診察室

4      超銀
 
「ギルモア博士!」
 
どこか大儀そうに振り向いた老人は、コズモの姿を認めると人の良さそうな笑みを浮かべた。
 
「やあ…元気そうじゃな、コズモ君」
「ご無沙汰しております。博士こそお元気そうで何よりです!」
 
堅く両手を握りしめられ、ギルモアは苦笑した。
 
「君がよこしてくれた若いのがよくやってくれるおかげで、ここのトコロ、楽させてもらっとるわい。老いぼれがこんな場所に来ても場違いなんじゃが…まあ、こうして君に会えるわけじゃから…」
「若いの…?ああ、島村ですね。なかなか優秀な若者でしょう」
「うむ。口は重いし無愛想じゃが、腕は確かじゃな。目も鋭い。助かっとるよ」
「…そうですか」
「やはり…何か、事情があったんじゃろうな?」
「ええ。彼には、本当にすまないことをしました。私は…」
「なに、気にすることはない。あの性格では、いずれ同じコトになったじゃろうて…若いうちに軌道修正ができたのは、彼の幸せというもんじゃ」
「……」
 
コズモは黙ったまま深々とアタマを下げた。
 
「で、コズモ君。すまんが、ちと案内を頼みたいのじゃが…なにせ大きな学会など久しぶりで、わけがわからん」
「おお、これは失礼しました。どうぞ、こちらへ…!博士のお話をうかがいたがっている若い研究者がどれほどいることか…!」
「…なに?」
「さあさあ、ギルモア博士!」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ、コズモ君…!」
 
ぐいぐい引きずられ、ギルモアは思わず叫び声を上げた…が、コズモは気にする風もなかった。
 
天才医師と謳われ、かつて学会の中核をなしたアイザック・ギルモア博士は、今では片田舎の小さな診療所にこもり、滅多に人前に出ることもない。
それでも、その才能を慕う若い研究者は多く、こうして旧友であるコズモ博士に呼び出されることもしばしばだった。
 
ややあって、学生たちの質問攻めからようやく解放され、ギルモアはほっと息をついた。
 
あの子も、ついこの間までは、こういう生き生きとした目の若者だったのじゃろうか?
 
ふと空を見上げ、彼はまだ一度も笑顔を見たことのない、あの青年の物憂げな眼差しを思った。
 
 
 
ギルモア診療所は、いつも混雑している。
一応内科をうたっているのだが、外科の患者も皮膚科の患者も、ヘタをすると眼科やら歯科やらにいくべき症状の患者までやってくる。
それらにいちいち対応している老医師も老医師なのだが。
 
「なんだ、今日は若先生だけかよー!」
 
いかにも不満そうに言われれば、それなりにむっとする。
が、ジョーは淡々と診察を続けた。
とりあえず、ギルモアが普段やっていることなら、何であれ、すべてやらなければいけない。
そして、それができない自分だとは思っていない。
 
学会へ行ってみないか、とギルモアに尋ねられ、ジョーは迷わず首を振った。
自分なりに納得した上で選んだ今の道だ。
それでも、彼らに再会してしまったら、心がどう揺れ動いてしまうか、まだ自信がなかった。
 
それなら、ワシが行ってみようかの、とのんびりつぶやき、のんびり出かけていった老医師の背中を見送り、ジョーは思わず溜息をついていた。
あの老人の心境に達することができたら、どんなに楽になるだろう、とふと思う。
…でも。
 
「島村先生…あの」
 
年配の看護士に遠慮がちに声をかけられ、ジョーは脱ぎかけていた白衣に袖を通しなおした。振り向きもせず答える。
 
「どうぞ。通してください」
 
診療時間はもうとっくに過ぎている。
それでも駆け込んでくる患者はぽつぽついるのだった。
ギルモアが彼らを拒んだことはないのを、ジョーはよく知っていた。
 
「すみません、先生」
「かまいませんよ…問診票を見せてください。…ああ、熱、ですか。インフルエンザかな?…すみませんが、検査の準備をしておいてください」
「はい」
 
ジョーはマスクをかけ直し、診療室に戻った。
 
「申し訳ありません、こんな時間に…」
 
細く優しい声にふと目を上げると、少女がすっかり恐縮した様子で座っている。
 
「アルヌールさん、ですね…どうしましたか?」
「昨日から、熱が下がらなくて…」
「39度ですか…ちょっと高いですね。身近に、インフルエンザの人はいますか?」
 
小さくうなずく少女の顔を、ジョーはじっと観察した。
熱のため潤んだ青い目は、それでもしっかりとした力のある光を放っている。
気丈な子だな、とぼんやり思った。
 
 
 
インフルエンザの検査は陽性だった。
丁寧に診察を終え、ジョーはちょっと考え込んだ。
薬の処方をどうするか、なんとなく決めかねていたのだった。
 
「アルヌールさん、今一番つらいのは、やはり熱ですか?」
「…はい」
「そうだろうな…それじゃ…」
「あの」
 
どことなく張り詰めた声に、ジョーはカルテから顔を上げた。
青い目がまっすぐに見つめている。
 
「さっき、拝見したお薬の説明…なんですが」
「ああ。副作用ですね。心配なことがありますか?」
「いいえ。でも、私…熱はガマンできると思うんです。それなら…あまりお薬に頼らない方がいいのかしら…って」
「……」
 
ジョーは黙ったまま少女をじっと見つめ、やがて静かに口を開いた。
 
「人にもよります。でも、そうですね…たしかに、僕もあなたにはあまりその薬を勧めたくないです」
「…そう…なんですか?」
「ええ。あなたには病気に対する十分な抵抗力と体力があると思う。ただ、薬を飲めば熱は早く下がります。ずいぶん楽になりますよ」
「…それなら、いいんです。私、治るのを待つことにします」
 
少女は微かに笑った。
つい引き込まれて微笑しそうになり、ジョーは少し慌てた。
 
「でも、辛くなったらすぐに来なさい。ガマンしすぎるのは危険ですから」
「はい」
「水分をしっかりとって、とにかく休むことです」
「…はい。ありがとうございました」
 
少女は深々と頭を下げた。
 
「先生に診ていただけて、よかったです…なんだか、とても安心しました」
「…え?」
 
本当にありがとうございました、ともう一度頭を下げ、少女は診察室を出て行った。
 
時計が8時を打った。
ジョーははっと顔を上げた。
看護士たちを先に帰しておいてよかった、と思わず息をつく。
こんなに長い診察になるとは、思っていなかったのだが。
 
のろのろと白衣を脱ぎながら、ジョーは少女の青い瞳を何となく思い起こしていた。
 
 
 
暖冬で、春の訪れも早い。
もう桜が舞っているのか…と、なんだか感心しながら、ジョーはぶらぶら歩いていた。
ずっと押し寄せていた花粉症の患者がちょっと一段落して、ギルモアから思い出したように臨時休暇をもらったのだった。
 
「先生…先生ってば、写真!」
 
少女たちの楽しそうな声に、ジョーはふと足を止めた。
古風な校門の前に、大きな看板が立てかけてある。卒業式のようだ。
 
「先生!」
 
いきなり肩をたたかれた。
仰天して振り向くと、きらきら輝く青い目がジョーをじっと見上げている。
 
「先生、あの、お世話になりました…!先生に診察していただいた、アルヌールです」
「あ…」
 
ああ、とジョーは思わず叫びそうになり、咄嗟に手で口を塞いだ。
長い髪を三つ編みにした制服姿は、あの診察室での彼女よりずいぶん子供っぽくも、むしろ大人びたようにも見える。
 
「あの…」
 
少女は心配そうにジョーを見つめ、ややためらってから、思い切ったように続けた。
 
「あの、本当に申し訳ありませんでした」
「…え?」
「あの後、治癒証明書をいただこうとして、診療所にうかがったら…先生、熱でお休みしていらっしゃる…って、ギルモア先生が」
「…あ」
 
そういえば、そうだった。
あの後しばらくして、インフルエンザに捕まってしまったのだ。
 
「…私が、うつしてしまったんでしょうか」
「…いや」
 
ジョーは慌てて首を振った…が、実際のところ、そうなんだろうな、と思っていたのだった。
でも、そうだとしても…
 
「君が謝ることじゃない。もしそうだとしたら、僕のミスだからね。医者としては恥ずかしいことだった」
「…でも」
「もうすっかり元気そうだね…君は、ここの生徒さんだったのか…もしかして、卒業したの?」
「はい。あの後、よくなって、入学試験にも合格しました」
「ああ!そんな時期だったね…そうか、それはよかった」
「…先生の、後輩になれました」
「え…?」
 
少女ははにかむように笑った。
 
「診療所に、先生の免許がありました。同じ大学だったんです」
「……」
 
ジョーは改めてまじまじと少女を見た。
同じ大学、というと。
国立の、あの…
 
「それじゃ…医学部?」
「はい」
「…ずいぶん、優秀なんだな、君は」
「そんなこと。それなら、先生だって…」
「いや、僕は浪人したから」
「…でも」
 
口ごもる少女を、ジョーはいたわるように見つめた。
優秀な、学生……か。
僕も、そう呼ばれて、ただ無邪気に前だけを見つめていた。
その先に何があるのか…なんて、知るよしもなく。
 
「私、先生みたいなお医者さんになって、町の診療所におつとめしたいんです」
「…え?」
「親切で、頼もしくて、診てもらうとそれだけで安心できて…」
「……」
「大変だと思いますけど、がんばります」
「……」
「それじゃ…お引き留めしてごめんなさい。どうしてもお礼がいいたくて…ありがとうございました」
「…ちょっと!」
 
気づいたときは、少女の腕をつかんでいた。
驚いて振り向く彼女に、何をどんな風に言ったのか、実のところ、ジョーはよく覚えていない。
…が。
 
とにかく、彼は彼女に「お祝いしたいからお茶でも」とかナントカ言ったらしいのだった。
 
 
 
そして、そのとき、どこでお茶を飲んだのかとか、どんな話をしたのかとかいうことも、ジョーは覚えていない。
ただ、今でもはっきりと目にうかぶのは、その日の、明るくまぶしい青空だ。
 
いや、もしかしたら…と、時にジョーは思う。
それは空ではなく、彼女の澄んだ瞳…の記憶だったのかもしれない、と。
 
 
何はともあれ、そういう風に、その日はジョーにとっても新しい旅立ちの日となっていたのだった。
とはいえ、彼がそのことに気づくにはその後呆れるほど長い月日が必要だった…のだけれど。
 
 
 

PAST INDEX FUTURE

ホーム 案内板 お見舞い 診察室