1
彼女がうらやましかったわけではないの。
私は、ただ、寄り添う二人を見つめて…そして、確かめていたのだと思う。
急に、ああ、そうだったんだわ…って、思い出した。
思い出してみたら、どうして忘れていたのかが、不思議で。
でも、ね、ジョー。
もっと不思議なのは……
私、また忘れてしまっているみたいよ。
不思議ね。
あなたに駆け寄った彼女の笑顔。
屈託のない、輝くばかりに美しかったあの笑顔なら、こんなにはっきり思い出すことができるのに。
それなのに、私は忘れてしまっている。
きっと、いつかあなたが思い出させてくれるときまで、忘れたままなのでしょう。
でも、いつかきっと。
思い出す日は必ず来る。
ああ、そうだったんだわ……って。
2
フランソワーズ・アルヌールは絶対に落ちない、と誰もが言う。
そしてたしかに、誰もが言うだけのことはある。
でも、僕はあきらめるつもりなんてない。
だって、彼女よりすばらしい女性なんてこの世にいるとは思えないんだ。
あきらめてしまったら、僕はそれきり女性を心から愛することができなくなるだろう。
それって、かなり淋しい人生じゃないか。
まずプライドを捨てた。
彼女の心に他の男が何人いようとかまわない。
彼女にとっては、僕なんか虫けら同然の存在なんだろう。でも、それがなんだ。虫けらの何が悪い。
ただの人間であることより、彼女の虫けらであることの方がずっと尊い生き方だ。
僕は、そう信じた。
そしてもちろん、心優しい彼女が、僕を虫けら扱いすることなど実際にはなかった。
そんなわけで、僕は今こうして、黄昏の散歩道で彼女の肩を抱きながら、彼女が誰より愛する男…の話を聞いたりしているわけだ。
「そいつ、なんていうんだい?」
「名前?…ナイショよ」
「教えてくれてもいいじゃないか…別に、襲いに行ったりしないからさ」
「まあ!」
彼女は不意に楽しそうに笑った。
「そんなこと、心配していないわ」
「ちぇっ!…油断するなよ、君は僕をよっぽど温厚な男だと思ってるんだろうけど……」
「そうじゃなくて……あなたがどんな乱暴な人でも同じよ。彼にはかなわないもの」
…というのだ。
彼女の愛する男は、世界で…というか、宇宙で一番強い男なのだという。
たびたび聞かされた。
彼女は、ホンキでそう思っているらしい。本当にそういうことのようなのだ。
そんな馬鹿な、と思わなくもなかったけれど、僕はとにかくプライドを捨てるコトに決めていた。
彼女の言葉は神の言葉だ。どんなことだって信じよう。
僕達のささやかなデートは、いつも週末のこの時間。
そして、いつもこの散歩道。
歩き終えればさようなら、だ。
もどかしくないわけではない。時折、凶暴な衝動が頭をもたげることだってある。
でも、僕は耐えた。
こんな状態がいったいいつまで続くのかと、一向に変化のない関係に焦れたときは、自分に言い聞かせた。
いつまで続いたっていい。というか、いつまでも続いてほしい。
こうしてそばにいてくれるだけでいい。彼女を失うよりはずっと。
思い出せ。
僕は、虫けらなんだ。
だから、僕は虫けららしく、つつましく彼女の肩を抱き、ささやかな幸福にひたることに専念していた。
ああ、もうすぐ散歩道が終わる。
「…フランソワーズ」
いつも同じだ。
道の終わりで、僕は立ち止まり、ありったけの思いをこめて彼女を見つめる。
彼女は、困ったように目を伏せる。
そうなのだ。
彼女は、いつも困っている。
でもかまうものか。
僕はそうっと彼女を抱き寄せ、耳元に囁いた。
いつものように。
「また…日曜日に。待ってるから」
「…でも」
でも、の先は言わせない。
彼女は優しい。
こんな虫けらを、ひねりつぶすことすらできないくらい。
「フランソワーズ…!」
僕は彼女を抱きしめる腕に、ありったけの力をこめた。
3
彼の後ろ姿が角を曲がるまで見送り、ほうっと息をついたフランソワーズは、何気なく振り返ると、そのまま硬直した。
「……ジョー」
「久しぶり、フランソワーズ…ごめん、驚いたかい?」
黙ってただうなずく彼女に、ジョーは思わず微笑した。
「事件ってわけじゃないから安心してくれ。仕事でパリの近くにきたから、ちょっと君の顔が見たくなったんだ」
「そう…嬉しいわ。でも、電話ぐらい入れてくれればよかったのに…」
「君も、忙しいと思って」
「…そんなこと」
そのまま歩き出したジョーを、フランソワーズは自然に追った。
「ずいぶん、簡単に抱くんだなあ…」
「…え?」
「今の彼。君のことを、ね」
「まあ、見ていたの?」
「うん」
「そうねえ…本当は困るんだけど…なんだか、放っておけないの。不思議なヒトよ」
「…好き?」
「ええ」
「そう…か」
「週末に、いつも同じ場所で待っていてくれるの。それで、この道をずうっと散歩して…おしゃべりして。おしまいにああやって…」
「君を、抱くの?…それが、さようならの挨拶?」
「ええ」
「変わった人だね」
ジョーはふと微笑むと、また口を噤んだ。
沈黙が落ちる…が、居心地の悪いものではなかった。
夕闇が降りてくる。
同じテンポでついてきていた足音が止まったのに気づき、振り返ったジョーは、空を見上げて星を探しているフランソワーズに、思わず目を細めた。
「…ジョー?どうしたの…?何か、言った?」
「…いや。急だけど、これから食事…一緒にできるかい?」
「ええ、もちろんよ…嬉しいわ」
4
彼が、うらやましかったわけではない。
ただ、あらためて思い出しただけだ。
僕は、彼女に触れてはいけない。
あんな風に触れることは決してできない。許されない。
それは悲しいことではない。つらいことでもない。
でも。
ああ、そうなんだよな…と、心の隅で乾いた声がした。
つまらない…虫けらのような男だった。
それは一目でわかった。
彼女だってわかっているだろう。
彼女は、人に哀れみをかけたりしない。
だが、それは求められなければ、の話だ。
哀れみをほしいと…どうしても欲しいと、切実に求められたら、彼女は拒めない。
誰よりも優しい…優しい、僕のフランソワーズ。
彼女に哀れみを恵んでもらっているだけの、つまらない男。
でも、そんな男なのに、彼は彼女を無造作に、簡単に抱くのだ。
僕には決してできないソレを、彼はあっけなくやってのける。
うらやましいわけではない。
君に触れてはいけない。
君に近づいてはいけない。
でも、時が来れば僕は、それを呆れるほどあっさりと忘れるのだ。
そして、君を闇に引きずり込む。
闇に隠れて、君を貪る。
君に近づいてはいけない。
わかっている。
でも、僕は忘れる。
彼がうらやましいわけではない。
光の中で、無造作に君を抱き寄せる彼。
僕には永遠に手の届かない君を、いとも簡単に。
うらやましくなんかない。
光の中で君に寄り添う虫けらであるよりは、君を闇に攫う魔物でいよう。
それが、僕なのだから。
5
何も、間違えてはいなかったはずだ。
彼女に無理を強いた覚えはない。
彼女の心に別の男がいることも、受け入れた。
それとも、受け入れてはいなかったのか。
とにかく、その日、彼女はいつもの場所に来なかった。
電話も通じない。
胸騒ぎがした。
一日夢中で走り回り、僕が知ったことは、フランソワーズ・アルヌールが突然行方不明になった…ということだった。
彼女の友人たちは落ち着いていた。
彼女にはよくこういうことがあるのだという。
誘拐された、というようなことではなく、彼女自身の意志でどこかに旅立ったのだという。
そうして、フランソワーズ・アルヌールは消えた。
呆然と立ちつくす僕に、彼女の友人たちは優しく言った。
心配しなくてもいい、彼女はきっと帰ってくる……と。
間違えてはいなかったはずだ。
でも。
彼女は僕に何も告げず発った。
告げる必要などないからだ。
捨てたはずのプライドが、僕をきりきりと苛む。
彼女が戻ってきてくれたら…また僕の傍にいてくれたら。
この苦しみも消えるのだろうか。
もちろん、消える。
そうとも、彼女が傍にいてくれさえすれば、この苦しみはたちまち天上の歓びに変わるのだ!
彼女が、傍にいてくれさえすれば。
僕の、この腕の中に!
そう心で繰り返しながら、それでも僕は微かに覚えていたのだ。
それは、もしかしたら僕に僅か残された理性のかけら。
フランソワーズ・アルヌールは絶対に落ちない、と忠告した誰もが、続けてこう言った。
あの女は麻薬なのだ。
一度知ったら手放せない。
だが、彼女は時が来れば、魔法のように自ら消える。
追うすべもないほど、跡形もなく。
優しい、女だ。
6
振り向くと、彼はそこにいる。
そのことに気づいたから、私はもう彼女をうらやましいとは思わない。
あっけないほど簡単に彼に駆け寄り、寄り添っていた彼女。
その、輝く笑顔。
どこまでも見透すことのできるこの目で、どこまで探しても彼は見つからなかった。
どんなに一生懸命探しても。
それなのに、彼女は……彼女たちは、あっけないほど簡単に彼に駆け寄ることができる。
私には決して許されないこと。
諦めたつもりでも、やっぱり悲しかった。
でも……
私は、勘違いをしていただけ。
彼は、いつもここにいた。
振り向きさえすれば、よかったんだわ。
どこまでも見透すことのできるこの目で、どこまで遠くを探しても、彼は見つからない。
当たり前のことだった。
彼は、いつもここにいたのだから。
…今も。
闇の中、目をこらす私の後ろに彼がいる。
見えなくても、はっきりわかる。
私は、彼に守られている。
振り向きさえすれば、あなたはそこにいる。
そう信じているから。
だから、見えなくてもいい。
あなたが世界のどこにもいないと思えるときも、私はもう迷わない。
いつか全てが終わったとき。
この目をこらす必要がなくなったとき。
私のさだめが終わるとき。
私は、そっと振り向きましょう。
そして……
近づいてはいけない…なんて。
戦いの中ではそれを忘れてしまう…なんて。
ずいぶん苦しんだわね、私たち。
でも、何もかも、勘違いだったのよ、ジョー。
近づいてはいけなかったわけではなく、
近づく必要がなかっただけ。
戦いのときだけではなく、どんなときも、私たちは……
7
「009……009!」
爆風に煽られ、夢中ですがりつく少女を、ジョーは優しく抱き留め、宥めるようにその髪をなで続けた。
「大丈夫…落ち着いて」
「離さないで…!お願い……!」
「離さないよ、絶対に。もう少しだから…がんばれるね…?」
少女をぎゅっと強く抱きしめてから、ジョーは立ち上がった。
つい先刻、003から通信で示されたルートは、今の爆発で、炎に包まれてしまった。
しかし、他に道はない。
…できるはずだ。できなければならない。
君が示した道。
それなら、走り抜けるしかない。
それができない僕だというのなら、そもそも生きていく甲斐などない。
「…009」
「僕を、信じてくれ」
「009……。ええ、わかったわ、私…!」
炎が一瞬分かれ、僅かな道を開いたのを、ジョーは見逃さなかった。
一気に走り込む。
信じてくれ、なんて言う必要もない。
君は僕を信じている。
どんなときも、どこにいても。
出口は見えない。でも、必ずある。
君はそこにいる。
そこにいて、僕を信じている。
できるはずだ。
できなければならない。
それができない僕だというのなら、生きていく甲斐などないのだから。
僕はいつも君とともにいる。
見えない君に包まれている。
そうやって君が信じていてくれるかぎり、僕は走り続けることができるんだ。
見えない君を目指して、いつまでも。
どこまででも。
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