お見舞い

   超銀
 
病室のドアは開いていた。
相変わらずだわ…と、ちょっと溜息をつき、そうっと中をのぞきこんだフランソワーズは次の瞬間、固まってしまった。
 
薄紫の寝間着をまとった女性が、ベッドの端に腰掛けたジョーの胸に取りすがっていた。
 
「本当に世話になったね…ありがとう、タマラ。君のことは、忘れない」
「わたくしこそ…ああ、ジョー、あなたは…もうすぐここを発ってしまわれるのね…」
「……っ!」
 
ふと顔を上げたジョーも凍り付いたように固まった。
フランソワーズがそうっと後ずさりし、廊下に出て行くのが見えたのだった。
 
「お願いです、ジョー…!ここに…わたくしのもとに残ってください!」
「え…で、でも、そういうわけには。コルビン先生が、このところずーっと満床で救急患者を受け入れられないって、困っておられたから…」
「それなら…それなら、退院されてからも、お仕事が終わったら、帰りには必ずここに寄ってくださいますか…?」
「タマラ…ええと…僕は、その」
 
どう返事をしたものか…ジョーは困惑していた。
それに、フランソワーズのことも気になる。
すぐに追いかけたいのだが…
 
が、心細そうにすがりつくタマラを、冷たく置き去りにしていくわけにもいかない。
 
やがて。
タマラはうつむき、淋しそうにつぶやいた。
 
「…いいんです。わたくし…本当はわかっています。あなたがここにおいでになれない、本当の理由を…」
「え…?タマ…ラ?」
「ジョー…わがままを言って…ごめんなさい!」
 
タマラは何かを振り切るようにきゅっと目をつぶり、ジョーの胸を押しやると、病室をかけ出していった。
ほっとしながらも、あんなに走ったりして大丈夫だろうか、と、ジョーは心配になる。
 
いや。
それより、フランソワーズだ。
どこに行った?!
 
立ち上がろうとしたとき。
元気なノックの音とともに、童顔の看護士が顔をのぞかせた。
 
「こんにちは、島村さん…!またあけっぱなしですね!」
「…う」
「さあ、血圧をはかりますよ!」
「あ、あの…サバ。それ…ちょっと、後にできないだろうか。今…」
 
サバ少年は驚いたようにジョーを見上げた。
澄んだ瞳にじーっと見つめられ、ジョーはまたわけもなくうろたえた。
 
「い、いや、いいんだ…頼むよ」
「…はいっ!」
 
 
 
どうも、このところ、調子が狂っているような気がする。
 
一番マズイのは、なんといってもタマラとのことなのだが、それを差し引いても、なんだかおかしい。
ジョーはぼんやりサバ看護士を見つめていた。
 
そもそも、彼が「助けてください!」と駆け込んできたのがすべての始まりだったのだ。
 
あの日。
夕闇がせまる時刻だった。
「島村探偵事務所」の窓には、さりげなくブラインドが下ろされていた。
 
ひっそり静まりかえったその窓辺で、ジョーは、長年ひそかに思いを寄せていた、忠実で美しい助手のフランソワーズに、まさに告白の真っ最中だったのだ。
 
「僕の人生でただ一人…生きる力を与えてくれたのは…君だった」
「…ジョー」
 
信じられない、というように、青く澄んだ瞳が潤む。
その美しい瞳の奥に、隠しようもない自分への愛が溢れるのを、ジョーはたしかに見たのだ。
もう何も考えらなかった。
 
が、夢中で彼女を抱き寄せ、力のかぎり抱きしめようとしたときだった。
 
「誰かっ、誰かいませんかーーーっ!助けてくださーーーーいっ!!!!」
 
そういえば、あのときもドアを開けっ放しにしていた。
悪い癖だと、フランソワーズによく注意されていたけれど…
 
たしかに、癖というのはどうしようもない。
 
 
 
事務所に駆け込んできたサバは、極端に人相の悪い男たちに追われていた。
彼らはダガス団、という暴力団の男たちだった。
 
腕っ節の強いジョーは、サバを追って次々に駆け込んできた彼らをとりあえずたたきのめし、事務所から追い出した。
 
普段ならそういう連中は適当にあしらっておくこともある彼だったが、フランソワーズとの逢瀬を邪魔された腹立ちもあったし、何より、男の一人が彼女に目をとめた、その視線が非常に気にくわなかった…のだ。
 
そして。
警察に届けようか、というジョーの申し出に、サバは力なく首を振った。
 
「いいえ。そんなことをしたら、父がどんなことになるか…」
「お父さんが、かい?」
 
コトはかなり大きかったのだ。
サバは、コマダー病院の院長、コルビン博士の一人息子だった。
 
コマダー病院は、ダガス団に乗っ取られている…という黒い噂がつきまとう病院だった。
雇われ院長であるコルビン博士は人格者であり、そんな病院の状態にひそかに胸を痛めていた。
 
「でも!父は、ついに秘密文書『ボルテックス』を発見したのです…!」
 
サバは囁くように語った。
その秘密文書が公になれば、ダガス団の陰のボス、財界の黒幕とも言われているゾアを追い詰めることもできる…のだという。
 
が。
コルビン博士は今、文書の公開を畏れたゾアによって、コマダー病院に軟禁されている。
そして、文書の隠し場所のヒントを、一人息子である看護士サバに託したのだった。
 
 
 
それからの怒濤のようなダガス団との争闘は、ジョーにとってむしろ日常茶飯事のことであり、特に大きな問題ではなかった。
 
以前からゾアを自らの刑事生命をかけて追っていた、ジョーの盟友・ハインリヒが事件の解決とひきかえに殉職した…ように見えたりもしたが、それもそう珍しいことではない。
 
ジョーもそれなりに負傷した。
で、今、ダガス団が一掃された新生コマダー病院にVIP待遇で入院している…のだが。
 
ちなみに、ジョーの入院初日には、「不死身の死神」ハインリヒが、あれだけの重傷が嘘のように、けろりとした様子で見舞いに訪れたのだった。
さすがのジョーも呆れてモノが言えなかった。
 
が、それもまあ、いつものことなのだった。
いつもと違ったのは。
 
女難…だった。
 
フランソワーズへの告白で、何か、押さえつけられていた彼の運命のタガが外れた…とでもいうのだろうか。
それまで、およそ女性とは無縁だったジョーの前に、次々と美しい女性が現れ、現れるだけでなく、彼に思いを寄せるようになったのだった。
 
はじめは、とりあえずダガス団の罠なのだろうと思った。
たしかに、そういう女性もいた。
争闘の中で、ジョーたちに助けを求めてきたタマラ・ファンタリオンも、その一人であるように見えた。
 
ハインリヒや、彼の相棒であるジェットなどは、ハナから彼女を疑い、冷淡な態度をとっていたが、ジョーには彼女の美しく澄んだ瞳に嘘があるとは思えなかった。
 
彼女もまた、ダガス団に蹂躙された実家…ファンタリオン家の再興をめざし、それゆえ彼らの攻撃にさらされていた。
ゾアを追い詰めながら、ジョーは自然にタマラを庇うようになっていき……
 
…こういうことになっているのだ。
 
 
 
人気のない公園で、フランソワーズは一人ブランコに揺られていた。
何度となく溜息が落ちる。
 
タマラは、芯の強い…が、病弱な女性だった。
ダガス団との過酷な争闘と、ファンタリオン家再興の責任がその健康を容赦なくむしばみ、ある日、ついに彼女は倒れた。
あのときのジョーの絶望的な表情……
 
フランソワーズはぎゅっと目を閉じた。
 
倒れたタマラに必死で駆け寄り、抱き起こすと、ジョーは血を吐くように彼女の名を呼び続けた。
やがて、うっすらと目をあけた彼女を抱き寄せ、頬をよせながらその手をとる彼を、フランソワーズはそれ以上直視できなかった。
 
あのとき、ちゃんとわかっていたのだ。
彼の、本当の思いは……
 
もともと、彼に振り返ってもらおうとは思っていなかったはずだ。
いつも危険の中に自ら飛び込んでいく不器用な彼を、フランソワーズは心から愛し…それだけでいいのだと思っていた。
 
あの幻のようなひととき。
夕陽の漏れるブラインド。
抱き寄せられた、逞しい腕。
熱い…吐息。
 
もし、扉を閉めていたら。
扉に鍵がかかっていたら。
サバは、事務所の前を通り過ぎていっただろう。
そして、私たちは……
 
フランソワーズははっと口元に手を当てた。
 
何を考えているのかしら、私は。
そんなことを…ジョーが望むはずないのに。
 
彼は、いつも弱い者を庇おうとしている。
自分のためには何も望まない、誰よりも強く、優しい人……
だから私は、彼を愛しているのに。
 
事務所は、既にダガス団との争闘でめちゃくちゃに破壊され、リニューアル中だった。
それでよかったんだわ…と、フランソワーズは思った。
 
新しい事務所で、あなたは新しい生活を…新しい人生を始めるのよ。
そこであなたに寄り添うのは、もう私じゃなくて…あの人。
 
タマラは長期入院が必要だと診断された…が、ゆっくり療養すれば、元の生活に戻れる、ということだった。
元の…といっても、以前のようにファンタリオン家のために精力的に活動することまでは難しい…というのだが。
それも、ジョーがついているなら、何の問題もないことだった。
 
さあ、元気をださなくちゃ…!
 
フランソワーズは勢いよく立ち上がった。
 
もう、お見舞いにはいかないわ。その必要はないんだもの。
ジョーには、あの人がついている。
彼が退院する前に、私も新しい生活を始めましょう。
 
どうしようもなくにじむ涙をそっとぬぐい、フランソワーズは大きく深呼吸した。
辺りはすっかり薄闇に包まれている。
 
ぼんやり歩き始めたフランソワーズは、不意に横からまばゆい光を受け、目を細めた。
はっとする間もなかった。
 
 
 
「フランソワーズ…フランソワーズ?」
 
遠く懐かしい声がする。
うっすらと目をあけると…今にも張り裂けそうな茶色の瞳がのぞき込んでいた。
 
「…ジョー?」
「ああ…!僕がわかるんだね、フランソワーズ…!」
 
ジョーは呻き、フランソワーズの手を堅く握りしめた。
わけがわからない。
 
「動かないで…安心していいんだよ…君は、事故にあって…ずっと眠っていたんだ」
「…事故…?」
「ずっと…ずっとだよ…長かった…!」
 
すすり泣くような声に、フランソワーズは懸命に体を動かそうとした…が、気づいたジョーに押しとどめられた。
 
「ほら…僕の言ったとおりでしょう。だからもっと早く見舞ってあげるべきだったのに」
 
やや細い声にゆっくり頭を動かし、フランソワーズはまだ少年のような銀髪の医師をみとめた。
 
「おはよう、フランソワーズ。僕の名前はイワン・ウイスキー。この病院で脳外科医をしているんだ。今度、この薄情なお兄さんに愛想をつかしたときには、僕を思い出してくれると嬉しいな」
 
差し出された彼の名刺には、「カデッツ病院」と記されていた。
 
 
 
きみは、あの公園を出たところで、居眠り運転のトラックにはねられ、そのまま一ヶ月間、意識を失っていたのだ…とジョーに聞かされ、フランソワーズはゆっくりと首を振った。
信じられない。
 
すさまじい勢いではね飛ばされたにもかかわらず、外傷は特になかった…が、頭部を烈しく打っていた。
フランソワーズは、すぐさまコルビン博士の紹介で、脳外科については最先端の技術を持つこの病院に運び込まれ、天才医師であるイワン・ウイスキーの執刀で手術を受けたのだった。
 
手術は成功した…にもかかわらず、彼女は目を覚まさなかった。
が、苦悩するジョーに対し、イワン・ウイスキーはあくまでのんびりしており、
 
「僕だって、二週間ぐらいはうっかり寝ちゃうことがありますからね」
 
…などと言うのだった。
どうも、冗談ではないらしい。
そして、これもまた冗談ともホンキともつかない調子で、彼はジョーに言った。
 
「あと三日ぐらいすれば状態が落ち着きます。そうしたら、あなたが呼びかければ、きっと彼女を目をさましますよ。そういうモノですから」
 
できることならそうしたかった…が、ジョーにはまだ事件の後始末が残っていた。
どうにも病院を訪れる時間ができず、今日もまだ目を覚まさない…という、ハインリヒやジェットの報告を聞いては、気をもみ続けていた…のだが。
 
彼女がカデッツ病院に運びこまれ、手術を受けた日以来、初めて見舞いに訪れることができた、その日。
ジョーはイワンに言われたとおり、枕辺で彼女の名を呼び続けた。
 
そして、わずか数分後。
フランソワーズは何の前触れもなく目を覚ましたのだった。
 
 
 
「なんだか、スゴイ毎日だったな……」
 
明日は退院できるという日の夕暮れ、ジョーはフランソワーズのベッドに腰掛け、ふとつぶやいていた。
 
「…本当ね」
 
フランソワーズもそっと目を閉じた。
ほんの数ヶ月の出来事だったのに…。
何もかもが、変わってしまった。
 
変わらなかったのは、ひとつだけ。
私の、あなたへの…気持ち。
でも、それも今日で終わり。
 
ジョーは、フランソワーズが意識を取り戻してからというもの、毎日のように見舞いに訪れていた。
現金なモノだ、とイワン・ウイスキーに皮肉られながら。
 
「あの医者…君に気があるみたいだな。もしプロポーズされたら…どうする?」
「…ウイスキー先生が?…まさか」
 
フランソワーズは思わず微笑した。
深く澄んだ瞳を持つ、少年のような天才医師はたしかに魅力的だったけれど…
 
私は、もう誰を愛することもないわ。
 
こっそり心でつぶやく。
ジョーは、あれからタマラの話をしない。
もちろん、彼らのこれからの生活と何ら接点をもたない自分に、そんな話をする必要もないのだが。
 
次第に夕闇が濃くなってくる。
こんな時間まで彼がいたことはなかった。
やはり、最後の日だから…だろうか。
でも……
 
「暗くなってしまったわね…タマラさんに心配をかけるといけないわ。お休みなさい、ジョー。今まで、本当にありがとう…お幸せに」
 
ちゃんと、言えた。
 
ジョーは、しばらく黙ったままフランソワーズを見つめていた。
が、やがて、彼はそうっと両手を伸ばし、彼女を優しく抱き寄せるのだった。
 
「あの事務所は、手放した。それで、新しい事務所を…パリに作ったんだよ」
「…え?」
「君の、町に」
「ジョー…?」
 
戸惑うフランソワーズを、ジョーは堅く抱きしめた。
 
「こんな僕に愛想をつかして、君がこの町を出て行っても…追いかけることができるように…いつか、君に僕の本当の気持ちをわかってもらえるように」
「……」
「君と暮らす部屋も作ったんだ…フランソワーズ、もしできるなら…僕と一緒に来てくれないか?」
「……」
 
優しい口づけの感触。
頭に靄がかかったように、ふと気が遠くなる。
ああ、夢を見ているんだわ…と、フランソワーズは思い、うっとり目を閉じた。
 
 
…やがて。
すう、と風のように、ジョーの気配は消えてしまった。
 
 
はっと我に返り、フランソワーズは思わず両腕で自分を抱きしめた。
こらえきれず、涙がこぼれる。
 
「ジョー…ジョー…!」
 
どうしよう…どうしたらいいの?
私、生きていかれない。
あなたと離れて…私、どうしたら…!
 
 
 
そのときだった。
不意に後ろから強く抱きしめられ、フランソワーズは息をのんだ。
逞しい腕。
熱い吐息。
 
「…ジョー?」
「どうしたんだ、そんな顔して…僕の話…聞いていてくれたかい?」
 
曖昧にうなずくフランソワーズを愛しげに見つめると、ジョーは再び彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
 
「ドアを…閉めてきたんだ。鍵もかけた」
 
 
だからもう、誰にも邪魔はさせない。

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