お見舞い

   平ゼロ
 
 
3月に卒業したアルヌール先輩が、前触れもなく部室にやってきたのは、5月も半ばになってからだった。
 
新歓のキャンプはこの前の連休に終わっていたし、そろそろ試験…というのもあって、今出てきている部員は僕とジェットぐらいだ。
相変わらず、なんだか間の悪い先輩だなーと思う。
 
「おー、久しぶり!なんだよ、五月病か?」
 
ジェットは相変わらず、後輩らしからぬ失礼な物言いをする。案の定、先輩に思い切り睨まれ、ついでに鼻の頭をはたかれて、また大声で文句を言った。
 
ついこの間までは、こんな光景が当たり前に僕の周りにあったのだ。
声を上げて笑いながら、僕はちょっと愉快な気分になっていた。
 
「元気そうね、ジョー。新入生は入った?」
「はい。そんなに多くはないけど、みんな熱心…だと思います。この間、新歓キャンプに行きました」
「そう!そうよね、そんな季節ねえ…うらやましいわ、私も行きたかった」
「先輩もお元気そうですね。T大は楽しいですか?」
「…まだ右も左もわからない…って感じよ。広すぎるわー!」
 
先輩の笑顔にちょっと陰がよぎった…ように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
もしかして、ジェットの言うとおり、五月病だったりするのかな。
 
ぼんやりそんなことを考えていると、先輩は急に落ち着かない様子になって、きょろきょろし始めたのだった。
 
「アルベルト先生はいらっしゃる?…ちょっと先生にお聞きしたいことがあって来たの」
 
先輩は大きなカバンから、これも大きなファイルを取り出した。
僕たちがひそかに「アルヌール・ファイル」と呼んでいる、ある植物についてのとてつもない膨大な観察記録だ。
先輩は、小学生の頃から、このありふれた雑草の研究に情熱を注いでいて、その成果は専門家をもうならせるものであるらしく、内外を問わず、数々の賞も獲得している。
 
で、その情熱がこうじて、先輩はこの高校に、今僕が所属しているサークル「フィールドワーク同好会」まで結成してしまったのだ。
 
「えー、と」
 
ジェットがちょっと口ごもり、僕をちらっと見た。言ってもいいのかな、という感じだ。
いいのかどうかはわからなかったけれど、僕たちがアルヌール先輩の目をごまかせるはずなんかない…という気はする。
ジェットもたぶん、そう思ったらしい。すぐに続けてこう言った。
 
「アルのおっさん、今学校に来てないんだ…よな、ジョー?」
 
なんでふるんだよ!と言いたいのをぐっとこらえる。
僕は仕方なくうなずいた。
 
「来ていない…って、ジョー、どういうこと?」
「よくわかりません。入院しているらしい…って聞いたんですが」
「入院?!…まさか!」
 
先輩は心底驚いた声で叫んだ。
ちょっと驚きすぎなんじゃないかと思うぐらいに。
 
「あの、鋼鉄頑固オヤジが、入院ですって?!」
 
さすがアルヌール先輩だ。
僕はもちろん、ジェットだってそこまでは言えないよ。
 
 
 
実のところ、僕たち生徒にアルベルト先生の入院先は知らされていなかった。
というか、それ以前に先生がホントに入院しているのかどうかも、わかっていなかった。
が。
さすがアルヌール先輩。
 
誰もが認めるアルベルト先生の愛弟子で、創立以来の天才少女、我が校の誉れでもあるフランソワーズ・アルヌールが、あの大きな澄んだ瞳をうるませて、
 
「アルベルト先生はどうなさったんでしょうか…」
 
と、訴えかければ、それに逆らえる教師なんて、たぶんいない。
先輩は、ものの五分で、アルベルト先生の入院先に病名まで聞き出していた。
 
「よかったわ、そんなに遠くなくて…!」
「…よかったですね」
 
僕はなんとなく後ずさりしながら適当に相づちをうった。
アルヌール先輩はたしかに天才だと思うんだけど、なぜかよく迷子になる人で。
だから、きっと……
 
「ジョー、あなたも先生のお見舞いに行きたいでしょう?」
 
…遅かった。
 
逃げられるわけないのだ。
僕は、その日、予備校に行くのをあきらめるしかなかった。
もっとも、ジェットはサボる口実ができて喜んでいる…ようでもあった。
 
いや、別に先生のお見舞いが嫌だ…ってわけではない。
僕はアルヌール先輩もアルベルト先生も好きだ。
久しぶりに二人と話せるのは嬉しい。
 
でも。
僕は一応受験生で、ついでにいうとアルヌール先輩ほどアタマに余裕があるわけじゃないんだよなあ……
 
 
 
お見舞いに行くんだから、何か買って行かなくちゃ、と、学校近くのスーパーに入る先輩に、僕たちはちょっと感心しながらついていった。
やっぱり、大学生は気配りの仕方が違う。
 
「アルベルト先生の病気って、食事制限はなさそうなんですか?」
 
実は、アルヌール先輩がおしえてくれた、先生の病名は、聞いたこともないモノだった。
ジェットなんかはこっそり「ソレってホントに人間のかかる病気なのかよ?」とかつぶやいたぐらいだ。
が、先輩は僕の問に迷わずうなずいた。
 
「大丈夫よ。そうねえ、やっぱり果物が無難かしら…リンゴなんてどう?」
 
どう、と言われても。
僕とジェットはかなり投げやりにうなずいた。
アルヌール先輩は楽しそうにリンゴを買い物籠に入れた。
 
「そうだわ、リンゴなら先生に皮をむいてみせてもらうこともできるし」
「…皮?」
「あら。あなたたちは見たことなかった?アルベルト先生のナイフさばきってスゴイのよ」
 
見たこと…なかった、かもしれない。
部の活動でキャンプは何度もしたけれど、先生がそういう作業をしていたという覚えは、僕にない。
 
とにかく、アルヌール先輩はリンゴの入った紙包みを抱え、意気揚々とスーパーを出たのだった。
 
よく道に迷う先輩なのだけど、結構、いざというときの勘は鋭い。それに、先輩が苦手なのは市街地であって、目印も何もない野山をコンパスと地図で歩き回ることは、おかしいんじゃないかと思うぐらい得意なのだ。
僕たちは、難なく目的の病院に着くことができた。
 
受付で確かめると、学校で聞いたとおりの病室に、アルベルト先生はいた。
どうやら個室らしい。
 
アルベルト先生に会うのは、かれこれ二ヶ月ぶりなんだなあ…と、不意に思った。
思った途端、なんだか緊張する。
 
「死神が入院してる…ってのもなんか妙な話だよなあ…」
 
ぽそ、とつぶやいたジェットを、アルヌール先輩がまた睨んだ。
 
「ジェット。ここをどこだと思ってるの?『死神』なんて言ってはダメ!」
 
たしかに、そのとおりだ。
僕とジェットはすっかりかしこまって、先輩の後につき、エレベーターに乗り込んだ。
 
で、アルベルト先生の病室は4階にあるのだ。
 
そんなことに気づいてしまった自分を心で叱りつけ、そうっと隣を見ると、ジェットも、なんとなく今先輩が押した「4」のランプを見つめているのだった。
思わず、う。と思った瞬間、彼と目が合った。
僕たちはこっそりむやみにうなずきあい、更に堅く口を結んだ。
そして。
 
423号室。
 
それが、死神もといアルベルト先生の病室だった。
こともなげにそのドアをごんごんたたく先輩の後ろで、僕とジェットはわけもなく身を震わせたりしていたのだった。 
 
 
 
どうぞ、とノックに応えた声は女性のものだった。
僕とジェットは思わず顔を見合わせたけれど、先輩は躊躇することなくドアを開けた。
 
「失礼します。フランソワーズ・アルヌールと申します。アルベルト先生に……」
「なんだ、オマエっ!一体どうしてここが…!」
「まあ、あなたがフランソワーズさん!…アルからいつも話を聞いているわ…私、ヒルダ。アルベルトの友人よ…初めまして。お会いできて光栄だわ…!」
「初めまして…お休みのところ、お騒がせして申し訳ありません」
 
深々とお辞儀をするアルヌール先輩にならって、僕たちも思いきりアタマを下げた。
というか、実際のところ、顔を上げているのがコワかったのだ。
短い沈黙のあと、僕の記憶ではこれ以上ないというぐらい不機嫌そうな、先生のうなり声がした。
 
「…オマエ。どこで、聞き出した?」
「学校ですわ、アルベルト先生」
「…で、なんでコイツらまで?」
「はい。ジョーとジェットは、先生のことをとても心配していて、そういうことなら是非一緒にお見舞いをしたいと申しましたの」
 
やめてよ!
 
と、叫びそうになるのを僕は懸命にこらえた。
隣のジェットも鼻を真っ赤にしている。
これだからアルヌール先輩はコワい。
…が。
 
死神の鎌をさえぎるように、またヒルダさんが明るく言うのだった。
 
「アルったら…やっぱり生徒さんたちに慕われているんじゃない…思ったとおりね」
「オマエは黙っていろ!」
「あら、それって命令?」
 
アルベルト先生が口をつぐんだ。
おそるおそる顔を上げてみると、ヒルダさんはにこにこしながら僕達を眺めている。
 
「命令じゃないなら、お話をさせていただくわ…ジョーくんと…ジェットくん?」
「あ。僕がジョーです。こっちがジェット」
「どうぞ、こちらに座ってください…まあ、おいしそうなリンゴ…!ありがとう、フランソワーズさん」
「先生が、お好きならいいのですが…」
「大好きよ、ねえ、アル?」
 
先生は何も応えなかった。もう、黙っていろ、と命令することはやめたらしい。
で、アルヌール先輩はリンゴの次にファイルを取り出し、アルベルト先生の前にさっと広げてしまった。
 
「ご病気でお休みのところ、本当に申し訳ないのですが、どうしても先生のご助言をいただきたくて…」
「オマエな。何のためにT大に通ってるんだ?そっちには、俺なんかよりよっぽど優秀な教授連がうようよ…」
「この研究について、先生より頼りになる方はまだいらっしゃいませんわ」
 
アルヌール先輩はきっぱり言った。
ヒルダさんが感心したようにうんうんうなずいている。
 
これはエライところに来てしまったなあ…と、僕は思い始めていた。
たぶん、ジェットもそう思っているに違いない。
アルベルト先生の病室にスゴイ美人がいた!なんて、驚天動地のネタを前にしているのに、はしゃぎもせず、借りてきた猫のようになっているのだから。
 
 
 
ヒルダさんは、美人なだけじゃなくて、明るくて優しい女性だった。
僕達に手際よくポットのお湯でお茶を入れ、リンゴをくるくるきれいにむいて切り分けてくれた。
アルベルト先生のナイフさばきを見られないのは残念、とちょっと思ったけれど、そんなことをうっかり口に出したら、どんなナイフさばきを見せられたものかわからなかったと思う。
 
アルヌール先輩の質問に、先生は渋々ながら答えていき…そして、いつのまにか白熱した議論が始まるのだ。
これも、見慣れた光景だった。
 
二人が夢中になると、僕達は完全に蚊帳の外、になってしまう。
もちろん、ヒルダさんもだ。
 
「あなたたち、3年生?」
「は、はい」
「フィールドワーク同好会に、新入生は入ったのかしら?」
「入りました」
「そう!よかったわ…アルがね、時々心配していたわ…フランソワーズさんがいなくなったら部員が入らないんじゃないか…って。でも、こんな素敵な先輩が二人もいるんなら…女の子がたくさん入ってくるわよね」
 
ヒルダさんは楽しそうにふふ、と笑った。
そんなことありません、と言おうと思ったけれど、考えてみたら、たしかに新入部員は女の子ばかりだ。
 
ジェットはずっと黙りがちだった。
「死神」はアルヌール先輩にすっかり気を取られているのだから、ここぞとばかりにヒルダさんを質問攻めにしてもいいところなのに。
 
でも、彼が黙っている理由は、僕にもよくわかった。
ヒルダさんの白いきれいな手…それも、左手の薬指に指輪が光っていることに、僕達は気づいていたのだ。
なんの飾りもない、金の指輪だった。
 
やがて。
先生とアルヌール先輩は静かになった。
気が済むところまで語り合ったらしい。
 
ヒルダさんがお茶を入れ直した。
さっきよりずっと穏やかな表情になった…ような気がするアルベルト先生は、それでも僕達とは会話らしい会話を交わそうとしなかった。
 
それからしばらくして。
すっかり長居をしてしまったことを謝りながら、僕達は病室を出た。
長居…というか、アルベルト先生を完全に疲れさせてしまったことは間違いない。とんでもないお見舞いをしてしまったなあ、と、僕はちょっと後悔していた。
いや、この場合、僕が後悔しても仕方がないんだけど。
 
でも、僕達をロビーまで送ってくれたヒルダさんは、嬉しそうにこう言ったのだ。
 
「本当にありがとう。アルがあんなに楽しそうに元気に話すのは久しぶりだったわ…ちょっと悔しいぐらいよ」
 
あれって、楽しそう…だったのか。
よくわからない。
 
ヒルダさんは、先生がもうすぐ退院できそうなのだ、ということも教えてくれた。
夏休みまでには復帰できそうだ、ということも。
 
「あなたたちの夏のキャンプには絶対行くんだって、張り切ってるの。好きなのね、きっと。彼のナイフさばきはたしかにスゴイもの…」
 
…あ。
やっぱりそうなのか。
見たいような、見たくないような。
 
 
 
病院から駅まで、ちょっと距離があった。
てくてく歩きながら、なんだか疲れたなーと思っていると、いきなりジェットが大きな溜息をついた。
 
「あー、気まずかったよなー!」
「あら?…あんまりしゃべらないと思ったら、ジェット、やっぱり気を遣っていたのね、めずらしく…でも、先生、お元気そうだったじゃない?大丈夫よ、きっと」
「そういうことじゃねえよ!アルのおっさん、見損なったぜ…!いい年しやがって、あんな…」
「あんな…って。ヒルダさんのこと?」
 
先輩がちょっと首を傾げて僕を見る。
どうしようかな、と思ったけれど、このまま放っておいたら、ジェットがどんなコトバを使うかわからない…という気がしたので、僕はなるべく穏やかに聞こえるようにと願いながら言った。
 
「ええ。ヒルダさん、素敵な人だったとは思いますけれど…でも、あの人、先生の…その、友達にしてはずいぶん親しそうだったし…なのに指輪をしていたから…ってことは、つまり、ええと」
「そうだよ!あんなキレイな人が、あんなおっさんと不倫なんて、絶対納得できねえ…!」
「不倫?」
 
アルヌール先輩が目を丸くして、それからくすくす笑い出したので、僕はちょっと焦った。
先輩はどこか浮世離れしたところがある。
尊敬する先生が不倫、なんて想像もできないんだろうけど、でも、だから……
 
「何言ってるの、ヒルダさんは先生の奥様よ…籍を入れていらっしゃるのかどうかまではわからないけれど…だから指輪をしていたんじゃない」
「…え?」
 
だって、アルベルト先生の方は結婚指輪なんかしていないし!
…と僕の心の声が聞こえたかのように、先輩はまた笑って、こう言ったのだ。
 
「アルベルト先生は、同じ指輪をいつも身につけていらっしゃるわ…さっきだって」
「えーっ?」
「嘘つけ!見なかったぜ、そんな…!」
「指にはしていらっしゃらなかったけれど…ココ、よ」
 
先輩はにこにこしながら、自分の胸の真ん中あたりを軽く指さした。
 
「先生はね、指輪を鎖に結んで、首にかけていらっしゃるのよ。いつもネクタイをきっちりしておられるからわからないけれど。そういえば、さっきも、襟元のずいぶん上までボタンをはめていらしたわねえ…あのパジャマ、苦しくないのかしら?」
 
そ…そう、だったんだ。
それじゃわかるわけない。
ってか、どうして先輩にはわかるんだ?
 
「そんなことが、どうしてアンタにわかるんだよ?」
 
ジェットが叫ぶように言った。顔が真っ赤になっている。
そのときは、彼がなぜそんな表情をしていたのか、僕にはわからなかった。
 
「私の目を甘く見ないことね…それはアナタたちだって知ってるでしょう?」
 
うかつにも、僕はそれで納得してしまったのだ。
だって、アルヌール先輩の観察眼は本当にフツウじゃないのだから。
 
 
 
先輩の説明にあっさり納得していた僕が、どんなにうかつだったか、ということを、その翌日、ジェットにさんざん聞かされる羽目になった。
 
僕たち生徒はあの厳格なアルベルト先生がネクタイをはずしている…のなんか見たことがない。
なのに、その下につけているという指輪の鎖をアルヌール先輩が知っている…見た、ということは。
 
つまり、アルヌール先輩はネクタイをはずした…ついでにシャツのボタンも開けた状態のアルベルト先生を見たことがある、ということで。
それは、つまり。
 
そこまで聞かされて、ああ、なるほどな…と思っても、僕はやっぱりどこかピンとこなかったのだ。
でも、そう言われてみれば、昨日の先輩は少しいつもと違っているように見えた。
 
いつもより少し大人っぽかったし、しとやかな感じに見えたし…淋しそうでもあったかもしれない。
そういうことだったのかもしれない…けれど。
 
でも、先輩の観察眼がフツウじゃない、ということも事実なのだ。
 
昨日、別れ際に先輩は僕のポケットに小さい封筒を滑り込ませ、にこっと笑った。
中に入っていたのは、バースデーカードだった。
 
 
お誕生日おめでとう。
体に気をつけて、勉強がんばってね。
 
 
それだけが、先輩のきれいな字で走り書きしてあった。
 
僕は、誰かに誕生日を教えたことなどない。
それに、生徒の個人情報の管理にはうるさい学校が、いくら優等生のアルヌール先輩にだって、他の生徒の誕生日を知らせたりするはずない。
 
なぜ、どうやって先輩がソレを知ったのかをいくら考えても僕にはわからない。
考えても、たぶん無駄だろう。
 
でも、もしも、来年の春にT大でまた先輩に会えたら…このことについて尋ねてみようとも思うのだ。
それなら、勉強がんばらなくちゃな、という気分にもなってくる。
 
そして、このカードをきっかけに、僕がそんな気分になるだろう…ってことも、たぶん先輩にはお見通しだったりするに違いない。
 
つまり、アルヌール先輩はそういう人なのだ。

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