1
声が聞こえたような気がした。
足早に廊下を急ぎ、暗い部屋に足を踏み入れる。
彼女は、防護服に身を包み、うずくまるようにしてベッドで眠っていた。
「フランソワーズ…?」
アルベルトは注意深く話しかけた。彼女は動かない。
慎重に近づき、そっとかがみ込む。
眠っている…が。
頬にかかる髪が濡れている。
やっぱり…うなされていたのか。
「…許してくれ」
つぶやく。
何があっても、守るつもりだった。
その思いは、他の仲間たちも同じだったはず。
「…ジョー…?」
震える声。不意に、ぱっちりと青い眼が開く。
フランソワーズは、ゆっくりと上半身を起こそうとした。が、たちまちバランスを失う。
アルベルトは慌てて彼女を抱き留めた。
「……」
青い瞳が懸命に恋人の姿を探している。
視力・聴力が戻るには、あと数時間かかるだろう、というギルモアの言葉を思い出し、アルベルトは脳波通信を開こうとした。そのとき。
「…いや……!」
悲鳴のように、フランソワーズは小さく叫び、アルベルトの胸に身を投げた。
「…フ…ラン…?」
「ジョー……ジョー…?」
とめどなく流れる涙が、アルベルトの胸を濡らした。そっと抱きしめる。
見えなくても…聞こえなくても、わかっているはずだ。
俺はジョーじゃない。
アルベルトは、そっとフランソワーズの手を握った。革手袋をはめた右手で。
フランソワーズは小さく首を振った。
「ごめ…んなさい……」
震えながら、彼の胸に額を押し付ける。
「…許して…ジョー……」
許す…?あいつが…君を…なぜ…?
あいつは…俺たちは君を守れなかった。
許しを請うのは…俺たちの方だ…あいつの方だろう。
声にならなかった。
アルベルトは、柔らかい髪を優しく撫でつけた。
こんな君をここに残して、どうしてあいつは…戦えるんだ?
2
烈しい戦闘は、活路を見いだしつつあった。
あと…少しで突破できる…!
長年培った闘いのカンがそう告げていた。
それがわずかな気のゆるみを生んだのかもしれない。
奇妙な閃光と…中途半端な爆発音。
サイボーグたちは、一瞬身構えたが…それきり何も起こらない。
…なんだ、今のは…?
イヤな感じがあった。
が、アルベルトはとりあえず目前の敵を倒すことに集中していた。
他の仲間も同じだ。
何か、ヘンだ。
闘いながら、妙な違和感があった。
おかしい。
何かが変った。
何が起きたのか、気づいたのは、不意に背後から銃撃を受けたときだった。
振り向きざまに撃ち返し、地面に転がりながら、アルベルトは反射的に通信を開いた。
003…!隠れている敵がいる!
捜してくれ…と続けようとして、彼はハッと息をのんだ。
同時に、ジョーが叫んだ。
「003?!…どうした、003?!どこにいるんだ?!」
間違いない。
彼女が消えた。
…いつ?
一瞬呆然としたアルベルトは、ジョーの凄まじい表情に、我に返った。
「009!…003のことは後だ!!…まず、こいつらを始末しろ!!」
…そうするよりほかにない。
ジョーは大きく目を見開き、アルベルトを見つめ…唇を噛んだ。
次の瞬間、烈しい爆風に包まれ、アルベルトは身をかがめた。
続けざまの爆発。
「な…何だ?何が起きてる?」
隣に降り立ったジェットに、アルベルトは低く言った。
「003が…行方不明だ」
「…な…に?…じゃ、この…爆発は…?」
「009だ!…いいから、伏せてろ!!あいつがマジになったときの怖さは、お前もわかってるだろう?」
眉を寄せたジェットを新たな爆風が襲った。
「ぅわっ!!」
身を伏せ、ジェットは歯ぎしりしていた。
「ち…くしょう…っ!ヤツら、いつの間に?…俺たちが…ついていながら…!!」
3
あの奇妙な爆弾は…対003用として開発された兵器だったらしい。
閃光が彼女の視力を奪い、超音波が彼女の聴力を奪った。
ギルモアの言葉に、008はぎゅっと拳を握りしめた。
「じゃ…あいつらの狙いは…はじめから、003だった…と?」
たしかに…中途半端な敵だった。
009が破壊しつくした基地も、ごく単純なつくりで、こんなものが基地として本当に機能していたのか…と、廃虚を探索したとき、008は首を傾げた。
もともと、003を攻撃することだけが作戦の目的だったのなら…納得できる。
あれから5日。
003の行方は全くわからない。
殺されているとは限らない…
苦渋の表情で、ギルモアは言った。
殺すつもりなら、あの場で殺しているはずだから。
おそらく…彼女は拉致された。彼らの目的は…
実験か…あるいは。
ギルモアは口ごもった。
言わなくてもわかる。
003の戦闘能力は低い。洗脳…など、手間のかかることはするまい。
だとしたら。
「…組織を裏切ったら、どうなるか…彼女を使えば、効果抜群のデモンストレーションができる…ってわけですね、博士?」
一斉に非難のまなざしが集まった。
その中でも、飛び抜けて凄まじい殺気を放つ茶色の瞳を、アルベルトは冷然と見返した。
お前もわかっているはずだ、ジョー。
こうしている間にも…彼女がどんな目にあっているか。
それに…急がなければ、何もかも手遅れになるかもしれない。
「001を…起こしてください、博士」
「…009…しかし」
「彼にとって危険だということは…わかっています。でも…!」
ギルモアはじっと考え込んだ。
「…そう…じゃの…このままにしておいて、彼女に万一のことがあったら…きっと001はわしらを許さないじゃろう」
4
001がはじき出したポイントは3カ所だった。
彼女との精神感応は、不可能だったが。
「ボクの能力を封じることくらい、考えるさ、ヤツらは…でも、データを分析し、ヤツらの中でもごく下っ端の連中の思考を探って…妙な動きがありそうなのは、この場所だと思う。気づかれないように動きたまえ。気づかれたら、ヤツらは003を別の場所に移してしまうだろう。」
001の作戦に従い、007を中心に、探索が始まった。
一つ目のポイントに…彼女はいなかった。
二つ目。
基地を発見し、単独で潜入した007からの連絡を、009たちは息をひそめて待ち続けた。
「見つけたぞ…!彼女は無事だ、今、助け出した…!」
震える声で通信が入った。
同時に009の姿が消え、それを合図に、サイボーグたちは飛び出していった。
「007…!007、どこにいるんだっ!!」
009の怒声が岩肌に幾重にもはね返った。
闘いはあっけなく終わった。
基地は、兵器開発のための研究所に、いくつかの居住施設があるだけの簡単なものだった。
しかし…003を連れて脱出したという007がなかなか見つからない。
通信も途絶えていた。
「007、いい加減にしろっ!…ジョーのやつ、キレてるぞっ!!」
ジェットも怒鳴る。
…が、応答はない。
「…っ!!」
唇を噛み、009は加速装置のスイッチを入れた。
闇雲に駆け回り、海岸に停泊しているドルフィン号の近くに来たとき。
009はついに007を見つけた。
「007!!どうして応答しないんだっ?!」
「う、ぅわっ!!…00…9…?!」
007は飛び上がらんばかりに驚き、次の瞬間、003を抱きかかえたまま、あたふたと背を向けた。
「…何だよ…っ?!…フランソワーズは、無事なのかっ?!」
「ぶ、ぶぶぶぶ無事だって…言っただろ…脅かすなよ…と、とにかく早く博士に診てもらって…だな…っ!!や、やめっ、009…!待て、落ち着け〜っ!!」
慌てる007を突き飛ばすようにして、009は003を奪い取り、抱きしめた。
「…っつぅ…!」
尻餅をついた007は眉を寄せ、009の背中を気遣わしげに見つめた。
…やがて。
「…00…7…?」
小さい声。
振り返り、初めて気づいた。
007は上半身裸だった。
007は咳払いをして立ち上がり、やや厳しい口調で言った。
「ぐずぐずするな、009…!彼女、まだ目も耳もやられたままだ…早くギルモア博士に…!」
「これ…キミの…防護服…どうして…」
「何ごちゃごちゃ言ってるんだ、さっさと歩け!!…歩けないんなら、俺が…」
007は009に足早に近づき、やや乱暴に003を抱き取ろうとした。
そのとき。
ぴったりと閉じていた長い睫毛が震えた。
「フランソワーズ…?!」
009の腕の中で静かに青い目が開いた。
「…フランソワーズ…!!」
思わず、腕に力がこもる。009は、彼女を堅く抱きしめ、その頬にぎゅっと自分の頬を押し付けていた。
鋭い悲鳴が上がった。
「…フ…ランソワーズ…?」
「いや…いや、いやよ……!」
「どうした、フランソワーズ?…僕だ…僕だよ、フランソワーズ…もう大丈夫…!」
「ジョー、通信機を使え!彼女には聞こえない…見えないんだ!」
007の声にハッと我に返り、009は通信を開いた。
「落ち着いて…フランソワーズ、僕だ…009だ…!」
「…ジョー…?!」
痛々しそうに二人を見つめていた007は息をのんだ。
考える間もなく、銃を抜き、003に向けて引き金を引く。
「00…7…?!」
凄まじい形相で振り返った009は、大きく目を見開いた。
ぐったりと力を失った003の手から、銃が落ちていた。
「…フランソワーズ…?」
「俺が助けたときも…彼女は同じことをしようとした…俺の銃を抜いて…自分を…撃とうと…」
「…自分…を…?」
「何とか奪い返して、パラライザーで眠らせて、ここまで連れてきた…出力を落としていたから…効き目がなくなっちまったんだな…可愛そうなことをした」
「グレート…?」
「…そうだ、ジョー…彼女が着ているのは…俺の防護服だ…彼女を眠らせて…さっき、俺が着せた。」
「……」
「まだ…何か聞きたいか?」
009は無言のまま、003を007に渡した。
「…ジョー…?」
「…フランソワーズを…頼む」
「何…?」
「…この基地から脱出したヤツらを追う…!探知機を付けてやったんだ」
「ちょ、ちょっと待て、009…?!」
009は身を翻し、ドルフィン号に駆け込んだ。
ややあって、小型機が勢いよく発進した。
「…007?どうした、何があったんじゃ?009はいったい…!003…!!」
「お願いします、博士…目と耳を完全にやられてるらしい…」
唇を噛み、うつむいた007を、ギルモアはじっと見つめ、静かにうなずいた。
「わかった…ありがとう…007」
5
009は、戻らなかった。
報告は毎日きちんと入ってくる。
彼は、恐ろしいまでの戦果を挙げていた。
「ジョー、もういい加減にしろ…帰ってこいよ…フランソワーズが…」
「…フランソワーズが?経過…よくないのか?」
「そんなことはない。治療は順調に進んでる…もうすぐ元に戻るだろう」
安堵のため息が微かに聞こえる。アルベルトは低く言った。
「…おびえてるぞ…彼女」
「…アルベルト…?」
「夢を見るらしい…毎日ひどくうなされている。目と耳が戻れば…少しはマシになるかもしれないが」
今は、お前が側にいてやれ…とアルベルトは言った。
短い沈黙。
「…それは…無理だ。あと少しで、ヤツらを全滅させることができる」
「だから…!もうほっとけ!それより、彼女の方が…」
「大丈夫だよ…彼女は、強いから」
「強い…だと?」
「ああ…それに、ヤツらを放っておくわけにはいかない。」
「それなら、そっちは俺たちに任せろ…!」
「イヤだ…僕が、この手で…」
…一人残らず殺す。
さらっと、むしろ軽い調子の声。
背筋に得体のしれない寒気が走り、アルベルトは口をつぐんだ。
通信が切れたのを確かめ、ジョーは立ち上がった。
…うなされている…か。
僕は…守れるだろうか…君を…君の…夢を。
でも、今は…君のもとに戻れない。
君を地獄に引きずり込んだやつらをこの手で葬るまで。
最後の…一人まで。
昨日殺した兵士の一人が、003を狙う作戦に関わった幹部の居場所を告げた。
助かりたい一心で、彼らは簡単に口を割る。
必死で命乞いをする彼らから情報を搾り取り、結局殺す。
そんなことが自分にできるなど、想像したこともなかった。
君は…こんな僕を怖がるだろう。
憎むかもしれない。
でも…このままでは、君のもとに戻れない。
僕は、君を、守れなかった。
復讐…じゃない。たぶん。
僕は、知りたいんだ。
君に何が起きたのか。
君が…どんなふうに苦しめられたのか。
追いつめられた男たちは、009に問われるまま、全てを話した。
003を使って行われた、凄惨な実験。
新しい対レーダー兵器の性能テスト。
その様子をおさめたフィルムも、009は手に入れていた。
…予想したとおり、いずれ、組織に逆らおうとする者を脅すために作られたようなフィルムだった。
実験中の彼女は、全裸だった。
自殺させないためだ、と…ある科学者は言った。
彼女を陵辱した者は一人もいない、と懸命に主張した科学者もいた。
彼女の体に、実験以外のことでダメージを与えてしまったら、データの信憑性が失われる。
だから、なんだ…?!
即座にその科学者を撃ち殺し、009は歯を食いしばった。
殺してやる…一人残らず。
どこに逃げても、必ず探し出す。
6
ギルモアの治療は慎重だった。
003が、自分は救出された…ということを、現実として実感できるように。
そして、治療の際、一切苦痛がないように。
彼女は、少しずつ平静さを取り戻していった。
身の回りの世話は、交替制にした。
009の不在を少しでも目立たせないために。
彼女は、何も聞かない。
誰も、何も言わない。
だが…彼がいないことに、彼女が気づかないはずない。
「ごめんなさい…」
長い沈黙の後…腕の中で、フランソワーズがつぶやいた。
通信を開く。
「フランソワーズ?」
「困らせて、ごめんなさい…アルベルト…わかってるの…」
「…あいつは…今、闘っている…ここにはいない。ずっとだ…何も心配するな…別に、お前を避けてるわけじゃないんだから…」
フランソワーズは小さくうなずいた。
「どうしたんだ…?わざわざこんなモノを着て…窮屈だろうに」
昼間彼女が着ていたネグリジェは椅子の上に、やや乱れて…それでもたたんで置いてあった。
あらためて部屋を見回すと、彼女が手探りで防護服を捜した跡があった。
着方も微妙に乱れている。
マフラーの結び目は緩く、その下にのぞくファスナーも完全に上まで上がっていない。
「…安心…するの……」
安心…?
聞き返そうとして、アルベルトはハッと口を噤んだ。
003を救出したその晩。
グレートは仲間が止めるのもきかず、酒を浴びるように飲んだ。
何を聞かれてもただ首を振り、「かわいそうに…かわいそうに…」と繰り返すだけだった。
それ以上、説明はいらなかった。
血相を変えて迫るジェットに、ギルモアは、彼女の体内に「陵辱」された痕跡はない、と言った。
だが…同時にギルモアはうなだれ、力無く首を振った。
それが…どうだ、というのか。
彼女が発見されたのは、幹部の私室らしい部屋だった。
手足には、縛られた跡が痛々しく残っている。
グレートは、彼女を救出すると、その部屋に火を放った。
さんざん痛めつけられた挙げ句、光も音も奪われる…それを繰り返す日々。
手を伸ばしても、触れるのは、お前を苦しめ、傷つけようとする男たちばかり。
誰も…何も、お前を護るものはなかった。
「これを着ているとね、安心して眠れるのよ…」
もっと早く気づけばよかった、とフランソワーズは微かに笑った。
…それでも、うなされていただろう?!
喉まででかかった言葉を呑み込み、アルベルトはそっと彼女を抱きしめた。
「……そうか。だが…もう、何も心配ない」
ええ、とうなずき、彼女はアルベルトの胸に顔を埋めた。
「…フラン」
「聞いてくれる…?アルベルト…私が…あの人たちに…何をされたか」
それは…俺の役目ではないはずだ。
だが。
アルベルトは返事の代わりに、抱きしめる腕に力を込めた。
7
とぎれとぎれの通信が…やがて途絶えた。
「…アルベルト…?」
「忘れてしまえ…そんなことは」
フランソワーズは寂しく微笑んだ。
「…そうできると…いいのだけど」
ごめんなさい…イヤな思いをさせてしまって…
「誰にも…言わないつもりだったのに…私、意気地なしね…」
「そんなことはない」
「ジョーに…」
アルベルトは眉を寄せ、腕の中のフランソワーズを見下ろした。
彼女は見えない目を闇の一点に据えたまま、淡々と続けた。
「あの人に…こんな私を見られるくらいなら…死んでしまいたかった…ジョーは…綺麗だって言いながら…抱きしめてくれたのに…でも馬鹿ね、私…もともとこの体はみんな、作りものだったんだわ…」
「……たしかに…馬鹿だな。ジョーが綺麗だと言うのなら…作り物だろうが何だろうが、かまわない。そういうモノだろう?…そして、お前はそのときから、何も変わってはいないんだ」
「変わったのよ…あの人には、わかるわ…わかったの、だから…!ううん、いい…もういいのに…ごめんなさい、アルベルト…もう…大丈夫よ…」
あの夜の方が、夢だった…こんなことになって、初めて気づくなんて…
しゅるっ…と微かな音を立てて、マフラーが解かれ、床に落ちた。
「…アル…ベルト…?ア…何を…?!」
彼は無言で彼女の耳朶を甘く噛み、うなじに軽く指を滑らせた。
開きかけたファスナーを押し下げ、肩を露わにしながら、唇を首筋から胸元へ這わせ、ゆっくり彼女を押し倒した。
…綺麗だ。とても。
通信機のスイッチを切り、そっとささやいた。
聞こえなくていい。見えなくていい。
何も見るな。何も聞くな。
俺も、お前の心は見ない。聞かない。
この腕の中で。
お前が誰を想っていようが、かまわない。
誰を見ていても、誰の声を聞いていても。
ただ…感じるんだ。
お前は、愛されている。
こんなに烈しく…深く。
それだけ、わかればいい。
それだけ…わかってくれ。
8
何度声を上げたか、わからない。
誰を呼んだのかも。
ただ、熱い腕にすがり、烈しい鼓動を聞き…
私は押し寄せるうねりに身を任せていた。
涙が、とまらない。
愛している…愛しているわ…
あなたの鼓動が、私にうなずく。
何も…心配いらないと。
君は…誰よりも美しい。
ううん、それは…違う。
烈しく首を振る私を、また熱い波がさらう。
叫びが、意味をなすまもなく咽喉からほとばしる。
フランソワーズ…フランソワーズ…!
あなたの…声。
遠く…近く。
「ジョー…ジョー、ジョー…!!」
自分の叫び声に驚き、私は大きく目を開いた。
茶色の…瞳が見下ろしている。
「…フランソワーズ?」
「ジョー…?」
「聞こえるかい?…僕が、見える…?」
気遣わしげな声。
うなずくと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった…!もう…大丈夫だね…」
「どう…して…?」
声が震える。
「遅くなって…ごめん……怒ってる?」
…怒ってる…何を?
起きようとした私を、彼は押え込むように抱きしめた。
「まだ、安静にしてなきゃ…」
耳元に甘いささやき。
私はハッと我に返った。
咄嗟に、彼の腕を押し戻し、ベッドから転がるように飛び降りる。
慌てて抱き留めようとした彼の手を思い切りはねつけた。
「触らないで!!」
悲鳴のような自分の声を聞いたとき…
涙が溢れた。
「フランソワーズ…?どうして…!」
悲しい声。
床に座ったまま、後ろから抱きしめられて、私は懸命に首を振り続けた。
涙が止まらない。
駄目よ…触らないで…!
だって、私はもう、あなたに…あなたに愛される資格なんて…
「…君に愛される資格も…君を愛する資格もない。僕は。」
9
フランソワーズは大きく目を見開いて、茶色の瞳を見つめ返した。
冷たく澄み切った瞳。
「僕は…たくさん、殺した…」
「…ジョー…?」
「もう…君を愛せない…君を抱くことも。そう思ったから…だから、最後に一目、君を見たかった。僕の正体をまだ知らずに…眠っている君を。」
…それなのに。
僕は分かってしまった。
何があっても…僕は、君を手離せないと。
君に憎まれても。
君を…どんなに苦しめても。
何も知らない君の寝顔を…最後に見たかった。
僕は…研究所に戻るとそのまま、君の部屋に行った。
涙に濡れた頬。
床に落ちているマフラー。
君は…防護服をまとい、眠っていた。
でも。
すぐわかった。
部屋の空気が…乱れている。
君の息づかいが…切ない。
…あの夜のように。
誰かが、君を抱いた…?
たった今。ここで。
その瞬間。
嵐のような感情に翻弄されながら…僕は悟った。
誰にも…渡せない。
この汚れた手で君を抱けば…君も汚れてしまうのに。
君を本当の地獄へ引き込むのは、僕なのに。
それでも…僕は…君を手離せない。
…そうなのか?
ファスナーが…上がりきっていなかった。
真っ赤な布の下からこぼれる、眩しいほどの肌。
その肌に…点々と残る薄紅の印。
「フランソワーズ…!!」
堪えきれず、抱きしめた。
君は…悲しそうにうめき…
…僕の名を、呼んだ。
10
じっと見つめていたジョーはふと微笑み、フランソワーズの頬に優しく触れた。
青い眼が静かに閉じる。
烈しく唇を求めながら、ジョーは彼女の背中を探り、ファスナーを一気に引き下ろした。
「…あ…?!」
…アルベルト?!
叫びは、強引にねじ込まれた舌と唇で塞がれた。
ジョーは彼女を片手で抱いたまま、防護服を荒々しくはぎとった。
「いや…ア…ああっ…!」
絨毯の上に転がされ、抱きしめられて、フランソワーズは喘いだ。
貪るような愛撫。
次第に、意識が遠ざかっていく。
フランソワーズは夢中で彼の背中を抱きしめていた。
僕だよ…フランソワーズ、僕だ…!
燃える声が、耳を…全身を灼く。
フランソワーズの体から、一気に力が抜けた。
…ああ…どうして、私たち…?
目尻から流れた涙を、ジョーの唇がぬぐった。
何も…考えないで、フランソワーズ。
僕を…許して。
許して、温めて…いつものように。
君にしかできない…君しかいないから。
何も…考えなくていいの、ジョー…?
私は…もう眠れない。
あなたの腕でしか眠れないのに…こんなに汚れてしまったのに。
でも…もしも…もし、あれが…あれがみんな、あなただったなら…
…あなただったの?
違うわ!違う……ああ、でも。
あなただったと…思っていていいの…?
いいえ、駄目…駄目よ……
…もう、何も考えないで。
ただ僕だけを感じてくれ、フランソワーズ!
君が何も言わなくてすむように…僕は戦ってきたんだ。
君が誰に抱かれても…こうしてこの瞳が僕だけを見つめてくれるなら…
君は僕だけのものだ。
永遠に。
何も考えないで、フランソワーズ…何も見ないで。
僕のほかは、何も。
僕は…
そのために、戦うから。
世界の…全てと。
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