|   あかつきの萌葱の蚊帳にあえかにも玉虫のごと寝てある少女(おとめ)  与謝野晶子     1   カゴの中のセミは死んでいた。 君が見たら悲しむから…遠くへ捨てに行こう。   網を買ってくれたのは君だった。 いろんなものをごちゃごちゃ並べている小さい店で。 僕が、あんまり嬉しそうに眺めているから…って。   君は親しげに店のおばあちゃんと何か言葉を交わしてから「それじゃ、これもください」と言って、小さい虫かごも買った。 なんだか得意そうに。   気を遣ってくれてるのはわかってた。 こうやって、二人で出かけることにしたのだって…ギルモア博士とかグレートとかの心配りだ。 人一倍傷つきやすいって、みんなが口を揃えて言う、僕の心を…癒すため。 いつもいつも…巻き込まれる君は、迷惑なんだろうけど。   ごめん、フランソワーズ。     2   網を構える僕につられるように、眩しそうに彼女は高い木を見上げた。 もちろん、力は使わずに。   ちょっと変わった鳴き声が上の方で響いている。 僕は、彼女の耳に素早く囁いた。   「…見つけた!ほら、フランソワーズ…!」 「え…?どこ…?」   どこ?見えないわ…?と、もどかしそうに背伸びをする。 少しよろけて、僕の肩につかまる。 どこまでも003らしくない彼女。   「…しっ!」   僕より速く動ける虫なんていないんだけど。 実のところ、僕もそれを忘れていたんだ。   息を殺して…網を構え直して。   「えいっ!」   手応えがあった。 耳障りな声と羽音。 白い網の中で暴れる、透明な羽の蝉。   そうっと掴んで、網から出すと…彼女は息を詰めて蝉を見ていた。   「カゴ…開けて」   慌ててそっとフタをずらす彼女の手に、僕の手を重ねた。   少しだけ開けたフタの隙間に手を一瞬滑り込ませ、素早くフタをする。 途端にカゴの中で暴れ出す蝉。 彼女が小さく悲鳴を上げた。   帰る道々、彼女はそうっとカゴを覗き込んで… 蝉が暴れるたび、びくっと首をすくめて。   蝉の命は短い。 長い長い間、暗い土の上でくらして…僅かな間だけ、光の中、飛ぶことを許された小さい命。 それを僕たちは捕まえて、閉じこめた。   どうして…僕たちはあんなに無邪気で…残酷だったんだろう?     3   夕焼けの中で、僕はカゴのフタを開けて…そっと振ってみた。 蝉の死骸が、ころん、と足元に転がる。   …どうしよう。 僕は…何がしたかったんだろう。   たぶん、長いことぼんやりしゃがんでいたんだと思う。 急に、優しい声が降った。   「…お墓、作らなくちゃね」   僕は飛び上がるように振り返った。   「あ…脅かしちゃった?」 「フランソワーズ…!ゴハン、作ってたんじゃないのかい…?」 「できたから…呼びにきたのよ」 「でも、どうして…ここがわかった…?」   彼女は曖昧に笑った。 …あ。   僕はこっそり唇を噛んだ。 どうして、って…心配して、探してくれたからにきまってる。 彼女が何より疎む彼女の力で。   隣にしゃがみこむ彼女から、柔らかい匂いがした。   「…フランソワーズ…ゴハン、何…?いい匂いがする」 彼女は目を丸くして僕を見て…くすくす笑い出した。 …よかった。   僕たちは、柔らかい土を掘って、蝉の死骸を埋めた。 彼女が、小さい花を摘んできてくれた。   僕が両手を合わせるのを不思議そうに見てから… 彼女は僕を真似て両手を合わせ、目を閉じて、頭を垂れた。     4   古くて暗くて小さい木の家。 私にはとても珍しく見える家だった。   安く借りることが出来た代わりに、まずは大掃除から始めなければならなくて。 ジョーは嬉しそうに色々説明してくれた。 これが日本の「イナカ」の家なんだと。   …そう。 この人には…そんな「イナカ」はなかったはずだわ。 気付いたわけじゃない…気付かされたの。 ほんの少しだけ…少しだけ、あの目をしたから。   どこか遠くをさまようマナザシ。   私はできるだけワガママそうな声で元気に言った。 喉が渇いちゃった…!と。   ぼんやり、でも几帳面に雑巾がけしていた彼は、勢いよく立ち上がった。   「じゃ…アレ、取ってこようか?もう、冷えてるころだよ、きっと…!」   彼は着いてすぐ、井戸水の中にジュースの硝子瓶やらスイカやら…いろんなものを投げ込んでいたのだった。   ほんとに冷えてるの? なんて、わざと聞いてみたりして。   だって、滅多に見られないもの。 この人の、こんな…得意満面の笑顔。     5   捕まえてきた蝉が、少しずつ弱っていくの…私、知っていたわ。 でも、黙っていたの。 だって…   考え過ぎちゃだめよ。 空っぽのカゴを持った彼の隣で、何度も言おうとしたけど…言えない。 そんなこと、この人だってわかってるはずだから。   網を買ったのは、思い出してほしかったから。 この人にもきっとあった、無邪気な子供の頃を。 ただ夢中で蝶やトンボや…空飛ぶ宝物を追いかけて。 それとも… 小さいあなたはやっぱり一人で泣いたのかしら。 網の中でもがき崩れていく羽を見て。   泣きながら、カゴに入れず手放したのかしら。 壊れた宝物を。   そうなのかもしれないわ…そんな気がする。 でも。 考え過ぎちゃだめよ、ジョー。   宝物は…手に入れたら壊れるの。 それでも欲しくてたまらないから、私たちは手を伸ばすのよ。 壊して、悲しんで…でも、それをそっと心にしまって。 そうやって私たちは生きていくのに。   彼は、壊した償いをしようとする。 手に入れたそれを手放して、自分を傷つけて、 そして、一人で震えている。 空っぽのカゴを持ったまま。   家が見えてきた。 小さな家。 私たちの、束の間の休暇。   時間は戻らない。 私がなくした幸せな時間も。 彼が欲しかった幸せな時間も。 もう、私たちの手に入らない。   でも…それでもいいと思ったの。 そのときと同じように、きらきら光る虫も網も虫かごも。 暗くて静かな家も冷たい水も甘い果実も。 何も変わらず、私たちの前にあるのなら。   しらんぷりして、つみ取っても…いいと思ったの。 やっぱりダメ?…ジョー? …ダメなのかしら。   だけど、わかってるのよ、私。 あなたはもうすぐ笑うわ。 だって、晩ご飯だもの。 あなたが好きなものばかり作ったのよ。   だから、あなたは笑うわ。 …私のために。   いつか、彼が彼自身のためにだけ、心から笑えることを祈っているけれど。 でも…とりあえず笑ってくれるのなら、今はそれでいいから。 笑ってね、ジョー。 今は、私のために。     6   月は出ていない。 空には星。 それが、ゆっくり舞い降り、舞い上がって …彼の手の中におさまる。   深呼吸みたいに点滅する光を、私もそっと捕まえた。 柔らかく捕まえて…また放して。   私たちは黙ったまま、そうやって無数の光と戯れ続けた。   彼が…どんな顔をしているのか、私には見えない。 もちろん、見ようと思えば見えるのだけど。   きっと穏やかな顔をしているわ。 私が見たことのない、本当に優しい顔。   だから、見てはいけない気がして。   こうやって生きていけたらいいのに、私たち。 宝物をそっと手に入れて、また放して…捕まえて。 いつまでもこうしていられたらいいのに。   蛍は、フツウは飼うことができない。 すぐ死んでしまうんだ、と彼は静かに言った。   もしかしたら…博士やイワンに相談して、私たちの力をみんな集めたら… ちゃんと飼えるのかもしれない。 繁殖もできて。 研究所をこの光で満たすことも、きっとできるわ。   でも。 そんなことをしても…何にもならない。 その光は…この光と違うはず。   私たちも、きっと、同じ。   「もう、帰ろうか、フランソワーズ」   暗闇から、彼の声。 …そう。 いつか帰らなくちゃいけない…私たち。   「フランソワーズ?」   私は返事をしなかった。 もう少し…もう少しだけ。     7   枕カバーを探して、押入を探っていた彼女が、薄い緑色のかたまりを引っ張り出した。 …蚊帳だ。   不思議そうに首を傾げる彼女を感心させたくて、僕は部屋にそれを吊ってみせた。 僕たちを刺すことができる蚊がいるはずないのはわかってるけど。   思った通り。 彼女は感心して…少しはしゃいだ。 こういうの、好きなんだよなぁ…フランソワーズって。   「わぁ…面白いわよ、ジョー…入ってみて!」   僕も笑いながら蚊帳の中に入った。 暗い蛍光灯の光が不思議な色にぼやけて、彼女の肌にとまっている。   「そんなに気に入った…?そしたら、ここに布団敷いて寝るといいよ」 「あなたもこうやって寝ていたの?」 「ううん…寝たことは…ないなぁ…見たことはあるけど」   そうだった。 神父さまが、僕たちをイナカへ連れていってくれたことがあった。 僕たちは、教会に好意を寄せてくれている幾つかの家に分かれて泊って。 そこで、見た。 こういう蚊帳が吊ってある部屋を。   中で、小さなコドモとお母さんが眠っていた。   今思うと…頼めば、僕たちのためにも吊ってもらえたんだろう。 でも…頼めなかった。 頼もうという気にもならなかった。 それが、僕たちには望むべくもないモノに見えたから。 僕たちは、ただ黙ってそれを見つめていた。   嬉しそうに蚊帳を飛び出して、押入から布団を引っ張り出す彼女の後を追う。 始めに布団敷いておくべきだったんだ。 手伝ってあげないと…   結構苦戦して、蚊帳の中に布団を収めて、ほっと息をついたとき。 彼女がまた押入に向かった。   「フランソワーズ?もう、終ったよ」 「だって…あなたの分」   え?!   「ま、待ってよ…僕は、その」 「一緒に寝ましょうよ、ジョー…あなたも、初めてなんでしょう?」   え、ええと。 何言ってるンだよ、フランソワーズ?!   いや、違う、違うって。 彼女は何も言ってない、もちろん。 そういう意味じゃないってわかってるのに、そういう意味に聞こえてしまうのは僕がいけないわけで。   僕は一生懸命断った。 そういう意味じゃない…というか、そういう意味でもあることを彼女に気づかれないように言い訳するのはすごく難しかったけど…   向こうの隅っこの部屋が凄く気に入ったのだという僕のしどろもどろの説明に、彼女は首をかしげながらも納得してくれた。 よかった。   変わり者だと思われてるのも、たまには役に立つよな。     8   僕たちの休暇は、穏やかに過ぎていった。 本当に静かに、ゆっくりと。   僕は戦場の悪夢を、いつの間にか見ないようになった。 彼女も、きっとそうだと思う。 あの声が聞こえなくなったから。   研究所で、彼女は、明け方によく魘されていた。 小さな叫び声を上げて、飛び起きて…しばらく肩を震わせて。 それから、そっとベッドを降りる。   彼女は、僕が見ていることを知らない。 誰にも気づかれていないと思ってる。   こっそり涙を拭う彼女を見るたび、部屋に入って抱きしめたい衝動にかられた。 でも…それはできない。 そんなことをしてしまったら、彼女は夢を見ることさえできなくなる。   僕たちの前では、決して泣き言を言わない003。 それが彼女の守る矜持なら。   優しくて美しくて強い003。 もし君が優しくなくて、美しくなくて、強くなくても…僕は君が好きだと思う。 でも… 君のきれいな張りつめた目を見ていると、そんなこと、とても言えない。   ここに来て、この不思議なヴェールの中で眠るようになって…彼女は変った。 魘されることも、涙を流すこともなく、彼女はただ眠っている。   滑らかな頬の上に、長い睫毛。 無邪気な息づかい。 彼女が纏う、つめたい宝石のような光はいつものままだけど。   とてもあどけなくて…とても愛しい。   フランソワーズ。 もしできるなら、君を、ずっとここで眠らせたい。 ヴェールの中で眠る君を、いつまでも眺めていたい。   でも、僕たちの休暇は穏やかに過ぎていく。 いつか君は目覚めて、静かに羽を伸ばして…飛んでいく。   それでいいと僕は思っている。 それまで、君を守るため…そのために、僕は君を閉じこめる。 ほんとだよ、フランソワーズ。 約束する。   僕は、君を壊さない。きっと、逃がしてあげる。 約束するから。     9   休暇は、突然終った。 004から連絡が入った。   明日、ここを発ってみんなと合流する。 僕たちは簡単に夕食をすませ、身の回りのものをまとめて…早めに眠ることにした。   「…ジョー」   不意打ちだった。 何気なく振り返った僕を、澄んだ瞳がまっすぐ見つめている。   「…フランソワーズ…?」   彼女は、何も答えなかった。 何がなんだかわからないまま、ひっぱられて、蚊帳のある部屋に入った。   「どうしたの、フランソワーズ?」 「…今日はね、ここで眠ってほしいの」   …え?!   「ちょ、ちょっと待って、フランソワーズ…一体…」   初めて気づいた。 蚊帳の中に少し窮屈そうにくっつけた布団が二組。   そのとき、僕がどんな顔をしていたのか…わからない。 彼女は僕をまじまじと見て…くすくす笑い出した。   「やだわ、ジョーったら…真っ赤よ…!」   …だって。だってさ!   「あ、あの、フランソワーズ。フランスではどうだか知らないけど、日本だと、フツウ…」 「…家族でしょう?」 「え?」   柔らかい、でも強い光が僕を射抜いた。   「家族なんでしょう、私たち…?」     10   「ジョー…寝ちゃった?」   返事はない。 でも…呼吸の間隔が少し変った。   「眠れないの…?」 「…うん」   微かな声。   「もしかしたら…緊張…してる?」 「…たぶん」   君は…? そう聞かれて…私は、自分も身を堅くしていることに気づいた。   「私も、緊張…してるみたい…おかしいわね」 「もし…家族だったら」   私は、思わず傍らを見た。 ジョーは仰向けになったまま、目を閉じていた。   「家族なら…きっと緊張なんかしないよ」 「…ええ」   ぼんやりうなずいた私の声が沈んでいたからかもしれない。 彼は不意に、首を曲げて私を見た。 そのまま、大きく目を見開いて見つめている。   「…どうか、した?ジョー?」 「…う…ん」   やがて、大きなため息をついて、彼はまた目を閉じた。   「不思議だな…光らなくなった」 「光らなく…なった?何が…?」 「…君が」   何を言っているのかわからない。 でも、彼には珍しいことではないし…聞き返しても、ちゃんとした説明なんて、きっと戻ってこない。   「部屋に戻る?ジョー?」 「…え?」 「…ワガママ言ってごめんなさい…眠れないと、困るものね」   私は、ゆっくり身を起こして、彼の髪を手で軽く梳いた。   「これで…終るんだと思ったら…少し寂しくなって…今夜は一人でいたくなかったの」 「…フランソワーズ」 「楽しかったわ…こんなに楽しかったの、久しぶり…私も、疲れていたのかしら…ね」   茶色の目がきょとん、としているのがおかしくて、思わず笑ってしまう。 この人が…誰よりも強い人だって…忘れてしまっていた。 でも、休暇は終る。   何もしてあげられなかった。 あなたのこと…やっぱり何もわからなかったわ。   やがて、彼は緑色のヴェールをもてあますように少しもがいて、そして出て行った。   「おやすみなさい、ジョー」   そっと声をかけた。 彼が…振り返った。     11   説明なんてできっこない。 僕だって僕がどうしてこんなことしてるのか、わからないんだ。   すごい速さの鼓動が腕に伝わる。 怖がってる。 当たり前だ…怖いに決まってるだろ。 離さなくちゃ。今すぐ。   離せ…!   もう何度心で叫んだかわからない。 でも、僕の怒声はそのまま僕の中でこだまして、消えてしまう。 離せない。   だって。   振り返ったら…君が淡い光を纏っていたんだ。 透明な…緑の光。   僕は、行かなくちゃいけない。 でも、君を連れてはいけない。 優しい、美しい、儚い君。   君を再びあの戦場に連れていくなんて、できるはずなかった。 君は、このまま、ここで…   …違う。   君は帰るんだ。 君の森へ。 淡い光の森へ。   君は、まだ飛べるんだから。 君は、まだこんなにきれいなんだから。   帰してあげなくちゃ…いけないんだ。 …いけないのに。     12   どれだけそうしていたのか…わからない。 彼の腕がふっとゆるんで、私は顔を上げた。   緑のヴェールごしに、茶色の目が見つめている。   彼が引きちぎってしまった蚊帳は薄い網のように私に絡みつき、脱出するのに、ずいぶん手間取った。 もうすぐ…夜が明ける。   何も言わないで、と心で繰り返し、そっと彼の胸に頬を寄せた。 何か言ったら…壊れてしまいそうだった。 彼も…私も。   でも、私たちにはわかっていた。 どうしたいのか、初めて…はっきりと。   彼は黙って私を抱き上げ、部屋を出た。 狭い廊下をたどり、彼の部屋へ。   歩けるわ、と言おうとしたけれど、言えなかった。     13   「コドモの頃…」   居間に入った途端、ソファに座って本を読んでいた彼が話し始めたので、びっくりした。 誰に話しているのかしら、と部屋を見まわしたけれど…誰もいない。 とまどっていると、彼は座ったまま、くるっと振り返った。   「コドモの頃、ね…神父さまに連れられて、虫採りをしたことがあった」 「…虫採り?」   テーブルにクッキーの皿を置くと、嬉しそうに、焼きたてだね、と大きいのをとった。 お茶のおかわりを持ってきた方がいいかもしれないわ。   台所からティーポットをとってきて、彼のカップにつぎ足してから、私も座った。 クッキーはもう半分なくなっている。   「ちょっと、ジョー、もうこんなに?食べ過ぎよ…!今日は張々湖大人が夕ご飯を作りにきてくれるのに…」 「…僕は虫採りが得意だったんだけど、採った虫はすぐ放したり、小さい子にあげてたりしてたんだ…どうしてだったのかなぁ」   …聞いてないわね。   「あのね、ジョー…」 「でも、一度だけ、すごい虫を捕まえたことがあった…偶然だったけどね」   ダメだわ。 とにかくこの話を聞いてあげないと… 私は諦めて口を噤んだ。   「すごくきれいな、宝石みたいに光ってる緑の虫で…真っ赤な細い線が入っていて…本でしか見たことのない虫だった。とても珍しい、って神父さまも言ってた。もしかしたら、自然のじゃなくて、誰かが飼育していたのが逃げたのかもしれないって…」 「どれくらいの大きさだったの?」   彼はちょっと首を傾げてから、人差し指と親指でその大きさと形を示した。   「でもね、とても弱ってた…僕にはわからなかったんだけど、神父さまにはわかってたんだと思う。僕が、その虫を飼いたいって言ったら止めなかった」 「…飼ったの?」 「うん…たった一日半。一生懸命飼育箱を作って…何を食べるのかわからなかったから、水も食べ物も、思いつくものを全部入れて…でも、すぐ死んでしまった…悲しかったな」   彼が何を言おうとしているのかよくわからず、私は瞬きした。彼が神父さまのことを口にするのはとても珍しい。 私が曖昧な顔をしているのに気づいたのかもしれない。 彼は照れたように微笑み、ふと遠い目をした。   「本当に欲しいって思うことが、僕にはあまりなかったから。だから、すぐなくすことがわかっていても、神父さまはそれを僕に与えたかったんだと思う。本当に欲しいものを手に入れる喜びも、なくす悲しみも、僕にはきっと必要だった」   彼はそれきり口を噤んで、またクッキーを手にとって、じっと見つめてから少し囓った。   「…考えすぎてはダメよ、ジョー」 「え…何を…?」 「何でも…!コドモの頃、きれいな虫を捕まえて、でもそれが死んでしまって…そんなこと、大人になってまで考えているヒトなんて、そんなにいないと思う」 「…そうかな」 「そうよ…だからあなたって苦労が絶えないんだわ」   彼を目を丸くして…それから微笑んだ。   「それで、君も苦労する…わけだ。そうだろ?ごめん…」 「謝らなくたっていいわよ…あなたはそうやって…」 「ごめん…あ、また謝っちゃった」   私たちは顔を見合わせ、同時に吹き出した。 苦しそうに笑いながら、彼は言った。   「夏になったら、どこかに行こう。君と、二人だけで」   そうね、ジョー。 この間の戦いは…いつもそうかもしれないけど…やっぱり辛かった。 休暇が必要だわ。   二人で、子供じみた遊びをしましょう。 たくさん、ばかげた宝物を見つけましょうね。 心の底から笑ったり、悲しんだり。   そして、遊び疲れたら、あの不思議なヴェールの下で眠るの。 幼い姉弟のように。 年老いた夫婦のように。   決してちぎれることのない絆を、大事に握り合って。   |