診察室

5      平ゼロ
 
 
何をやっている女性なんだろうなあ…と、ジョーはいつも思う。
一応、会社員、らしい。
年齢はジョーよりひとつ上。
 
とにかく、よく来る。
気になって調べてみると、一昨年あたりから、三ヶ月に一度ぐらいは来ているのだ。
 
初診のときは、右足首のねんざ、だった。
次は、手の甲のやけど。
それから今度は左足首をねんざして。
鎖骨にひび、なんてこともあった。
 
一番びびったのは、顔に大きな切り傷をつけてきたときで。なまじ美人なだけに、その傷には異様なまでの凄みがあった。
仕事柄、傷は見慣れている…とはいえ、ジョーは思わず息をのみ、後ずさりしそうになるのを懸命にこらえなければならなかった。
 
が、彼女は本当にごく落ち着いた物腰の女性だった。はきはきとした無駄のない受け答えからは、彼女が頭脳明晰な女性であることも容易にうかがえる。
どうしてこんなひとがこんなにやたらと怪我をするのか、ジョーにはどうしてもわからない。
 
「アルヌールさん、どうぞ」
 
ドアを開け、声をかけると、亜麻色の髪の女性がゆっくり立ち上がった。わずかに足を引きずりながら診察室に入ってくる。
 
「大丈夫ですか?」
「はい…あの、昨日ちょっと階段を、踏み外して…」
「階段?…おうちの?」
「いいえ、駅のです」
「そう…ですか」
 
話を聞いてみると、階段を降りているときに、いきなり後ろから強く押されて、つい何段かを一気に飛び降りる羽目になってしまい、着地に失敗した…ということらしい。
 
「それは…すごいですね」
「え?」
「いや、よく転ばなかったなーと」
 
ジョーは感心した。
そうなのだ。
この女性は、結構運動神経もいいようなのだ。
さらに、筋肉も骨もかなりしなやかで、鍛えられた感じがある。
 
触診では、大した怪我ではない…と思ったのだけど、レントゲンをとってみると、骨折だった。
キレイに折れたのが、そのままキレイにくっついている。
ジョーはまた感心した。
 
「このままで動かさない方がいいですね。固定してしまいましょう。不自由になりますが、しばらく松葉杖を使ってください」
「はい…しばらくって、どれくらいでしょう」
「とりあえず、2週間。1週間したら様子を見たいので、また来てください。フツウならもっとかかるかもしれませんが、あなたはきっと治りが早いと思いますよ」
 
女性が、くすっと笑う。
ジョーはちらっとカルテを見直し、彼女の名前を確認していた。
 
フランソワーズ・アルヌール。
 
 
 
「怪我ばかりしている美女、か…」
「うーん。美女、というか…もっと言うと、才色兼備の女性、かな」
「才色兼備?どうしてそんなことがわかるんだ、ジョー?」
 
飲みに行こうぜ、と診療時間終了直前にぶらりと訪れ、待ちかまえていたジェット・リンクが、面白そうに身を乗り出してきた。
せかされている感じではないのだけど、人の好いジョーは、やっぱりかなり急いで身支度を整えるのだった。
 
「…話し方とか…さ。打てば響くって感じで。それに、動きに無駄がない。相当できるひとだと思うんだよなあ…だから不思議なんだ」
「…ふん?…その女、結婚してるのか?」
「独身、って書いてあったけど…」
「なんだ。オマエにしちゃ珍しいな、ちゃんとチェックしてやがる」
「えっ?」
 
にやっと笑うジェットに、ジョーは思わず肩をすくめた。つい油断していた。彼にかかると、どんなマジメな話でもこうなってしまうのだ。
気のいい男だとわかっている幼なじみではあっても、こういうときはちょっと疲れるなあ…と、ジョーはひそかに思うのだった。
 
「たしかにチェックはしたよ。でも、そういう意味じゃなくて…もしかしたら…その、DVじゃないかと思ったりしたから」
「…DV?」
「うん。このごろ結構あるんだよ。でも、彼女の場合は、治療する場所の他にアザや傷はなかった」
「…ふーん。なるほど、な」
 
ジェットもふと真顔になった。
 
「一応、原因は聞いてるんだ。ねんざは足をひねったって言ってたし、やけどはアイロンで…だっけな。顔の傷は、思い切り転んで、ついでにガラスに激突したとか…」
「なんだ、そりゃ?」
「そうなんだよー」
 
どう考えても、あの彼女がガラスに激突している姿など想像できないわけで。
ジョーはなんとなく溜息をついた。
 
 
 
ジェット・リンクに引きずられるようにしながら、夕暮れの街に出て行く。いつもの店に行くのかと思ったら、どうも違うらしい。
…が。
 
どうやら、その新規開拓した飲み屋の場所がわからなくなったらしく、ジェットは舌打ちを繰り返しながら、何度も通りを行ったり来たり、狭い小路に出たり入ったりするのだった。
 
「ジェット…今日はもう諦めて、いつものトコロにしないか?ずいぶん時間がたったし…」
「おっかしいなあ…たしか、この……っと、わかった!こっちだった!」
「…さっきもそう言ってたじゃないかー」
 
うんざりしながらふと大通りを振り返ったジョーは、目を見開いた。
松葉杖の女性が、なんだか忙しそうに通り過ぎていく。
フランソワーズ・アルヌールだ。
 
「…ん?どうした、ジョー?」
「あ、あれ…?」
「知り合いか?」
「いや…さっき話した患者さん…なんだけど」
「お、才色兼備のアルヌールさん、か?」
「なんで、あんなトコロに…?」
「おい?…待てよ、ジョー!」
 
そのままふらふら歩き、やがてかけ出したジョーを、ジェットは慌てて追った。
 
「へっ、やっぱりご執心なんじゃないか…!オマエにしちゃ、ほんっと珍しいよな」
「そんなんじゃないよ!…だって、彼女…ほら、あそこ!スポーツセンターだよね?」
「…ん?」
 
ジョーは大きなガラス扉の手前で立ち止まり、中をそうっとのぞき込んだ。
が、ジェットは躊躇することなく、ジョーを半ば突き飛ばすようにしながら扉を開け、建物の中へと踏み込んだ。
 
「…あ、あれか…!」
 
ジェットも松葉杖の女性の後ろ姿を認め、ほうっとうなずいた。
 
「松葉杖ついてスポーツセンターか。たしかに妙だな」
「…あの。登録証はお持ちですか?」
 
受付の女性に声をかけられ、咄嗟に後ずさりしかけたジョーをしっかりつかまえておいてから、ジェットは満面の笑みを浮かべた。
 
「いや、二人とも初めてなんだが…手続きを教えてもらえないか?」
 
 
 
当たり前といえば当たり前だったのだが、登録の手続きをしている間に、二人はフランソワーズ・アルヌールを完全に見失ってしまった。
 
「うーむ。更衣室か?」
「ま、待てよ、ジェット!」
 
あわてて引き留めるジョーを、ジェットはあきれ顔で振り向いた。
 
「ばーか。いくらなんでもソコまで追いかけていくわけにはいかないだろ。お、それより、アレ、面白そうじゃないか」
 
アレ、と彼が顎で示したのは、トレーニングルームだった。登録の時の説明では、空いていれば自由に使える…ということだったが。
あれこれ並んだトレーニングマシンの方へ、ジェットは妙に張り切った様子でぐんぐん進んでいった。
 
飲みに行くんじゃなかったのかよ…と思いながらも、ジェットに、コレ面白いぞ、やってみろよ、と言われれば、ついつきあってしまうジョーだった。なんだかんだと小一時間を過ごし、二人はトレーニングルームを出た。
 
「よーし!それじゃ、再挑戦といくか!」
「え。また探すのか、その店?」
 
思わず叫ぶジョーを、当たり前だ!と一喝して、ジェットは出口に向かっていく。さすがにつきあいきれない、という気がするが、仕方ない。彼の後をのろのろと追いかけようとしたときだった。
不意に、女性のきびきびした声が、ジョーの背中を打つように響いた。
 
「ワン、ツー、スリー、フォー、もっと速く!」
 
まさか、と振り返ると、奥の部屋の窓から、ちらっと亜麻色の髪が見える。
 
「どうした、ジョー?早く来いよ!」
「…いた」
「は?」
「あの人だ!…うわ、何やってるんだよ、ホントに!」
 
叫ぶなりかけ出したジョーを、ジェットはあっけにとられて見送った。
 
 
 
フランソワーズ・アルヌールが次にジョーの診察室に現れたのは、そうしてください、と指定した期日通り、始めの処置からきっかり一週間後だった。
 
「その後、どうですか?」
「順調のようですわ…痛みもありませんし」
「……」
 
なんだかなーと思いつつ、診察を始めると。
たしかに、順調…のように思える。
信じられない。
ジョーは、まじまじとフランソワーズ・アルヌールの顔を眺めてしまった。
 
あの日、松葉杖によりかかった彼女が、何かダンスのインストラクターのようなことをしているのを見て仰天してからというもの、ジョーは毎日のようにスポーツセンターに通い、ダンスを教える彼女の様子をさりげなくうかがっていた。
それがどういうジャンルのダンスなのか、ジョーにはさっぱりわからなかったが、やたらと飛んだりはねたり足を上げたり回ったりしているように思えるのだった。
 
彼女はもちろん、松葉杖をついたままなのだが、その杖を振り回すようにして、声高にカウントを取り、指示を出し、時には大きく上半身を動かしたりする。
骨折していない方の足で何度か飛び跳ねてみたりもする。
とにかく、はらはらすることこの上ない。
 
女性たちが踊っているところを、毎日のぞき見するわけにもいかないので、通りすがりにちらっと見るだけなのだが、この分だと、彼女は勢い余ると松葉杖を放り出したりもしているんじゃないか、とさえ思えるのだ。
 
大した骨折ではない、とはいえ。
しっかり固定している、とはいえ。
いくらなんでも、無茶をしすぎている。
当然、治りは遅れている…というか、下手をすると悪化しているのではないか、とジョーは危ぶんでいたのだ。
…が!
 
こうして診察してみると、彼女の足は、予定通り…というか、それ以上に順調に回復しているのだった。
わけがわからない。
 
「順調は順調…ですけれど、あまり無理をされないようにしてください」
「ええ。気を付けます」
「……」
 
どう反応したらいいものか。
ジョーはふと天井を仰いだ。
しばらく踊りの指導をやめるべきです、と言いたいのは山々だが、どうしてそうと知っているのかを彼女に説明するのは難しい…という気がする。
仕方なく、ジョーはとりあえずできることとして、いっそう念入りに処置をするのだった。
 
「いつも、ありがとうございます」
 
一心不乱に手元に集中していたジョーは、不意に声をかけられ、つい無造作に顔を上げ…碧の澄んだ瞳をまともにのぞき込んでしまった。
 
「…え、と?」
「とても丁寧に処置してくださって…おかげで助かります」
「あ…それは、どうも」
「何があっても先生に診ていただけると思うと、なんだか安心なんです」
「……」
 
あんまり安心しないでほしいなあ…と、心のどこかでつぶやく声を聞きながら、ジョーは、いえ、とかそんなことは、とか、しどろもどろに応答するのだった。
 
 
 
結局、驚くべき早さでフランソワーズ・アルヌールの傷は癒えた。
最後の日、彼女は何度もお辞儀をしながらジョーの診療室を出て行った。
やれやれ…と伸びをする。
 
ジェット・リンクはどうやら彼女に一目惚れしたらしく、住所を教えろだの電話番号を教えろだのとやかましい。
当然だが、教えるわけにはいかない。
 
でも、コレには誘ってあげようかな、とジョーは今彼女が置いていった二枚の招待チケットを取り上げた。
どういうモノだか、見当もつかないが、ダンスの競技会だというのだった。
 
彼女は言葉を濁していたが、どうも、彼女自身、その競技会に参加する…ということらしい。
というのは、最後に彼女は痛み止めの薬を彼に所望したのだった。
 
「あの、でも、ええと。薬を使いたいほど足が痛むようなことなら、してはいけないんですが…」
「わかっています。でも…」
 
…でも。
そうなんだよなー。
 
ジョーは溜息をついた。
どうせ、彼女はやりたいようにやってしまうに違いない。
それなら、せめて、痛い思いをするよりは、少しでも痛くない方がまだマシというものではないだろうか。
 
仕方なく、1回分だけ、ごく弱い薬を処方すると、彼女は嬉しそうにジョーに礼を言うのだった。
 
「ありがとうございます、先生。…私、これ、きっと飲みません。お守り代わりにしますわ」
 
お守り…か。
どれだけ御利益があるものか、心許ない。
どうして彼女が怪我ばかりしているのか、ジョーは最近になってやっとわかったような気がしている。
 
運動神経はいい。
体も鍛えられている。
頭脳も明晰だ。
…でも。
 
とにかく、彼女は「限界」というものに躊躇することが、およそない女性…のようなのだった。
いつか、ガラスに激突したというのも、おそらくそういうこと…ジョーには想像もつかないが、きっと彼女が限界を飛び越えて何かをしでかした結果起きたことに違いない。
 
信じられないよなあ…。
 
ジョーは二枚のチケットをつまみあげ、ひらひらと目の前にかざしてみながらつぶやいた。
 
 
 
ジェット・リンクに彼女の電話番号を教えるわけにはいかない。もちろん、ジョー自身も、ソレを使うつもりなどない。
 
でも、おそらく、また彼女には会うことになるのだろう。三ヶ月後ぐらい、だろうか。
ちょうど、鬱陶しい季節にさしかかるころだ。
 
そういえば、この前から診察室の壁紙交換を業者に勧められていたっけ、その頃にしてみようかなあ…などと、この頃のジョーはふと考えたりしているのだった。
 

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