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九もたまに困る

夢魔
夢魔
 
 
(お願い…やめて、もう…やめて……)
どうしても声にならない。
懸命に首を振り、身を捩る。
 
「ア!…いやぁ…っ!!」
 
夢中で起きあがった。
息が整わない。全身が汗で濡れている。
 
「…夢……?」
 
また…だわ…
フランソワーズは大きく深呼吸した。
体がまだ震えている。下半身がだるい。
手首や肘…肩にも、痛みが残っているような気さえする。
 
「…どうして…こんな…」
 
両手で顔を覆った。
わからない。
 
フランソワーズはびくっと身を震わせた。
ベッドサイドの電話が鳴った。
 
「……はい…」
「フランソワーズ?…僕…」
「…ジョー…?」
 
一瞬混乱し、フランソワーズは絶句した。
ややあって、心配そうな声。
 
「…どうした?」
「…い、いいえ…」
「あ…そうか……こんな時間だもんな…寝てたんだね、ごめん…まさか、具合が悪いわけじゃ…?」
「ううん…大丈夫よ…」
 
フランソワーズは額の汗をぬぐい、受話器を取り直した。
 
「…今、モナコでしょう…?どうしたの…?やっぱり…ダメ…?」
「……うん…どうしても、時間がとれなくて」
「…そう」
「ごめん、フランソワーズ…ずっと前から約束してたのに…」
「仕方ないわ…それより…大変ね、ジョー…」
 
口がすべった。ハッと黙ったが、ジョーの声色は僅かに変わった。
 
「大変…って…何が?」
 
フランソワーズは小さく、何でもないわ、とつぶやいた。
 
「何でもなくないよ…あの記事、見たんだね?」
「…ジョー」
「本当のことだと…思っているのか?」
 
彼は懸命に平静を装っている。が、声の震えが伝わった。
フランソワーズは優しく答えた。
 
「…わからないわ」
「フランソワーズ?!」
 
叫ぶような声。思わずくすっと笑ってしまう。
 
「いいのに、何があっても…あなたはあなたよ…いつも、私には」
「よくないよ!…いいかい、あれは…たぶん、僕が取材に応えないから…あいつら、僕を挑発するためにわざわざあんな…!」
「…しっかり挑発に乗ってるみたいね、ジョーったら…気をつけなくちゃ」
「…フランソワーズ!」
 
とうとう笑い出したフランソワーズに、ジョーは口調を和らげた。
 
「…君まで、からかうのか…?ひどいな…」
「ごめんなさい…ね、ジョー…私たちはいつも、本当のあなたを知ってるわ…そんな心配しないで、レース…しっかりがんばってね」
 
まいったな、君には…つぶやいて、ジョーはおやすみ、と電話を切った。
発信音が残る。
 
…やっぱり…会えないのね…
のろのろと受話器を置き、フランソワーズはまた横になった。
最後に彼と会ってから、もう1年以上になる。
 
会わないことに理由などない。
会う機会がなかっただけ。
そして…また、機会は消えてしまった。
 
やっぱり…欲求不満…なのかしら?
天井を見つめ、ふと思う。
昨日から何度も…同じ夢を見る。
 
あれは…誰…?
考えるのが怖い。
恋人の愛撫も、キスさえ知らない自分なのに。
でも、もし…
心の奥が微かに甘くうずいた。
あれが…あなたなら…
頬が熱くなる。フランソワーズは目を閉じた。
 
ごめんなさい、ジョー…
でも、怖いの…そう思わないと、眠れない。
ごめんなさい…今は…私の恋人でいて…お願い。
 
誰にも言わないわ…これは、心の一番深いところに沈めておく秘密。
私だけの…秘密。
だから…許して…今だけ…私の心の中でだけ。
 
 
 
時間がない、というのは、嘘だった。
今回はめずらしく、レース後のスケジュールにゆとりがある。
 
しかし。
うるさくつきまとう記者たち。
振り払うことはできるが、もしも、ということもある。
フランソワーズを、この騒ぎに巻き込みたくない。
 
ついでに言うと、モナコにいる、というのも嘘。
ジョーは、セーヌ河にかかる橋の下の小舟に身を潜めていた。
 
「…そうだよな…寝ちゃってるよなぁ…」
 
思わずため息がでる。
もう真夜中だ。
もっと早く連絡できればよかったのだが。
 
でも、明るいうちは無理だった。
その上、本当にここまで来られるかどうかさえ、一か八か…だったのだから。
ジェット・リンクならいざしらず、気むずかし屋で通っている島村ジョーが、レース直前に出歩くなど…誰も予想しないだろうと思い、この日を選んだ。
 
脱出成功。
 
だが、時既に遅し…だったわけで。
残された時間はどう見積もっても、僅かに30分たらず。
もう眠ってしまったのなら、起きるとしても、身支度などしなければならないだろう。無理だ。
かといって、この姿で彼女の寝室に乗り込むわけにもいかないし。
 
加速装置をこんなことに使ったのは初めてだ。
 
…仕方がない。帰ろう。
ジョーは立ち上がった。
用心深く周囲を確認し、加速装置のスイッチを入れた。
 
 
 
足がもつれる。
息を切らして走りながら、これは夢だと…わかっていた。
同じ夢…誰かが追ってくる。
追いつかれて、捕まったら…また…
 
大丈夫…落ち着いて。
フランソワーズは懸命に自分に言い聞かせた。
夢なんだもの…それに、もし、捕まっても…
そう、彼は…あの人…だから。
 
「馬鹿だな」
重い、冷たい声。
ハッと足が止まった。
足音が近付いてくる。
 
…やめて。
 
「あいつは…お前のことなど忘れている」
やめて。
「お前は、003だ。他のモノにはなれない」
やめて…お願い。
「あいつに必要なのは、003だ」
もう、もうやめて!!
「お前は…女ですらないのに…!」
 
また声がでない。動けない。
後ろから肩をつかまれた瞬間。
はっきりわかった。
 
違う。
ジョー…じゃない。
当たり前だわ…どうして、私…!
 
「いや…!離して!!」
抱きすくめられたまま、フランソワーズは懸命に叫んだ。
「助けて…!!」
 
涙で曇った視界の先に、ぼんやりとした影が浮かぶ。
赤い防護服。黄色いマフラー。
近付いてくる。
柔らかな茶色のまなざしが、ふとフランソワーズを捉えた。
 
ジョー、助けて……!
 
必死にのばした手が、彼を通り抜ける。
ジョーはフランソワーズの体を素通りして、足早に遠ざかっていった。
 
高らかな嘲笑。
フランソワーズの耳は、背後に恋人同士の甘い吐息をとらえた。
 
…ジョー…
 
全身から力が抜けていく。
わかっていたのに…そうよ、わかってる…
あなたが愛しているのは…私じゃない。
 
待ちかまえていたように、どす黒く冷たい気配がぴったりと包み込む。
その場に押し倒され、フランソワーズは眼を閉じた。
 
いつか…こんな日がくるような気がしていた…
さめない夢…このまま……
 
「フランソワーズ、フランソワーズ?」
 
烈しく揺さぶられる。
 
「しっかり…しっかりしろ、どうしたんだ?」
 
覚えのある肌触り。
これは…
 
赤い防護服。黄色いマフラー。
…どうして…?
 
「…00…9…?」
 
ジョーはちょっと困った表情になった。
「ごめん…脅かして…でも…どうしても…」
青い眼がまた閉じる。ジョーは慌ててフランソワーズを揺すった。
「フランソワーズ!……ひどい熱だ…どうしてさっき…」
 
言わなかった?…大丈夫、だなんて…!
不安と苛立ちの混ざった声。
 
…ジョー…あなたなの…?どうして…?
 
「…だ…め」
「フラン…?今、水を持ってくるから…」
「…行って…あげて……待ってる…のに…」
「何…?何言ってるんだ?待ってる…って…誰が?僕を?」
微かにうなずいたはずみに、涙が白い頬を転がった。
「…待ってる…って…まさか…?」
 
かあっと、体が熱くなり、ジョーは思わず叫んだ。
 
「何だよっ!!…全然信じてくれてないんじゃないか…あんな記事、でたらめなのに…!!」
 
 
 
もう…いいの…いいから…
…何言ってるんだ…しっかりしてくれ…!
 
何度も名前を呼ばれる。
そのたび、あの冷たい暗い気配がふっと離れる。
 
…ジョー…どうして?
…どうして…って……どうしてもだよ、僕はここにいるからね…!
 
どうして?
 
「…どうして…じゃないだろ?…頼むから…眠ってくれよ…フランソワーズ…」
声が震える。
ただの風邪だろうと思っていた。
でも、あまりに様子がおかしい。熱は下がらないし、少しうとうとしたかと思うと、すぐ小さな悲鳴をあげて眼をあけてしまう。
水すら受け付けない。もちろん、薬も。
たまりかねて、医者を呼んだ。
防護服は隠し、家中を引っかき回し、ジャンのものらしい服を着て…
 
診察する医者を、ジョーはじっと見つめていた。
気づくはずないが…でも、万一…
 
「インフルエンザのようですが…ちょっとこじらせてしまいましたね」
「インフルエンザ?」
…もう初夏なのに。
 
医者は苦笑した。
「過労気味だったようですね…そんなに珍しいことではありませんよ」
曖昧な表情のジョーに、医者は入院をおすすめします、と言った。
 
「…入院?」
「今、言いましたが…ちょっと衰弱しています。熱が続くようだと、命の危険もないとはいえません」
 
入院は…まずい。
 
電話を受けたギルモアは、泣きださんばかりのジョーの声にとまどいながら、とりあえずすぐ行く、と請け合った。
しかし、今ドルフィン号を操縦できる者はいない。
飛行機しかないが…集中豪雨で空港が混乱しているらしい。
 
「その話じゃと…たぶん、わしが着いてからでは…どちらにしても…」
ギルモアの深いため息が、ジョーを苛んだ。
 
インフルエンザなら、休養と栄養…治療法はそれだけ。
さっきの医者が、一応栄養剤を注射していってくれた。
 
 
電話を切り、ジョーはベッドの脇の椅子に座り込んだ。
うめき声。またうなされている。
 
「どうした、フランソワーズ?…ダメだよ…眠らなきゃ」
「…ジョー…?」
「うん…ここにいるから…安心して」
「…どうして…?行って…あげて…」
 
…またか。
 
何度言っても駄目だ。泣きたくなってきた。
「フランソワーズ、僕には恋人なんかいないんだ…!どこにも行く必要なんてない
んだよ…!」
 
いや、もうすぐモナコ・グランプリ公式予選が始まったりするが。
こんなことになってしまったら、それどころではないし。
 
 
…それどころではない、なんて言ってる場合かよっ?
そうでなくても、お前…記者たちにはさんざん睨まれてるんだ。
こんなフザけたエスケープかましてみろ、一気に叩かれて、二度とレースに出られなくなるぞっ!
 
とにかく帰ってこい、アルベルトがたしかそのヘンでトラック転がしているはずだ。
フランは奴に任せて…
 
アルベルトだって?…冗談じゃないっ!
…とにかく、後は頼んだよ、ジェット!
 
あっという間に電話は切れた。
 
「…結構いい性格してやがるじゃねーか、あのやろ」
 
ジェットは唇をゆがめてつぶやいた。
 
 
 
暖かい。
フランソワーズはうっすら眼を開けた。
庇うように抱かれている。
頬に、赤い防護服が触れた。
 
…009…
 
小さく息をつく。
ここは…どこ…?
また…戦いが始まったの…?
 
…違うよ…安心してお休み、フランソワーズ…
…00…3…よ…私……
 
茶色の瞳が柔らかく微笑む。
…どっちでも同じだよ…僕には。
 
頬が近付く。
僅かに胸が高鳴った。
かすかに…ふれあうくちびる。
 
…ああ…夢…だったんだわ…やっぱり…
ふっと力が抜けていく。
慌てた声。
 
…フランソワーズ、しっかり…!どうしたんだ?
…フランソワーズ!!
 
このまま…目覚めたくない…
ずっと…こうして…あなたに…
 
 
不意に、フランソワーズの眼がすっと開いた。
青く澄んだ瞳。
抱きしめる腕に、我知らず力がこもる。
じっと見つめ返すジョーの耳に、細い声が届いた。
 
「愛してる…って…言って」
 
…今だけ。
だって…これは…夢だから…
 
私だけの…秘密の…夢。
 
「愛してる…フランソワーズ…」
 
フランソワーズは儚く微笑んで、眼を閉じた。
瞼から零れた涙を指で受け止め、ジョーは亜麻色の髪に顔を埋めた。
 
「どうして…泣くんだ…?…愛してる…愛してるよ、フランソワーズ…!信じて…」
 
そっと枕に彼女の頭を下ろし、そのまま唇を重ねる。
今度は、深く。
やがて、ジョーは唇を離した。
…ひどい汗だ。
 
着替えを探し出し、汗に濡れた夜着を脱がせる。
白い肌を、優しくタオルで拭った。
…君は…僕のものだ…
心で繰り返す。
 
とぎれとぎれの言葉や悲鳴…
彼女がどんな夢にうなされているのか…何となくわかってきた。
胸が痛む。
 
心配はいらない…ゆっくりお休み…僕が守るから。
…そう、信じて。
 
 
 
日ざしが眩しい。
フランソワーズはハッと眼を開けた。
飛び起きようとするが、力が入らない。
 
「おっと…!何だ、目が覚めたのか…?」
柔らかい声。フランソワーズは眼を大きく見開いた。
 
「お…兄ちゃん…?」
「ああ…フフ、そんながっかりした顔するなよ」
「……」
 
「よく眠ってたな…もう大丈夫だろう」
ジャンはフランソワーズの額に手を押し当てた。
「うん、熱も下がってる…」
 
ベッドに起きあがり、スープをゆっくり口に運ぶ妹を見つめ、ジャンは息をついた。
「…なんで、こんなにひどくしちまったんだ?レッスン、休まなかったのか?」
「…熱はあったけど…大丈夫だと思ったの…そうしたら、帰りに…雨に降られて…」
ジャンは肩をすくめ、亜麻色の頭を軽く叩いた。
 
「もう…月曜日なのね…三日も眼がさめなかったなんて…お兄ちゃん…休暇をとっちゃったの?」
「そんなこと、気にするな」
「…ごめんなさい…でも、どうして私が病気だってわかったの?」
「ほら、寝た寝た!…質問はあと…!」
「…もう、大丈夫よ…」
「お前の大丈夫は…あてにならないって聞いたけど?」
「…誰に?」
 
いいから寝ろ、とジャンはフランソワーズに毛布をかぶせ、部屋を出ようとした。
「あ…!お兄ちゃん!」
「何だよ?…もう…」
「教えて、モナコ・グランプリはどうなったの?…ジョー、優勝した?」
「…さあね…知らないな」
「嘘…!優勝…したわよね、そうでしょう?」
「知らないものは知らないよ…おやすみ」
ドアが閉った。
 
「…なによ…お兄ちゃんの意地悪…!」
 
 
 
ジャンは翌日、任地へ戻った。
今週いっぱいはレッスンを休んで安静にしていること、と厳命して。
 
ジャンを送り出すと、部屋はがらん、と感じられた。
思わずため息が出る。
フランソワーズは窓を開けた。
 
「いい気持ち…!」
深呼吸する。
少し伸びをしてみた。体が硬くなっているのがわかる。
 
「…大丈夫よ」
 
呟いた。
まだ少しふらふらするような気はするけど…寝てばかりいるからだわ。
今日は朝ご飯も食べたし…
バーの基本レッスンだけにしておけば…
 
数分後、着替えて階段を駆け下りたフランソワーズの前に、背の高い影が立ちふさがった。
 
「フランソワーズ!」
 
いけない…!と思わず首をすくめる。
「あ、あの…ちょっとお買い物に…」
おずおず顔を上げ、フランソワーズは言葉を失った。
ジャンではなかった。
 
「買い物に…そんなモノを持っていくのかい?」
ジョーは眉を寄せた。
慌てて稽古着の入ったバッグを背中に隠そうとするフランソワーズの肩を掴み、くるっと回れ右させる。
あっという間に、部屋に連れ戻された。
 
「ホントに…君って人は…!こんなことしてるから、過労になるんだよ…」
深いため息。
 
どうして、知ってるのかしら?
お兄ちゃんが見張りを頼んだ…とか。まさか。
フランソワーズは迷いながらも、懸命に反駁した。
 
「ちょっと風邪ひいただけなの…もう、大丈夫だから…」
「君の大丈夫は、全然あてにならないんだよな!」
 
フランソワーズは瞬きを繰り返した。
 
「…あの…ジョー…?どうして…ここに…」
「約束だったじゃないか…今日、会おう…って」
「…で…でも…無理だって…」
ジョーは眼を丸くした。
 
「なんだ…あの電話のことは、覚えてるのか…」
 
ホントは忘れ物を取りに来たんだよ、と彼は笑い、フランソワーズの寝室に向かった。
 
「え…?ダメよ、待って、ジョー…!今…片づいていないの…!」
止める間もなく、彼は寝室に入り、ベッドの下から携帯電話を拾い上げた。
「やっぱり…ここだった」
「…ジョー…?」
 
ジョーは柔らかく微笑んだ。
「しばらく、いさせてもらおうかな…君の監視…いや、看病もした方がよさそうだし」
「…何…言ってるの?…忙しいんでしょう…?」
「君の方が大事だよ」
 
え…?
 
立ちすくむフランソワーズをぐいっと引き寄せ、ジョーは苦笑した。
「ほんとにイヤになるなぁ…やっぱり肝心なコト、忘れちゃってるんだ、君は…!」
「ジョー…?あの…」
ふっと茶色の瞳に深い光が宿る。
「今度は…忘れさせないよ」
 
…愛してる…
 
囁きと同時に、唇が重なった。
 
ふわっと、風が頬を撫でる。
…ジョー、待って…窓が…開いてるの…
言葉にはならなかった。
 
更新日時:
2002.07.08 Mon.
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Last updated: 2013/8/15