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五周目


  11   距離(超銀)
 
 
彼女がうらやましかったわけではないの。
私は、ただ、寄り添う二人を見つめて…そして、確かめていたのだと思う。
 
急に、ああ、そうだったんだわ…って、思い出した。
思い出してみたら、どうして忘れていたのかが、不思議で。
 
でも、ね、ジョー。
もっと不思議なのは……
 
私、また忘れてしまっているみたいよ。
不思議ね。
 
あなたに駆け寄った彼女の笑顔。
屈託のない、輝くばかりに美しかったあの笑顔なら、こんなにはっきり思い出すことができるのに。
 
それなのに、私は忘れてしまっている。
きっと、いつかあなたが思い出させてくれるときまで、忘れたままなのでしょう。
 
でも、いつかきっと。
思い出す日は必ず来る。
 
ああ、そうだったんだわ……って。
 
 
 
フランソワーズ・アルヌールは絶対に落ちない、と誰もが言う。
そしてたしかに、誰もが言うだけのことはある。
 
でも、僕はあきらめるつもりなんてない。
だって、彼女よりすばらしい女性なんてこの世にいるとは思えないんだ。
あきらめてしまったら、僕はそれきり女性を心から愛することができなくなるだろう。
それって、かなり淋しい人生じゃないか。
 
まずプライドを捨てた。
彼女の心に他の男が何人いようとかまわない。
彼女にとっては、僕なんか虫けら同然の存在なんだろう。でも、それがなんだ。虫けらの何が悪い。
ただの人間であることより、彼女の虫けらであることの方がずっと尊い生き方だ。
僕は、そう信じた。
 
そしてもちろん、心優しい彼女が、僕を虫けら扱いすることなど実際にはなかった。
そんなわけで、僕は今こうして、黄昏の散歩道で彼女の肩を抱きながら、彼女が誰より愛する男…の話を聞いたりしているわけだ。
 
 
「そいつ、なんていうんだい?」
「名前?…ナイショよ」
「教えてくれてもいいじゃないか…別に、襲いに行ったりしないからさ」
「まあ!」
 
彼女は不意に楽しそうに笑った。
 
「そんなこと、心配していないわ」
「ちぇっ!…油断するなよ、君は僕をよっぽど温厚な男だと思ってるんだろうけど……」
「そうじゃなくて……あなたがどんな乱暴な人でも同じよ。彼にはかなわないもの」
 
…というのだ。
彼女の愛する男は、世界で…というか、宇宙で一番強い男なのだという。
たびたび聞かされた。
 
彼女は、ホンキでそう思っているらしい。本当にそういうことのようなのだ。
そんな馬鹿な、と思わなくもなかったけれど、僕はとにかくプライドを捨てるコトに決めていた。
彼女の言葉は神の言葉だ。どんなことだって信じよう。
 
僕達のささやかなデートは、いつも週末のこの時間。
そして、いつもこの散歩道。
歩き終えればさようなら、だ。
 
もどかしくないわけではない。時折、凶暴な衝動が頭をもたげることだってある。
でも、僕は耐えた。
こんな状態がいったいいつまで続くのかと、一向に変化のない関係に焦れたときは、自分に言い聞かせた。
 
いつまで続いたっていい。というか、いつまでも続いてほしい。
こうしてそばにいてくれるだけでいい。彼女を失うよりはずっと。
 
思い出せ。
僕は、虫けらなんだ。
 
だから、僕は虫けららしく、つつましく彼女の肩を抱き、ささやかな幸福にひたることに専念していた。
ああ、もうすぐ散歩道が終わる。
 
「…フランソワーズ」
 
いつも同じだ。
道の終わりで、僕は立ち止まり、ありったけの思いをこめて彼女を見つめる。
彼女は、困ったように目を伏せる。
 
そうなのだ。
彼女は、いつも困っている。
でもかまうものか。
 
僕はそうっと彼女を抱き寄せ、耳元に囁いた。
いつものように。
 
「また…日曜日に。待ってるから」
「…でも」
 
でも、の先は言わせない。
彼女は優しい。
こんな虫けらを、ひねりつぶすことすらできないくらい。
 
「フランソワーズ…!」
 
僕は彼女を抱きしめる腕に、ありったけの力をこめた。
 
 
 
彼の後ろ姿が角を曲がるまで見送り、ほうっと息をついたフランソワーズは、何気なく振り返ると、そのまま硬直した。
 
「……ジョー」
「久しぶり、フランソワーズ…ごめん、驚いたかい?」
 
黙ってただうなずく彼女に、ジョーは思わず微笑した。
 
「事件ってわけじゃないから安心してくれ。仕事でパリの近くにきたから、ちょっと君の顔が見たくなったんだ」
「そう…嬉しいわ。でも、電話ぐらい入れてくれればよかったのに…」
「君も、忙しいと思って」
「…そんなこと」
 
そのまま歩き出したジョーを、フランソワーズは自然に追った。
 
「ずいぶん、簡単に抱くんだなあ…」
「…え?」
「今の彼。君のことを、ね」
「まあ、見ていたの?」
「うん」
「そうねえ…本当は困るんだけど…なんだか、放っておけないの。不思議なヒトよ」
「…好き?」
「ええ」
「そう…か」
「週末に、いつも同じ場所で待っていてくれるの。それで、この道をずうっと散歩して…おしゃべりして。おしまいにああやって…」
「君を、抱くの?…それが、さようならの挨拶?」
「ええ」
「変わった人だね」
 
ジョーはふと微笑むと、また口を噤んだ。
沈黙が落ちる…が、居心地の悪いものではなかった。
 
夕闇が降りてくる。
同じテンポでついてきていた足音が止まったのに気づき、振り返ったジョーは、空を見上げて星を探しているフランソワーズに、思わず目を細めた。
 
「…ジョー?どうしたの…?何か、言った?」
「…いや。急だけど、これから食事…一緒にできるかい?」
「ええ、もちろんよ…嬉しいわ」
 
 
 
彼が、うらやましかったわけではない。
ただ、あらためて思い出しただけだ。
 
僕は、彼女に触れてはいけない。
あんな風に触れることは決してできない。許されない。
それは悲しいことではない。つらいことでもない。
 
でも。
ああ、そうなんだよな…と、心の隅で乾いた声がした。
 
つまらない…虫けらのような男だった。
それは一目でわかった。
彼女だってわかっているだろう。
 
彼女は、人に哀れみをかけたりしない。
だが、それは求められなければ、の話だ。
哀れみをほしいと…どうしても欲しいと、切実に求められたら、彼女は拒めない。
誰よりも優しい…優しい、僕のフランソワーズ。
 
彼女に哀れみを恵んでもらっているだけの、つまらない男。
でも、そんな男なのに、彼は彼女を無造作に、簡単に抱くのだ。
僕には決してできないソレを、彼はあっけなくやってのける。
 
うらやましいわけではない。
 
 
君に触れてはいけない。
君に近づいてはいけない。
 
でも、時が来れば僕は、それを呆れるほどあっさりと忘れるのだ。
そして、君を闇に引きずり込む。
闇に隠れて、君を貪る。
 
君に近づいてはいけない。
わかっている。
でも、僕は忘れる。
 
彼がうらやましいわけではない。
光の中で、無造作に君を抱き寄せる彼。
僕には永遠に手の届かない君を、いとも簡単に。
 
うらやましくなんかない。
光の中で君に寄り添う虫けらであるよりは、君を闇に攫う魔物でいよう。
それが、僕なのだから。
 
 
 
何も、間違えてはいなかったはずだ。
 
彼女に無理を強いた覚えはない。
彼女の心に別の男がいることも、受け入れた。
それとも、受け入れてはいなかったのか。
 
とにかく、その日、彼女はいつもの場所に来なかった。
電話も通じない。
胸騒ぎがした。
 
一日夢中で走り回り、僕が知ったことは、フランソワーズ・アルヌールが突然行方不明になった…ということだった。
 
彼女の友人たちは落ち着いていた。
彼女にはよくこういうことがあるのだという。
誘拐された、というようなことではなく、彼女自身の意志でどこかに旅立ったのだという。
そうして、フランソワーズ・アルヌールは消えた。
 
呆然と立ちつくす僕に、彼女の友人たちは優しく言った。
心配しなくてもいい、彼女はきっと帰ってくる……と。
 
 
間違えてはいなかったはずだ。
でも。
 
彼女は僕に何も告げず発った。
告げる必要などないからだ。
捨てたはずのプライドが、僕をきりきりと苛む。
 
彼女が戻ってきてくれたら…また僕の傍にいてくれたら。
この苦しみも消えるのだろうか。
 
もちろん、消える。
そうとも、彼女が傍にいてくれさえすれば、この苦しみはたちまち天上の歓びに変わるのだ!
彼女が、傍にいてくれさえすれば。
僕の、この腕の中に!
 
 
そう心で繰り返しながら、それでも僕は微かに覚えていたのだ。
それは、もしかしたら僕に僅か残された理性のかけら。
フランソワーズ・アルヌールは絶対に落ちない、と忠告した誰もが、続けてこう言った。
 
あの女は麻薬なのだ。
一度知ったら手放せない。
だが、彼女は時が来れば、魔法のように自ら消える。
追うすべもないほど、跡形もなく。
 
優しい、女だ。
 
 
 
振り向くと、彼はそこにいる。
 
そのことに気づいたから、私はもう彼女をうらやましいとは思わない。
あっけないほど簡単に彼に駆け寄り、寄り添っていた彼女。
その、輝く笑顔。
 
どこまでも見透すことのできるこの目で、どこまで探しても彼は見つからなかった。
どんなに一生懸命探しても。
それなのに、彼女は……彼女たちは、あっけないほど簡単に彼に駆け寄ることができる。
私には決して許されないこと。
諦めたつもりでも、やっぱり悲しかった。
 
でも……
 
私は、勘違いをしていただけ。
彼は、いつもここにいた。
振り向きさえすれば、よかったんだわ。
 
どこまでも見透すことのできるこの目で、どこまで遠くを探しても、彼は見つからない。
当たり前のことだった。
彼は、いつもここにいたのだから。
 
…今も。
 
闇の中、目をこらす私の後ろに彼がいる。
見えなくても、はっきりわかる。
私は、彼に守られている。
 
 
振り向きさえすれば、あなたはそこにいる。
そう信じているから。
だから、見えなくてもいい。
あなたが世界のどこにもいないと思えるときも、私はもう迷わない。
 
 
いつか全てが終わったとき。
この目をこらす必要がなくなったとき。
私のさだめが終わるとき。
私は、そっと振り向きましょう。
そして……
 
 
近づいてはいけない…なんて。
戦いの中ではそれを忘れてしまう…なんて。
ずいぶん苦しんだわね、私たち。
でも、何もかも、勘違いだったのよ、ジョー。
 
 
近づいてはいけなかったわけではなく、
近づく必要がなかっただけ。
戦いのときだけではなく、どんなときも、私たちは……
 
 
 
「009……009!」
 
爆風に煽られ、夢中ですがりつく少女を、ジョーは優しく抱き留め、宥めるようにその髪をなで続けた。
 
「大丈夫…落ち着いて」
「離さないで…!お願い……!」
「離さないよ、絶対に。もう少しだから…がんばれるね…?」
 
少女をぎゅっと強く抱きしめてから、ジョーは立ち上がった。
つい先刻、003から通信で示されたルートは、今の爆発で、炎に包まれてしまった。
しかし、他に道はない。
 
…できるはずだ。できなければならない。
 
君が示した道。
それなら、走り抜けるしかない。
それができない僕だというのなら、そもそも生きていく甲斐などない。
 
「…009」
「僕を、信じてくれ」
「009……。ええ、わかったわ、私…!」
 
炎が一瞬分かれ、僅かな道を開いたのを、ジョーは見逃さなかった。
一気に走り込む。
 
 
信じてくれ、なんて言う必要もない。
君は僕を信じている。
どんなときも、どこにいても。
 
出口は見えない。でも、必ずある。
君はそこにいる。
そこにいて、僕を信じている。
 
できるはずだ。
できなければならない。
それができない僕だというのなら、生きていく甲斐などないのだから。
 
 
僕はいつも君とともにいる。
見えない君に包まれている。
そうやって君が信じていてくれるかぎり、僕は走り続けることができるんだ。
 
見えない君を目指して、いつまでも。
どこまででも。


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