1
今日も熱帯夜らしい。
深夜だというのに、蒸し暑い空気がよどんでいる。
ジョーは目を閉じて、ストレンジャーのシートに身を沈めた。
研究所への通信を開く。応答したのはジェットだった。
「終わったのか?」
「ああ…これから帰るよ…もう遅いから、待ってなくていいって、フランソワーズに…」
「帰ってないぞ」
「…え?」
「ああ、心配ないけどな…さっき、アルベルトから連絡が入ったところだ…彼女を、少し休ませてから帰る…ってさ」
「休ませる…?どうして…何かあったのか?」
「とにかく、あいつがついてるんだし、大丈夫だって言うんだから、大丈夫なんだろう…とりあえず、戻れよ」
「う…うん…」
研究所の玄関で、ジェットは眠そうに瞬きながら説明した。どうやら、彼女は酒の飲みすぎで気分が悪くなっているらしい。
「あと、足も痛いとか…なんつったっけ、あの妙な履物…木で出来た…」
「下駄…かい?」
「それそれ…!」
ということは。あの浴衣を着ていった…ということだ。
2
日本の花火は本当に綺麗だ、と友人たちにさんざん聞かされて、フランソワーズは珍しくジョーに、花火大会に連れていってほしい…とねだった。仲間たちの冷やかしに、ジョーは耳まで赤くなりながら、エスコートを引き受けた。
「我々も一緒に…?まさか!そんな無粋な真似はしないさ…なぁ、みんな?」
芝居がかったグレートの身振りに、フランソワーズも頬を染めていた。
その数日後、フランソワーズは、日本の友人に教わって浴衣を縫っているのだ、とうれしそうにジョーに告げた。
「へえ…難しそうだね」
「そうでもないの…今度、帯と下駄を選びにいくのよ…着方も教わらなくちゃ」
「どんな浴衣?…それかい?」
大事そうに抱えている包みに手を伸ばすと、フランソワーズは軽くジョーを睨んで、首を振った。
「ダメよ…!出来上がるまで、見せてあげない!」
結局、二人で花火を見に行くことなど、実現しない…ような予感はあった。
今までも、彼女と何か約束するたびに、こんなことになっていたのかもしれない。
事件、というほどのことではない。
以前、関わったことのある某国駐日大使からの頼みだった。
娘が日本の花火大会を見たがっている。護衛を頼めないだろうか?
政情不安で、テロが頻発している国。
一見平和な日本にいるといっても、気軽な外出はできない…というのも、わからないではない。
まして夜では。
「すごい人だな…」
「ホント…ジョーが言ったとおり…普通の車が入れないはずだわ…でも、土手にあがれば、広々して…ア!」
肩を押され、倒れかかったフランソワーズを、ハインリヒは素早く抱きとめた。
「大丈夫か?」
「え、ええ…足もとが…慣れないから…ごめんなさい」
「こりゃ…確かに『護衛』が必要だな…」
「そうね…ジョーは…大丈夫かしら?」
「どこにいるか…探せないか?」
「…一生懸命探せば、見つかるかもしれないけど…でも、今日は花火を見にきたのよ」
フランソワーズは屈託のない笑顔を見せた。
009一人にお願いしたい…と、大使は言った。
娘は…この前、自分を助けてくれた彼を信頼し、慕っている。
病弱で、内気で…人見知りをする娘だから、できれば、願いをいれてやりたい。
もちろん、我儘な頼みだということは、私も十分…
大使の言葉を遮ったのは、フランソワーズだった。
「私も、日本の花火…とっても見たかったんです…お嬢さんの願い、かなえてあげてください」
誰も、何も言えなかった。
「ごめん…フランソワーズ」
「…どうしてジョーがあやまるの?…私は大丈夫よ…花火には、アルベルトがつれていってくれるんだもの」
みんな優しいわ…と、さっきの壮絶なジャンケン大会を思い出し、フランソワーズは微笑んだ。
「アルベルトなんて、いつもは、あんなに人混みがキライな人なのに…」
夜空に次々とあがる花火。
ベンチに座り、目を輝かせて見入っていたフランソワーズは、ふと振り返り、目を丸くした。
アルベルトが抱えてきたビールの缶。やたらと大きい。それに、きれいな色のついた缶もいくつかある。
とにかく、もてるだけもってきた…という感じだ。
「どうしたの、そんなに…?」
「何だか、いろいろあって面白そうだったから…ま、ちょっと味見してみようぜ、一口飲んで、まずかったら捨てればいいんだ」
フランソワーズは、もったいないわ…とくすくす笑った。
「それに、ビールも、そんな大きいの…」
「いや…これしか見あたらなくてな…あっちに行けば、まだ店もありそうなんだが…」
そっちへ行くには、もの凄い人混みを横切らなければならない。
「それなら、一つで…よかったのに…一緒に飲めば…」
「俺はかまわんが…万一、ジョーにバレたら…」
「…もう…っ!」
フランソワーズは唇を尖らせ、軽くアルベルトを睨んだ。
3
新しい花火が上がるたび、少女は歓声を上げる。
嬉しそうに何度もジョーを振り返り、声を立てて笑う。
思わずつられて笑顔になってしまうような、明るい表情だった。
やっぱり、来てよかった…そうつぶやいてから、彼女はぽつりと言った。
「…こんなにたくさんの人がいるのに…みんな、私を知らない人なのね」
夢見るように視線をさまよわせ、ほっと息をつき、うつむく。
知らない人…
彼女を憎む者も、利用しようとする者も、ここにはいない。
ジョーは少女の手をぎゅっと握って、夜店の灯りを指さした。
「あっちに、いろいろ面白いモノがあるんだよ…見にいかないかい?」
少女はパッと顔を輝かせた。
最後の光が消える。
ぞろぞろと動き出す人波に逆らうように、少女は立っていた。
「…行こう…はぐれてしまうよ」
ささやくと、彼女は無言のまま、ジョーの胸に身を投げた。
ジョーはそっと少女の肩を抱き、人混みから庇いながら、その場に立っていた。
「まだ…帰りたくない」
「お父さんが、心配するよ」
「あなたと一緒なら…安心だって言ってたわ…ジョー、お願い…もう少しだけ…」
ただの女の子でいさせて。
言葉にならないつぶやきを、ジョーは黙って受け止めた。
花火が終わっても、フランソワーズはベンチから動かなかった。
ひそかに首を傾げながらも、アルベルトは黙っていた。
とにかく、ものすごい人だ。
なれないモノを着て、なれないモノをはいている彼女が、さっきのようによろけて、転んだりしたらまずい。
急ぐ理由も特にない。
しかし。
人がほとんどいなくなっても、彼女は動かない。
さすがに、アルベルトも腰を上げた。
「そろそろ行こうか、フラン…?」
彼女の手から、ビールの缶を取り上げ…眉をひそめた。
空になっている。
「おい…?」
まさか…と思いながら、彼女の周りにある、他の缶を確かめた。
全部、空だ。いつのまに……?
彼女は、さほどアルコールに強くない。
アルベルトは、彼女が動かなかったのではなく…動けなかったのだと、初めて理解した。
「お前…これ、みんな飲んじまったのか?」
聞いても仕方ないと思いながら聞いてみる。
フランソワーズは物憂げにうなずいた。
まず…水だな…
その辺でミネラルウォーターを調達しよう、と思い立ち、舌打ちした。
ここに彼女を一人で待たせておくのは…よくないだろう。
普段の彼女ならともかく…
仕方ない。
今一番近くにいるのは…あいつか。
ちらっと忌々しさに似た思いを感じながら、ジョーへの通信を開こうとしたとき。
フランソワーズが倒れかかった。
「あぶない…!」
慌てて抱きかかえる。
「おい…大丈夫か…?」
「……」
青い目がうっすらと睫の奥からのぞき…また隠れる。
我知らずため息をついたアルベルトの手に、冷たい雫がこぼれた。
閉じた瞼の間から、涙が一筋流れていた。
4
どうしようもないな…
アルベルトはベンチに座ったまま、膝の上でフランソワーズの上半身を抱きかかえていた。
彼女は苦しそうに息をつきながら眠っている。
いつまでもこうしてるわけにはいかないし…とにかく…
両腕に彼女を抱え、立ち上がろうとしたとき、カラン…と乾いた音が響いた。
下駄だ。
ベンチに彼女を戻し、下駄を拾い、履かせようとする。
が、白い足指に血が滲んでいるのに気づいた。
やれやれ…やっかいな履き物だぜ。
口の中で言い、もう片方の下駄も脱がせて、自分の指に引っかけた。
再び抱き上げる。
さて、どうやって帰るか。
このまま電車に乗り、好奇の視線を集めるよりは…
ジョーに連絡をとって、彼の「仕事」が終わり次第、ストレンジャーで迎えにきてもらう…のが合理的だろう。だが。
ひっかかることがあった。
フランソワーズはなぜあんなに飲んだのか。
それに、さっきの涙…
たぶん、考えすぎだ。
ジョーが聞いたら、言いがかりだと怒るかもしれない。
…まあ、そうだな。
アルベルトは苦笑した。
誰よりも愛している…そして、いつも傍にいて、自分に一途な思いを寄せている女にさえ、指一本触れることができない男だ。
「依頼人」をどうこうできるはずがない。
だが…可能性がゼロというわけではないからな…アイツの場合…
弱い者に頼られると、振り払うことができない。
自分から抱きしめることはないが、寄りかかられたら…突き放せず、抱きとめてしまう。
そんなことは、フランソワーズにもわかりすぎるほどわかっているだろう。
でも、それでも…
もし、ジョーが「弱い者」をいたわっているところを、彼女が「見た」としたら。
平気ではいられないだろう。たぶん。
フランソワーズは頑張っている方だ…とアルベルトは思う。
大概のことは、顔色に出さず、過ごしている。
おそらく…そうしなければならないと、堅く信じているから。
「アル…ベルト…?」
微かな声。アルベルトは足を止め、フランソワーズをのぞき込んだ。
「どうだ、気分は…苦しいか?」
フランソワーズは目を閉じたまま、小さくうなずく。
やはり、少し休ませるか…それでジョーを呼ぼう。
俺がつまらない意地をはることはない。彼女は何も言っていないのに。
駅近くまで来たとき、アルベルトはくるっと向きを変え、シティホテルのロビーに入った。
フロントの男性は、蒼白い頬のフランソワーズを心配し、自分の手持ちのものらしい薬まで渡してくれた。
「水は、部屋にご用意しております…何かあったら、ご遠慮なく呼んでください」
アルベルトは礼を言って、キーを受け取った。
5
部屋はひっそりとしていた。
フランソワーズをベッドに寝かせようとしたが、背中の帯が邪魔だ。
どうなっているかわからない衣服だが、帯が胸元を締め付けていると、傍目にもわかる。
…どうせ、このままじゃ帰れまい…彼女が目を覚ましたら、もう一度自分でちゃんと着直せばいい。
髪も、襟元もとっくに乱れている。
アルベルトは手探りで帯をほどきにかかった。
帯の下にも、紐が堅く締め付けられている。
舌打ちをして、それもほどく。
フランソワーズが、深く息をついた。
「やっぱりな…これじゃ、苦しかったはずだ…」
言いかけ、アルベルトはぎょっとした。
彼女を包んでいるのが、藍色の布一枚だということに気づいたのだ。
…下着…みたいなのは、ないのか?
日本の民族衣装のことは何も知らない。
ということは。
さっきから、彼女も…花火を見ていた女性たちも…
みんな、この紐数本で、こんな木綿地一枚を体に巻き付けただけで、歩いていたのか。
アルベルトは肩をすくめた。
フランソワーズが、僅かに動いた。
腕の動きにつれて、胸を隠していた布が落ちそうになる。
慌てて押さえ、天井を仰いだ。
今更、元のようにこの民族衣装を着付けることなど、できない。
このまま彼女が目を覚ましてしまったら…
…やはり多少は気まずいことになる…か?
どうするか。
どうするといっても…一つしか方法はない。
…もう研究所に戻ったころだろう。
アルベルトは電話に手を伸ばした。
「ああ…オレだ…ジョーを頼む…ん?…帰ってない…?」
思わず時計を見た。
「なんだか、少し港を歩いてから帰るって言ってだぜ…?ああ、今、奴は脳波通信切ってるはずだ…何かあったら、緊急シグナルで教えてくれって言ってたからな」
「脳波通信を…切ってる?どうして?」
ジェットはあくび混じりに答えた。
「よくわからん…そう頼み込まれて、仕方ないから…とか何とか?」
まあ、あいつだからな…いつものことだ、と付け足す。
そうか…と、息をついた。
「フランソワーズが、酔って歩けなくなっているんだ…足もあの妙な履き物で痛めたらしい…休ませてから帰る。そう伝えておいてくれ」
「は?…おい、大丈夫なのか?」
「大丈夫だ」
言い終わるなり、彼は受話器を置いた。
6
「王子様は…相変わらず忙しいようだ…な」
ぽつんとつぶやく。
藍色の布地に、白い肌がよく映る。
絹のような淡い金髪。
しばらくじっと見つめていたアルベルトは、静かに身をかがめ、柔らかい頬に軽く口づけした。
「…ここにあまり長いことオレがいたら、ややこしいことになりそうだからな…悪いが、フランソワーズ…少し待っていてくれ…なるべく早く、あいつを来させるようにする…」
囁いて、身を起こそうとしたとき。
長い睫毛が震えた。
「…いや…」
微かな声。
僅かに開いた瞼から、涙がこぼれ落ちる。
「…行かないで…」
幼い子供のように首を振り、手を伸ばそうとする。
思わず、その手を握りしめ、そっと上半身を抱き起こした。
「目が…覚めちまったか…」
フランソワーズが、ふとアルベルトを見つめる。
青く澄んだ瞳。だが、どこか焦点が曖昧だった。
また涙が溢れる。
そっと彼女を抱き寄せ、なだめるように背を撫でた。
「どうした、何を泣いてる?…帰りたいのか?…すぐにジョーを呼んでやるから、心配するな」
「こない…わ…」
「何…?」
しばらく黙考し…アルベルトはゆっくり言った。
「何か…見たのか?」
腕の中で、華奢な体がびくっと震えた。優しく抱きしめ、耳元に強く囁く。
「いや…違う、見えちまったんだな…いい…いいんだ、お前は悪いことなんかしていない…それに…わかっているだろう、ジョーは…あいつが愛しているのは、お前だけだ」
フランソワーズは首を振り続ける。腕に、我知らず力がこもった。
「…泣くな…どうしてわからない?…あいつは、お前を」
お前を、愛しているのに……!
フランソワーズの頬に手を当て、上向かせた。
自分でも何をしているのかわからないまま、唇を重ねる。
Ich……liebe dich…
藍色の布地が彼女の両肩から滑り落ちる。なめらかな素肌を直接抱きしめた。
…彼女は抵抗しない。
そのままベッドに倒れ込んだ。
そのとき。
『アルベルト…アルベルト?…どこにいるんだ?!』
陶酔は一瞬で引いた。
起きあがり…深呼吸して、応答する。
『お前こそ、どこにいる、ジョー?』
『今、川を渡っているところだ…フランソワーズは?』
『眠っている…ストレンジャーで来てるんだろうな…でないと、連れて帰れないぞ?』
アルベルトは、ホテルの名前と部屋番号を告げた。
『キーはフロントに預けておく…お前の名前を言っておくから…ああ、フランの旦那ってことにしとくぞ…動かすのもかわいそうだから、無理しないで泊まっていけばいい』
ジョーが何か言いかけていたが、アルベルトは通信を切った。
「ほら見ろ…いても立ってもいられなくなって、王子様が駆けつけるとさ…」
優しく髪を撫でる。
そっと襟を合わせようとして…やめた。
7
「島村さまですね…うかがっております。どうなさいますか?奥様は…もうお連れしますか?それとも、お泊まりになりますか?」
精算はお兄さまがすまされましたが…とフロント係に説明され、ジョーはどきまぎした。
「え、ええと…様子を…見てから…にします」
部屋に入るなり、ジョーは立ちすくんだ。
スタンドの暗い光が、乱れた髪を淡い金色に照らしている。
涙に濡れた頬。
胸から上はほとんど剥き出しになっていた。
肩から腕…乳房のなだらかな曲線。目に痛いほど白い肌。
帯を解かれた藍色の浴衣が、辛うじて下半身だけを覆っている。
その裾も乱れ、すんなりした足が膝の上まで露わになっていた。
夢中で駆け寄り、素早く浴衣をかき寄せて、両肩と乳房を隠す。
抑えようとしても、体がぶるぶる震えた。
そんなはずはない、落ち着け…!
と、頭の中で声がしている。
ジョーはフランソワーズの肩を掴み、強く揺さぶった。
「フランソワーズ…?フランソワーズ!!」
「ウ…?」
小さなうめき声とともに、青い瞳が開き、ジョーを見つめた。
「…ジョー…?」
「フランソワーズ…!!」
ジョーはフランソワーズを抱え起こし、そのまま堅く抱きしめた。
「どう…したの、ジョー……?」
「迎えに…きたんだ…お酒を…のみすぎたんだって…?」
ぼんやり聞いていたフランソワーズはふと自分の姿に気づき、頬を真っ赤に染めた。
「帰ろう…そのままでいいから。まだ苦しいだろう?」
「…ジョー」
問いかける暇を与えず、ジョーは無言のまま、帯や紐を集め始めた。
最後に、彼女を抱き上げる。
「着いたよ…」
車を止め、フランソワーズの肩に軽く手を置き…ハッと目を見開いた。
眠っているとばかり思っていた彼女が、細かく震えながら涙を流している。
胸が鋭く痛んだ。
助手席のドアを開き、かかえようとすると、彼女は小さく首を振った。
「それじゃ、歩けないだろう?」
彼女は両手で顔を覆い、しゃくりあげながら、さらに烈しく首を振る。
かまわず、抱き上げた。
「どうしたんだ、フランソワーズ…子供みたいだよ」
懸命に明るく言おうとしたが、声が微かに震えた。
彼女の寝室に入り、ベッドに座らせたとき…フランソワーズは呟くように言った。
「…ごめんなさい…」
体がぎくり、とすくむ。悟られないように、ジョーはさりげなく彼女から身を離し、聞こえないふりのまま、部屋を出ようとした。
「待って、ジョー…!ごめんなさい…私…私…!」
いいんだ、そんなこと言わなくても…聞きたくない!!
叫びそうになるのを必死でこらえた。
ジョーは振り返り、涙が一杯に溜まった青い瞳を見つめた。
早く立ち去ろう…と思うのに、足が動かない。
…馬鹿だな。
胸の奥で呟く。
君が誰を好きでも、誰が君を愛しても、君を…
君を…抱いたとしても。
僕は……
ジョーはゆっくりフランソワーズに歩み寄った。
手を伸ばして、白い頬に光る涙をそっとぬぐう。
僕は…君の傍を離れられない。
「…花火…楽しかったかい…?」
穏やかな声に、フランソワーズはジョーを見上げた。
茶色の瞳が柔らかく輝いている。
「ええ…とても…きれいだったわ…あなたは…?」
「…え?」
「…楽しかった…?」
「うん……でも…君と一緒に行きたかったな」
小さい声だった。
フランソワーズが、また震えた。
「ごめんなさい…」
「……」
「私…私…あなたを…」
裏切ったの……と、彼女はつらそうにつぶやいた。
ジョーは目を閉じて、フランソワーズを抱き寄せた。
不思議なほど、心は静かになっている。
「おやすみ…心配しなくていいんだよ」
「…ジョー…私…」
「いいから…そんな顔しないでくれ…何があっても、僕は…」
…君しか、愛せないのだから。
ジョーは柔らかい亜麻色の髪に頬を埋めた。
じっと抱きしめているうちに、少しずつフランソワーズの呼吸は穏やかになっていった。
やがて、彼女が深い眠りに落ちたのを確かめてから、ジョーはそっと彼女を寝かせ、部屋を出た。
廊下の壁に、アルベルトがもたれていた。
唇を噛み、通り過ぎようとしたジョーの肩を、アルベルトは掴んだ。
「…礼ぐらい言ってもらえるかと思ったが…?」
無言のまま、ジョーは真っ直ぐ彼を見返した。
鋭く突き刺さる、鋼の視線。
アルベルトは薄く笑った。
「フラン…まだ泣いていたのか?」
「……」
手をふりほどこうとしたが…アルベルトはびくともしなかった。
「やれやれ…どうにも信用がないんだな…一応言っておくが、俺は彼女に何もしちゃいねえ…そんな気があったら、お前さんに応答などしないさ…違うか?」
ジョーはハッとアルベルトを見つめた。
やがて、ジョーはうつむき、消え入るような声で言った。
「…すまない……僕は……」
アルベルトは苦笑し、肩にかけた手を離した。
「フランがなぜ泣いていたか…その分だと…わからなかったようだな」
「え…?」
「…どうやら、彼女…あの花火のどこかで…お前たちを『見て』しまったらしい…嫉妬にかられて仲間をのぞき見するなんて、そんな浅ましい真似をした自分が許せない…彼女らしいだろ?」
「…僕…たちを…?」
遠くを見るようなまなざしになったジョーに眉を寄せ、アルベルトは息をついた。
「馬鹿…彼女を泣かすようなコトをした覚えはないだろう…?あるのか?」
…わからない。
黙っているジョーに、アルベルトはまた笑った。
「ほんとに馬鹿だな、お前は」
8
「足、大丈夫かい?」
振り返るジョーに、フランソワーズは笑顔でうなずいた。
「ええ…もうずいぶん慣れたもの…ね、きれいだったわね、ジョー?」
「…うん」
「今までで一番素敵だったわ…でも…これで…花火大会もおしまい…夏が終わるのね…」
寂しそうに呟く彼女に、ジョーは思わず声を立てて笑った。
「しょうがないな…!まだ足りなかったのかい?」
フランソワーズは唇を尖らせ、ジョーを睨む。
「…ジョーの意地悪!!」
「だってさ…これでもう4回目だ…こんなに花火大会に行ったのは、僕も初めてだよ」
ふっと青い目が曇った。
「…ごめんなさい…我儘を言って…迷惑なら…言ってくれればよかったのに…」
「……」
ジョーは黙ったまま、フランソワーズの手を取り、指を絡めた。
「…ジョー」
「ごめん…迷惑なんかじゃなかったよ…本当に」
「でも…アルベルトは一回で懲りてしまったわ…」
ぎゅっと手に力を込める。
「それは…君がひどく酔っぱらったからだろ?」
「…もう…言わないで…恥ずかしいのに…!」
あなたが迎えに来てくれるまでのことは…何も覚えていないから…
…余計に、彼の顔が見られないの。
フランソワーズはうつむいた。
車は町はずれに停めてある。まだ遠い。
少しずつ足を速めようとするフランソワーズを、ジョーは手を引いて抑えた。
「急がなくていいよ…また、足を痛めるといけない」
「でも…もう遅いし…」
その日の会場は、研究所へ車で戻れるギリギリの距離のところにあった。いくら深夜の道をジョーの腕でとばしても、3時間はかかる。
「…いいから」
ジョーは立ち止まった。
いぶかしそうに足を止め、振り返るフランソワーズをじっと見つめる。
「…ジョー…?どうしたの?」
「君が言ったとおり…夏は終わりだから…だから、ちゃんと見ておきたいんだ」
フランソワーズは目を丸くして首を傾げた。
「やっぱり…よく似合うよ、フランソワーズ」
「…ジョーったら…変よ?…どうして急に…」
彼が、浴衣について何か言うのは初めてだった。それまでも、さんざん見ているのに。
ジョーは目を足元に落とし、微笑んだ。
「…前からそう思ってたんだけど…言うのがちょっと面白くなくて…さ」
「…え?」
「だって。その浴衣…最初に見せてもらえるのは…僕だ…って、ずっと思ってたから」
言い終わるより早く、ジョーはフランソワーズを引き寄せ、抱きしめると、唇を重ねた。
息ができない。
やがて、ジョーはそっと唇を離した。
優しく見つめる茶色の瞳。
初めてのキス。
声も出せずに見つめ返すフランソワーズが、愛しくてたまらない。
ジョーは再び彼女を強く抱きしめた。
…愛してる…
熱い囁きが、耳を灼く。
呆然と、彼が求めるに任せていたフランソワーズは薄く目を開いた。
この…声…?
初めて…じゃない…いつか…聞いたわ…どこかで……
でも…いつ…どこで…?
……思い出せない……
さまよいかけた思考を封じるように、ジョーの手が浴衣の中に滑り込む。
思わず声を上げそうになり、フランソワーズは堅く唇を噛んだ。
「フランソワーズ…今夜はずっと君と…二人だけで…」
ジョーが囁く。
ふわっと抱き上げられたはずみに、下駄が地面に転がった。
「…ア?」
とっさに伸ばそうとした手は捕らえられ、首筋を彼の唇が這う。
吐息に混じり、切ない声が漏れた。
夏の終わり…今夜、君は僕だけのものだ。
これからも、ずっと。
誰にも…渡さない。
ガレージのシャッターが閉る音に、ジェットは首を傾げた。
やがて、玄関にアルベルトが戻ってくる。
「…あれ?閉めたのかよ?…ジョーたちはまだ…帰ってないんじゃないのか?」
アルベルトは小馬鹿にしたような笑みを投げ、部屋へ上がっていった。
「…なんだよ?」
ジェットは憮然とその後ろ姿を見送った。
「そりゃ、ちょっと遅いが、もうすぐ帰ってくるのに…何も、今閉めちまうこたないよなぁ?」
まったく、イヤミな奴だぜ。
ぶつぶつ呟きながら、外に出る。
ガレージを開けなおし、ふと空を見上げた。
折れそうに細い月。
何となく、ため息がもれる。
ジェットはしばし、その白い光に見入っていた。
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