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九もたまに困る

温泉旅行2
 
脱衣カゴがいくつか使われている様子だったのに、広い風呂場には誰もいなかった。
 
首をかしげたアルベルトは、ふと眉を寄せた。
風呂場の端までさっさと歩いていくと、ガラス戸の外にも、浴槽がある。
 
なるほど…コレがジョーの言ってた露天風呂ってやつか。
呆れたモンだな。
 
湯船には、中年の日本人が3人、固まって浸かっている。
踵を返そうとした瞬間。
平時にはあり得ないはずの通信が届いた。
 
「アルベルト……助けて…!」
 
 
 
いきなりざぶざぶ入ってきた白人男性に、あからさまな怯みを見せる男たちを、とっておきの視線で睨め付ける。
そんなコトをするほどの相手ではないが…
少々いらだっていたのかもしれない。
 
ほどなく、彼らは申し合わせたように、こそこそと湯船を出ていった。
 
…やれやれ。
 
「フランソワーズ…?そこにいるのか?」
「…アル…ベルト…?」
 
岩陰になっているくぼんだ場所に、フランソワーズが体を沈めていた。
 
白濁した湯に包まれ、彼女の肩から下は見えない。
顔はすっかり上気して、呼吸も苦しげだった。
アルベルトは、自分の持っていたタオルを投げた。
 
「それでちゃんと隠して…すこし上がって休め」
「え…こ…ここで?」
「風もあるし…ちょうどいいだろう。大丈夫、俺が見張っていてやる」
 
フランソワーズはゆっくり湯船を出て、岩に腰掛けた。
投げてもらったタオルと、もともと持っていたタオルで、すばやく体を隠す。
 
やがて。
深い吐息が聞こえた。
 
「…ありがとう…アルベルト」
「どうしたんだ、お前…?なんで、こんな間抜けなコト…」
「…ごめんなさい…ぼんやり入っていたら、いつの間にか…時間で男女が交替になるのを…忘れていたみたい」
「ジョーはどうした?」
「ジョーは、上の大きいお風呂に…」
「じゃ、お前はどうして、こっちにいるんだ?」
「…どうして…って…」
 
フランソワーズは口ごもり、うつむいた。
 
もちろん、恋人同士が別の浴場に行くのはおかしい、と言いたいわけではない。
どうせ男湯と女湯は別だ。
だが。
 
「ケンカでもしたのか?」
「い…いいえ…!」
 
フランソワーズは慌てて首を振った。
まあ…かまわないが。
 
「ちょっと透視してみろ…脱衣場、大丈夫か?」
「え…?」
「誰もいないようだったら、さっさと着替えて、せめて女湯に行け。入口はふさいでおいてやるから」
「待って…!待って、アルベルト!」
 
なんだ…?
 
聞き覚えのない声音だ。
アルベルトはゆっくり振り返った。
 
フランソワーズの眼に涙が浮かんでいる。
 
「もう少し…待って…戻れない…戻れないわ…」
「戻れない…?」
「ジョーが…私を、探してるの…!」
 
…さっぱりわからないぞ、お前?
 
半ば呆れて言おうとしたとき。
彼女の表情に、それまで見たことがなかったものを見取り、アルベルトは口を噤んだ。
 
青い眼の奥に、怯えが沈んでいた。
 
 
 
このところ、ギルモア研究所には、珍しく誰も…イワンとフランソワーズを除いて…いなかったのだという。
 
ジョーはレースの関係で海外に出ていたし、張々湖とグレートは、店が忙しくて電話を入れることすら考えつかない様子で。
他の仲間達も。
 
電話のフランソワーズの声が心なしか寂しげな気がして…アルベルトは、休暇を久しぶりに日本で過ごすことに決めた。
 
到着したアルベルトは、彼女の顔色がすぐれないのに正直驚いた。
何か、病気なのでは?
そう真剣に尋ねると、ギルモアは首を振った。
 
「おそらく…心配事でもあるんじゃろう…じゃが…彼女は何でもないと言うばかりで…もちろん、体に異常はない…食事だってちゃんとしとるし…夜も寝ておる。イワンも、大丈夫だと言っておるから…」
 
イワンがそういうなら、まず大丈夫のはずだ。
 
「ジョーと離れて…寂しいってことですかね?」
 
薄く笑うアルベルトに、ギルモアは微笑んだ。
 
「それならよいのじゃが…ジョーは…あの子は、来週帰ってくる。そもそも帰国の予定が急に延びてしまったのだから…そうじゃの、3ヶ月近く留守していたことになるのう…」
 
数日後、ジョーが帰ってきた。
歓声を上げて駆け寄るフランソワーズを抱きしめながら、彼女の肩ごしにジョーはアルベルトに、無言の微笑で挨拶した。いつものように。
 
「元気そうだな」
「…うん。ちょっと長引いちゃったから…ここが恋しかったよ…君にも会えてよかった」
「フフ…お邪魔だった…か?」
「そんなこと…!」
 
茶色の眼に真剣な光がよぎり、ジョーは生真面目に反駁した。
思わず苦笑する。
…相変わらずだな、ジョー…お前は。
 
これで、何もかもよくなる…と思っていたのだが。
そうではなかった。
 
フランソワーズの顔色は…ますます悪くなる一方で。
すぐ気づいたジョーがギルモアとアルベルトに相談をもちかけ…出た結論がこれだった。
研究所を少し離れて、気分転換してみたらどうか?
 
はじめは、ジョーと二人で出してやるつもりだったのだが。
フランソワーズが頑強に反対した。
ギルモアとイワンも一緒に来てほしい。
…そして、アルベルトも。
 
旅館を予約するとき、さすがにギルモアもアルベルトも気を遣った。
二部屋をとり、ジョーとフランソワーズが二人で泊まれるようにしてやった。
 
ジョーは苦笑したものの、異を唱えはしなかった。
 
 
 
とにかく。
ここに残していくわけにはいかない。
 
アルベルトが近づくと、フランソワーズはあわてて、また湯船に飛び込んでしまった。
 
まあ…その方が、こっちも少しは気を遣わなくてすむ。
 
「どういう…ことなんだ?お前、いつからココに入ってるんだ?」
「…夕ご飯のあと…少しして…8時ちょっと前くらい…」
「ああ?!」
 
アルベルトは思わず眼を剥いた。
2時間近くたっている。
 
「お前…大丈夫なのか?」
「…え?」
「ジョーが言ってたじゃないか、あまり長い時間入りすぎると…よくない…とか」
「…でも…博士がいるから…」
 
博士が。
…ってのは。
すぐ治してもらえるから、いいんだ…ってことか?
 
「とにかく、上がるんだ!」
 
強引に腕を掴んで立たせようとしたとき、フランソワーズが小さな声を上げた。
がら、と戸が開き、数人の客が入ってくる。
 
アルベルトは咄嗟にフランソワーズをぐい、と抱き寄せ、そのまま抱きしめた。
 
「あ…アルベルト…?!」
 
背中に、うろたえる男たちの気配があった。
やがて、ばたばたと足音が遠ざかり…
 
耳を澄ますと、いまいましそうに、しかしどこか浮かれた調子で悪態をつく男達の声が聞こえた。
 
やれやれ。
「馬鹿なガイジン」と思われるのは心外だが…
 
ほっと息をつき、アルベルトはフランソワーズを静かに離した。
 
「脅かして…悪かったな。さあ、部屋に戻るんだ…俺は…」
 
次の瞬間。
アルベルトの背中に、柔らかい白い腕が巻き付いていた。
 
「…な…?」
「いや…離さないで…戻るのはいや…いやなの…!」
「…フランソワーズ?」
 
酔ってるのか、こいつ?
それとも…
 
ふと視線を落とし、アルベルトはハッと息を呑んだ。
 
白い首筋から肩にかけて…
うすく浮かび上がっている赤い痣。
 
夕食のときの、彼女の姿を心に思い描く。
そうだ。
あのとき…
浴衣の衿からのぞくその部分に、こんな跡はなかった。
 
 
 
夕食は、ギルモアたちの部屋に運ばれてきた。
その黒塗りの膳を、「お人形ごっこみたい」とフランソワーズは無邪気に喜んだ。
 
到着してすぐ、一風呂浴びたというジョーとフランソワーズは浴衣に着替えていた。
髪を上げ、きちんと日本風に座り、フランソワーズは時折イワンを振り返ったり、ギルモアの世話を焼いたりしながら、終始楽しそうに笑っていた。
 
やがて。
これも、日本風のしきたりだから…
と笑い、ジョーがビール瓶を手にやってくる。
 
「酌はいらん。好きなときに飲ませてもらおうか」
「わかってるよ…だから、しきたりだって言っただろ?一杯だけ」
 
仕方なく、言われるまま小さなグラスを空ける。
ジョーは嬉しそうに微笑み、ビールを注ぎ終わると、こっそり耳打ちした。
 
「どう…思う?」
「どうって…何が?」
「フランソワーズ…キレイだろ?」
 
何が言いたいのか今ひとつわからず、アルベルトは黙ってジョーを見つめた。
茶色の眼が柔らかく光る。
 
「僕が…教えてあげたんだよ…浴衣の着方」
「…ほう?」
「帯の扱い方とか…ね。結構難しいんだ」
「やれやれ…」
 
アルベルトは一気にグラスを空け、ジョーに押し付けると、ビール瓶を奪いとった。
 
「アルベルト?」
「…飲め。くだらん惚気を聞いてやったんだ」
 
ジョーは明るい笑い声を上げた。
 
「なんだ…よく知ってるじゃないか、日本の習慣…!」
 
 
 
よく…わからない。
彼も酔っていたのかもしれない。
 
夕食の後、ジョーはフランソワーズを連れて部屋に戻った。
十分すぎるほどの食事のせいで、それ以上何も飲み食いする気にはならなかったが…
 
温泉旅館に来たら、飲みながら布団の上でカードゲームや怪談なんかをするのが日本のしきたりだと、真顔で主張するジョーに押され、ギルモアとアルベルトは、風呂に入った後、ジョーたちの部屋を訪れる約束をさせられていた。
 
何のために気を遣ったのか…わからないぞ。
 
フランソワーズに気づかれないよう、そっとささやくと。
ジョーはふふっ…と笑った。
 
「大丈夫…時間はいくらでもあるから」
「ほう?…その口で言うワケだな…?」
 
思い切り頭をこづくと、ジョーは心底愉快そうに笑った。
けげんな顔で振り返るフランソワーズに歩み寄り、優しくその肩を抱き、ジョーは笑顔のままアルベルトに手を振って、部屋を出た。
 
「だからさ、フランソワーズ…今度こそ、行ってごらんよ、露天風呂!気持ちいいんだから…」
「いやよ…絶対いや!さっき、あんな広いお風呂に入るのだって…とても恥ずかしかったのに…」
 
フランソワーズは半ば甘えるように、からかうジョーを見上げ、口を尖らせている。
ま、仲良くやってくれ。
 
そして。
あれから…2時間。
 
何が…あった…?
 
とにかく…ここから出さなければ埒があかない。
アルベルトは、黙ってフランソワーズを抱き上げた。
 
「アルベルト…!」
「ワガママはこれまでだ!…怪しいガイジンのバカップルが露天風呂でいちゃいちゃしてる…なんて評判が立ったらどうするつもりだ?そんなことになったら、ジョーが…」
 
…血相変えて飛んでくるだろうな。
 
フランソワーズは身を堅くして、震えていた。
 
彼女を投げ出すように脱衣場に下ろし、山積みになっているバスタオルを一枚投げかけ…自分の分もひったくるようにとると、まっすぐ入口に歩き、鍵をかける。
…これで…よし。
 
が。
 
いくら待っても、動く気配は…ない。
アルベルトは業を煮やして振り返り、うつぶせに倒れるように座り込んでいるフランソワーズに怒鳴った。
 
「いい加減にしろ!…襲われたいのか?!」
 
だったら…!
 
言いかけて、アルベルトはハッと息を呑んだ。
フランソワーズが静かに身を半分起こし、振り返った。
 
青い瞳に涙がいっぱいにあふれている。
 
彼女は、投げつけられたバスタオルをまとっていなかった。
均整のとれた美しい肢体が、雪のような淡い光に包まれている。
その首筋に、胸元に…ところかまわず点々とついた痣。
…そして。
 
アルベルトはさっと背中を向け、うめくように言った。
 
「…すまない」
 
布の擦れ合う音が…しばらく続き。
やがて。
 
「…ごめんなさい、アルベルト…」
 
微かな声が届いた。
髪を結い上げた浴衣姿のフランソワーズが立っている。
 
「先に…出てるわ…今なら、誰もいないから…」
「ああ」
「…ごめんなさい」
「いいから」
「あの…!」
 
視線がぶつかった。
フランソワーズはぱっとうつむき、足早に入口に向かいながら、小さく言った。
 
すぐ…すぐ来て、アルベルト……お願い!
 
戸が開き…足音が遠ざかる。
アルベルトは大きく息をつき、手早く身支度を始めた。
 
間違いない。
あの痣のような赤い痕。
それから。
 
あ…っ、と声を上げそうになり、アルベルトは思わず右手を口元に当てた。
 
「帯の扱い方とか…ね。結構難しいんだ」
 
無邪気な茶色の眼。
いたずらっぽいささやき。
 
…くだらん。
何を考えてる?
どうかしているぞ、俺は…!
 
まさか…アイツにかぎって。
 
 
 
エレベーターから降り、足早に部屋へ向かおうとしたとき。
風のような気配が背後をよぎった。
 
次の瞬間、フランソワーズは身動きもできないほど固く抱きすくめられていた。
 
「どこ…行ってたんだ?」
「…ジョー…?は…離して…」
「捜したんだよ」
「…ごめんなさい…でも」
 
ひんやりした風に頬を撫でられ、フランソワーズはハッと眼を開け、辺りをうかがった。
 
「ここ…は…?」
 
月が…輝いている。
後ろから抱きしめられていた。
ジョーの声が、首筋を撫でていく。
 
「だって…部屋じゃ…ダメなんだろう?」
「…え…?」
 
非常階段の踊り場らしい…と分かった瞬間、いきなり髪を掴まれ、上を向かされた。
唇が重なる。
 
「駄目…!お願い、やめて…もう…すぐ…博士や…」
「そう、アルベルトが…来るよね」
「…ジョー…?」
 
ジョーはそっと唇を離しながら、彼女の襟元を大きく広げた。
声も出せず、震える彼女の乳房を探り、耳朶を甘く噛む。
 
「あと…5分ある」
「ジョー…!」
「君がいけないんだよ…逃げたりするから」
 
 
 
正直気が重かったのだが。
あんな顔をしたフランソワーズは初めてだった。
それに、あの痕…
 
ジョーにしては荒っぽいやり方だ。
いや、もちろん…いつも、彼がどんな風に彼女を抱くか…なんてのを知る術など、ないわけだが。
 
ギルモアを伴い、イワンを抱いてノックすると、明るい声が応えた。
フランソワーズだ。
 
とにかく、入る。
 
布団は敷かれたそのままの状態で、ただ隅に押しやられていた。
使ったような跡もない。
 
浴衣姿のフランソワーズは、まずお茶ね、と湯飲みを並べた。
屈託なく笑っている。
首にあった痕も、今は見えない。
化粧で隠しているのもしれないが。
 
わけがわからない。
 
そんな彼女に指図されながら、ジョーが荷物やら冷蔵庫やらと、テーブルとの間をいったり来たりしている。
 
「座ってください…寝転がってもいいですよ」
 
そういうわけにはいかないだろう、とジョーに苦笑を向けたギルモアに、あっという間に座椅子を勧め、アルベルトからイワンを抱き取り、フランソワーズはジョーの隣にいつものようにおさまった。
 
「よく…寝てるねぇ」
「ほんとね…夜の時間だもの…来週にならないと、きっと目覚めないわ」
 
廊下やロビーでちらほら見た日本人の夫婦者となんら変わるところはない。
いつもの二人だ。
じゃ、さっきのフランソワーズのアレは…なんだったんだ?
 
夢でも見てたのか。
 
…いや。
ようするに、「犬も食わない」ってやつを食わされたということか。
たぶん、そうなんだろう。
 
 
空腹でもないのに、カードゲームの合間に何となく飲み食いする。
勝負がつくたびに、他愛ない罰ゲームを繰り返し。
時折、ほかの仲間たちの消息について言葉を交わしたりしながら。
 
穏やかな時間がゆっくり流れていく。
やがて。
ギルモアがゲームから離れた。
いかにも眠そうに眼をこすり、座椅子に深くもたれ…あくびをした。
 
時計を見ると…12時を回っている。
 
「そろそろ…戻りますか、博士?」
「…そ…うじゃの…」
 
「博士、そこに横になられたら?」
「ジョー?」
 
アルベルトはまじまじと茶色の瞳を見つめた。
 
「みんなで雑魚寝しちゃえばいいよ…ね、フランソワーズ?」
 
フランソワーズはとまどいを隠せない表情になっていた。
当たり前だ。
 
「それも…日本のしきたりなのか?ジョー?」
「うん…適当に寝てさ…みんなで話をするんだ。灯りを消して」
「話ならもう十分に…」
「まだ…ナイショ話してないだろ?」
 
ナイショ話…?
 
「何、コドモみたいなことを…」
「そうそう!…コドモが好きなんだ…日本の学校でさ、旅行すると必ず…」
「俺たちはコドモじゃないし、日本人でもないんでな…おやすみ」
 
イワンをフランソワーズから奪うように抱き取る。
彼女はハッとアルベルトを見上げた。
 
「アル…ベルト」
 
大きく見開かれた青く…怯えた瞳。
 
「まあ…ゆっくり休みなさい、二人とも…明日はのんびり出ればよいんじゃろう…?」
 
ギルモアの穏やかな声に我に返った。
ジョーが微笑んだまま、肩をすくめている。
そして…
 
彼女の顔を見ないまま、アルベルトはギルモアに続いて部屋を出た。
騒ぐ心を抑えながら、ゆっくり廊下を歩く。
 
…馬鹿な。
 
もしそうだとしても。
俺に何ができる?
 
それこそが、彼女の望むことなのだというならば。
たとえ、あいつにどれだけ傷つけられようと…
それを癒すのも、またあいつだけだというのなら。
 
もし。
助けて、と一言聞ければ。
微かにでもいい。
さっきのように。
 
そうすれば、俺はお前のもとに走る。
お前を傷つける者を退けるために。
それが、あいつであっても。
 
だが。
 
「アルベルト」
 
低い声に立ち止まる。
ギルモアの背中は、既に部屋の中に消えていた。
 
「…なんだ」
 
アルベルトはドアのノブを離し、振り返り、少年を見つめた。
茶色の眼に、鋭い光が宿っている。
 
「…もし、君が…知ってるなら」
「……」
 
じっと探るように見つめながら、ジョーはゆっくり言う。
一言ずつ、確かめるように。
 
「…知ってるなら…今夜は」
「……」
「今夜…だけは、君が…」
 
眉を寄せた。
何を…言ってるんだ?こいつは?
 
わけがわからないが。
この目つきはただごとではない。
 
「…言いたいことがあるなら、ちゃんとわかるように説明しろ、ジョー」
 
ジョーの頬にさっと朱がさした。
 
「覚悟は、できてるつもりだ…!」
「覚悟…?」
「…ほんとに、わからないのか?」
 
わかるものか。
 
黙って見つめ返す。
ジョーはぎゅっと唇を噛んだ。
 
「…そう…か」
「ジョー…?」
「おやすみ…遅くまでつきあわせて、ごめん」
「…いや」
 
立ち去りかけたジョーは、ふと立ち止まり、振り返った。
 
「もし、僕たちが朝食に遅れても…」
「あぁ、わかってる…呼びになんかいかないから、安心しろ」
 
ジョーは無言のまま、足早に歩き始めた。
 
 
 
部屋に戻ると、フランソワーズは元の位置に戻した布団の脇にきちんと座り、髪を梳いていた。
そっとドアを閉め、灯りを小さくすると、彼女は小さく声を上げた。
 
「…あ…ジョーなの…驚いたわ」
「誰だと…思った?」
「え…?」
 
ジョーはフランソワーズの傍らに座り、その手から櫛をそっと取り上げた。
 
「…ナイショ話の時間だ。二人だけに…なっちゃったけど」
「ナイショ…話…?」
「うん…聞かせて…くれるね?」
「ジョー…」
 
フランソワーズは眼を伏せた。
 
「あなたに…ナイショの話なんて…ないわ」
「フランソワーズ」
「ほんとよ」
「嘘だ…聞かせて」
 
強く両肩を掴まれ、フランソワーズは驚いて顔を上げた。
 
「どう…したの、ジョー?」
「聞かせてくれ…どうして、君は…」
「……」
「…何が…あったんだ?」
「ジョー」
「それとも…僕かい?…僕が、君を悲しませてるの?」
「悲しませてる…私を…?あなたが…?」
「フランソワーズ……!」
 
押し殺した声で、ジョーは呻いた。
 
「何も…話すことなんてないわ…私…悲しそうに見えるの…?」
「話せない?…僕じゃ、駄目なのか、どうしても?」
「…ジョー」
 
体の震えを懸命に抑えながら、ジョーは青い瞳を見つめ、肩にかけた両手に力を込めた。
…が。
フランソワーズは無言だった。
 
「だったら…駄目なら…せめて教えてくれ。誰なら、君を助けてあげられる?」
「ジョー…一体…」
「どうしてそんな顔をするんだ?!…僕を信じて…君が望むなら、僕は…いつでも、君を」
 
自由にしてあげる。
君を…君が望む人に渡してあげる。
覚悟はできてる。
そうだ。
君を初めて抱いたときから…覚悟はできている。
 
君がこの腕の中で幸せでないとわかったときは。
そのときは、すぐに君を手放す。
それができると思ったから…君を抱いた。
できないのなら…抱いてはいけなかった。
だから。
 
「どうして…?ずっと…言ってるのに…私は…悲しんでなんかいないわ…」
「だったら…!だったら、どうしてそんな顔をするんだ?…君は…笑わなくなった。僕が気づかないって思ってるの?君は…だんだん悲しそうになっていく。毎日…毎日…僕が戻ってから、ずっと…!」
「…そんなこと…ないわ。お願い、ジョー…心配しないで…イワンだって、何でもないって言ったでしょう?」
「イワンは、君が頼めば、いくらでも嘘をつくよ」
「そんな…!」
「僕が…怖い?」
 
一瞬、フランソワーズが身を堅くしたのがわかった。
 
声が震えそうになる。
ジョーは懸命に言葉を繋いだ。
 
「…怖がらないで。大丈夫だから…それくらい、信じて…ほしい」
「ジョー…?」
「君は…僕から離れたいんだろう…?」
 
君に会いたくて…ただ会いたくて。
3ヶ月がこんなに長いなんて。
今までだって、離れていたことはいくらでもある。
でも…それは、君を知る前の話だ。
 
毎晩、君に焦がれていた。
夢の中で君を抱きしめて…君の吐息を聞いて。
そして、目覚める。
 
ジョーはじっとフランソワーズを見つめた。
もう一度、言う。
 
「君は、僕から離れたいんだ」
 
 
 
振り返らなくても、わかっていた。
扉が開く音。軽い足音が2、3歩。
湯船に入る小さな水音。
 
さざ波が寄せてくる。
 
「また間違えたのか?」
 
振り向きもしないアルベルトの背中に、フランソワーズは無言で頬を寄せた。
 
「…あなたが…いるのが見えたから」
「見えたんじゃない…見たんだろう?」
 
お前に、ノゾキのシュミがあったとはな。
 
「…ごめんなさい」
 
…いや。
謝ることはない。
たぶん…俺は…待っていたのだから。
 
ゆっくり振り返る。
明け方の薄明に、眩しく浮き上がる白い肢体。
 
「…もう…消えてるのか」
「え…?」
「あいつの…痕だよ」
 
フランソワーズはうつむいた。
 
「私の肌も人工皮膚なのよ…赤くなるのは…不自然にならないようにするための見せかけだけ。すぐに消えてしまうわ」
「…なるほど」
「みんな…作りものなのに…」
 
沈黙。
なにかがひっかかった。
 
「どうか…したのか?」
「…わからない…故障、なのかもしれない…」
「故障…?」
「だから…もうすぐメンテナンスだから…それまで待ってみようって、思って…でも…」
「おい、何を言い出すんだ?…お前、やっぱりどこか悪いのか?!」
 
思わず声を荒げる。なんてことだ。
…が。
フランソワーズは両手で顔を覆い、烈しく首を振った。
 
「そうじゃないの…ううん…ちがう、でも…こんなこと…」
「フランソワーズ!」
 
強く両肩を揺すぶられ、フランソワーズはアルベルトを見上げた。
こぼれ落ちそうに大きな青い瞳が揺れている。
 
「…さあ、言うんだ…そうか、ジョーには言えないことか」
「……」
「それなら安心しろ…ヤツには絶対に知らせない。メンテにも、俺が立ち会う」
 
唇が震え…開いた。
同時に、大粒の涙が白い頬に転がっていた。
 
「…あの人を…愛せなくなってしまったの」
 
 
10
 
とぎれとぎれに話すフランソワーズを、いつのまにかアルベルトは抱き寄せるように支えていた。
 
ジョーが不在の間…ずっと彼に焦がれていた。
待ちに待った再会がかなって。
同じように思いを高ぶらせた彼に抱きしめられて。
 
そして、その夜を迎えた。
 
燃えるような抱擁。
飽くことを知らず、求め続けた彼。
 
…なのに。
 
「何も…感じなかったの」
 
信じられなかった。
彼に、悟られるのが怖くて…
記憶を総動員した。
 
甘い夜の記憶。
そのときの感覚を全身に蘇らそうとして…懸命に身をよじり、切ない声を上げた。
 
…たぶん…気づかれなかった。
その夜、彼は、幸せそうな吐息をもらし、優しく彼女を抱きしめて…眠った。
 
「…そういうことがあっても…おかしくはないんだろう?聞いたことがあるぜ…女性のカラダにはよく…」
 
そうだ。
思いだした。
いつも優しかった彼女が急によそよそしくなったことがある。
 
アルベルトは低く笑い、小刻みに震える亜麻色の頭をやや乱暴にかき撫でた。
 
「馬鹿だな…そんなことで悩んでいたのか?…ずっと?」
「それは、フツウの女の人の場合でしょう?!」
 
涙混じりの叫び。
アルベルトはふと表情を引き締めた。
 
「…博士が…前言ってた…私の能力は、生体組織と…とくに脳や神経系と深く結びついている…この能力がどれくらいの影響と…危険を及ぼすのか、自分にもわからない…」
「…フラン」
「ずっと…ずっとなのよ…!ジョーだって…少しずつ気づいてるわ、おかしい…って…だから!」
 
…なるほど。
そういうわけか。
 
どこかおかしい恋人の様子が不安で、彼はいっそう彼女を責め立て。
いつもより烈しく求愛されているのにいっこう反応しないカラダに、彼女は絶望を深め。
 
だが。
 
「感じなければイケナイと思っていたんじゃ、その気にならないだろう?…まして、あいつが尋常じゃないやり方でくるんだったら…怖いと思っても当たり前だろう」
「…アルベルト」
 
フランソワーズの頬に、僅かに赤みがさした。
…美しい。
が、彼女は力無く首を振った。
 
「そう…なら、なんでもないことよね…でも…もし…もし、何かのトラブルだったら」
「だったらメンテナンスをすればすむこと…」
 
ハッと口を噤む。
フランソワーズが儚い笑みを浮かべた。
 
「そう…ね…少し、調節してもらえばすむこと…なのよね」
「悪い、フランソワーズ、そうじゃなくて…」
「ううん…わかってるの私…だって、もしかしたら、コレも私の能力の一つなのかもしれないでしょう?博士は何もおっしゃらないけど…でも、もしかしたら」
「…黙れ」
「だっておかしい…おかしいわ…ジョー…前は私のことなんて、見向きもしなかったのに…長い長い間、私たち、何もなかったのに…何もなくても平気でいられたのに…なのに、私を抱いてから、変わったわ、あの人は…!」
「黙れ!…そんな大声で惚気なくてもいい」
「ごまかさないで!!…あなただってそう思ってるくせに…私のカラダが…このカラダが、きっとあの人を惑わせてるのよ…003のもう一つの能力が…!!」
「黙れ…!!」
 
アルベルトはいきなり彼女を抱きしめ、言葉を唇で塞いだ。
 
「…だったら…俺を落としてみろ!お前の…003の能力とやらで、それができるというのなら…!」
 
 
11
 
たしかに…痕は残らないモノらしい。
 
朝食の膳に座り、アルベルトは妙に感心しながら正面のフランソワーズを見ていた。
首筋も、そこから続く喉元も…なめらかに白く、美しい。
おそらく、浴衣に包まれたあのふくらみも。
雪のように清浄なままなのだろう。
 
ちらっと時計を見る。
まだ…2時間そこそこだが。
 
「アルベルト、気づいた?」
「…何が」
 
ジョーは嬉しそうに言う。
 
「フランソワーズの浴衣…昨日と違うだろ?」
 
さっきとも違う。
…じっと茶色の眼を見返す。
 
「…ああ」
 
ジョーは屈託のない笑みを浮かべ、いかにも愛おしそうにフランソワーズを見つめた。
 
「旅館の人がね、彼女に用意してくれたんだよ、昨日…きっと似合うから、是非明日の朝着てみてくださいって」
「…ほう?」
「外国人は珍しいからの…それもこんなに可愛らしい子が、上手に浴衣を着ていたから…きっと宿の人たちも嬉しかったんじゃろうて」
「…もう、博士ったら…!」
 
イワンは眠ったままだ。
もし目覚めていれば…俺たちを見てどう思うだろう。
いや。
もしかしたら…タヌキを決め込んでるのか?
 
…そうかもな。
俺なら、そうする。
 
落としたのか。
落とされたのか。
 
正直、よくわかっていない。
 
「よかった」
 
ふと、ジョーが吐息混じりにつぶやく。
「何が…じゃ?」
「フランソワーズ…元気になって」
「…え…そう…かしら…?」
「そうだよ…!昨夜よりずっと顔色もよくなったし…」
 
久しぶりだ、君の…こういう笑顔。
 
ギルモアもしばらくフランソワーズを見つめ…うなずいた。
 
「たしかに…そうじゃの…やはり、温泉というのは…効果絶大なのかもしれん」
「特に…コイビトと一緒なら…な」
「…アルベルト!」
 
赤くなったジョーが、間髪入れずに抗議する。
 
…そうか。
コイビトは自分だと言いたいわけだな。
 
まずいな。
やっぱり落とされたのは俺のほうか。
 
それとも…
 
 
12
 
手早く荷物をまとめていたフランソワーズは、入ってきたジョーに、口を尖らせた。
 
「もう…!遅いわよ、ジョー…早くしないと、あなたの荷物…」
 
ああ、とジョーは笑い、フランソワーズの傍らに膝をついた。
 
「いいんだよ、準備しなくても…」
「…え?」
「もうしばらく、泊ることにした」
「もうしばらく…って…」
 
ジョーはそっとフランソワーズの肩を抱き寄せた。
 
「一晩で…君がこんなに元気になるなら…って、僕が頼んだんだ…博士もアルベルトも賛成した」
「…ジョー」
「大丈夫…イワンは博士たちが連れて帰る。オムツもミルクも用意してないからね」
「それ…じゃ」
「そう…みんな、さっき発ったよ…これで、僕たち二人きりだ」
 
胸のボタンを外し、手を滑り込ませる。
たちまち、フランソワーズの頬が染まった。
 
「や…いやよ、ジョー…離して…」
「布団…片づけちゃったんだよなぁ…」
 
ぼやくように言いながら、そっと畳の上に彼女を倒した。
雪のように清浄な肌。
そっと口づける。
 
あ、と彼女が小さな声を上げた。
 
「やめ…て」
「優しくするよ…安心して」
 
彼と…同じように。
 
「僕は…嘘つきだ」
「…ジョー…?」
 
君を手放すことなんて…できやしない。
それだけじゃない。
君が…この腕の中で笑ってくれるなら。
そのためなら、何だってする。
 
…何だって。
 
誰を傷つけてもかまわない。
もちろん、僕自身も。
 
僕が…誰がどんなに傷ついても。
君が笑ってくれるなら。
僕は。
 
胸を弄んでいた手をそっと下へと滑らせる。
 
「…こんな…に…?」
「や…いや……!」
「すごいな…畳、濡らしてしまうよ…フランソワーズ」
「いや…!意地悪…」
 
そんなに…よかったの?
 
…かまうものか。
今、君は僕の腕の中で…僕のために身悶えしている。
僕の指で泣き声をあげて…
 
可愛いよ…凄く可愛い。
僕の、フランソワーズ。
 
 
13
 
結局…博士には聞けなかった。
聞けるはずがない。
 
もし、本当に…003にそういう能力が与えられていたのだとしても。
今、それに何の意味がある?
 
その能力は永遠に封印されることになるのだから。
あいつの手で。
 
…だが。
 
「あ…アルベルト…?ひどい、黙って行ってしまうなんて…!もう飛行機なの?」
「いや…空港だ。明日の朝一番の便で帰る」
「ほんと…?だったら…見送りにいくわ、どのホテルに泊るの?」
 
屈託のない問い。
アルベルトは、苦笑して、ホテルの名と部屋番号を告げた。
 
「だが…来るなよ」
「まあ、意地悪ね…だったら教えなければいいでしょ」
 
くすくす笑う声が、耳をくすぐる。
 
「来るなら…一人で来い」
「…え?」
「今…そこに誰もいないんだろう?」
 
そう。
受話器の向こうが妙に静かだ。
ジョーはおおかた、博士をどこかに送りにいったか…迎えにいってるのか。
 
「…アルベルト」
「誰にも言わず、一人でだ。それなら、部屋に入れてやる」
「アルベルト!」
 
アルベルトは携帯のスイッチを切った。
…さて。
 
携帯を放り出し、ベッドに倒れ込むように横たわる。
 
くるわけ…ないが。
もちろん。
 
目を閉じる。
 
甘く耳をうつ吐息。
掌の中で柔らかく熱く溶けていく肌。
切ない喘ぎ声。
そして…
 
いつの間にか、眠っていた。
 
…ノックの音がした。
おずおずと、怯えているような。
 
まさか。
 
目が開かない。
…夢だ。
 
ノックの音は続いている。
 
そんなはずはない。
夢だ。
目を覚ませ。いや、眠れ。
もっと深く。
 
音が…やんだ。
 
 
カッと目を見開き、ベッドから飛び降りた。
窓の外は真っ暗になっている。
ドアに駆け寄り、ロックを外す。
 
夢か?
それとも。
 
一瞬、深く息を吸い。
アルベルトは、力任せにドアを開け放った。
 
更新日時:
2002.11.24 Sun.
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Last updated: 2013/8/15