1
「彼女だけが『お帰りなさい』って言うの、きみ、気づいていたかい?」
別れ際、どこか懐かしい目をしながら、黒い肌の友人はそう言った。
言われてみればそうだと思った。
「お帰りなさい」
それは、そこを「家」と信じて疑わぬ者が使う言葉だ。
あの研究所は、たしかに自分にとって「拠点」の1つではある。でも、それだけのことで。懐かしそうに言ったピュンマにとっても同じだろう。研究所の主であるはずのギルモアでさえ。
「お帰りなさい」と言われるから「ただいま」と答える。
答えることで、そこは僕たちの帰る場所となる。
彼女も、そういうヒトなのかもしれないね。僕たちにとっては。
ピュンマは少し照れたように笑いながら、フランソワーズによろしく、と付け加えた。
アルベルトが体の不調を感じるようになったのは12月に入ってすぐのことだった。
ギルモアに連絡すると、急を要することではなさそうだが、早めにメンテナンスをするべきだ、という意見で。
とはいえ、仕事が片づいてみたらクリスマス休暇に入ってしまった。空港の混雑ぶりは目に見えている。
結局、彼が日本に降り立ったのは、年が明けてしばらくしてからになった。
特に連絡は入れていない。急に行こうと決め、急にチケットをとってそのまま来てしまった…というのもあるが。
ピュンマの言葉も耳の奥に残っていた。
「お帰りなさい」
驚きながらも、当り前のようにそう言って迎えるだろう少女の微笑みが無性に懐かしかった。
もちろん、突然訪ねていけば留守にしている可能性もあるわけだが…それは、そのときのことだ。
研究所は何も変わっていないように見えた。
日当たりのいい居間の窓が開け放されている。
ということは、いるんだろう。
足早に門をくぐろうとして、郵便受けに入った手紙に気づき、取り出しておく。
玄関を開けると、少女は正面に立っていた。
大きく青い目を見開き、持っていたハタキを取り落とし、ものも言わず飛びつくフランソワーズを、アルベルトは苦笑しながら抱き留めた。
「お帰りなさい…お帰りなさい、アルベルト!…驚いた…どうして連絡してくれなかったの?お昼ゴハンは?荷物はそれだけ?…まさか!」
弾かれたように肩から顔を上げ、じっと見つめる。
「まさか…どこか…体に、悪いところが…?」
「前話したメンテナンスのために来たんだ…別に緊急事態…ってわけじゃない。親父さんは?」
フランソワーズは申し訳なさそうに首を振った。
「明後日お帰りになるわ…それで大丈夫…?」
「ああ。一週間ほどいるつもりだ」
「一週間…!ああ、よかった…それならゆっくりできるわね、嬉しい…!あ。やだ、私ったら…さあ、入って…お茶をいれるから…今ね、ちょうどお掃除が終ったところなのよ」
軽くシャツの袖を引くようにするフランソワーズの右手を取り、その甲に軽く口づけながら、アルベルトは「ただいま」と言い、持ってきた手紙を彼女に手渡した。
「グレートからだわ…!まあ、かわいい…!」
「クリスマスカードか?あのおっさん、何寝とぼけてるんだか…」
「ううん…バースデーカードよ…私、誕生日なの」
寝とぼけていたのは、自分だったらしい。
2
「博士はイワンを連れて学会…ジョーは遠征中か。寂しい誕生日だな」
「そうね…でも、あなたが来てくれたから…嬉しいわ」
「そうとは知らなかったからな…プレゼントもない」
「来てくれたことが何よりのプレゼントじゃない…夕ご飯、何にしましょうか?好きなもの、作るわ」
「食事なら外でしないか?せめて、プレゼント代わりに…」
「それも素敵だけど…でも、ここでゆっくりしたくない?」
たしかに、そう言われればそうなのだが。
結局、二人は買い物に出ることにした。
夕食の材料と、ケーキと…プレゼント。
気にしないで、と固辞したフランソワーズだったが、アルベルトは妙に心が浮き立つような気分になっていた。珍しい、と我ながら思う。
この気分に身を任せてみたかった。
とりあえずアクセサリーの店に行く。無難なところでネックレスか…?とケースを眺めながら、アルベルトはふと尋ねた。
「あいつには、何をもらったんだ?」
「え…」
一瞬戸惑うように口ごもり、頬を染める。今更、と思いながらも、重ねて聞く。
「ジョーだよ…この手のモノを送ってよこしたんじゃないのか?」
「ええ…指輪、もらったわ」
「ほお?少しはオトナになったってわけか、あいつも」
「…アルベルトったら」
とうとう真っ赤になってうつむいてしまったフランソワーズに微笑しながら、アルベルトは青い貴石のついた金の鎖を手にとり、店員を呼んだ。
「ありがとう…アルベルト」
「一週間の下宿代…ってほどの値段じゃなかったがな」
「もう…!すぐそういう言い方するんだから…!」
白い喉には柔らかく金の鎖が絡みつき、その先端に青い星が輝いている。
想像以上に美しいその眺めに、アルベルトは満足した。
ジョーにもらったという指輪を彼女は手にはめていなかった。
大切にしまいこんでいる…ということなのかもしれないし、照れがあるのかもしれない。それとも、二人きりの時間のためにとってあるのか。
とにかく、あの坊やにしては上出来だ、と思う。
もっとも、もう少し気のきいたオトコなら…
「あいつ、国内なんじゃないのか?こんな日だってのに、帰ってこないのか?」
言ってしまってから、アルベルトは小さく息をのんだ。まさか…と思うが。余計なことを言ってしまったのかもしれない。
が、フランソワーズは屈託なく微笑み、首を振った。
「忙しいみたいなの…なんだか、眠る暇もなさそうで。事故を起こしたりしなければいいんだけど…お正月にはずっと一緒だったのよ。無理に休暇をとったから、今大変なんだと思うわ…ジョーはそんなこと言わないんだけど…」
一言聞けば、何倍にも言葉が返ってくる。彼女にジョーのことを尋ねると、いつもそうだった。
つまり幸せだ…ということなのだろう。結構なことだ。
3
楽しそうに台所に立つフランソワーズをあれこれ手伝いながら、アルベルトは自分が笑い声を立てていることに驚いた。
考えてみれば、ずっと一人暮らしで、笑うことはおろか、誰かと無駄話をすることさえない毎日だった。それで不自由しているわけではなかったが。
なるほど、帰る…とはこういうことなのかもしれない。
「彼女も、そういうヒトなのかもしれないね。僕たちにとっては。」
ピュンマの言葉が蘇る。
そういうヒト…か。たしかに、そのとおりなんだろう。
だからこそ、俺たちは人間でいられる。自分が人間だと思い出すことができるわけだ。
「…どうしたの、アルベルト?」
食事が終わり、二人は並んでソファに腰掛けていた。
けげんそうに聞かれ、アルベルトは自分が微笑を浮かべていることに気づいた。
「ああ…いい気分になってな…こんな気持ちは久しぶりだ」
「ふふっ…酔ってるんじゃない…?」
「かもしれないな…それなら、気持ちよく酔わせてもらってる…とでも言うか」
「私も…こんなに幸せなのは久しぶりだわ…」
その言葉に翳りはなかった。が、アルベルトは思わず彼女の目をのぞくようにした。
彼の視線から逃れるように、青い目は長い睫毛の下に隠れた。
「幸せなヤツだな…アイツは」
「…ジョー…の…こと?」
「他に誰がいる…?」
「私は…幸せよ、いつも…でも…ジョーは」
フランソワーズは口を噤んだ。
微かに胸騒ぎがする。
「でも…なんだ?…幸せそうじゃない…っていうのか?」
「ううん…よく…わからないの…私には」
「……」
「幸せだと…思ってくれているなら…いいな…」
「思っていないんだとしたら、馬鹿か罰当たりか…どっちかだろう」
「もう…アルベルトったら…!」
顔を上げて微笑んだはずみで、青い星が小さく踊り、光った。
思わず目を細め、アルベルトは彼女を軽く抱き寄せた。
脅かさないよう、額に短いキスを贈り、そのままそっと離そうとした…が。
彼女は、すがりつくようにアルベルトに身を寄せ、彼の肩に顔を押し当てたまま動こうとしなかった。
「フランソワーズ…?気分が…悪いのか?」
小さく首を振る。
それじゃいったい…と言いかけたとき、電話が鳴った。
フランソワーズはびくん、と顔を上げたまま動かない。
首を傾げながら、立上がろうとしたアルベルトの袖を、白い指がぎゅっとつかんだ。
「出ないで…!」
「どうした…?」
「お願い…出ないで…」
しかし。
アルベルトは眉を寄せて、鳴り続ける電話を見つめた。
「いたずら電話か…?だったら、オトコの声で出れば…」
「違う…違うの」
電話は鳴りやまない。
舌打ちし、やや乱暴にフランソワーズを引きはがして立上がったアルベルトを、悲鳴のような声が遮った。
「出ないで…!あの人からなの!…毎日…同じ時間だから…だから…!」
「あの…人…?」
振り返ったとき、電話は切れた。
水の底のような沈黙を、フランソワーズの震える声が破った。
「ごめんなさい…なんでも…ないのに…心配しないで…ジョーから…なの」
「……」
フランソワーズは笑顔を作り、アルベルトを見上げた。
「ごめんなさい…私、おかしいわね…ホントに酔ったみたい…大丈夫よ…何でもないの」
「ケンカでもしてるのか?」
「違うわ…本当に…ただの電話なの…いつも、この時間にくれるのよ…今日あった何でもないことを話してくれたり…それだけなの。楽しい電話なの」
「…だったら、どうして」
フランソワーズは夢から醒めたような表情で電話を振り返り、つぶやくように言った。
「いつも、最後にジョーが言うの。『何か、困っていることはない?』って…ないわ、って答えて、おしまい。だって…困っていることなんて…ないから。ある…って言ったら、きっとあの人、飛んできてくれるわ…だから、大丈夫よって言うしかなくて」
「…フランソワーズ」
「お正月に一緒だったって、嘘なの…ううん、嘘じゃないけど…始めの日だけ。一日だけで。それからずっと…ジョー、忙しくて…でも、毎日電話をくれて…だから…寂しくなんかなかった…のに」
アルベルトはフランソワーズを力任せに抱きしめた。
それ以上聞くのが、なぜか恐ろしかった。
どうしてあなたはきてくれないの?
あなたはもう、帰ってきてくれないの?
…ううん、そんなことない。
そんなこと、ないのに…馬鹿なフランソワーズ。
そんなことを言ったら、困らせてしまう。
あなたを困らせるのはいや。
お誕生日おめでとう…って、あなたが送ってくれた指輪。
とてもキレイで…とても嬉しかった。
本当のこととは思えないくらい。
だから…箱を開けるのが、こわくなったの。
本当のことでなかったら…どうしよう。
本当のことでなかったら、私、どうしたら…いいの?
また電話が鳴る。
弾かれたように胸から離れ、電話に駆け寄ろうとするフランソワーズを咄嗟に突き飛ばし、アルベルトは受話器をとり上げるなり、叩き付けるように切った。
「…アルベルト」
「これで…飛んでくるだろう、ヤツは」
「……っ!」
青い目から涙がとめどなく溢れるのを見つめながら、アルベルトはそっと両手をさしのべた。
吸い寄せられるようにすがりつくフランソワーズを堅く抱きしめ、彼は目を閉じた。
4
「フランソワーズ…っ?!」
息せき切って駆けつけたジョーは、間髪を入れず開いたドアに驚き、灰青色の瞳を呆然と見つめた。
「よぉ。お帰り、ジョー」
「…ア…ルベルト…?」
ジョーは熱を帯びた防護服をまとっている。
アルベルトは思わず苦笑した。
「早いと思ったら…加速装置か」
「ど…ういうことだ…?!」
「だが、それで正解だ…フランなら部屋にいる」
「さっきの電話…まさか、きみが…?」
「で、誕生日…忘れていたのか?それとも…シカトか?」
「…な!」
「明後日、寄らせてもらう…メンテナンスで来たんだが…とりあえず今夜は宿をとった…じゃあな」
「…アルベルト…っ?!」
追いかけようとしたジョーは、自分の出で立ちに気づき、唇を噛んだ。
思わず息をつき、階段を見上げると、フランソワーズが青白い顔で手すりにつかまっている。
「…フランソワーズ…!」
夢中で階段を駆け上り、抱きしめた。
細かく体を震わせる彼女を落着かせようと、優しく背中をさすり、髪にキスを繰り返す。
やがて、彼女は細い声でつぶやいた。
「…ごめんなさい…ジョー」
「何がだい…?そんなに震えないで…落着いて…」
「ジョー」
「大丈夫…僕が来たんだから…そうだろう?」
「…でも」
「わけは…後で聞くよ…それより…」
わけのわからない衝動に突き動かされ、ジョーは唇を重ねた。
微かに涙の味がする。
「泣いていたの…?どうして…?」
「…ごめんなさい」
「あやまらなくていいよ…そうだ…誕生日、おめでとう…フランソワーズ。さっき、そう言おうと思って電話したんだ…でも、こうして会った方がずっといいね…」
囁くジョーに、フランソワーズは何も答えず、大粒の涙をこぼした。
フランソワーズは何も言わなかった。
聞く必要はない、とジョーは思った。
そんな時間すら惜しかった…だけだったのかもしれない。
どうして、きみと離れていられたんだろう。
こんなに…長い間。
何度も彼女を求めながら、ジョーは心の底で繰り返し呻いた。
もう、離れられない。
誰にも…
誰にも…?
ジョーは穏やかな表情で眠っているフランソワーズの睫毛に優しくキスを落とし、白い喉にそっと指を伸ばした。
青い貴石を繋いだ、金の鎖。
軽くつまむように持ち上げ、こともなげに引きちぎると、ジョーはそれを無造作にベッドの下へ投げ込んだ。
この家に着いたときに感じた、ざらつくような違和感…わけのわからない不安。
その正体が急にわかったような気がした。
「よぉ。お帰り、ジョー」
お帰り…だって…?
ジョーは堅く唇を噛んだ。
静かに立上がり、ドレッサーの引き出しを開ける。
奥に大事そうにしまわれているビロードの小箱を取りだし、蓋を開いた。
プラチナの澄んだ光に、まばゆく輝くダイヤモンド。
ジョーは指輪を取り上げ、ベッドに戻った。
眠るフランソワーズの左手をとり、細い薬指をその銀色の輪にすべり込ませる。
「きみは…僕のものだ、フランソワーズ」
そして、きみが待つこの家も。この安らぎも。
誰にも、渡さない。
…誰にも。
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