1
海岸近くの小さな町にある「ギルモア歯科」は、地元で評判の歯科医院だった。
大きな隣町からわざわざやってくる患者も決して珍しくはない。
小さい町の歯科医らしく、建物もこぢんまりしている。治療椅子は二つ。
そこで治療をする医師も二人。
以前は三人で経営にあたっていたが、老ギルモア医師が引退してからは、彼の愛弟子であるという若い医師二人だけになっている。
二人のうち、島村ジョーは、ギルモア歯科の実質的な後継者ということのようだった。
技術はこの上なく確かで、人柄も温かい。
さらに、さわやかな容貌の好青年でもあるので、なんといっても女性患者の圧倒的支持を得ている。
もう一人の医師であるフランソワーズ・アルヌールは、少女のようにも見える、魅力的な女医だった。
治療は親切丁寧で優しく、特に泣きわめく子供をおとなしくさせる腕については、まさに神業、と噂されている。
医師を指名するシステムはないため、患者は実際に診察室に入るまで、どちらの医師に治療してもらえるのかわからない。
それもまた、この医院の魅力となっているようなのだった。
島村医師とアルヌール医師は、医院の裏手にあるギルモア邸に住み込んでいる。
結婚しているわけではない。
ということは、見方によれば同棲、ということになるのだが、本来そういうコトにうるさいはずの、小さい町の住人たちも、このことについては知らんぷりをしている。
ひとつ屋根の下、とは言っても、この町で長年人々の尊敬を集めてきたギルモア医師の、いわば書生として住み込んでいるわけだし、ついでにいうと、二人はこの町でともに生まれ育った、兄妹のように仲の良い幼なじみ同士だった。
そんなわけで、この二人がいつも一緒にいるのは、彼らがごく小さな子供の頃から、おきまりのことであって、それに町の人々はすっかり慣れていた。今更疑問に思ったり、苦々しく感じたりする者はいないのだった。
ただ、時折、老人会などで、あの二人はそろそろ結婚しないものなのか、とか、ギルモア先生も早く孫の顔が見たいだろうに、とかいう会話が茶飲み話に交わされることはあるようだった。
2
「フランソワーズ、そっちはそろそろ終わりそうかい?」
「ええ。お茶をいれましょうか?」
「いや…君はこれから夕飯の支度があるだろう?たまには僕がやるよ…コーヒーでいいかな」
書類の整理を終え、立ち上がったジョーは、奥で治療器具の消毒をしているフランソワーズに声をかけた。
家事にまったく疎い彼が、めずらしくそんなことを言い出したのには、一応理由がある。
どうも最近、彼女が沈んでいるように見えてしかたがないのだった。
ちょっとお茶を飲みながら気楽に話をしてみようか、などと思ったのだ。
かちゃかちゃ、と小さい音を立てながら、フランソワーズは消毒に専念している。聞こえていないのかと思い、もう一度声をかけようとすると、彼女はふと顔を上げた。
「私はいいわ…ありがとう、ジョー」
「…なんだか君、疲れているみたいだぜ。どうかしたのかい?」
「なんでもないわ…今日はあなたの方が大変だったじゃない?」
確かにそうだ。
ジョーは今日、妙に言うことをきかない患者を何人か担当していた。
いずれも20代半ばの青年たちで。
おそらく…なのだけど。
彼らはそれぞれ、フランソワーズを目当てに来院したのだ…と思う。
全員が、特に虫歯があるというわけではなく、検診と歯石除去のために訪れていた。
こういうのは疲れるなあ…と、ジョーは思う。
たしかに、フランソワーズに治療してもらいたいと思ってわざわざ来たのに、自分が出て行ったのだから、相当彼らをがっかりさせたことにはちがいない。
それにしても……
ギルモア歯科は、隣町にあるちょっと大きい会社から、来月、社員向けのデンタルケアの講習をしてほしいと依頼されている。
できれば二人で来てほしい、という依頼だったが、そのためにココを休診にしてしまうのはどうか、と思ったジョーは、自分が残って、彼女だけを派遣することにしようと思っていたのだけれど。
こういうことがあると、ちょっとどうしようかな、などと思うのだった。
フランソワーズに若い男性が好意を持ち、近づくこと自体は悪いことでもなんでもない、とジョーは思う。
ただ、相手は選ぶべきだ、とも思っている。
彼女は子供の頃から素直で優しく、少々お人好しのトコロもある。
悪意のある人間にだまされたり、利用されたりしても、なかなかソレに気づかないのだった。それが昔からジョーには歯がゆくてならない。
あんなにキレイになっちゃったから。
ふと苦々しく思う。
見かけの美しさに惹かれるだけではなく、彼女の本当の良さをちゃんとわかって、彼女を愛し、幸せにできる男なら、文句を言う筋合いではないのだ。
だが、今までフランソワーズに近づこうとした男たちは、ソレとはほど遠いヤツらばかりで……。
と、ジョーは、これまで蹴散らしてやった「最低のヤツら」を、腹立ちとともに思い起こすのだった。
「やっぱり、来月の講習には、僕も行くことにする。こっちは休診だ」
「…え?でも…」
「予防のための指導も大切な仕事だからね。力を入れていきたいと思ってるんだ」
ジョーはきっぱりと言った。
で、その拍子に彼はつい、フランソワーズの様子がどこかおかしいと、せっかく気づいた…のを忘れてしまったのだった。
3
その次の休診日だった。
朝少し遅く起きると、ダイニングには朝食が用意され、出かけてきます、というフランソワーズのメモが置いてあった。昼食にも戻らないらしい。
ギルモア老医師の姿もなかった。
どうやら、昨夜から研究室にこもりきりのようだ。
しかたないな、とつぶやきながら、ジョーはさっさと朝食をすませ、身支度を整えると、車のキーをとった。
久しぶりにフランソワーズとドライブにでも行こうかと思っていたのだが。
特にあてはなかったので、とりあえず大きな隣町へと車を走らせた。
町外れには高速道路の入口がある。
…が。
ジョーは、あれ、と首をかしげた。
フランソワーズが、大きな通りで信号待ちをしているのを見つけたのだった。
買い物にでもきたのだろうか。
声をかけてみようと思い、道路の端に車を停めたジョーは、次の瞬間、彼女が入ろうとしているビルの看板に気づき、大きく目を見開いた。
慌てて車を飛び降り、駆けつけるなり、彼女の肩を後ろからぐい、とつかむ。
思わず悲鳴を上げ、振り向いたフランソワーズは、怒りをみなぎらせた黒い瞳に息をのんだ。
「ジョー…どうして?…おどかさないで!」
「どうして?おどかさないで、だって?…その言葉、そっくり君に返してやる!」
ジョーはフランソワーズの腕をつかみ、ぐいぐい引きずっていった。
痛い、放して!という抗議の声も無視し、突き飛ばすように車に押し込んでドアを閉める。
目撃者がいたら、誘拐とも思われかねない行為だったが、激昂していた彼にはそう思い及ぶゆとりもなかった。
「…どういうことだ?」
運転席にすべりこむなり、低く尋ねる。
フランソワーズはうつむいたまま答えない。
ジョーはまた彼女の両肩をつかんだ。
「…痛い!」
「答えるんだ!なぜあんなトコロに行こうとしていた?」
「あんなトコロって…おかしなトコロじゃないわ、ちゃんとしたお医者さんよ!」
「ちゃんとした…?ちゃんとした、だって?…きみは、アイツに…ボグートに、何をされたか、もう忘れたのかっ?」
「忘れてなんか…っ!」
フランソワーズはきっと顔を上げた。
目には涙が浮かんでいる…が、それでひるむジョーではなかった。
4
フランソワーズが入ろうとしていたのは「バン・ボグート・デンタルクリニック」の瀟洒なビルだった。
ボグート医師は、ジョーたちが卒業した歯科大の先輩にあたる人物で、その実家は大財閥ブラック・ゴーストの家筋なのだという。
彼は一見優しく頼もしい青年であり、下級生の女性たちの憧れの的だった。
当時のフランソワーズが彼をどう思っていたのか、正直のところ、ジョーにはわからない。
が、ボグートの方が彼女をどう思ったのかはハッキリしすぎるほどしていた。
彼は、フランソワーズが入学するなり、あの手この手で彼女に近づこうとしていたのだった。
もっとも、ひたすら勉学に励んでいたフランソワーズは、彼の誘いのほとんどを断り続けていたから、ジョーもそれについて特に気を回すことはなかった。
…が。
ある日、大学の廊下を歩いていたジョーは、少し開いていた研究室のドアから、部屋の片隅の床に女子学生が座り込んでいるのに気づいた。
どうしたんだろう、とそっとのぞいてみると。
彼女は、おもむろにカミソリのようなものを取り出し、手首にあてたのだった。
急いで研究室に飛び込み、刃物を取り上げた。
はじめ、ひどく錯乱した様子だった彼女も、ジョーの優しい声に少しずつ落ち着きを取り戻し…やがて、すすり泣きを始めた。
彼女は、ボグートに捨てられた、と言うのだった。
昨年入学して間もなく、言い寄られたのだが、つきあいはじめてほどなく、彼には他に女性が何人もいる…ということを知った。
ショックを受けたものの、会えばいつも優しい彼にほだされて、ずるずるとつきあいを続けていた…のだが。
「もう…お前はいらない、とはっきり言われました。理想の女を見つけた、お前たちのような豚にはもう用がない…って」
「ヒドイ言いようだな…でも、それで自殺なんて、馬鹿げているじゃないか。あなたは魅力的な人だと思う。そんなヤツの言うことを気にすることなんか…」
「でも…!彼の言うこともわかるから…だって、アルヌールさんと比べたら…私なんか」
「…なん、だって…?」
その女子学生はジョーがフランソワーズの友人であることを知らないようだった。
彼女の話によると、ボグートは今日、フランソワーズを口説き落とし、初めてのデートに誘うことに成功した…のだという。
ジョーはすぐさま大学を飛び出し、手当たり次第に学生たちに話を聞き、心当たりを探し回った。
そして、その夜更け。
とうとう、小さなバーからフランソワーズを抱えるようにして現れたボグートを見つけたのだった。
そのままタクシーに彼女を押し込んだ彼の襟首を捕まえ、有無を言わさず歩道に投げ飛ばすと、ジョーは彼の代わりにタクシーに乗り込んだ。
ボグートは、飲み物にクスリを混ぜ、彼女を眠らせていたらしい。
やがて、ギルモア邸の居間のソファで目を覚ましたフランソワーズは、心配そうにのぞき込むジョーをみとめるなり、大粒の涙をこぼした。
すがりつく彼女をしっかり抱きしめながら、ジョーは、あんなケダモノを彼女に近づけることは二度としないぞ!と心に誓ったのだった。
そして、彼はそれを着実に実行した。
5
「きみは、いつからアイツのところへ…!」
厳しく問い詰めるジョーに、フランソワーズは何度も烈しく首を振った。
「いつから、なんて…!あれきりあの人とは会っていないわ…顔を見るのも…声を聞くのもイヤだったもの…今日が初めてよ。それに、あの人に会いに行ったんじゃないわ。私は、ただ…」
「…ただ?」
「ただ…診てもらおうと思っただけよ。患者として行こうとしていたの」
「…患者?君が?」
ジョーは思わず瞬きした。
フランソワーズは戸惑うジョーをまっすぐに見つめ、叫ぶように言った。
「そうよ、患者なの!…それに、あの人だって、私のことなんか忘れてるに決まってるし…もうあれから何年もたっているから、奥さんだっていると思うし…それに…」
「…フランソワーズ」
ジョーはやっとの思いで口を開いた。
どこからどう突っ込んだらいいかわからない。
君のことを忘れる男がいるもんか!
何年たっても同じことだし、それに…奥さん、だって?
そんなのがいようがいまいが、あのケダモノには関係ないだろう!
…いや。
そうじゃない。そうじゃなくて。
ジョーは叫び出しそうになるのを懸命に押さえ、深呼吸を繰り返した。
そうだ。
そういうことじゃない。
僕が、本当に言いたいのは、コレだ!
「どうして君が歯医者に出かけなくちゃいけないんだ?わざわざそんなことしなくたって…僕がいるじゃないかっ!」
「…っ!」
フランソワーズは顔色を変え、何か言い返そうとした…が、ぱっと口を噤み、うつむいてしまった。
「…そうか。僕が信用できないのか?」
「まさか!」
「そういうことじゃないか!君は患者として僕を信頼することができないってわけだ、よりによってアイツよりも…!」
「そんなこと…!そんなこと、ないわ!私は…私、は…」
今にも泣きそうな声をのみこみ、フランソワーズはまたうつむいた。
ジョーはぐい、とシフトレバーを引き、むやみにアクセルを踏み込んだ。
「とにかく…!帰るぞ。君が僕を信用できようとできまいと、アイツの治療椅子に君を座らせることだけは、断じてさせるもんか!」
6
ギルモア歯科へとひた走る車の中で、フランソワーズはいつまでも泣き続けた。
私は…何をしようとしていたのかしら。
みじめな気持ちだった。
まさか、ジョーに見とがめられるとは。
そして、こんなことになってしまうとは。
ジョーの性格はわかりすぎるほどわかっている。
もう絶対に許してもらえない。
着いたら、問答無用で診察室に引きずられ、治療椅子に座らされてしまうだろう。
そう思うと、身を切られるようにつらい。
でも、もっとつらいのは…
彼の誤解だった。
フランソワーズは、医師としてのジョーを誰よりも尊敬し、信頼している。
もしかしたら、師であるギルモア老医師よりも。
ボグートがどんな医師になっているのかは知るよしもないが、少なくとも彼がジョーの足元にも及ばないということだけは確信できる。
でも、私がとった行動は…
そうだわ。そういうことなんだわ…でも。
涙が止まらない。
なんて馬鹿だったんだろう、とフランソワーズは何度も自分を責めた。
こんなことになるのなら…勇気を出して、ジョーの診察を受ければよかったんだわ。
そうすれば、こんな誤解を受けることだけはなかった。
今までどおりでいられたのに……
この間から、フランソワーズは奥歯に小さい違和感を感じていた。
自分でのぞいてみると、生えたまま放っておいた親知らずが、虫歯になりかけている。
抜いた方がよさそうだった。
一見したところ、それほどイヤな生え方ではない。簡単に抜くことができる…と思った。
が、もちろん、自分では難しい。
ジョーに言われるまでもない。
本来なら、彼に頼むべきなのだ。
そうできなかったのは……
フランソワーズは、幼なじみのジョーを兄のように慕ってきた。
しかし、彼は兄ではない。
そのことに彼女が初めて気づいたのは、あの、ボグートの魔手から彼に助け出された夜だった。
頼もしいジョーの腕に抱きしめられ、安堵の涙を流したあの夜は、彼女の苦しみが始まった夜でもあったのだ。
7
私は、ジョーが好き。
でも、ジョーは私を好きではない。
それは、明白すぎるほど明白なことだったから、フランソワーズはそれ以上そのことについて考えることをやめた。
悩むのもやめようと思った。
恋人にはなれなくとも、彼の片腕として一生懸命つとめ、信頼されるようになりたいと思った。
その気持ちだけで、ここまで努力してきたのだ。
それでも、気持ちが揺らぐことはもちろんある。
一番つらかったのは、ジョーに思いをよせる若い女性患者たちの存在だった。
彼女たちには、自分と違い、チャンスがある…とフランソワーズは思う。
ジョーは今さら、子供のころから妹のように思ってきた自分を女性として愛することなどないだろう。
絶対に、そんなことはありえない。
でも、新しく彼と出会う彼女たちは違う。
とはいえ、ジョー自身はどんな女性にどう迫られても、何を気にするという風でもなかった。
そして、ある日。
彼がなにげなくギルモアと交わしていた会話に、フランソワーズは思わず胸をなでおろしたのだった。
ギルモア老医師に、女性患者に人気があることをからかわれたジョーは、真顔でこう言った。
「何をおっしゃるんですか、博士。だいたい、どんな美人だって、僕には大きく開けた口と鼻の穴ぐらいしか見えないんですからね!」
たしかに、言われてみればそうだった。
そんなことでほっとしてしまう自分を浅ましいと思いながらも、フランソワーズはその言葉に救われていたのだった。
だから。
だからこそ!
ジョーは私の大きく開いた口だの鼻の穴だのを見ても、何も動じることはないでしょう。
でも、私は……!
車が止まった。
着いたんだわ…とぼんやり思ったとき、フランソワーズの膝に大きなハンカチが落とされた。
「それで顔をよく拭いて。それからすぐ、診察室にくるんだ…いいね」
フランソワーズは黙ってうなずいた。
8
足早に診察室に入り、いつもの真っ白な白衣を身につけると、ジョーはてきぱきと診察の準備を始めた。
ややもすると、こみ上げそうになる怒りを懸命に抑えこみ、深呼吸を繰り返す。
あのケダモノ…ボグートと比べられること自体、ジョーにとっては屈辱以外の何ものでもない。
が、彼女がそういう気持ちでいるというのなら、断じて彼に負けるわけにはいかないのだ。
弱々しい足音が診察室に入ってきた。
ジョーはフランソワーズの方を見ないまま、彼女がいつも着ているピンクの白衣を投げつけるように渡した。
「汚れるといけないから、それを着てから座るんだ」
フランソワーズは返事をしない。
それでも、素直に彼の言いつけに従った。
一方で、彼女のまるで殉教者のような悲壮な表情に、ジョーの感情は更に逆撫でされていくのだった。
そんなに…
そんなに僕の治療を受けたくないのか、君は!
もう一度深呼吸をしてから、治療椅子の脇のスツールに腰掛け、ライトをつける。
右手のデンタルミラーと左手で、大きく口を開けさせ、のぞき込むと、すぐにジョーはマスクの奥でつぶやいた。
「親知らず…か。キレイに生えてるし、抜いた方がいいな」
まさか、抜くのがコワイというわけでもないだろう…と、ちらっとフランソワーズをのぞいたが、彼女はぎゅっと目を閉じたままだった。
なんとなく溜息をつく。
こんな抜歯、僕なら君が居眠りしている隙にだってやってみせるのにな。
どうしてそんなに怖がっているんだ、君は。
手際よく抜歯の準備をしながら、ジョーはだんだん切ない気持ちになるのだった。
いや。
誰よりも僕の技量をしっているのは君であるはずだ。
その君にこんなに信用してもらえないということは……僕は、もしかしたら。
今まで築いてきた、医師としての自信と誇りとが、ぐらぐらと揺らぐのをジョーは感じていた。
こんなことではいけない、と自分を叱りつけようとしても、うまくいかなかった。
考えてはいけないと何度思っても、フランソワーズが自分をさしおいて、あのケダモノ…ボグートの元に行こうとしていたのだ、ということが思い起こされてならない。
準備は終わった。
そっと振り返ると、治療椅子の上で、フランソーズは、まだじっと目を閉じている。
長いまつげに涙がたまっていた。
…どうしてだよ!!
叫びたいのを必死でこらえ、ジョーはぐっと拳を握りしめた。
泣きたいのは、こっちだ、と思った。
9
しかし、もちろんジョーは泣かなかった。
こうなったら、ほんのわずかな苦痛も彼女に与えず、治療を終えようと決心し、またミラーを手に取る。
「…口を開けて」
バラ色の唇に、できるだけ優しく左手を添える。
そのときだった。
得体のしれない電流のようなモノが、ジョーの体を駆け抜けた。
なんだ、今のは…?
懸命に動揺をおさえ、彼女の口の中をのぞき込む。
少しの苦痛も与えない。
うんと優しくする。
だから……
頭の中に、何かぼんやりした靄のようなものがかかっている気がして、ジョーは小さく首を振った。
注射器を取り上げ、うす桃色の歯茎をじっと見据える。
ココ、だ…!
狙いを定めた…はずだった。
が。
手が、震える。
どうしようもなく震えるのだった。
堅く目を閉じていたフランソワーズは、ジョーの動きが止まっているのに気づき、不審に思った。
どう…したのかしら?
ごく簡単な処置のはずだ。
どこに麻酔を打てばいいのか、彼には考えるまでもなくわかるはずなのに…
大きく口を開けられ、のぞき込まれている…という恥ずかしさより、医師仲間としての気遣いがまさった。
勇気を奮い起こし、そうっと目を開ける…と。
いきなり彼女の視線は、微かに潤み、震えている澄んだ黒い瞳とぶつかった。
「…あ?」
二人はそのまましばらく、呆然と見つめ合っていた。
やがて。
かちゃん、と注射器が落ちる。
「ジョー?」
驚いて飛び起きたフランソワーズは、ジョーがマスクを顔からむしり取るように外すのを見た。
わけがわからない。
そのまま無言で出て行こうとするジョーの背中に、彼女は必死ですがりついた。
「ジョー、どうしたの…?」
「放してくれ…僕には…!」
「ジョー…!」
「ギルモア博士をよんでくる…ここで待っていてくれ」
「いやよ…ねえ、どうしたの、ジョー…おかしいわ、あなた…どこか具合が悪いの?」
ジョーはふっと振り返り、じっとフランソワーズを見つめ…やがて、小さく溜息をついた。
「ジョー!待っ…!」
いきなり荒々しく抱きしめられ、フランソワーズは大きく目を見開き、息をのんだ。
続けようとした言葉は、既に彼の唇でふさがれていた。
10
数ヶ月後。
とびきり優しい美少女医師に、50パーセントの確率で診察してもらえる、という噂に引き寄せられ、ギルモア歯科にやってきた青年の前に現れたのは、ギルモア老医師だった。
「なんじゃ、その顔は…ったく、今日の客はどいつもコイツも」
不愉快そうにつぶやき、ギルモア老医師は黙々と治療を始めた。
さっき、妙齢の女性患者にも同じように曖昧な顔をされたばかりだったのだ。
ギルモア歯科の若先生たちが、二週間の休暇をとって海外旅行に行っているらしい、という噂は、小さい町に瞬く間に広がった。
新婚旅行、ということなんだろうねえ…と、老人会ではしばし盛り上がったが、やがて二人が帰国し、元通り診療を始めると、それをどうこう言う者もいなくなっていた。
とはいえ、以前に比べると、ギルモア歯科を訪れる若者の患者が減った…ことは、常連患者なら、なんとなく感じられることだった。
少し患者が減った方が、特にアルヌール先生のためにはいいでしょうねえ、と心配性の老女たちは訳知り顔で言ったりもした。
その方が、孫の顔も早く見られるというものだ……と。
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