夢魔
1
(お願い…やめて、もう…やめて……)
どうしても声にならない。
懸命に首を振り、身を捩る。
「ア!…いやぁ…っ!!」
夢中で起きあがった。
息が整わない。全身が汗で濡れている。
「…夢……?」
また…だわ…
フランソワーズは大きく深呼吸した。
体がまだ震えている。下半身がだるい。
手首や肘…肩にも、痛みが残っているような気さえする。
「…どうして…こんな…」
両手で顔を覆った。
わからない。
フランソワーズはびくっと身を震わせた。
ベッドサイドの電話が鳴った。
「……はい…」
「フランソワーズ?…僕…」
「…ジョー…?」
一瞬混乱し、フランソワーズは絶句した。
ややあって、心配そうな声。
「…どうした?」
「…い、いいえ…」
「あ…そうか……こんな時間だもんな…寝てたんだね、ごめん…まさか、具合が悪いわけじゃ…?」
「ううん…大丈夫よ…」
フランソワーズは額の汗をぬぐい、受話器を取り直した。
「…今、モナコでしょう…?どうしたの…?やっぱり…ダメ…?」
「……うん…どうしても、時間がとれなくて」
「…そう」
「ごめん、フランソワーズ…ずっと前から約束してたのに…」
「仕方ないわ…それより…大変ね、ジョー…」
口がすべった。ハッと黙ったが、ジョーの声色は僅かに変わった。
「大変…って…何が?」
フランソワーズは小さく、何でもないわ、とつぶやいた。
「何でもなくないよ…あの記事、見たんだね?」
「…ジョー」
「本当のことだと…思っているのか?」
彼は懸命に平静を装っている。が、声の震えが伝わった。
フランソワーズは優しく答えた。
「…わからないわ」
「フランソワーズ?!」
叫ぶような声。思わずくすっと笑ってしまう。
「いいのに、何があっても…あなたはあなたよ…いつも、私には」
「よくないよ!…いいかい、あれは…たぶん、僕が取材に応えないから…あいつら、僕を挑発するためにわざわざあんな…!」
「…しっかり挑発に乗ってるみたいね、ジョーったら…気をつけなくちゃ」
「…フランソワーズ!」
とうとう笑い出したフランソワーズに、ジョーは口調を和らげた。
「…君まで、からかうのか…?ひどいな…」
「ごめんなさい…ね、ジョー…私たちはいつも、本当のあなたを知ってるわ…そんな心配しないで、レース…しっかりがんばってね」
まいったな、君には…つぶやいて、ジョーはおやすみ、と電話を切った。
発信音が残る。
…やっぱり…会えないのね…
のろのろと受話器を置き、フランソワーズはまた横になった。
最後に彼と会ってから、もう1年以上になる。
会わないことに理由などない。
会う機会がなかっただけ。
そして…また、機会は消えてしまった。
やっぱり…欲求不満…なのかしら?
天井を見つめ、ふと思う。
昨日から何度も…同じ夢を見る。
あれは…誰…?
考えるのが怖い。
恋人の愛撫も、キスさえ知らない自分なのに。
でも、もし…
心の奥が微かに甘くうずいた。
あれが…あなたなら…
頬が熱くなる。フランソワーズは目を閉じた。
ごめんなさい、ジョー…
でも、怖いの…そう思わないと、眠れない。
ごめんなさい…今は…私の恋人でいて…お願い。
誰にも言わないわ…これは、心の一番深いところに沈めておく秘密。
私だけの…秘密。
だから…許して…今だけ…私の心の中でだけ。
2
時間がない、というのは、嘘だった。
今回はめずらしく、レース後のスケジュールにゆとりがある。
しかし。
うるさくつきまとう記者たち。
振り払うことはできるが、もしも、ということもある。
フランソワーズを、この騒ぎに巻き込みたくない。
ついでに言うと、モナコにいる、というのも嘘。
ジョーは、セーヌ河にかかる橋の下の小舟に身を潜めていた。
「…そうだよな…寝ちゃってるよなぁ…」
思わずため息がでる。
もう真夜中だ。
もっと早く連絡できればよかったのだが。
でも、明るいうちは無理だった。
その上、本当にここまで来られるかどうかさえ、一か八か…だったのだから。
ジェット・リンクならいざしらず、気むずかし屋で通っている島村ジョーが、レース直前に出歩くなど…誰も予想しないだろうと思い、この日を選んだ。
脱出成功。
だが、時既に遅し…だったわけで。
残された時間はどう見積もっても、僅かに30分たらず。
もう眠ってしまったのなら、起きるとしても、身支度などしなければならないだろう。無理だ。
かといって、この姿で彼女の寝室に乗り込むわけにもいかないし。
加速装置をこんなことに使ったのは初めてだ。
…仕方がない。帰ろう。
ジョーは立ち上がった。
用心深く周囲を確認し、加速装置のスイッチを入れた。
3
足がもつれる。
息を切らして走りながら、これは夢だと…わかっていた。
同じ夢…誰かが追ってくる。
追いつかれて、捕まったら…また…
大丈夫…落ち着いて。
フランソワーズは懸命に自分に言い聞かせた。
夢なんだもの…それに、もし、捕まっても…
そう、彼は…あの人…だから。
「馬鹿だな」
重い、冷たい声。
ハッと足が止まった。
足音が近付いてくる。
…やめて。
「あいつは…お前のことなど忘れている」
やめて。
「お前は、003だ。他のモノにはなれない」
やめて…お願い。
「あいつに必要なのは、003だ」
もう、もうやめて!!
「お前は…女ですらないのに…!」
また声がでない。動けない。
後ろから肩をつかまれた瞬間。
はっきりわかった。
違う。
ジョー…じゃない。
当たり前だわ…どうして、私…!
「いや…!離して!!」
抱きすくめられたまま、フランソワーズは懸命に叫んだ。
「助けて…!!」
涙で曇った視界の先に、ぼんやりとした影が浮かぶ。
赤い防護服。黄色いマフラー。
近付いてくる。
柔らかな茶色のまなざしが、ふとフランソワーズを捉えた。
ジョー、助けて……!
必死にのばした手が、彼を通り抜ける。
ジョーはフランソワーズの体を素通りして、足早に遠ざかっていった。
高らかな嘲笑。
フランソワーズの耳は、背後に恋人同士の甘い吐息をとらえた。
…ジョー…
全身から力が抜けていく。
わかっていたのに…そうよ、わかってる…
あなたが愛しているのは…私じゃない。
待ちかまえていたように、どす黒く冷たい気配がぴったりと包み込む。
その場に押し倒され、フランソワーズは眼を閉じた。
いつか…こんな日がくるような気がしていた…
さめない夢…このまま……
「フランソワーズ、フランソワーズ?」
烈しく揺さぶられる。
「しっかり…しっかりしろ、どうしたんだ?」
覚えのある肌触り。
これは…
赤い防護服。黄色いマフラー。
…どうして…?
「…00…9…?」
ジョーはちょっと困った表情になった。
「ごめん…脅かして…でも…どうしても…」
青い眼がまた閉じる。ジョーは慌ててフランソワーズを揺すった。
「フランソワーズ!……ひどい熱だ…どうしてさっき…」
言わなかった?…大丈夫、だなんて…!
不安と苛立ちの混ざった声。
…ジョー…あなたなの…?どうして…?
「…だ…め」
「フラン…?今、水を持ってくるから…」
「…行って…あげて……待ってる…のに…」
「何…?何言ってるんだ?待ってる…って…誰が?僕を?」
微かにうなずいたはずみに、涙が白い頬を転がった。
「…待ってる…って…まさか…?」
かあっと、体が熱くなり、ジョーは思わず叫んだ。
「何だよっ!!…全然信じてくれてないんじゃないか…あんな記事、でたらめなのに…!!」
4
もう…いいの…いいから…
…何言ってるんだ…しっかりしてくれ…!
何度も名前を呼ばれる。
そのたび、あの冷たい暗い気配がふっと離れる。
…ジョー…どうして?
…どうして…って……どうしてもだよ、僕はここにいるからね…!
どうして?
「…どうして…じゃないだろ?…頼むから…眠ってくれよ…フランソワーズ…」
声が震える。
ただの風邪だろうと思っていた。
でも、あまりに様子がおかしい。熱は下がらないし、少しうとうとしたかと思うと、すぐ小さな悲鳴をあげて眼をあけてしまう。
水すら受け付けない。もちろん、薬も。
たまりかねて、医者を呼んだ。
防護服は隠し、家中を引っかき回し、ジャンのものらしい服を着て…
診察する医者を、ジョーはじっと見つめていた。
気づくはずないが…でも、万一…
「インフルエンザのようですが…ちょっとこじらせてしまいましたね」
「インフルエンザ?」
…もう初夏なのに。
医者は苦笑した。
「過労気味だったようですね…そんなに珍しいことではありませんよ」
曖昧な表情のジョーに、医者は入院をおすすめします、と言った。
「…入院?」
「今、言いましたが…ちょっと衰弱しています。熱が続くようだと、命の危険もないとはいえません」
入院は…まずい。
電話を受けたギルモアは、泣きださんばかりのジョーの声にとまどいながら、とりあえずすぐ行く、と請け合った。
しかし、今ドルフィン号を操縦できる者はいない。
飛行機しかないが…集中豪雨で空港が混乱しているらしい。
「その話じゃと…たぶん、わしが着いてからでは…どちらにしても…」
ギルモアの深いため息が、ジョーを苛んだ。
インフルエンザなら、休養と栄養…治療法はそれだけ。
さっきの医者が、一応栄養剤を注射していってくれた。
電話を切り、ジョーはベッドの脇の椅子に座り込んだ。
うめき声。またうなされている。
「どうした、フランソワーズ?…ダメだよ…眠らなきゃ」
「…ジョー…?」
「うん…ここにいるから…安心して」
「…どうして…?行って…あげて…」
…またか。
何度言っても駄目だ。泣きたくなってきた。
「フランソワーズ、僕には恋人なんかいないんだ…!どこにも行く必要なんてない
んだよ…!」
いや、もうすぐモナコ・グランプリ公式予選が始まったりするが。
こんなことになってしまったら、それどころではないし。
…それどころではない、なんて言ってる場合かよっ?
そうでなくても、お前…記者たちにはさんざん睨まれてるんだ。
こんなフザけたエスケープかましてみろ、一気に叩かれて、二度とレースに出られなくなるぞっ!
とにかく帰ってこい、アルベルトがたしかそのヘンでトラック転がしているはずだ。
フランは奴に任せて…
アルベルトだって?…冗談じゃないっ!
…とにかく、後は頼んだよ、ジェット!
あっという間に電話は切れた。
「…結構いい性格してやがるじゃねーか、あのやろ」
ジェットは唇をゆがめてつぶやいた。
5
暖かい。
フランソワーズはうっすら眼を開けた。
庇うように抱かれている。
頬に、赤い防護服が触れた。
…009…
小さく息をつく。
ここは…どこ…?
また…戦いが始まったの…?
…違うよ…安心してお休み、フランソワーズ…
…00…3…よ…私……
茶色の瞳が柔らかく微笑む。
…どっちでも同じだよ…僕には。
頬が近付く。
僅かに胸が高鳴った。
かすかに…ふれあうくちびる。
…ああ…夢…だったんだわ…やっぱり…
ふっと力が抜けていく。
慌てた声。
…フランソワーズ、しっかり…!どうしたんだ?
…フランソワーズ!!
このまま…目覚めたくない…
ずっと…こうして…あなたに…
不意に、フランソワーズの眼がすっと開いた。
青く澄んだ瞳。
抱きしめる腕に、我知らず力がこもる。
じっと見つめ返すジョーの耳に、細い声が届いた。
「愛してる…って…言って」
…今だけ。
だって…これは…夢だから…
私だけの…秘密の…夢。
「愛してる…フランソワーズ…」
フランソワーズは儚く微笑んで、眼を閉じた。
瞼から零れた涙を指で受け止め、ジョーは亜麻色の髪に顔を埋めた。
「どうして…泣くんだ…?…愛してる…愛してるよ、フランソワーズ…!信じて…」
そっと枕に彼女の頭を下ろし、そのまま唇を重ねる。
今度は、深く。
やがて、ジョーは唇を離した。
…ひどい汗だ。
着替えを探し出し、汗に濡れた夜着を脱がせる。
白い肌を、優しくタオルで拭った。
…君は…僕のものだ…
心で繰り返す。
とぎれとぎれの言葉や悲鳴…
彼女がどんな夢にうなされているのか…何となくわかってきた。
胸が痛む。
心配はいらない…ゆっくりお休み…僕が守るから。
…そう、信じて。
6
日ざしが眩しい。
フランソワーズはハッと眼を開けた。
飛び起きようとするが、力が入らない。
「おっと…!何だ、目が覚めたのか…?」
柔らかい声。フランソワーズは眼を大きく見開いた。
「お…兄ちゃん…?」
「ああ…フフ、そんながっかりした顔するなよ」
「……」
「よく眠ってたな…もう大丈夫だろう」
ジャンはフランソワーズの額に手を押し当てた。
「うん、熱も下がってる…」
ベッドに起きあがり、スープをゆっくり口に運ぶ妹を見つめ、ジャンは息をついた。
「…なんで、こんなにひどくしちまったんだ?レッスン、休まなかったのか?」
「…熱はあったけど…大丈夫だと思ったの…そうしたら、帰りに…雨に降られて…」
ジャンは肩をすくめ、亜麻色の頭を軽く叩いた。
「もう…月曜日なのね…三日も眼がさめなかったなんて…お兄ちゃん…休暇をとっちゃったの?」
「そんなこと、気にするな」
「…ごめんなさい…でも、どうして私が病気だってわかったの?」
「ほら、寝た寝た!…質問はあと…!」
「…もう、大丈夫よ…」
「お前の大丈夫は…あてにならないって聞いたけど?」
「…誰に?」
いいから寝ろ、とジャンはフランソワーズに毛布をかぶせ、部屋を出ようとした。
「あ…!お兄ちゃん!」
「何だよ?…もう…」
「教えて、モナコ・グランプリはどうなったの?…ジョー、優勝した?」
「…さあね…知らないな」
「嘘…!優勝…したわよね、そうでしょう?」
「知らないものは知らないよ…おやすみ」
ドアが閉った。
「…なによ…お兄ちゃんの意地悪…!」
7
ジャンは翌日、任地へ戻った。
今週いっぱいはレッスンを休んで安静にしていること、と厳命して。
ジャンを送り出すと、部屋はがらん、と感じられた。
思わずため息が出る。
フランソワーズは窓を開けた。
「いい気持ち…!」
深呼吸する。
少し伸びをしてみた。体が硬くなっているのがわかる。
「…大丈夫よ」
呟いた。
まだ少しふらふらするような気はするけど…寝てばかりいるからだわ。
今日は朝ご飯も食べたし…
バーの基本レッスンだけにしておけば…
数分後、着替えて階段を駆け下りたフランソワーズの前に、背の高い影が立ちふさがった。
「フランソワーズ!」
いけない…!と思わず首をすくめる。
「あ、あの…ちょっとお買い物に…」
おずおず顔を上げ、フランソワーズは言葉を失った。
ジャンではなかった。
「買い物に…そんなモノを持っていくのかい?」
ジョーは眉を寄せた。
慌てて稽古着の入ったバッグを背中に隠そうとするフランソワーズの肩を掴み、くるっと回れ右させる。
あっという間に、部屋に連れ戻された。
「ホントに…君って人は…!こんなことしてるから、過労になるんだよ…」
深いため息。
どうして、知ってるのかしら?
お兄ちゃんが見張りを頼んだ…とか。まさか。
フランソワーズは迷いながらも、懸命に反駁した。
「ちょっと風邪ひいただけなの…もう、大丈夫だから…」
「君の大丈夫は、全然あてにならないんだよな!」
フランソワーズは瞬きを繰り返した。
「…あの…ジョー…?どうして…ここに…」
「約束だったじゃないか…今日、会おう…って」
「…で…でも…無理だって…」
ジョーは眼を丸くした。
「なんだ…あの電話のことは、覚えてるのか…」
ホントは忘れ物を取りに来たんだよ、と彼は笑い、フランソワーズの寝室に向かった。
「え…?ダメよ、待って、ジョー…!今…片づいていないの…!」
止める間もなく、彼は寝室に入り、ベッドの下から携帯電話を拾い上げた。
「やっぱり…ここだった」
「…ジョー…?」
ジョーは柔らかく微笑んだ。
「しばらく、いさせてもらおうかな…君の監視…いや、看病もした方がよさそうだし」
「…何…言ってるの?…忙しいんでしょう…?」
「君の方が大事だよ」
え…?
立ちすくむフランソワーズをぐいっと引き寄せ、ジョーは苦笑した。
「ほんとにイヤになるなぁ…やっぱり肝心なコト、忘れちゃってるんだ、君は…!」
「ジョー…?あの…」
ふっと茶色の瞳に深い光が宿る。
「今度は…忘れさせないよ」
…愛してる…
囁きと同時に、唇が重なった。
ふわっと、風が頬を撫でる。
…ジョー、待って…窓が…開いてるの…
言葉にはならなかった。
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