だな。彼女もこの神秘の水を深く知れば、もっと楽〜な気分になれるかもしれないが…」
「何を言うか!…フランソワーズをアル中にするなど、ワシは断じて…」
「そんなこと誰も言ってませんって、博士!」
 
グレートは苦笑しながら、ギルモアとアルベルトのグラスにスコッチをつぎ足した。
 
「それにしても…フランソワーズは、遅いな。いつもこんなモノなのか?」
「ああ、張々湖飯店の貸し切りパーティってのはそうだよ…一応時間は決まってるんだがな…なんたって 店主がアレだろ?料理をちょっと誉められれば調子にのりまくって、時間なんざわからなくなっちまうのさ。おそらく、まだ宴たけなわ、我らが天才シェフも、可憐なウェイトレスも大忙し…なんだろうよ」
「…おい。それを早く言え。だったら、お前さんも手伝いにいくべきだったんじゃ…」
「我が輩は神聖なる有給休暇をとっておったんだ。仕方あるまい?ま、張々湖はあまりたくさんの手伝いをほしがるヤツじゃないからな…今日のお客は、我輩より彼女向けだったんだろうよ…たしか、どっかの研究室で特許をとった祝いだとか…」
「塩崎博士の研究室じゃよ。そういえば、若いモンが多いと聞いておるから、盛り上がれば徹夜もしかねないのう…まあ、張々湖がついておるのじゃから、大丈夫じゃろうが…」
 
アルベルトは唇を僅かに曲げると、立ち上がった。
 
「…ん?」
「張々湖飯店に行ってきます……冗談じゃない」
「おいおい…やめとけよ、アルベルト。お前さんも結構飲んでるんだし…」
「うむ。飲酒運転の規制も、最近ウルサイからの」
「だったら、歩いていくまでのことです…まったく、これだけの年長者が二人もいて、何をやっているんだか…!フランソワーズはたしかにサイボーグ戦士だが、女の子なんですよ、ギルモア博士!」
「…それも、嫁入り前の、か?…へへっ、お前も、なかなか結構堅い事言うんだな…死神さんよ?」
 
何をっ、と怒鳴りかけたとき、玄関のチャイムが鳴り、三人は顔を見合わせた。
 
「おお、帰ってきた…か」
「…やれやれ」
 
しかし。
モノも言わず玄関へ駆けつけ、勢いよくドアを開けたアルベルトは、次の瞬間、硬直していた。
 
「…ジョー?」
 
 
 
血相を変えたアルベルトの様子に、ジョーは戸惑い、何度か瞬いた。
 
「…なんだ、お前」
「なんだ…って。君こそ…どうかしたのか?」
「何しに帰ってきやがった!引き留められて、当分戻れないんじゃなかったのか?」
「……」
 
ぱたぱたとアルベルトの後を追ってきたグレートとギルモアも、目を丸くした。
 
「ジョー…か。どうしたんじゃ?」
「それは、僕が聞きたいことです。何か、あったんですか?」
「…いや、その」
 
さっと三人を観察し、どうやら相当酔っているらしいことを確かめると、ジョーは軽く息をついた。
 
「どうでもいいけど、あまり飲み過ぎると、フランソワーズに叱られますよ、博士」
「……」
「あれ?いないんですか?彼女?」
「ちょっと…な」
「……」
「張々湖飯店の手伝いに行ってるんだよ…貸し切りパーティが入った」
「じゃ、なんで君がここにいるんだよ、グレート?」
「なんで…って。俺は有給休暇中で…まあ、それに今夜の客はどっちかというと彼女の方が…なぁ」
「…またか。今何時だと思ってるんだ…張々湖大人も相変わらずだなあ…」
 
ジョーはいかにも不快そうにカバンを投げるように玄関に置くと、そのまま出て行った。
ばたん、とドアが閉まる音で我に返ったアルベルトが、後を追って飛び出した時には。
ジョーの姿は、もうどこにも無かった。
 
 
 
深夜、といっても差し支えない時間になっていたが、張々湖飯店には皓々と灯りがともり、宴はまさにたけなわだった。
張々湖言うところの「とっておき」のチャイナドレスを着込んだフランソワーズは、慌ただしく厨房と客席を行ったり来たりしていたが、満腹になった客たちの注文もさすがに途絶えがちになっている。
…が。
 
「アルヌールさん〜!あの、コイツの話聞いてやってくださーい!」
「ちょ、やめろって…!」
「何だよ、今がチャンスだろ、言っちまえ!」
 
声をかけられるたび、フランソワーズは曖昧な微笑を若者たちに返した。
張々湖飯店の看板娘として人気の彼女だったが、いわゆるセクハラは御法度、何事にも鷹揚な張々湖もその点には極めて厳しい。
常連客はもちろん、それをわきまえていたから、彼女がそういう種類の不快な思いをしたことは一度もなかった。
それでも、自分に淡い憧れの視線を向ける若者が何人かいる…ということは何となくわかっていたので、フランソワーズはいつも、彼らとのコミュニケーションにはかなり気を遣っている。
…が。
 
「ホラホラ!そういうこと言い出すのは酔いすぎの証拠ね!…そろそろお開きにするヨロシ!」
 
突然、厨房からすたすた出てきた丸っこい店主に怒鳴られ、若者達はきょとん、と顔を見合わせた。
 
「…え。あの…?」
「幹事さん、お勘定!…さすがに店閉めないと、こっちも明日に差し支えるアルよ〜!」
「あ。ホントだ!…すいまっせんっ!」
 
あたふた動き出した客を、これまたあたふたと店から送り出し、フランソワーズはほうっと息をついた。
 
「いやー。遅くまで悪かったアルよ、フランソワーズ…ご苦労さま、助かったね」
「いいえ…でも、どうしたの?急に…大人らしくないわ。まるで追い出したみたい」
「なに……いや、その、キリがないからねえ……」
 
もごもごと言葉を濁す張々湖に何となく首をかしげたフランソワーズは、あっと声をのみこみ、目を丸くして立ちすくんだ。
張々湖の後ろから、ジョーが静かに姿を現したのだ。
 
「ただいま、フランソワーズ」
「…お帰り…なさい」
「君を迎えにきたんだ。もう遅いし…それに、博士もアルベルトもグレートも…なんだか、酔っぱらっていたから…ね」
「……」
 
かちゃかちゃ、と食器のふれあう音に、フランソワーズは我に返った。
 
「あ…ジョー、ごめんなさい、もう少し待っていてくれる?後片付け、お手伝いしなくちゃ…」
「ああ、フランソワーズ、もういいアルよ!時間超過したアルね…着替えて帰るヨロシ!」
 
せかせかと言う張々湖は、とりつく島もない。
言葉を失い、しばらく立ちつくしていたフランソワーズの肩を、ジョーは黙ったまま、促すように軽く叩いた。
 
 
 
迎えに来た、というから車なのかと思った。
 
そう言ってしまうと彼を非難することになりそうなので、フランソワーズは黙ったまま、ただひたすらジョーの後を歩いた。
 
「…ジョー」
「……」
「…いつ、帰ってきたの?」
 
ふとジョーが足を止め、振り返った。
心臓が飛び上がったような気がして、あわてて深呼吸する。
ジョーはじっとそんな彼女を見つめていた…が、やがて、ぽつりと言った。
 
「…今」
「今…って」
「今は…今、だよ」
「……」
 
困惑しきって立ちつくしているフランソワーズにふと苦笑すると、ジョーはつぶやくように言った。
 
「やっぱり…手伝ってもらおうかな」
「…え」
「君に」
「…何…を?」
「引っ越しさ。このままじゃ…帰りようがない」
「……」
 
戸惑っているうちに、さっと抱き上げられ、フランソワーズは小さい悲鳴を上げた。
カチッと耳慣れた音がするのと同時に、目の前が暗くなる。
 
…加速、装置?!
 
「目を開けて。着いたよ」
 
囁かれ、そうっと目を開けると、フランソワーズは思わずうつむいてしまった。
ジョーの衣服はすっかり焼け落ちている。
自分は…というと、彼が庇ってくれたのだろう、すっかり、というほどではない…ない、けれど…。
 
「どう、したの、ジョー…!ひどいわ…!」
「…うん。ごめん」
 
涙ぐむフランソワーズを優しく抱き寄せ、唇を塞ぐ。
それ以上何も言わせない、というように、ジョーは彼女をそのまま静かに押し倒した。
 
横たえられた背中に、古びた畳の感触がある。
一度も訪ねたことはない…が、たぶん、彼が仮住まいをしているアパートに連れてこられたのだ…と、フランソワーズはぼんやり思った。
 
そしてそれが、その夜の彼女の最後の記憶だった。
 
 
10
 
「引っ越し」がすむと、ジョーは本当に久しぶりに研究所に落ち着いた。
次の仕事を探しに行く様子も特にない。
 
予定より数週間早く滞在を切り上げ、ベルリンに引き上げたアルベルトは、そろそろメンテナンスに行こうかと思っている、と電話で漏らしたジェットに、クリスマスの頃まで待った方がいい、と忠告した。
 
「ホトボリが冷めるまで、というか…とにかく今行ったら馬鹿をみるぜ」
「ホトボリ?…ケンカでもしてるのか、アイツら?」
「そういうわけじゃないが……」
 
面白い、だったら行って引っかき回してきてやるぜ、とジェットは愉快そうに言った。
彼が本気でないことは勿論わかっていたので、アルベルトは何も言わない。
 
「だがよ、クリスマス頃まで…で、ホントに大丈夫なのか?」
「ああ。まあ、そんなもんで回復するだろう」
「…なんだかな」
 
実際、そんなに時間がかかるとも思えない。
アルベルトが滞在を切り上げたのも、ジョーのためというよりはフランソワーズのためだった。
 
フランソワーズを伴って「引っ越し」してきたジョーが、見るからにいつもと様子が違ったのは、ほんの数日間だけだったのだ。
彼は文字通り、片時も彼女を傍らから離そうとしなかった。
 
それだけではない。
アルベルトは彼女に何気なく声をかけるたび、いちいち刺すような視線を感じていた。
もちろん、その視線の出所を確かめる必要などなかったし、確かめる気もしなかった…が。
 
それでも、帰国するアルベルトを空港まで送ったのは、フランソワーズ一人だった。
ジョーはギルモアの手伝いがあり、同行しなかった。
つまり、その頃には既にそれぐらいの「回復」はしていたのだ。
おそらく、今ではもう、すっかり元通り…の様子になっているのだろう。
 
わけのわからないヤツらだ。
 
電話を切ると、アルベルトはつぶやいた。
苦々しい思いでそうつぶやいたはずなのに、自分の頬がなんとなく緩んでいることにも、彼は気づいている。
 
わけのわからないヤツらだ。
いつまでたっても……な。
 
 
11
 
「ジョー。私、どうしても気になることが…あるんだけど」
 
思い詰めた口調に、ジョーは雑誌から顔を上げ、フランソワーズに真剣な眼差しを向けた。
 
「気になることって…ああ、アキちゃんのことかい?…彼女はただの同僚だよ」
「…アキちゃん…って、誰?」
「だから、同僚…いや、同僚だった女の子…になるのかな」
「……」
 
小さく深呼吸してから、フランソワーズはゆっくり口を開いた。
 
「そうじゃないわ。『帰りようがない』って、どういうことだったのかしら…」
「帰りようが…ない?」
「あなた、この間そう言ったでしょう。このままじゃ、帰りようがない…って」
「この間…って。いつ?」
「張大人のお店から帰るときよ…あなたが…その、加速、して…」
 
フランソワーズは不意に口ごもり、うつむいた。
その頬が微かに染まっているのをジョーはふと幸福そうに眺めた…が。
 
「覚えていないな…なんだろう、それ」
「…まあ」
「というか、君もよく覚えているね…そんなこと」
「そんなこと…ですって?私、あれからずっと…!」
「あの晩…何を言ったかなんて、僕は覚えていないよ。だって……わかるだろ?」
「……っ!」
 
不意に抱き締められ、フランソワーズは慌ててもがいた。
 
「何するの…ちょっと、離して、ジョー!」
「あの晩のことで覚えているのは、君のことだけさ……ねえ、いいだろ、フランソワーズ…少しだけだから…」
「もう、やめてったら…こんなところで…お願い、もし博士が…!」
「博士は実験に夢中だよ…君が呼びに行かなかったら、あと一時間は出てこない」
「そうじゃなくて…ごまかすなんて、ずるいわ!それも、こんな…やりかた…」
「仕方ないだろ、忘れちゃったんだから…こうしているうちに、思い出せるかもしれないし…ね?」
「…ジョーの…馬鹿!」
 
フランソワーズの体からふっと力が抜けたのを確かめてから、彼女をソファに横たえ、一応カーテンだけは閉めておくか…と、ジョーは立ち上がった。
右手を伸ばし、午後の柔らかな光にふと目を細める。
 
帰りようがない……か。
僕は、そういう人間なんだろう、本当は。
子供の頃から、そうだった。
そういう風に、生まれついているんだ…きっと。
 
しゃっ、と鋭い音をたててカーテンが閉ざされる。
ジョーは振り返ると、そのままソファに覆い被さり、いつも黙って自分を包んでくれる、柔らかく優しい胸にそっと顔を埋めた。
 
 
でも、今は君のもとに。
今だけ、かもしれない……のだとしても。


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