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困る記念品

呪縛
 
 
僕が死んでも、泣くヤツはいない。
だから、僕はどこへでもいける。
ただ。
 
君は、最後にそっと振り返り、私たちの研究所…とつぶやいた。
 
今まで、何度繰り返してきただろう。
何度、君の悲しい横顔に気付かぬふりをしてきただろう。
 
フランソワーズ。
僕はまた、君の大切なものを守れなかった。
 
 
 
シャングリラ計画とガンダールさんの最期を見届けた僕たちは、重い気持ちで、以前からいくつか用意していた隠れ家の一つに入った。
とりあえずドルフィン二世号を隠し、少し離れた居住ブロックに足を踏み入れると、無理もないが、ひどく埃っぽい。
 
「まずは、お掃除ね…!」
 
僕の後ろで、フランソワーズが言った。
無理に気持ちを引き立てようとしている感じではなく、本当に嬉しそうに。
ジェットが振り返り、僕を見てにやっと笑った。
 
かなわねえよな、まったく…!
 
と、聞こえたような気がした。
 
僕たちは、買い出しに出るグループと掃除をするグループとに分かれた。
僕は、買い出しの方だ。
 
どれぐらいの食糧と生活用品をそろえればいいかで、ちょっと議論になった。
NBGは壊滅した…と考えていいだろう。
ただ、残党がいるかもしれないし、万一の復活にも警戒は必要だ。
後始末には結構時間がかかる…それは間違いない。
でも、だからといって、それに全員がかかりきりになることもない。
 
交替で帰国して、それぞれの生活の基盤を作る…として、ココには常に4、5人が残ることを想定しておけば十分だろう、ということに話は落ち着いた。
 
ここから一番近いのは、ヨーロッパだ。
たぶん、最初に帰国するのはヨーロッパ組になるだろう。
もちろん、フランソワーズも。
 
いきなり、彼女との別れが近いのだということを実感し、僕は少し驚いた。
驚くことではないはずなのだが……考えてみれば、いつもそうかもしれない。
最後の闘いは、今度もそうだったが、生きて帰れないことを覚悟して臨むことになるからだろう。
 
「こいつはコレぐらいで十分だろうな」
 
アルベルトが誰に言うともなくつぶやく。
振り返ると、彼は小さい蜂蜜の瓶を手にとっていた。
トーストに蜂蜜を使うのは、たいていフランソワーズだ……ということを思い出し、僕は小さくうなずいた。
 
隠れ家に戻ると、掃除はすっかり済んでいた。
いつものことだが、ちょっと感心する。
 
何度壊されようと、僕たちはこうやって暮らしを作り直してきた。
これからもそうやって生きていくだろう。
 
買ってきた食料品を張々湖の指示通りに棚に収めていく。
あの蜂蜜の瓶を手に取り、あらためて小さいな、と思った。
 
 
 
「整理」は順調に進み、仲間達は少しずつ帰国の準備を整えていった。
が、フランソワーズは最後の闘いのときに負ったダメージからの回復が遅れていて、まだほとんどそれが進んでいない。
これも、珍しいことだった。
 
いつもなら、最終決戦で傷つくのは僕や002、004であることが多い。
が、今回は三つ子とガンダールさんが僕たちの手の届かないところで決着をつけたために、僕たちの方では戦闘らしい戦闘がなかった……ともいえる。
 
フランソワーズのダメージは、僕のミスが原因だといってよい。
先を急ぎ、焦っていて、彼女の安全に十分気を配れなかった。
ぴったりついてきていたはずの彼女の足音が不意に途絶えたことに気付き、振り返ったとき、彼女は既にロボットに捕らえられ、首を絞められていた。
 
白兵戦用のソレは、捕らえた者の急所を瞬時に探り、すかさず攻撃する。
もちろん、僕は反射的に加速装置のスイッチを噛んだ……が、間に合う、という自信はなかった。
幸運にも僕は間に合い、彼女もまた何事もなかったかのように戦闘に戻った……のだが。
 
この隠れ家で暮らすようになってまもなく、彼女は軽いめまいや頭痛を感じるようになったらしい。
博士が調べたら、頸椎にごくわずかなズレが生じている……ということで。
日常生活に支障はないし、ついでに言うなら戦闘にさえもさほど影響はない程度だそうだが、彼女はバレリーナだ。もちろん、博士もそう思った……から、念には念を入れて治療しているのだという。
 
そうしているうちに、ギルモア博士と001は新しい研究所設営の計画も着々と進めていた。場所は、やはり日本がいいだろうということだった。
僕が帰ろうとしなかったのは、どのみち行き先は日本なのだからついでに博士の手伝いをするためだ……と思おうとしていたけれど、実のところ、帰りたいと思わなかった、というのが正しい。
レーサーとして復帰したいという気持ちにはなれなかったし、それに代わる何をしようというあてもなかった。
以前暮らしていた部屋は、一旦戻ってみると意外にも無傷で、ギルモア博士の招集に応じて出て行ったときのままだったけれど、またそこに住もうという気にはとてもならず、そのまま解約してしまった。
 
ゆっくりやればいい、と僕は思っていた。それに、フランソワーズの容態も気になった。
ギルモア博士が彼女のために作った治療用の装具はごく軽い目立たないものだったが、彼女の細い首にそれが巻き付いている様はいかにも痛々しかったのだ。
もちろん、僕がここに残っているからといって、彼女に何かをしてやれるわけではないし、彼女もそんなことを望んではいないだろう。
 
彼女の装具を見るたび、僕は僕が守れなかったもののことを思った。
が、僕がそんなことを思うのを、彼女はやはり望んでいないはずだ。
 
 
 
仲間たちは一人、二人と帰国し、とうとう残ったのは僕とフランソワーズだけになった。
そのフランソワーズも、ようやく治療が終わった。
 
オマエはどうするつもりかとギルモア博士に問われたとき、僕の気持ちはもう固まっていた。
僕は、新しい研究所で本格的に博士の助手をしたいと思ったのだ。
博士はしばらくためらっていたが、結局許してくれた。
本当の望みがわかるまで、そうしているのもいいだろう、と。
 
フランソワーズは家族のもとに帰るらしい。
彼女から直接聞いたわけではなかったが、博士の口ぶりからなんとなくわかった。
要するに、博士は僕に、自分とイワンを家族だと思えばいいだろう、と言ったのだ。
 
理由などなくても、帰ることができる場所。
それが、家族なら。
彼女は、既にそれを持っている。
 
装具の外れた首すじは、気のせいかまだなんとなく弱々しく見える。
いや、もしかしたら、はじめからそうだったのかもしれない。
こんな儚げな女の子が戦場にいて、僕たちのような戦闘サイボーグと一緒に闘っていた、なんてことがそもそも異常だったのだ。
が、それももう終わる。
つかの間の休息ではあるけれど。
 
僕は、今度も何もできなかった。
だから、きっと闘いの日々がまたやってくる。
それまでの、僅かな……きっと夢のように短い休息だ。
 
その日。
僕は、少し寝坊してしまった。
ダイニングに行くと、僕の分の朝食に白い布がかけてあった。
近くに姿は見えないが、フランソワーズが用意しておいてくれたのだろう。
 
コーヒーを淹れ、トースターにパンを放り込むと、あの小さい蜂蜜の瓶に目がとまった。
残りは、もう僅かになっている。
アルベルトの読みは正しかった、ということだ。
 
そのときどうしてそんな気になったのか、よくわからない。
が、僕はその瓶を手にとり、フタを開け、そのまま中をぼんやりのぞきこんでいた……のだと思う。
 
「ジョー、それはもうあまり残っていないわ……こっちを使って」
「……フランソワーズ」
 
同じ銘柄で少し大ぶりの新しい瓶を、フランソワーズは僕に手渡して笑った。
 
「あなたが甘い物を欲しがるなんて、珍しいわね……疲れているの?」
「……」
「あまり根を詰めてはダメよ。博士もイワンも、すぐ夢中になってしまうから……あなたまでそんな調子だと」
「僕は、大丈夫。少なくとも疲れる、ということはないしね」
 
冷淡に言ったつもりではなかった……けれど、そう聞こえたらしい。
フランソワーズは微笑したままだったが、少し寂しそうな影がきれいな青い目の上をよぎった。
気付かないふりで、僕は手渡された蜂蜜の瓶を開け、申し訳程度の量をスプーンですくい、トーストにのせた。
 
この蜜を使うのはたぶんフランソワーズだけだ。
と、いうことは、彼女はまだここに滞在するつもりらしい。何か、手続きでも滞っているのだろうか。
少し気になったが、気にしたからといって僕に手助けできることなどないだろうし、むやみに彼女のプライバシーに触れるのも本意ではない。
 
なりゆきでのせた蜂蜜だったが、食べてみると案外おいしかった。
そんな僕の様子に敏感に気付いたのだろう。フランソワーズは楽しそうに、どうしてその銘柄を特に気に入っているのか……と話し始めた。
はっきりいってどうでもいい話ではあったが、彼女があまり楽しそうに話すので、ついひきこまれてしまった。
 
「だからね、コレが近くのお店で買えるかどうか、というのは、私にとって住む場所の決め手にもなることなのよ」
「そうか……幸運だったね」
「日本でも売っているのかしら?」
「さあ……?」
 
食料品店をしげしげと眺めたことなどない。
僕は首をかしげた。
東京ならたいていのモノは揃うというから、買えないことはないだろうけれど。
新しい研究所はかなり郊外の、それも市街地から遠く離れた場所に建てているから……
 
そこまで考えて僕は、思わず苦笑した。
そんな心配をする必要はないのだ。
 
けげんそうなフランソワーズに、僕は笑って言った。
 
「たぶん、買えないことはないけれど、見つけるのは難しいだろうな。研究所に来るときは、自分でパリから持ってくる方がいい」
「……そう、なの」
 
明かに意気消沈した様子になったフランソワーズが、なんとなくいじらしく思えたし、その子どもっぽい表情がむやみにおかしくもあった。
からかうように、そんなに好きなのかい?と尋ねた僕に、フランソワーズは黙って小さくうなずいた。
 
「それじゃ、君のためにちゃんと東京で探してストックしておくから安心して。僕もこれ、気に入ったし」
「……」
「メモしておかなくちゃな」
 
実際、そんなことはすぐに忘れてしまうだろうと思ったから、僕は手帳を引っ張り出して、丁寧にその銘柄と製造元を書き留めておいた。
馬鹿馬鹿しいほど些細なことだが、彼女のために何かできるのは嬉しかったのだ。
 
 
 
それからまもなく、フランソワーズもフランスへ帰っていった。
僕は博士たちとともに日本に渡り、新しい研究所を整える仕事にとりかかった。
といっても、それは思ったほど大変な仕事ではなかった。
博士とイワンの力はやはりフツウではない。正直、僕の助けなど必要なかったのだ。
 
しばらく博士の助手として暮らしているうちに、僕は大学で学んでみようという気持ちになってきた。
僕の補助脳にはかなりの知識が備えられており、それを補う必要はほとんどなかったのだが、研究所にこもっているだけでは博士の持っている膨大な人脈への対応が十分できないと考えたからだ。
僕の申し出に、博士は即座に賛成し、知り合いの大学教授を通じて、研究生の席を用意してくれた。その大学がギルモア研究所からはかなり離れている、ということで大学の近くの部屋も手配してくれた。
結局、新しいギルモア研究所ですぐ助手をする……ということにはならなかったわけだが、長い目で見ればこれも必要な遠回りの時間だろうと、僕は確信していた。
 
やがて、仲間たちがぽつぽつと訪ねてくるようになった。
みんな、研究所に来たついでに冷やかしにきた、と言っていたけれど、僕を心配してくれているというのがよくわかった。
 
彼らが心配したのは、もちろん僕の「人付き合い」についてだったのだ。
他人とのつきあいをかなり苦手としている僕をよく知る仲間達は、僕が相当に無理を重ねているのではないかと思ったらしい。
たしかに、学会と関わる人々とのつきあいには、そういう面もないわけではなかったが、自分でも意外なことに、実際に始めてみるとむしろ楽しいと思うことの方が多かったのだ。
僕のそういう気持ちは彼らにも伝わったらしく、彼らは皆、どこか安心したような笑顔を残しつつ、帰っていった。
 
長くて2年、と僕は内心思っていた。
その程度なら今の平和もどうにかもつだろう、と。
ところが……イワンのことも考えれば、僕たちが何かを見逃している、ということはほとんど考えられなかった……気付けば3年の月日が流れていたのだ。
 
自分がサイボーグであることを忘れることなどない。
が、戦いに関しては、僕はそれを忘れつつあった。
もちろん、コトが起きればあっけなく009に戻るだろうという思いはあったけれど。
 
それは、かなり幸せな日々だったのかもしれない。
そんなとき、いきなり彼女……フランソワーズが現れたのだ。
 
 
 
不意打ちだった。
 
インターフォンが鳴り、ふと見上げたモニターに亜麻色の髪が映っていたとき、僕は自分の目を疑った。
 
もちろん、彼女もこれまで何度か新しい研究所を訪れていたし、一度だけそのついでにここに来たこともある。
が、そのときは僕が研究所からクルマで連れてきて、博士も一緒だったりしたのだ。彼女がここまでの道順を覚えているとは思えない。
そもそも、彼女が日本に来ているなど、誰からも聞いていなかった。
 
狼狽したものの、居留守を使ったり追い返したりするつもりは毛頭ない。
僕は慌てて玄関に走り、ドアを開け、彼女を迎え入れた。
僕の顔を見て、彼女は明かにほっとした表情になっていた。当然かもしれない。
 
「驚いたな……入って、フランソワーズ……久しぶりだね。連絡してくれれば、迎えにいったのに……」
 
部屋に、僕の声だけが響いているのに気付き、僕は思わず彼女を振り返った。
彼女はうつむいて立ち尽くしている。
 
以前の僕だったら、彼女と同様、ただ立ち尽くすばかりだったかもしれない。
が、新しい生活が僕に僅かではあったが、そういうときの如才なさというものを付け加えていてくれた。
僕は彼女の手をそっと取りながら、会えて嬉しいよ……となるべく優しく言った。
彼女は驚いたように顔を上げ、わずかに微笑してくれた。
 
ただ生活するための部屋だから、来客への準備などない。
僕は彼女にダイニングの椅子を勧め、とりあえずお茶をいれはじめた。
どうぞ、と茶碗を差し出すと、彼女はほうっと息をつき、初めて口を開いた。
 
「ありがとう……ごめんなさい、急に来たりして」
「会えて嬉しいって言ったろ?……もっとも、ちゃんと連絡してくれていれば、もっとましなお菓子も用意できたんだけど」
「ううん……とても素敵。ジョーにこんなおいしいお茶をいれてもらえるなんて思わなかった」
 
彼女の言い方が生真面目だったので、僕は苦笑した。
他の仲間達にもさんざん言われてきたことだ。
 
「少しは学習したんだ。気に入ってもらえたのならよかった」
「ええ、とても。……みんなが言っていたとおりだわ。幸せそうね、ジョー」
「……そうかな」
 
君こそ、と言おうとして僕は思わず口を噤んだ。
彼女の表情に、以前にはなかった翳りが見えたような気がしたのだ。
なんとなく胸騒ぎがした。
そもそも、彼女はなぜここに来たのか……。
 
が、お茶を飲むうちに、彼女の笑顔はみるみる以前のような柔らかい優しいものになっていった。
僕は、詮索はやめよう、と決めた。
どんな事情があるにせよ、彼女はここに来てくれたのだ。そのことだけを大切にすればいいと思った。
 
 
 
とりとめのない話をしているうちに、気付けば夕暮れになっていた。
食事をどうしようか、と迷い始めたとき電話が鳴った。大学からだった。
急ぎの用事ではなく、ちょっとした確認の電話だったので、僕はほっとして質問に手際よく答え、受話器を置いた。
 
「ごめん、フランソワーズ……」
 
何か食べに行こうか、と続けようとして、僕は思わず言葉を失った。
彼女の顔色が真っ青になっていたのだ。
 
「どうした?……フランソワーズ、君、まさか……具合が悪かったのか?!」
 
思わず彼女の両肩を抱き、僕は叫ぶように言った。
なんとなくもやもやしていた疑問が一気にほどけたような気がした。
 
そのまま彼女を抱き上げ、さっさと部屋を出ようとする僕に、フランソワーズは弱々しい声で、違うの、大丈夫よ、と告げた。
が、そんな言葉を信じるわけにはいかない。
 
「すぐ研究所に行こう。いいね?」
「いいえ……いいえ、ごめんなさい、ジョー……そうじゃないの」
「そうじゃないって……自分ではわからないことだってあるだろう?!」
「いいえ。わかってるの……お願いよ、ジョー!」
 
彼女の頬に涙が散っていることに気づき……そして、その色が少しずつ元のバラ色に戻りつつあることにも僕は気付いた。
離して、と震える声で懇願する彼女を再び椅子に座らせ……僕はたぶん、途方に暮れていたのだと思う。
 
が、すっかり薄暗くなった部屋に灯りをつけたとき、ふと思い出したことがあった。
僕は半ばすがるような思いで、台所の食料棚から、やわらかいパンを一袋と……そのずっと奥にしまってあった瓶とを取り出したのだ。
 
「とりあえず……少し元気をつけようか。お腹がすいただろう?」
「……あ」
 
フランソワーズは目を丸くして、その瓶を……彼女のお気に入りだという蜂蜜のラベルを見つめた。
 
「あ。でも、賞味期限は大丈夫かな?」
 
未開封ではあるが、いつ買ったものか、覚えがない。
フランソワーズは涙を指ではらい、大丈夫よ、と微笑した。
蜂蜜は腐るモノではないらしい。
 
「覚えていてくれたのね……」
「約束しただろう?ちゃんと用意しておくって」
「ええ。研究所にもあったわ。嬉しかった」
 
――そうだ。
 
この部屋に引っ越してきて、最初に食料を買い出しに行った店で、偶然だったが、この瓶を見つけた。
研究所に備えようとしたときには結構探すのに苦心した覚えがあったから、ちょっと拍子抜けした気分になりつつ、思わず手に取っていたのだ。
 
フランソワーズがこの部屋に来て、この瓶を開けるなど、そのときは考えていなかった。そのときだけじゃない、今まで一度もそんなことは想像していない。
一度だけ彼女がここを訪れたときも、本当に僅かな時間だったし、僕はこの瓶のことを思い出しもしなかったのだ。
 
フランソワーズが嬉しそうにパンと蜂蜜を口にするのをぼんやり眺め、僕は何か切ない温かいものに満たされていくのを感じていた。
あなたは食べないの?と心配そうに聞かれ、僕もそれを少しだけ口に運んだ。
 
懐かしい味だ、と思った。
なぜそう思ったのかはわからない。
 
そして。
フランソワーズが静かに立ち上がり、ごめんなさい、帰るわ。ありがとう……と微笑したとき。
僕は、やはりどうしてそうしたのかわからないままに、彼女を背後から抱きすくめていたのだ。
強引に重ねた唇からほのかに蜜の味と香りを感じたその瞬間。
 
僕は、ほとんど我を忘れた。
 
 
 
――駄目だよ、帰さない。
――君が悪いんだ。
 
僕の頭の中にはその言葉だけが繰り返し渦巻いていた。
 
僕が、009であること。
彼女が、003であること。
僕は彼女を守らなければならない……でも、いつもそれは果たせなかったこと。
だから僕は……
だから僕は、彼女に触れてはいけない、はずだった。
 
そういうことを、僕は忘れていた。
すべて、忘れていたのだ。
 
小さく悲鳴を上げる彼女を寝室に引きずりこみ、ベッドに投げ出した。
ほとんど引きちぎるように衣服をはぎ取り、手足を押さえつける。
 
「ジョー、やめて……お願い、どうして」
「……怖い?」
 
僕の囁きに、彼女が震えながらうなずく。
もちろん、そうだろう。
僕は彼女を怯えさせ、傷つけ……悲しませる。
そんなことは、始めからわかっていたのだ。
 
「僕も、怖い……君に嫌われることが」
「……」
「君に軽蔑され、憎まれる」
「……ジョー」
「それだけじゃない。こんな風に裏切られたら、君がどんなに傷つくか……君は、二度と笑わなくなるかもしれない」
「……」
「でも、僕は……!」
 
そうだ。
僕は、ずっとこうしたかった。
君を初めて見たときから……ずっと、こうしたかったのだ。
 
もう何も考えられなかった。
僕は彼女の柔らかな肌をひたすら貪り、味わい、蹂躙した。
そうしている間中、彼女は細い声で僕の名を繰り返し呼び続けた。
戦場で僕だけに助けを求めるときの、あの……優しい、透き通った声。
 
「フランソワーズ……無駄だ。呼ぶならみんなを呼ぶといい……君に……こんなことをしている僕を、誰も許しはしない」
「……ジョー」
「さあ、呼んで……僕を止めるなら、方法はそれしかないよ」
 
震えながら小さく首を振る彼女の手を取り、いきり立つ僕自身に触れさせる。
それと同時に、僕は熱く濡れそぼる彼女の中に指をぐっと押し込んだ。
思わず悲鳴を上げて逃れようとする彼女を身動きできないように体で押さえつけながら、僕はその柔らかい耳朶をそっと噛んだ。
 
「いいのかい?……これから何をされるか、本当にわかってる?」
「ジョー……ああ、お願い…!」
「フランソワーズ……」
「お願い、もうやめて……」
「やめられるなら、とっくにそうしてる……僕は」
「あなたを、愛しているの……!」
 
彼女の叫びに、はっと我に返った。
わずかに僕の力が緩んだその隙に、彼女は003の敏捷さで僕の腕から逃れ、ベッドから転がるように降り……そのまま、自分の体を抱きしめてうずくまった。
 
「フランソワーズ……?今、なんて……」
「あなたを……愛しているわ、ずっと前から。わかってる、私はあなたを幸せにできないって。私はあなたに自分がサイボーグであることを思い出させるだけ。あなたは、私を見るとき、いつも苦しそうだった」
 
そんなはずはない。
僕は、いつだって、君を……
 
「あなたが幸せに暮らしているのもわかっていたわ……嬉しいって思おうとしたけれど……でも、駄目だった……こんな気持ちでいるのはもう耐えられなかったの。だから、ちゃんと自分の目で確かめようと思った。あなたが……誰かと」
「……誰か、と……?」
 
彼女の言葉をぼんやりと反芻し……そして、どうして彼女がいきなりここに来たのか、どうしてあの電話のあと顔色を変えたのか……僕は混乱しながら考え続けた。
そうだ、電話は、女性の研究員からだった。
 
――君は、まさか!
 
僕の中で何かが、音を立ててちぎれたような気がした。
 
 
 
悲しみとも、怒りとも、烈しい喜びともつかない熱いものが全身を貫く。
僕は夢中でフランソワーズを引きずり起こすように抱き上げ、唇を奪った。
 
「……ジョー」
「君に幸せになってほしいと、いつも思っていた」
「……」
「でも、僕はわかっていなかった、たった今まで。それは、つまり君が誰か他の男に抱かれる、ということだったんだね」
「……ジョー」
「僕は……わかっていなかった。君は何度もそのことを考えてくれていたのに」
「……」
「僕はね、フランソワーズ……君のように辛抱強くなれない。そんなこと、一瞬思い浮かべるだけでも……たまらない」
 
誰にも、渡さない……!
 
そう叫んだつもりだった……が、たぶん、声にはならなかった。
僕は有無を言わさず、フランソワーズを再びベッドに押し倒し、ほとんど強引にその体を開き……ねじ込むようにして貫いた。
 
もしかしたら彼女は、悲鳴を上げたのかもしれない。
でも、何も聞こえなかった。
僕は……ただ、優しく柔らかく熱いものが僕をぴったり包み込んでいることだけを感じていた。
気が狂いそうな歓喜に包まれ、それをもっと味わいたくて、僕は夢中で彼女を抱きしめ、烈しく揺さぶり続けた。
微かに感じた血の匂いも、冷たい涙の感触も、僕の情欲を冷ましはしなかった。
 
許されないことをしているのはわかっている。
この罪のために殺されるなら、本望だ。
ただ、今……この瞬間、彼女は僕だけのものなのだから。
 
彼女は……僕を愛していると言ってくれた。
嫉妬もしてくれたのだという。
それが、狂おしいほど嬉しい……たとえ、その熱と烈しさが僕のそれとは比べものにならないものであるとしても。
そして、彼女の言葉が嘘ではないことを、僕は全身で感じていた。
愛しい……僕のフランソワーズ。
 
その喜びが絶頂に達し、全てを彼女の中に解き放ったとき。
僕の脳裡に、ほんの僅か苦いものがよぎった。
それは……
 
僕はそれをすぐに押し殺し、荒い息を吐きながら彼女の胸に倒れ込むように顔を埋めた。
今は、何も考えたくない。
ただ、この奇跡の……永遠の一瞬を、それだけを感じていたかった。
 
 
10
 
彼女は、その晩僕の部屋に泊まった。
 
他にどうしようもなかったのだ。
彼女が着ていた服は引きちぎってしまったし、何より彼女は、痛みのために立ち上がることすらできなかったのだから。
 
謝らなければならないことは無論承知で、そして謝りたくてたまらない気持ちになりながらも、僕は彼女に謝らなかった。
 
動けない彼女を抱いて浴室に連れて行き、破瓜の血と僕が残した穢れとを丁寧に洗い流してから、バスタオルでくるみ、ダイニングの椅子に座らせる。
これから静かに寝かせるにしても、ベッドメイクをやり直さなければならない。
 
寝室に行こうとして、僕はあの蜂蜜の瓶に気付いた。
うつむく彼女にそれをスプーンと一緒に差し出すと、彼女は微かに笑ってくれた。
その笑顔を見たとき、僕は初めて、なぜこれをここに置こうと思ったのか……わかったような気がした。
 
僕は、彼女がここに来ると……そして、こういうときが来ると、わかっていたのだ。
いや、それを切実に望み、求めていたのだと言ったほうがいい。
この蜜は、そのための……彼女をおびきよせる餌だったにちがいない。
僕は、まじないのように、これをこの部屋に忍ばせたのだ。
 
あれほど恐れていたのに、僕は、彼女に嫌われてしまったのかどうか、確かめようとは思わなかった。
それは、もうどうでもいいことになっているのに気付いた。
 
嫌われようと、愛されようと……僕はもう彼女を手放せない。
彼女は僕に…この部屋に捕らわれたのだ。
蜘蛛の巣にかかった、憐れな美しい蝶のように。
 
彼女がもし逃れたいと思うなら、誰かを呼べばいい。
彼女を僕から奪い、僕を殺すことができる男を。
そんな男はこの世にいないけれど。
 
ベッドを整え、ダイニングに戻ると、フランソワーズは例の蜂蜜の瓶にそっと蓋をしているところだった。
準備ができたよ、と囁き、抱き上げると、恥ずかしそうに微笑して僕の胸にいじらしく顔を埋める。
 
ゆっくりお休み……と言ったものの、休ませることなどできないのは、僕自身が一番よくわかっていた。
おやすみのキスを装った僕の唇は執拗に彼女の唇を襲い、僕の指は亜麻色の柔らかい髪を優しく梳くようにしながら、しっかりと彼女の小さい頭を押さえこんでいた。
 
彼女の微かに開いた唇から、あの蜜の香りがする。
彼女を優しく縛り、僕につなぎとめる罠の香りだ。
 
 
僕は君に何もしてやれない。
僕は君を悲しませるだけだ。
そして今、僕はとうとう……君の全てを貪り、食い尽くそうとしている。
 
僕の優しいフランソワーズ。
許してくれ、とは言わない。
君は、僕をとっくに許していると知っているから。
 
ただ、いつか……誰かが僕を止めてくれればいい。
 
君を守り続けよう、フランソワーズ。
君が幸せになる日はきっと来る。
その希望を、未来を、僕は守る。
 
だから、それまで……僕が息絶えるその日まで、君は僕の腕にいなければならないんだ。
どこにも行ってはいけないよ。
そのときが、来るまで。
 
更新日時:
2013.08.18 Sun.
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Last updated: 2013/8/18