1
「念入りだね」
ため息まじりの声に、フランソワーズは思わず微笑んで振り返った。
「ごめんなさい…でも、ミナはおしゃれにうるさいの。ちゃんとしていかないと怒られるわ」
「…十分ちゃんとしてると…思うけど」
10時に出かける、といってたのに。
車の支度をして、様子を見に行くと、フランソワーズはまだドレッサーの前でパフを使っている。
少し襟の開いたワンピース。初めて見る服だった。
髪はきっちり結い上げてあって。
目を引いたのは…耳からこぼれ落ちそうな、真珠のピアス。
これも、初めて見る。
ジョーの視線に気づき、フランソワーズは鏡越しに微笑んだ。
軽く耳に触れてみせる。
「アルベルトに、もらったのよ」
「…アルベルトに…?いつ?」
フランソワーズはちょっと宙を睨むようにした。
「…先月…パリで会ったときに」
「パリで…?」
「ええ…アルベルト、仕事でパリに来たって…訪ねてくれたの」
「…ふうん」
先月…って。
誕生日じゃ…なかったよな、まさか。
「アルベルトったら、イミテイションだから安物だ…なんて言うのよ…でも…素敵でしょう…?」
「うん…よく似合ってる…アルベルトが…珍しいな…そんな」
「ホントね…どうやって選んでくれたのかしら?」
笑ったらいけないって思うんだけど…想像するとおかしくて…
楽しそうにくすくす笑うフランソワーズの耳に、淡い光が揺れる。
「あ…ジョー、そのポーチ、とって…」
「…これかい?」
ベッドに置いてあったポーチを取る。
何気なく渡そうとして…ジョーはフランソワーズの両肩をつかんだ。
そっとかがみ込む。
「…ジョー?」
「口紅つける前に…いいだろ?」
返事を待たず、唇を重ねる。
そのまま烈しく求めながら、ジョーは静かに目を開いた。
…真珠の淡い光。
「…あ?…駄目、ジョー…!」
不意に焼け付くような感覚が首筋を走り、フランソワーズは怯えた声を上げた。
2
「フランソワーズ…そのスカーフ、ヘンよ」
「…ミナ」
容赦のない言い方は昔から変わらない。
フランソワーズはこっそり肩をすくめた。
「…まあ、仕方ないか…うらやましいわね…島村さん、やっぱりあなたのこと大事にしてるんだ?」
思わず首筋に手をやり、真っ赤になったフランソワーズに、ミナは吹き出した。
「馬鹿ね…!外しちゃいなさいよ、スカーフ…!それじゃ隠し切れてないし、かえって目立つわよ」
「…ミナったら…!」
「見かけによらないわねぇ、彼も…」
「そんな…!ジョーは…ジョーとは、私、そんな…」
「こんな素敵な贈り物までもらっておいて?…これ、アンティークじゃない」
「…え?」
ミナはそっとフランソワーズの耳に触れた。
「いくらトップレーサーでお金持ちでも…そう簡単に手に入るモノじゃないわよ…こんなに綺麗な…」
「…ミナ…?」
不意に黙り込んだフランソワーズを困ったように見つめ、ミナは優しく彼女の首からスカーフを外した。
「…大丈夫…それほど目立たなくなってるから…機嫌を直してね、フランソワーズ…あなたがあんまり幸せそうで…綺麗になっていたから、ちょっとからかいたくなっちゃったの…ごめんなさい」
3
少し…飲み過ぎたかもしれない。
寝室のベッドに腰を下ろし、そっと両頬を押えて、フランソワーズは小さく息をついた。
ピアスを外し、サイドテーブルに置く。
スタンドの光を受けて、柔らかく光る真珠。
ミナの目に狂いがあるとは思えない。
それに…見つめれば見つめるほど、その美しさがただならぬものに思えてくる。
「…アルベルト」
灰青色の瞳。
全てを見透かされているような気がした。
「お前は…どっちを信じるんだ?ジョーか?それとも…」
…わかってる。でも。
不安でたまらない。
先月。
日本に来てほしい、というジョーからの手紙を受け取った翌日、アルベルトが不意に訪ねてきた。
思わず身を硬くするフランソワーズに、彼は笑った。
心配するな、事件…なんて起きちゃいない。
思い切って手紙を見せた。
生真面目に何度も読み返した後、アルベルトは微笑んだ。
「行ってやれよ…とうとう限界がきたってわけだ…あいつも」
「…限界…?」
「わからないか?…たしかにわかりにくい書き方だが…カンベンしてやれ。これでも、あいつには精一杯なんだろう…」
これ以上…お前と離れていたくない…そういう手紙だ、これは。
優しく肩を叩かれ、涙がにじんだ。
「そんな…そんな意味じゃないかもしれないわ…!だって…ジョーは…!」
「他に好きな女がいる…ってか?知ってるのか?」
「…そう…いうわけじゃ…」
「あいつは、昔からお前を大事に思ってる…それはわかっているだろう?」
「…ええ…でも、それは…仲間だから…」
…仲間だから。
灰青色の瞳がじっと見つめている。
見透かされている。
フランソワーズは唇を噛んだ。
わかってる…私は逃げているだけ。
仲間だと…そう思っていれば、傷つかずにすむ。
あの人が誰を愛しても…私が003であることは変わらない。
あの人の003は私だけ。
だから…私は動けない。永遠に。
ジョーを取り巻く女性達の噂は、たえず耳に入っていた。
ついこの間も。
面白おかしく報じられるゴシップを信じているわけではない。
でも。
手紙を出しても、返事は来なかった。
彼の部屋の電話番号も教えられていない。
彼がギルモア研究所に居合わせていれば、話をすることもできたかもしれないが…
理由はわかっている。
彼も躊躇している。
うつむいているフランソワーズに、アルベルトは息をついた。
まあ…無理もない。だが。
「フランソワーズ」
「……」
「お前は…どっちを信じるんだ?ジョーか?それとも…『世間』か?」
だが…本当はそんなことが問題なんじゃない。
お前が信じなければならないのは…お前自身だ。
…違うか?
数日後。
フランソワーズは、来月日本に発つ、とアルベルトに連絡した。
仕事のついでだ、と言い訳しながら、彼は再びパリを訪れ、フランソワーズの手に小さな包みを握らせ、囁いた。
…よかったな。
4
よかったな…と言われるようなことだったのかどうかわからない。
手紙を出しておいたのに、ジョーは空港に来なかった。
彼がようやく現れたのはフランソワーズが研究所に着いて一週間後だった。
それから…やっととれた「休暇」だといって…ジョーはずっと研究所にとどまっている。
そっと首に触れてみる。
もう、痛みは感じない。薄くついていた口づけの跡も消えているはずだった。
「…フランソワーズ?」
飛び上がるように振り返ったフランソワーズに、ジョーは少したじろいだ。
「……ジョー」
「ごめん…驚いた?…その…ノックしても返事がなかったから」
「…そ…う…ごめんなさい…少し…酔ったみたい」
「…大丈夫?…連絡してくれれば、迎えに行ったのに…」
「ミナが送ってくれるって言ったから」
曖昧に微笑みながら、フランソワーズはまた何となくピアスに目を落とした。
「ミナが…ね、このピアス…アンティークだって…言ったの」
「アンティーク?」
「…もしかしたら…アルベルトの大事なものだったんじゃないかしら…私…気軽にもらってしまって…」
ジョーは黙ってフランソワーズの隣に腰を下ろした。
柔らかい光を放つ真珠を見つめ、やがて…静かに口を開いた。
「アルベルトが、君を困らせるようなことをするはずない…気にすることはないよ」
「でも…」
「彼はただ…君がそれをつけているところを見たかったんだ…きっと」
ジョーはそっとピアスをとり、ややぎこちない手つきで、それをフランソワーズの耳につけた。
「…え?」
そのまま頬に唇を寄せ、指を首筋に滑らせるジョーに、フランソワーズは思わず身を硬くした。
「どう…したの、ジョー…?お願い、離して…待って…!」
「待ったよ、フランソワーズ…僕は…ずっと待っていたんだ…もう…待てない…!」
なんて…綺麗なんだ。
ジョーはフランソワーズの胸からそっと身を起こした。
透き通る肌が、薄紅に染まっている。
君は僕のものだ。
もう誰にも、渡さない。
真珠を刺した耳に優しく囁く。
君が…欲しい。
君を…このまま全部感じたい。
華奢な体が少しずつ熱を帯び、抑えきれない声が唇から漏れ始める。
今、彼女が身につけているものは、あの真珠だけ。
彼女が切なく喘ぐたびに、淡い光が揺れる。
アルベルトが…君に贈った真珠。
こんなに…君の肌と一つになって…
…かまわない。
君の全ては…僕の…僕だけのものなんだから…!
5
…綺麗になったな。
アルベルトは内心舌を巻いていた。
メンテナンスのため、研究所を訪れた彼を、フランソワーズが迎えた。
予定より2日早い到着だった。
「博士は学会なの…ジョーも、お供してるから…二人とも、明日帰ってくるわ」
「そうか…仕事が早く終わったから来ちまったんだが…悪いことをしたかな」
「早く来てくれて、嬉しいわ…淋しかったから」
温かい笑顔も、優しい身のこなしも、何も変わらない。
変わらないが…綺麗になった、とアルベルトはしみじみ思った。
こういうものなのか…他人の話と聞いてはいたが。
「幸せそうだな」
フランソワーズは驚いたようにアルベルトを見つめ…僅かに頬を染めた。
夕食の後。
アルベルトは早々に寝室に入ってしまった。
逡巡しながらも、フランソワーズはその部屋をノックした。
今でなければ…言えないような気がする。
「…何だ?」
「あの…やっぱり、これ…もらえないわ」
フランソワーズが差し出した箱を眺め、一瞬考え…アルベルトは首をかしげた。
「気に入らなかったか…?」
「そんなこと…!でも…本当はとても大事なものだったんでしょう…?私がもらったりしてはいけないと思ったの」
大粒の真珠のピアス。
どれだけの値打ちのあるものなのかは知らない。
が、母から伝えられた形見だった。
いつか…お前の愛する人に…
母はそう言い遺して逝った。
そうやって代々伝えられてきた真珠だった。
「大事なもの…そうかもな。だが…だからお前に預けたんだ…俺にはもう…これを伝えられる者がいない」
「アルベルト」
「…だが、お前なら…お前達なら…未来に…」
アルベルトはふと微笑み、箱を開けると、ピアスを取り上げた。
亜麻色の髪をかき分け、耳たぶに触れる。
息が止まりそうな思いで、フランソワーズはひんやりした真珠の感触を味わっていた。
「彼はただ…君がそれをつけているところを見たかったんだ…きっと」
ジョーの言葉がよみがえる。
もしかしたら…
灰青色の瞳が優しく見つめている。
今にも…壊れそうな瞳。
あなたが…こんな目をするなんて……
ふわっと抱き寄せられた。
フランソワーズは目を閉じ、アルベルトの胸に頬を寄せた。
深い嘆息。
「…雨」
「ん?」
「雨が…降っているわ」
耳を澄ませたが…何も聞こえない。
アルベルトは後ろ手でスタンドの明かりを消した。
びくっと硬くなる体を更に強く抱き寄せる。
「…アル…ベルト…?」
彼が…何かつぶやいた。
私の耳でもとらえられないほど…微かに。
…あのひとを…呼んだの?
「…光ったんだ」
「え…?」
「お前の言うとおり…雨が降っているんだな…遠くで、稲妻が光った」
微かに揺れる青い瞳をじっと見下ろし、アルベルトは静かに唇を重ねた。
6
目覚めたら…一人だった。
思わず飛び起きた。
何度も見た悪夢。
もう夢と現実の区別もつかないほど。
…ヒルダ!
叫びかけたとき。
微かな…細い声が届いた。
少女の悲痛な声。
カッと頭に血が上った。
反射的に廊下へ飛び出し、隣の部屋のドアを破らんばかりの勢いで開け放つ。
ジョー…!彼女を離せ!!
罪なら、全て俺に…!!
目の前が一瞬真っ白になり…
意識が遠ざかった。
気づいたとき、アルベルトは、自分のベッドの上にいた。
大きく目を見開いたまま。
…夢…か。
深呼吸する。
…どこまでが…夢…だ?
耳を澄ますと…微かな細い声。
少女の…悲痛な……
そうか…
目を閉じ、深く息を吐く。
帰った…のか、ジョー…
7
夜が明けた。
カーテンを開け、窓を開けようとすると…
ジョーが、庭に出ていた。
昨夜の音もない雨は、意外に降ったらしい。
草も木もぐっしょり濡れ、雨上がりの日を浴びて輝いていた。
ぼんやり花壇を眺めていたジョーは、足音に振り返り、微笑んだ。
「やあ、アルベルト…おはよう」
「早かったんだな…今日帰ってくると聞いていたんだが」
「一応、日付は『今日』だったよ…君が早く着いたって聞いたから、急いだんだ」
「……博士がか?」
「うん」
ジョーは眩しそうに空を見上げ、また微笑んだ。
「よく降ったね…恵みの雨だ…フランソワーズが、喜ぶよ」
「まだ…起きてこないのか?」
「うん…珍しいね…疲れてるのかな」
疲れてるのかな…だと?
アルベルトは憮然とした表情で、少年の端正な横顔を見つめた。
…あれだけ責めぬいておいて。
明け方まで、フランソワーズの押し殺した喘ぎは続いた。
そのたび、あの…白い肌に痛々しいまでに刻まれた、無数の赤い跡が目の前によみがえり…
いや…それも夢だったのか…?
何もかも…俺の…
フェンスのつるバラに歩み寄り、雨を含み、ぐったりと垂れ下がっている花房を指で持ち上げ、アルベルトは軽くその露をはらった。
思いがけないほどたくさんの水滴が散る。
「ねえ…アルベルト…これ…もう駄目かな…?」
振り返ると、ジョーが庭の隅にかがみ、大きな花の茎を支えるようにしていた。
白い…見事な花だった。
幾重にも重なった透き通るような柔らかい花びらは、微かに紅を帯びている。
東洋の…花だ。たしか…名は…
「茎が…折れてるよね?」
「…そうだな」
アルベルトは、びっしりと露を含んでうつむく、その花を見つめた。
「…泣いてるみたいだ」
ジョーがつぶやき、愛おしむように花を折りとった。
両手で大事そうに捧げ持つ姿に、アルベルトは首をかしげた。
「飾るつもりか…?無理だろう」
「…いいんだ…僕の花だから」
8
ギルモアは、目覚めるとすぐ004のメンテナンスにとりかかった。
一日がかりの作業になる。
「ジョー…?」
二人きりになった途端、抱き寄せられていた。
「ジョー…ったら…待って…」
「待てないよ…!」
フランソワーズを自分の部屋に連れ込み、もどかしそうに抱きしめながら、ジョーは喘ぐように言った。
「…あれ…は?フラン…?」
甘く耳朶を噛む。
「あれ…?」
「真珠だよ…あの…ピアス…ねえ、つけてみて」
「…アルベルトに…返したわ」
「え…?」
ジョーの動きが止まった。
探るように見つめる茶色の瞳を、フランソワーズは静かに見返した。
「返した…って…どうして…?」
「…あれは…私のものではないから…」
「そんなこと…!!」
あれは…君のものだ。
君そのものだ。
君と溶け合い、君と一つになって…
そう言いかけて、ジョーは口を噤んだ。
指の震えを抑え、彼女のブラウスのボタンを外していく。
雪のような白い胸元に、赤い印が刻まれている。
僕が刻んだ印。
これも…これも。
でも…これは…?
ゆっくり顔を上げる。
青い瞳が涙を湛えていた。
「…泣いて…いるの…?」
「…ジョー」
「どう…して…?」
ばら色の唇が震え、ひらきかける。
ジョーは反射的に、その言葉を唇で塞ぎ、彼女をベッドに押し倒した。
いい…いいよ、言わなくて…!
僕は…大丈夫だから…だから、フランソワーズ…何も…言わないで!
「ここを出て…一緒に…暮らそう」
「……」
「お願いだ、フランソワーズ…ずっと…僕の傍に…」
フランソワーズは涙を流しながら、微かに頭を左右に振った。
「…フランソワーズ…!!」
「だめよ…ジョー、だって…私は……」
「アルベルトのものだから?…もう…遅い?」
「そんな…!」
フランソワーズは思い切りジョーの腕を振り払い、ベッドから飛び降りようとした。
…が。
「僕から…逃げられると思ってるの?」
「ジョー…離して」
「離してあげたい…君を泣かすくらいなら…でも…!」
小さな悲鳴を上げるフランソワーズを再び押し倒し、抱きすくめる。
もう…離せない。
こうなるって…わかっていた。
一度でも君に触れてしまったら…きっとこうなる。
だから、僕は…
誰の想いでも優しく受け止めてくれる君。
そんな君を…僕は愛した。
そんな君だったから…僕も愛してもらえた。
でも…でも、もう駄目なんだ。
君は…僕のものだ。
9
そうか…半年たってるのか。
アルベルトは心でつぶやいていた。
半年。
短い…か?
いや…
震えながら恋人からの手紙を見せた儚げな少女が、日本に渡ってわずか数週間で、匂うばかりに美しくなった。
それを思えば、半年は…果てしなく長い。
009はいつもと変わらない。
003も。
何が変わったのか…それを感じ取れるのは俺だけなのかもしれない。
彼女はもう怯えていない。
俺と二人きりになっても。
忘れたフリをしているわけではなく。
忘れてしまったわけでもない。
彼女は…前と同じように、優しく俺の傍らに立つ。
何も変わっていない。
だが。
もうお前にあの真珠は似合わないだろう。
確かめてみようとは思わない。
確かめるまでもない。
「それじゃ…二手に分かれよう…僕はジェットと行く…アルベルト、フランソワーズを…頼むよ」
「ああ…」
「気を付けて、二人とも」
「そっちもな」
頼む…と言われたら守るしかない。
お前の…真珠を。
ジョー、お前は…したたかな奴だよ。
そうとも、俺は…俺なら、命を捨てても彼女を守る。
何もかも、お前の思惑どおり…それでも。
「アルベルト…敵が…近づいてるわ」
「わかった。着弾距離に入ったら…教えてくれ」
俺には俺の愛し方がある。
それをお前に止めることはできないさ。生きている限り。
俺はそのために…生きるのだから。
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