1
10代の少女がこの診察室を訪れるのは、それほど珍しいことではない。
けれど、それが白人の少女…となると、かなり珍しい…と思う。
白い肌に、亜麻色の髪。
目はすみとおったブルー。
お人形のようにきれいな少女だった。
日本語も達者で…で、両親と同居しているわけではないという。
体のことについてはかなり覚悟して来ていたようで、私が診断を告げても、たじろぐ様子を見せなかった。
「やっぱり、そうでしたか。ありがとうございました」
ていねいに頭を下げる少女に、私はひそかに眉を寄せた。
ずいぶん賢そうで、気だてがよさそうで、辛抱強そうで…つまり、苦労を自ら抱え込みそうな少女にも見えたのだ。
「ご結婚は…されていないんですね」
とりあえず、そう確かめると、少女はこっくりとうなずく。
「相手の方は、このことをご存じですか?」
「…いいえ」
「これから、お話されますね?」
「…はい」
大丈夫です、と顔を上げた少女の微笑は思いがけないほど明るかった。
診察室を出て行く細い背中を見送りながら、私は、どうにも気がかりなような、それでいて、これきり訪れないで欲しいような、不思議な気持ちになっていたのだ。
2
少女が次に診察室を訪れたときは、日本人の少年と一緒だった。
先入観は禁物…と思っていても、彼の栗色の長い髪に、思わず、ああ…と溜息をつきそうになる。
島村、というその少年にも、両親はいないのだという。
無職、というわけではないようだったが、どんな仕事をしているのか、はっきり語ろうとはしない。
重苦しい沈黙をまず破ったのは、少年だった。
「どうお聞きしたらいいのか…うまく言えないのですが…教えていただきたいんです。彼女は…フランソワーズは、子供を産むことはできない、と言っています。条件が…悪すぎる、と」
予想していたこととはいえ、また溜息がでそうになる。
条件……条件、ね。
「こんなことを聞かれてもお困りになると思いますが、先生の経験された、無事に出産ができたケースで、これが最悪だった、という条件を…教えていただきたいのです」
少年が真剣そのものの眼差しを向けてきたので、私は少し戸惑った。
彼が何を知りたがっているのか、そんなことを聞いて、どうしようというのか、いまひとつわからない。
が、私が口を開く前に、少女が彼に応えた。
「ジョー!私、覚悟はできているの…本当に申し訳ないと思っているけれど…でも」
「申し訳ない、なんて…!それを言うなら、僕の方が」
「…ええと」
私は素早く口をはさんだ。
とにかく、最悪の状態ではないらしい。
不思議なほど…この年齢の少年少女としては奇妙だといっていいほど、二人はお互いを真摯に思い合い、いたわり合っているように見えた。
そして、そうすることにすっかり馴染み、それが彼らにとっては呼吸をするのと同じくらい、ごく当たり前のことであるようにも。
まるで、歳月を重ねた夫婦のように。
3
「気持ち」についていうなら、それはもう固まっている。迷う余地すらない。
だから、問題はあくまで「条件」なのだ、と少年…島村ジョーは繰り返した。
彼女…フランソワーズ・アルヌールを取り巻く状況の何がそんなに劣悪なのか、私にはどうしても理解ができなかった。
彼らが二人とも、ごく落ち着いた生活を送っていることは、その身なりからも立ち居振る舞いからも、強く感じられたから。
心身にかかる非常に強いストレス、という表現を彼はたびたび用いた。
それが、具体的にどんなストレスであるのか、についてはついに口を噤んだままだったけれど。
フランソワーズはうつむいたまま何も言わなかった。
が、最後に彼女はそっと顔を上げ、私と島村ジョーをまっすぐ見つめながら言った。
「産むことは、できません…どうしても」
島村ジョーは、なぜ、とそれ以上繰り返し問いかけはしなかった。
ただ、悲痛な面持ちで唇を噛み、拳を握りしめている。
「あなたは…何が一番こわいのかしら?危険を冒して出産するのだとして…そうね、たとえばそれで死ぬかもしれない、と思うと…こわいの?」
私の問に、彼女は小さく首を振った。
「死ぬことはこわくありません。私は……私が、こわいのは…」
しかし、彼女はそのまま口を噤んだ。
そして、またうつむいてしまった。
死ぬこともこわくない。
そして、二人とも、互いを思い合い、いたわり合い…その証でもある新しい命をこの上もなく愛おしんでいる…のなら。
だと、したら、なぜ…?
4
次に訪れたとき、少女は一人だった。
言葉少なく、やはり中絶を希望します、と告げる。
迷いのない目がじっと私を見つめていた。
やりきれない思いに苛まれながら、どうすることもできないのだ、という声が、心の奥底から聞こえてくるような気もしていた。
「あの人は、納得しているの?」
「…ジョー、ですか?」
少女は、ふわっと微笑した。
「納得なんて…できないと思います。だから、私が決めました…きっと、彼をひどく傷つけてしまうことになるけれど…」
「何を…!本当に傷つくのは、あなたでしょう?」
私はちょっと苛立っていたのだと思う。
少女は、驚いたように私を見つめ、それから申し訳なさそうに笑った。
「彼と生きるためには、必要な傷です。だから私は、いいんです…この間、先生に死ぬのがこわいかと聞かれて、そう気づきました」
何と言えばいいのかわからなかった。
それなのに、少女の青い目にひかれるように、私は唇を開いた。
「でも、あの人は、あなたを愛していますよ…あなたを何よりも…自分自身よりも大切に思っています」
少女は黙ったままじっと私の目を見つめ、やがて深く一礼した。
中絶手術の日時を決め、診察室を出て行く彼女の背中は、ぴんと伸びていた。
そして、それが、私が最後に見た彼女の姿だったのだ。
5
約束の日時。
少女は姿を現さなかった。
そのことに安堵しながらも、やはり気がかりだったのだ。
子供はどうなったのか。
彼女は無事でいるのか。
そして、あの少年は。
無駄なことと思いながらも、どうしても我慢できず、私はついに、彼女が受付用紙に記していった住所を訪ねてみることにした。
二つ先の駅に降リ立ち、タクシーを拾った。
地図で見ると、駅からは遠く、バスも通っていない場所のように思えたから。
タクシーは海岸沿いの道を走り、坂道を上がり…そして。
車から降りた私は、息をのんだ。
「そうだ。たしか、洋館が建っていたんですよ、ここには…結構大きな」
後ろで、タクシーの運転手が思い出したようにつぶやく。
「そういえば、この前火事があったと聞いたような…でも、こんなに何もかも燃えるような大きい火事なら、もっと大騒ぎになっていたはずなんだが…」
どうして忘れていたんだろう、といぶかる彼の声を遠く聞きながら、私は焼け跡をぼんやり見つめた。
「ここに、住んでいた人たちは…?」
おそるおそる尋ねた。
が、運転手は首を傾げるだけだった。
死傷者が出たのならもっと話題になっているだろうから、たぶん、そうではなかったのだろう…と。
6
そんなことを思い出したのは、街で、栗色の髪をした優しい顔立ちの少年とすれ違ったからだ。
はっと振り返ったときには、少年はもう人混みの中に紛れてしまっていた。
あの少年だ、と直感した。
そして、すぐにまさか、と思い直す。
あれから、いったいどれだけの年月が……
そう思いかけて、私は思わず声を上げそうになった。
そうだ…そうだったんだわ!
胸が烈しく高鳴る。
あの少女と少年の…たった一度しか会わなかった、でも忘れられない印象を残した彼らの寄り添い合う姿が、鮮やかに脳裡をよぎった。
男の子…だったのね。
涙があふれそうになり、慌てて瞬きする。
どんな夫婦になっただろう。
そう思い、年を重ねた彼らを想像してみようと思っても、うまくいかなかった。
どうしてもあの診察室を訪れた少年と少女の姿しか思い浮かべることができないのだ。
それでいいのだ、と私は思った。
なぜか、そうでなければならないような気もしていた。
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