1
すごくいやな予感がしていた。
夢中で走りながら、僕は003を呼んだ。
喉がつぶれそうになるまで。
もちろん、通信も開いた。
返事は、なかった。
彼女がクリスマスイブのパリを歩きたいと言ったとき、みんな反対した。
僕も…賛成したわけじゃない。
だって…危険すぎる。
どこにブラックゴーストが潜んでいるかわからないのに。
でも…
故郷を一目見ておきたい、という彼女の言葉に、僕たちは何も言えなかった。
長い長い…気が遠くなるほど長い時間。
無理矢理引き離された、懐かしい故郷。
一目…見ておきたい。
…最後に…ってことかい、003?
海岸まで、ポーパスで僕が彼女を送った。
先に飛び降り、彼女を待った…が。
彼女は困った顔で躊躇していた。
そうか。
防護服じゃないんだ。
落ち着いた色の服にコートを羽織って、マフラーを引っかけて。
ちょっと踵の高いショートブーツ。
両手を差し伸べて、うながした。
彼女は微笑んで…ふわっと飛んだ。
僕は彼女を抱き留めるように地面に下ろした。
柔らかくて…いい匂いがした。
003はどんな顔で帰ってくるだろう。
夜更けの海岸で、ポーパスにもたれて、考えた。
嬉しそうに笑いながら帰ってくるかな。
それとも…
僕は自分の両手を見つめた。
大丈夫。
どんな顔で帰ってきても…ちゃんと君を抱き上げて…
不意に頬が熱くなって、僕は一人で慌てた。
そんな…意味じゃないのに。
…でも。
003は戻らなかった。
いやな予感がした。
僕は、走り出した。
聖夜のパリへ。
2
おかしい。
見つからない。返事もない。
ドルフィン号の仲間は意外にのんきだった。
久しぶりの故郷…しかもクリスマスイブ。
つい長居をするのも当たり前じゃないか。と。
…でも。
彼女は約束したんだ。
必ず…この時間に戻るって。
彼女が…僕との約束を破ったことなんてない。
途方にくれて空を見上げた。
そのとき。
どこか危なっかしいプロペラ音が頭上を過ぎった。
赤い…複葉機…?
本でしか見たことがない…古い飛行機。
僕は、咄嗟にそのあとを追った。
どうしてそんな気になったのか…今でもわからない。
いつの間にか、さびしい場所に来ていた。
森を背にした、崩れかけた教会。
複葉機はひときわすさまじい音を立てて急上昇し、そのまま見えなくなった。
あたりが静まり返った。
…が。
何か…聞こえる。
誰かの…声…
…泣いてる…?
「003…!」
僕は思わず叫んだ。
たしかに、彼女の声だ…教会から!
003…そこにいるのか?
僕だよ…009だ!
通信を送りながら、教会へ駆け寄る。
返事がない。
どうしたんだ、003…?
まさか…
澄ました耳に、とぎれとぎれに話し声がきこえてくる。
男の…声。
一人じゃない。
思ったとおり、扉は堅く閉ざされていた。
破るのは簡単だけど…
もし、003が捕らえられていて…相手がブラックゴーストだったら。
僕は唇をかみしめ、バルコニーに飛び上がった。
銃を構え、慎重に入口を捜した。
明かり取りの窓が、壊れていた。
3
真っ暗だった。
音を立てないように歩く。
話し声は、下から聞こえてきた。
それから…たしかに…彼女の息づかい。
微かな…悲鳴のような…声。
あいつら…何を…?
僕は銃を握り直し、ゆっくり梯子を降りた。
「…そろそろ…迎えが来るんじゃないのか?」
「少し手間取ってる…と言っておいたから、まだしばらくは大丈夫だ」
男たちのしのび笑い。
…ひどく耳につく。
「おい、調子にのって傷モノにするなよ…スカールさまは妙に細かい所がある」
「…わかってるって…な?お嬢さん…中途半端ってのはお互いツライところだが…」
泣いてる、彼女だ!
一気にアタマに血が上った。
僕は加速装置のスイッチを入れ、下に飛び降り、走った。
敵は…5人。
3人が003に群がるようにとりついていた。
すさまじい怒りが僕を飲み込んだ。
何も考えられなかった。
相手が何者なのか…サイボーグなのか人間なのかとか、何も。
気づいたときには、僕は返り血を浴び、僕の足下には死骸が3つ転がっていた。
あと…二人。
何か…無線機のようなものを持っている男が素早く立ち上がり、身を翻した。
反射的に追いかけようとしたとき、僕の前にもう一人の男が立ちふさがった。
…サイボーグ?!
ハッと身構えようとした瞬間、右肩を撃ち抜かれ、同時に殴り飛ばされた。
こいつも…加速装置を!
息をつく間もなく、続けて殴られる。
速い…!
相手がどこにいるのか…わからない。
なすすべもなく、僕は床に転がった。
立ち上がろうと、闇雲に伸ばした手が…柔らかいモノに触れた。
…00…3…?
僕はゆっくり頭をめぐらせて…見た。
床に広がったコート。
亜麻色の頭の上で両手首を縛っているのは…あの優しい色のマフラー。
ブーツは片方脱がされている。
長いスカートは太股の上までまくり上げられて。
僕の手が触れたのは…
露わにされた白い乳房だった。
「……っ!!」
僕は歯を食いしばり、闇に目を凝らした。
…来る!
「加速、装置!」
次の瞬間。
僕の拳は敵の体を貫通した。
4
「003…大丈夫?…003?」
縛られた手首をほどき、上半身をコートで隠すように包んでから、僕はそっと003を抱き上げた。
血と硝煙の匂い。
これ以上ここにいたくなかった。
扉は…開かない。
さっき逃げた男が、今度は外から錠をさしたのかもしれない。
僕は、003を抱えて、さっきの梯子を上り、バルコニーに出た。
小さな…うめき声。
「00…9…?」
静かに…眼が開いた。
深く澄んだ宝石のような瞳。
「003…?僕が…わかる?」
003はうなずいた。
「よかった…もう…大丈夫だよ…」
熱いものがこみ上げ、僕は003の頬にそっと自分の頬を寄せた。
不意に、003が脅えるように息をのんだ。
「…003…?どうしたの?」
「…だ…め…」
「00…3…?」
「離し…て…触らない…で…!」
闇雲に振り回した彼女の手が…さっき撃ち抜かれた右肩に当たり、僕は思わずうめいた。
「…009…怪我…を?」
「あ…大したこと…ないよ…それより…」
003の眼に涙が浮かんだ。
「ごめんなさい……私…」
下ろして、と言われるまま、彼女を座らせ、僕もその傍らに膝をついた。
003は震えながら手を伸ばして、僕の傷ついた肩に触れようとした。
途端にふらつく背中を支えると、彼女は小さな悲鳴を上げて、腕の中で身をよじった。
「ア…!やめて…お願い、もう…もうやめて…!」
「003…?!」
「だめ…離して、009…私に…触らないで…お願い…イヤよ…こんなの…イヤ!」
「003、しっかりして…!もう大丈夫なんだよ…どうしたんだ…?」
いつの間にか、かぶせたコートが滑り落ちていた。
あちこち引き裂かれ、乱れた胸元。
そこから一瞬のぞいた陶磁器のような…滑らかな肌が僕の目を奪った。
「…見ないで」
苦しそうに、あえぐように彼女は言った。
僕は慌てて眼をそらし、片手で彼女を支えたまま、もう片方の手でコートを拾おうとした。
そのとき。
いきなり、手首を掴まれた。
次の瞬間。
温かくて柔らかいものが僕の掌いっぱいに広がった。
「……?!」
彼女の両手に導かれた僕の片手が…広げられた胸元に入り込み、溶けてしまいそうに柔らかい乳房を鷲掴みにしている。
声も出せずに固まっている僕を涙の溜まった瞳が見つめていた。
…なに…を…?
やっとの思いで絞りだそうとした言葉は、花びらのような唇で塞がれた。
どうしたらいいかわからない。
いけないと思うのに、手が動いてしまう。
彼女のくぐもった声が、とろけそうな舌の感触と一緒に僕の中に入り込む。
いつのまにか、彼女は僕の手を離し、僕の首に両腕を投げかけていた。
何を…しているんだ、僕は…?
いけない、今すぐやめるんだ、こんなこと…!!
押し寄せるうねりに翻弄されながら…
僕は、彼女の微かな微かな声を…聞いた。
助けて……イヤよ…イヤなの、こんなの…イヤ!
…助けて…009…!
…003…?
ハッと眼を見開き…懸命に003の体を自分から引き剥がした。
烈しく肩で息をしながら、003は顔を背け、消え入るように言った。
「ごめ…んなさい…009…私…私、もう……」
「…003」
「見ない…で……私に…触らないで…!」
大きく深呼吸を繰り返し、003は涙でぐしょ濡れになった顔を僕にまっすぐに向けた。
震える手を広がったコートの中に潜らせ、彼女は…何かをつかんだ。
「00…3…?!」
咄嗟に加速装置のスイッチを入れた。
次の瞬間、僕の手が銃を弾き飛ばし、その銃口からほとばしったレーザーは、わずかに彼女の喉からはずれ、教会の壁を砕いた。
「…何…を…何をするんだ、003っ?!」
「止めないで…!私は…私はもう駄目なの…!!あの人たちに…こんな…体にされて…」
「003!!」
頭の中が…真っ白になった。
こんな…体…?
あいつらに…?!
月の光が彼女に降り注いでいる。
白い肌に。乱れた亜麻色の髪に。
月の光と戯れあい、彼女は金と真珠でできた彫像のようだった。
声もなく見つめている僕を、彼女は震えながら見上げた。
「…009…私…帰れない…ここに置いていって……」
言葉とは裏腹に、彼女の両腕が僕の首にからみつく。
辛そうな息づかい。
「お願い、私を見ないで…!」
悲鳴のような言葉を僕は唇で塞ぎ、彼女をその場に押し倒していた。
もう…何も考えられなかった。
狂ってる。
何かが…何かが狂っている。
…でも、かまわない。
僕は…このひとが、欲しい。
5
どれだけ時間がたったのか、わからない。
突然、大きな音と、華やかな光が僕たちの上に降った。
僕は、うっすらと目を開いた。
「…花…火…?」
そう…か。
イブの終わり。
腕の中で、彼女も微かに身じろぎ…目を開けた。
蒼い…宝玉の瞳。
「メリー・クリスマス」
ためらいがちな僕の言葉に、彼女は静かに微笑んだ。
…ああ。
いつもの君だ。
「…ごめん…大丈夫…?」
「…ええ」
ぱっと頬を染める彼女につられるように、僕の頬も熱くなった。
彼女は、そっと身を起こして僕の胸から離れ、散らばった服に手を伸ばした。
僕も、慌てて防護服を拾い上げた。
「…夢を…見ていたみたい」
彼女がぽつん、とつぶやいた。
…いつもの君だ。
そして、いつもの僕。
でも。
でも…僕は、もう…
僕の心を読みとったように、彼女は僕に背を向け、顔を上げて花火を見つめた。
僕は、後ろから彼女の両肩を掴み、ぎゅっと引き寄せた。
違うよ。夢なんかじゃない。
不意に覚えのあるエンジン音がした。
あの複葉機だ。
彼女は大きく目を見開き、花火の中を横切るように飛ぶ飛行機を見つめた。
やがて。
その頬を涙が伝わった。
でも…大丈夫。
君は…笑っている。
僕も肩を抱く手に力を込めながら、複葉機を見上げた。
そう。
あの飛行機が…僕を導いてくれた。
そして…
君は、僕の腕の中にいる。
古ぼけた飛行機。
君が幸せだった頃、見上げた飛行機。
でも…君は今…ここにいるんだ。
あの飛行機と同じ場所には帰れなくても…
君が帰る場所はここにある。
「…フランソワーズ」
驚いたように見上げる彼女に、僕は言った。
「…帰ろう」
蒼い瞳に、新しい涙が浮かんだ。
彼女は、小さくうなずいた。
夢なんかじゃない。
夢だったのだとしても…
僕はもう、引き返せない。
君なしでは…いられない。
6
003はポーパスの中で眠ってしまった。
ドルフィン号のキャビンに彼女を寝かせ、そっとキスしたとき。
彼女の首に妙なモノがついているのに気づいた。
さっきは…気づかなかった。
夢中だったから。
ギルモア博士に調べてもらった。
博士は眉をよせ、何か…コントロール電波の受信機らしい、と言った。
「…らしい…って?」
「うむ…壊れておるんで、よくはわからんのじゃよ…」
壊れて…?
ぼんやり考え込んでいたら、不意に腕を強く引かれた。
博士が、厳しい眼差しで僕を見つめている。
「009…003を助けた…のなら、君は見たんじゃろう…彼女が…その…どんな状態じゃったか…」
「…あ」
どぎまぎしている僕を、博士はいたわるように見た。
「比較的単純なつくりの受信機じゃった…コントロールといっても、複雑なものではないはず…おそらく、神経に直接刺激を与えるような類の……」
博士が何を言おうとしているのか、少しずつわかってきた。
頬がカッと熱くなる。
「かわいそうに…どんなに傷ついたことか…003はほとんど正気のままで、感覚だけをコントロールされてしまったはず…009、君が何を見たのかはわからんが…少なくとも、それは本当の彼女ではない…どうか…忘れてやってはくれまいか」
本当の…彼女じゃ…ない…?
7
どうしても…自分のキャビンには戻れなかった。
戻りたくなかった。
僕は、安らかな寝息を立てている003の傍らに、みじろぎもせず座っていた。
胸が…苦しい。
本当に…安らかな寝顔。
微笑んでいるようにも見える。
どんな…夢を見ているの?
今、君の心に…僕はいるの?
目が覚めたら…君はどんな顔で僕を見るんだろう。
…怖い。
でも…ここを離れられない。
僕は…君を弄んだ卑劣な奴らと同じコトをしたんだろうか?
君にとって…僕は奴らと同じ、忌まわしい悪夢なんだろうか?
フランソワーズ。
あの受信機は壊れていた…と博士は言った。
だったら、僕は…信じる。
君は…僕のものだと。
早く、目覚めて。
僕に微笑んで。
君が目覚めたら…
もう一度思い切り抱きしめる。
君はさっきと同じ…優しい吐息を僕に聞かせてくれるよね。
…そうだろう?
だから。
早く、目覚めて。
子供の頃、神父さまに教わった。
今日は…奇跡の日。
ジョー、お前の夢はいつか、きっとかなう。
だから…あきらめてはいけない。
何度失望しても。
僕は…知っている。
今日が、その日だ。
だって。
僕はもう…引き返せない。
君なしでは、いられない。
僕のサンタ・マリア。
僕に…奇跡を見せて。
誰にでも、一生に一度だけ…必ず訪れるという奇跡。
ほかに望むものは何もない僕だから。
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