1
激しい息づかいがまだおさまらない…微かに上下する細い肩。
優しく抱きしめ、じょーは宥めるような口づけを繰り返した。
「…大丈夫…?」
ふらんそわーずが小さくうなずく。そっと髪を撫で、顔を見ようとすると、彼女はいやいやをするようにじょーの胸にしがみついた。
「ふらんそわーず…静かなところに行こう」
「…え…?」
「ここは…ちょっとうるさすぎるよ…」
ふらんそわーずは怪訝そうに顔を上げ、じょーをのぞいた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
じょーは寂しく笑った。
「君と…二人きりになりたい」
馬で出ると気づかれるから…と、じょーはふらんそわーずを抱いて、山道を歩いた。
「…どこに…行くの、じょー?」
何度尋ねても、彼は返事をしない。
怖い……
ふらんそわーずは、身を硬くし、じょーの胸に顔を埋めていた。
どこまでも深い闇の中にのみ込まれていくようで。
…いいえ、違う。
彼の腕に抱かれているなら、怖いものなど何もないはず…
私が…怖いのは…
そっと下ろされたのは、薄く埃が積もった床だった。
「…ここ…は…?」
荒れ果てた庭が広がる。板戸も簾もない。
廃屋だった。
押し倒されて、ふらんそわーずは怯えた声を上げた。
「い、いや…誰かに…見られたら…!」
外からの視線を遮るものは何もない。
「誰も…いないよ、こんなところ…」
じょーは強引にふらんそわーずを押さえつけ、帯を解いた。
…いるとしたら…鬼だけ…
心でつぶやく。
「愛してる…愛してるよ…」
熱にうかされたようにじょーが繰り返す。
「誰にも…渡さない……!」
ふっと目を開けたふらんそわーずをじょーは見つめた。
「…君は…?」
「え…?」
「君は、僕を愛してる…?」
「…じょー…?」
見つめ返す青い瞳に、涙がたまっていく。
「…愛してるって…言ってくれよ、ふらんそわーず…僕を…愛しているよね…?」
ふらんそわーずはうなずいた。大粒の涙が蒼白い頬を転がる。
「ちゃんと、言って…お願いだ、君の声で…聞かせて……!!」
「…愛してる…わ…」
じょーは烈しく首を振った。
「もっと…もっとだよ…!」
愛しくてたまらない。じょーは堅く目を閉じた。
瞼に、涙がにじんだ。
こんなに苦しいのに…僕は…君を手放せない、どうしても…!
2
眠ってはだめ…じょーがいるのに…
夢と現の境をさまよいながら、ふらんそわーずは懸命に自分に言い聞かせた。
眠ってはだめよ…眠らないで…
……怖い。
眠ったら…きっと、言ってしまう…呼んでしまうかもしれない…
「ふらんそわーず…」
囁きに、ハッと目を開いた。
埃の匂い。
薄闇の中で、じょーは粗末な脇息にもたれて半分体を起こし、愛しげに亜麻色の髪を弄んでいた。
やがて。
彼は、低く囁いた。
「ね、ふらんそわーず…もし…誰かが君を愛して…君を抱いたら……」
身を硬くしているふらんそわーずを片手で抱き寄せる。
「僕は、殺すよ…その男を」
たとえ鬼でも…
…仲間でも。
ふらんそわーずが震えている。
じょーは座り直し、彼女をそっと膝に抱き上げて、優しく見つめた。
茶色の瞳が、柔らかく潤む。
「でも、もし…君が誰かを愛したら…誰かに抱かれたいと思ったら、そのときは…」
「……」
「僕を……殺してくれ」
長い沈黙のあと、じょーはふっと微笑み、短刀を取り出した。
ふらんそわーずの手に握らせ、自分の左胸を指さす。
「…できたら、一気に刺してくれると…助かるな」
「……じょー…!」
刹那、氷のような冷たい光が澄んだ瞳の奥底に閃くのを…ふらんそわーずは見た。
あなたに…こんな目をさせるなんて………!
「ふらんそわーず…?!」
じょーはハッと息を呑んだ
素早く、力任せにふらんそわーずの手首を捕まえ、押さえつける。
鈍く光る刃は、彼女の喉すれすれのところで止まった。
「…君…は…」
短刀が音を立てて落ちる。
泣き崩れるふらんそわーずを背中から抱きしめ、じょーは呻いた。
「ご…めん…ごめんよ、ふらんそわーず……!!」
「いいえ…私は…私…!!」
叫びかけたふらんそわーずの口を、じょーは強く塞いだ。
「言わないで!…聞いたら…本当に殺してしまうかもしれない…!」
違うわ、そんなことない…と言いたかった。
言えば…あなたの心はほんの少し、楽になるのかもしれない…でも。
あなたに…嘘はつけない。
私は、あなただけのもの。
今はもう…わかっている。はっきりと。
…たぶん、あの人も。
でも、あのとき…
私は、あの人を拒まなかった。
3
鬼を追って旅立ったじょーから、まもなく戻ると、便りのあった日。
その夜更け、あるべるとは、ふらんそわーずの部屋を訪ねた。
「…よかったな」
ふらんそわーずが弾き終わると、あるべるとはぽつりと言った。
「…え?」
「じょーのことさ……安心したんだろう?…昨日までと、音が違う」
ふらんそわーずは頬を染めた。
「…おかしいわね…じょーは絶対に負けない…って…誰よりも強いんだって、信じ
ているのに…不安になるなんて…」
「おかしいことなんかない。それが当たり前だ」
「…そう…かしら…でも、心配していた、なんて言ったら、叱られてしまいそう…」
あるべるとは微笑んだ。
「今回はちょっと手間取ったようだからな…心配するのも無理はない…文句があるなら、もっとさっさと片づけてくればいいのさ…そう言ってやれ」
ふらんそわーずはくすっと笑った。
一心に琴をかき鳴らすふらんそわーずの頬に、尼のように切りそろえた髪がはらはらとかかる。
彼女は、どうしても髪を伸ばそうとしない。
そのことに触れると、じょーはいつも、似合ってるんだからいいじゃないか、と不思議そうに首を傾げる。
それに…ふらんそわーずは戦わなくちゃいけないんだから…
彼は必ずそう付け足した。
それが…納得いかなかった。どうしても。
この、心優しく美しい彼女が、なぜ…弓をとらねばならないのか。
俺なら…もし、俺なら、こんなむごい戦いに愛する女をさらしはしない。
突然、音が途絶えた。
ふらんそわーずが、片手をおさえて、唇を噛む。
弦が…切れた。
そっと手を取ろうとするあるべるとの気配に、彼女はびくっと身を硬くした。
痛む指を手の中に握り、素早く引っ込める。
…やはり、そうか…!
あるべるとは、心で叫んだ。
覚えず、体が熱くなる。
それは、微妙な変化だった。だが、ずっと感じていた。
俺は…避けられている。
お前は、やはり…あいつに抱かれたのか?
いつ…?!
「…もう、他の男には…触れられたくないか?」
「ある…べると…?」
反射的に立ち上がろうとしたふらんそわーずを、あるべるとは抱きすくめた。
貪るような口づけのあと、そっと唇を離し、あるべるとは震えるふらんそわーずに囁いた。
「…怖がらないでくれ…お前が…嫌がることは決してしない」
彼の唇が優しく首筋から胸へと降りていく。
着物を解かれ、ふらんそわーずは押し殺した声を上げた。
物語の姫君のように。
大事に、大事に抱きしめられる。
もう…忘れたはずだった。
全て、捨て去ったはずなのに。
忘れなくていい…お前は…美しい。
あるべるとの指が、唇が、絶え間なく囁き続ける。
愛している…
もう苦しむことはない。
お前は、この腕の中で…いつも微笑んでいてくれ。
その笑顔で、俺を温めてくれ。
俺が、お前を守る。
…いけない…それは、違う…!
ふらんそわーずは、遠く誰かの叫びを聞いた。
が、それはすぐにかき消され、代りに、息もつけない甘美な感覚が彼女を襲った。
どこまでも優しい愛撫…肌を灼く熱い吐息…
少しずつ…何かが溶かされていく。
やがて…こらえきれず、甘い喘ぎを漏らし…彼女は全身の力を抜いた。
いいの…間違っていてもいい…
いつも夢見ていたわ……かなわない夢。
子供の頃から…探していた。
私を優しく抱いて、守ってくれる強い腕…温かな胸…
苦しみも悲しみも届かない…ただ愛だけに包まれた場所。
いつまでも、こうしていたい…ここで…
ここ…で…?
この人に…抱かれて…?
ふらんそわーずはハッと目を開いた。
咄嗟にあるべるとの胸を押し戻そうとした瞬間。
いや…!助けて、じょー…!!
叫びは、声にならなかった。
あるべるとはふらんそわーずを強く抱き寄せ、一気に貫いた。
モウ、遅イ…!
コレデ、オマエハ……
嘲るような声が遠く聞こえる。
…鬼……?
体の芯が燃えるように熱い。拒めない。
烈しく求める彼に身を任せ、その背中を堅く抱きしめながら、ふらんそわーずは切ない声を上げ続けた。
涙が、堰を切ってあふれる。
どうして…私…こんな…!
4
まるで…夢を見ていたようだった。
あるべるとは顔を覆って泣くふらんそわーずの髪を優しくなで続けた。
「…すまない」
ふらんそわーずは小さく首を振った。
わかっている。
彼女は…幸せを望んでじょーを選んだのではない。
彼女は、ただ、彼を選んだのだ。
わかっていても…止められなかった。
そして、それを痛いほど思い知った今も…後悔はしていない。
あるべるとは、ふらんそわーずの華奢な体をそっと胸に抱き寄せ、囁いた。
「お前が苦しむことはない…罪は……全て俺に…」
ふらんそわーずは震えながらあるべるとを見上げた。
「いいえ…あなたは、愛している…と…言ってくれたから」
「ふらんそわーず…?」
「愛することは…罪ではないはずだもの……」
青い瞳にまた涙がわき上がり、零れた。
「あなたは…私の夢を…かなえてくれたの…ありがとう…あるべると」
見てはならなかった夢。
幼い頃から、憧れていた…そして、私には永遠に閉ざされている…美しい世界。
恋の…甘く優しい夢。
夜明けが近づいた頃。
ふらんそわーずは注意深く、あるべるとの腕から身を起こした。
彼は穏やかな表情で眠っている。
「…許して、あるべると…」
囁き、静かに立ち上がった。
もう空は白み始めている。
川のほとりに立ち、ふらんそわーずは白く渦巻く流れを魅入られたように見つめた。
この流れの遙か先に…じょーがいる。
まもなく戻ると、便りがきたのは昨日のことなのに。
喜びに胸を弾ませていた自分が…他人のように思える。
まして、あの夜…
彼に抱かれ、愛されたことなど。
…まるで前世の記憶。
ふらんそわーずはそっと流れに足を踏み入れた。
冷たい。
このまま進めば…この水底に沈めば、あの夜に戻れるかもしれない。
どうか…私を洗い清めて。
私を…せめて私の魂を、彼のもとに戻して…!
さらに足を進めようとしたとき。
いきなり、後ろから抱きしめられた。
「ふらんそわーず…!!」
旅装のじょーはじっとふらんそわーずを見つめ…やがて、微笑んだ。
「…迎えに…来てくれたんだね」
「……」
黙って震えるふらんそわーずの手をそっと引き、岸に上がる。
「…無茶だな、君は…流れが速い…こんなところ、渡れないよ…」
「…じょー」
「ただいま、ふらんそわーず…会いたかった」
言い終わるより早く、じょーは彼女を抱きしめ、唇を重ねた。
烈しく…深く。
ふらんそわーずの瞼から、涙がにじんだ。
5
「…あ」
ぼんやり身を起こした。
すっかり明るくなっている。
ひざしが、荒れ果てた建物を露わに照らし…
じょーの姿が、ない。
「…じょー…?」
震える声で呼ぶと、せわしい足音が近付いた。
果物を両手に持ったじょーが微笑む。
「よく眠れた?」
裏山から、もいできたんだ…と、ふらんそわーずに柿を手渡した。
「ここは…どこなの…?」
「…ひみつさ……寺には、夜になったら戻ろう」
「…え?でも…」
そろそろ、寺では二人がいないことに気づくだろう。
「…みんなが…心配するわ」
じょーは笑った。
「僕と一緒なんだ…心配する必要なんかない…かまわないよ」
「…そんな」
「そうだな…みんな…何をしてるんだろうって思うかもしれないね……僕たちが」
「じょー…」
じょーはふらんそわーずを抱き寄せた。
「な、何するの…離して……いや、こんなに…明るいのに…やめて……!」
「…大丈夫、見ているのは…僕だけだから」
小さく悲鳴を上げるふらんそわーずの着物を、力任せに開き、肩から引き下ろし…
首筋を強く吸う。
…忘れたい。
いや、忘れることなんてできないから。
だから、もっともっと…君を見たい。君の声が聞きたい。
…僕は何もできなかった。
少しでも早く、君に会いたくて。
眠る君をいきなり抱きしめて、脅かそうと思って…
僕は夜通し山道を駆けて…そして、見た。
それは…僕だけの秘密。
君を奪うやつは…みんな殺してやる…そう思っていたのに。
僕は何もできなかった。
君は…泣いていた。それでも。
…助けを求めてはいなかったから。
あのまま…川に沈んでしまえば。
そのほうが君は幸せだったのかもしれない。
誰よりも強い君が、どんな痛みにも苦しみにも耐えた君が、命を絶とうとしたのなら。
でも、僕は…君を連れ戻した。
助けたんじゃない。
ただ、僕のために…無理矢理連れ戻した。
真昼の光を浴びたふらんそわーずが、腕の中で悶える。
切ない喘ぎを聞くたび、全身が熱く燃えたぎった。
夢中で柔らかな乳房を揉みしだき、亜麻色の髪をつかみ、唇を求め…
輝く真珠のような裸身を何度も貫きながら、じょーはふと、少女を貪るという鬼の話を想った。
もし、今誰かが、僕たちを見たら…僕を鬼だと思うだろう。
きっと、そうに違いない。
僕は…鬼だ。
君に焦がれ…君の命の最後の一滴まですすらずにいられない。
残忍な化け物。
だから。
誰かが君を救いにくるまで。
僕を殺し、君を奪うまで。
…その日が来るまで、君は僕のものだ。
でも、ふらんそわーず…僕は…誰にも負けないよ。
僕を殺せるのは、君の刃だけ。
いつまでも、離さない。
君が泣いても。
誰を愛しても。
どんなに、この腕の中で血を流しても。
僕は、君を離さない。
この命が…尽きるときまで。
|