1
いつ、どのようにして彼を愛するようになったのか、私にはもう思い出せない。
まるで生まれたときからそうだったように、私は彼を愛していた。
だから、どうしたらいいのかわからなかったのかもしれない。
戦いの中で彼の優しさを感じ、彼に庇われていると感じる度に、私の胸は他愛なく高鳴った。
でも、同時に、彼が私を愛してはいないこともよくわかっていた。
彼に直接尋ねたわけではないし、仲間から仄めかされたわけでもない。
それでも、わかっていた。それはあまりにも当然のことだったから。
彼はまっすぐな人。
自分の心を偽ることができない。悲しいくらいに。
だから、彼の傍にいる私にはいつも手に取るようにわかったのだ。
彼が誰かを愛しているとき、その想いが、痛いほどに。
そして、そういうときに彼が見せる切なそうな熱い眼差しが私に向けられることは決してなかった。
何度戦いを繰り返しても。
何度手を取り合い、死地を駆け抜けても。
彼に大切にされていることはわかっている。
だから、それだけで十分だと思うべきなのだ。
そもそも、私は仲間の中でただ一人の女性で。
それがどれほど危ういことか、わかっていないわけではない。
もちろん、実際に仲間達の争いの種になるほどの魅力など自分にはない、ということは承知していたけれど、問題はそういうことではない。
ゼロゼロナンバーとして戦うつもりなら、女性であることを忘れるべきだ、と私は思っていたし、そう振る舞っているつもりでもいた。
ただ、彼を想うときを除けば。
そんな私の気持ちが仲間に見透かされているかもしれない、ということは薄々感じていた。
それはとても恥ずかしいことだったけれど。
でも、彼にさえ伝わらなければそれでいい……仕方ないことだとも思っていた。
2
ガンダールさんを失い、長い戦いが終わったとき。
ジョーは烈しく憔悴していて。
彼の気持ちはもちろんわかるけれど、私は心配だった。
ジョーは、いつもそうなのだ。
悲しみや災いを防げなかったことで自分を責めてしまう。
009が万能型のサイボーグだからといって、全てを解決できるはずなどないのに、そうしなければならないと思い込んでいるみたいに。
新しい研究所が整うまでの隠れ家で、私たちはひとまず暮らし始めた。
最初の買い出しから帰ってきたアルベルトに、お気に入りの蜂蜜の瓶を渡され、私は思わずほっとして……そして、悪いと思いながらも、笑ってしまった。
彼の繊細さはもちろんわかっていたけれど、それでも、彼と蜂蜜の取り合わせがおかしく思えてしまったから。
くすくす笑う私に腹を立てる様子もなく、アルベルトは言った。
「まあ、足りなくなったら、今度はヤツに買わせるんだな」
「え?」
「さっき博士に聞いた。オマエだけ、すぐには帰れそうにもないらしい…ってな」
「……あ」
思わず首筋に手をやった。
痛みは残っていない。でも、少し長く治療が必要だと博士に言われたばかりだった。
「ジョーのせいではないわ」
「俺もそう思うが。ま、ヤツはそう思わないだろうぜ?」
「……」
「隠しても無駄だ。どうせすぐにバレるからな。早いところヤツに打ち明けて甘えちまえ」
「そんなこと……」
……できるわけ、なかった。
治療が始まると同時に、私の首には小さくはあったけれど装具がつけられた。
アルベルトが言ったとおり、それをジョーの目から隠すことなど不可能で。
ジョーは何も言わなかったけれど、彼の気持ちは痛いほど伝わった。
あなたのせいではない、と何度も言おうとして言うことができなかった。
やがて、仲間達は次々と故郷へ帰っていった。
ジョーもそうしていい時期だったのに、その気配が全くない。
私の治療を見届けようとしているのだと思った。
それが嬉しくないといえば嘘だったけれど……悲しいのも本当のこと。
明日はドイツに帰ると言いながら、アルベルトが私に茶色い紙包みを渡したのは、そんなときだった。
包みには、少し大きいあの蜂蜜の瓶が入っていた。
「これがなくなる前には……どうにかするといい」
「……アルベルト」
「今度の戦いで改めて思い知ったはずだ。俺たちは、いつ、どんなことになるかわからない」
「……」
「そのときになって後悔しても遅い」
「……」
何も言えなかった。
彼の言葉は……彼の言葉だからこそ、重い。
3
でも、私はアルベルトの忠告に従わなかった。
従うべきだと思いながら、その勇気がなかったのだ。
ジョーはその後も結局、いつものように優しくて……冷たかったから。
アルベルトが置いていってくれた新しい蜂蜜の瓶を開けたのは、偶然にも、ジョーその人だった。
そのことにときめかなかったわけではないけれど……それが何の意味も持たないことも、私にはわかっていた。
ジョーは、私の子供じみた言葉に楽しそうに笑って……そんなにお気に入りなら、研究所にも揃えておくよ、と、その蜂蜜の銘柄と製造元を丁寧にメモしていた。
それは、彼の優しさ。
……でも。
私は、彼が好きなモノをメモに残したりはしていない。
その必要がないからだ。
彼は滅多に自分の好みや欲求を示すことはなかった。
だから、それがわかったときは本当に嬉しくて……その知識は、宝物のように、私の心にしまわれている。
それでも、彼がメモをとってくれたことが私は嬉しかった。
それで、十分だと思えた。
私はほどなくパリへと帰った。
いつか来る戦いの日々までのつかの間の休息をとるために。
それほど長くはないだろう、と思ったその平和な時は、意外にも途切れることがなかった。
私はいつのまにか、その平穏な日々に馴染み、自分がサイボーグであるということを強く意識することも少なくなっていた。
その分、いつかそのときが来たら、悲しみは深まるのかもしれないけれど……でも、だからこそこの時間を愛おしんでいたかった。
仲間たちとのやりとりは細々と続いた。
ジョーにもその後ほんの数回会ったけれど、会話らしい会話を交わすことはなかった。
彼は、ギルモア博士の助手として本格的に働くため、大学で学んでいるのだという。
それは……私達の命を、半永久的に守ろうとする彼の決意の表れだと、私は思った。
とても彼らしい……彼にしかできない決意だ。
彼は、どんなときも009としての……サイボーグチームのリーダーとしての責から逃れようとしない。
私は、自分も研究所に入ろうと思い始めていた。
彼を助け、彼が背負おうとしている荷物を、少しでも軽くできたら……
でも、そんな願いが愚かな独りよがりであることを、程なく私は思い知らされることになったのだ。
メンテナンスのため、久しぶりにギルモア研究所を訪れたときだった。
私はふと思いついて、あなたの部屋を見てみたいわ……とジョーに告げた。
彼は少し戸惑ったものの、拒みはしなかった。
それまで仲間たちも同じことを彼に求め、彼はそれに屈託なく応えていたらしい。
そうか、君が最後になるんだね、とジョーは楽しそうに笑い、ついでに渡したい資料があるからと、ギルモア博士の同行も求めた。
すんなり受け入れてもらえたことに安堵しながら、一抹の寂しさも私は感じていた。
彼が私を仲間ではなく一人の女だと思っていたら、こうはならないだろうと思ったから。
もちろん、そうでなければ困ったことになるのだけど。
だから、私はいつものように心からほっとして……そして、寂しかったのだ。
003として009の傍らで生きるということは、そういうこと。
それでも、私は彼の傍にいたいと、そのときは思っていた。
4
彼が一人で暮らす部屋に入ったのは、それが初めてだった。
予想していたとおり、それは質素で、すっきりした住まいだった。
飾りのようなものはなにもなく……でも、冷たく人を拒む雰囲気というわけでもない。
彼らしい部屋だわ、と私は感心していた。
ぎこちなくお茶をいれようとする彼をみかねて、台所に立ち……私ははっと息をのんだ。
洗い上げられた二人分の食器が……おそらく、朝食に用いたモノが……食器かごにきれいにおかれていたのだった。
見回してみると、布巾や、今お湯をわかそうとしているヤカンに、小さな鍋……どれも、使いやすそうで、上等な品物で……たとえば、ジェットの部屋にあるようなモノとは明らかに異なっていた。
私は動揺を押し殺してお茶をいれ、テーブルに運びながら、さりげなく言った。
「素敵なキッチンね……道具も使いやすいものばかりだわ」
「そうなのかい?……僕はよくわからないんだけど……大学の人が、いろいろ揃えてくれたんだ。自分は一人暮らしのベテランだから……ってね」
照れくさそうにそれだけ言うと、ジョーはさっとお茶に手を伸ばし、いい香りだね、いつものと同じだとはとても思えないなあ、と笑った。
その笑顔がとても懐かしそうで、まぶしくて。
私は、それ以上何も言えなかった。
彼を支え、慰め……力づけることができるのは、仲間とは限らないのだ、と思った。
むしろ、それが女性であるなら……。
戦いの中で、彼が切なげに見つめていたひとたちをふと思い出し、私の胸は微かにうずいた。
そう、彼があの眼差しを私に向けることは決してなかったのだ。
そのことも私ははっきりと思い出していた。
結局私は、ギルモア研究所に入りたい、と告げることなく日本を発った。
いずれ必ず来る戦いの日々。
それまで、ここには戻らない……彼には会わない、と心に決めて。
5
平穏な日々はなおも続いた。
仲間達と連絡を取り合うこともほとんどなくなっていた。
だから、不意にアルベルトが現れたとき、私は本当に驚いて……そして、嬉しかった。
仕事でパリに泊まることになってね……と、彼は笑い、そしていつもの皮肉めいた口調でこう言った。
「だが、オマエさんがまだここにいるとは正直思っていなかったよ……てっきり日本にいるものだと」
「あら、どうして?」
「この間のメンテナンスでは、少しのんびりしてきたっていうじゃないか。これはフランソワーズ、いよいよ嫁入り支度に来たんだろうって、006が浮かれたコトを言っていたんだが、とんだ早とちりだったってわけか」
「まあ!……ひどいわ。よくってよ、好きなように面白可笑しくウワサしてくださいな。真実はこのとおりですもの。ご期待に添えなくてごめんなさい」
「ふふ、まあそう怒るなって……悪かったな。要するに俺も柄にもなく浮かれていたってことさ」
「……」
「ってことは、つまりジョーは……アイツは、相変わらずってわけなんだな。ったく、馬鹿な男だ」
「ジョーは、馬鹿じゃないわ。そんなこと言ったら罰が当たるわよ、アルベルト」
「フン、罰当たりはあっちだろう……まあいい、そうだな……ちょいと機嫌を直してくれないか?ご自慢のカフェオレを一杯もらえるだろうと期待していたんでな」
「あら、珍しいのね。コーヒーにミルクをたっぷり入れるなんて、狂気の沙汰だって、いつも言っていたのに」
「郷に入れば郷に従えってやつさ……いや、白状すると、ときどき無性に飲みたくなってね。オマエさんがいれる、あの甘ったるい冒涜的な飲み物を……な」
「……もうっ!」
涙が出そうになるのを押さえ、私はキッチンに立った。
仲間たちがいつも心配そうに見守っていてくれることはわかっていた。
彼らは特に、私を気遣ってくれて……もちろん、その気遣いがちょっとずれてしまうこともないわけではなかったけれど。
彼らが、ジョーと私を恋人同士だと思って……思おうとしていることも感じていた。
サイボーグ同士が人間として愛し合う……それは、ひとつの夢でもあったのだと思う。
でも、人間として生きるからこそ、夢は夢でしかない……おとぎ話のようにはいかない、ということも確かなのだ。
「フランソワーズ……あの馬鹿はまあどうでもいい。オマエはどうなんだ?」
「……え?どう……って?」
熱いカフェオレを一口飲むなり、あからさまに顔をしかめながらアルベルトは私をじっと見つめた。
「諦めちまったのか?」
「……アルベルト」
「それはそれで無理もないがな……むしろ今までよくあの馬鹿につきあってやったよ、オマエさんは。エライもんだ……だがな、だからこそ気がかりでもある」
「おかしなことを言うのね……ジョーのことは好きよ。尊敬しているわ。あなたと同じように」
「俺と同じように、か?」
「ええ」
「……なるほど」
アルベルトは深く息をつき、しばらく沈黙し……やがてゆっくり口を開いた。
「実は……まだ誰にも言っちゃいないんだが……今、女と暮らしている」
「え…?」
「若くはないし、美人ってわけでもないが……気立てのいい、優しい女だ」
「……まあ。結婚するの?」
「まさか。そういうわけにはいかないだろうよ」
「それは……でも」
「どう思う?」
「え?」
「オマエは……どう思う?」
じっと見つめられて、私は少し戸惑った……が、迷いはしなかった。
「素敵なことだと思うわ。いろいろ難しいことはあるかもしれないけれど……でも、素敵よ、アルベルト。私、嬉しい」
「俺が、じゃない。……ジョーが、……なんだが」
「え?!」
どきっとした。
すっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。
これがジェットやグレートなら、すぐに冗談だよ、と笑うだろう。
でも、アルベルトは……
「大丈夫か、フランソワーズ?!」
背中を力強く支えられ、はっと我に返った。
口元に運ばれた水を懸命に飲み下す。
ほうっと息をつき、私は自分が卒倒しかけたのだということに気づいた。
かっと頬が熱くなる。
「悪かったな……だが……」
「いいえ……アナタなら、恥ずかしくないもの……ありがとう、教えてくれて」
声が震えるのを懸命に押さえた。
同時にぐっと抱き寄せられ、頭を胸に押しつけられる。
鋼鉄の胸。
その堅く冷たい感触が、今は懐かしくて、私はぽろぽろ涙をこぼしていた。
「そんなに……好きだったのか?」
「……」
返事をすることができない。
私はただ泣き続けた。
6
アルベルトは、ジョーの部屋の住所を置いていった。
自分で確かめてみろ、と言い残して。
確かめても、どうなるというものではないだろう。
たぶん、アルベルトは……そして、事情を知っているのかもしれない張々湖も、私が会いにいけば、ジョーの気持ちが変わると思っているのだろうけれど。
私たちは、やっぱりそういう風に見えていたのだ。
真実は、そうではなかったのだけれど。
でも、真実というなら……本当は、真実は、どういうことだったのか。
たしかに、私がそれを確かめてみたことはなかった。
アルベルトが帰ってから、私はまた泣いた。
泣いて……そして、決心したのだ。
確かめてみなければならない、と。
それがどんなにつらい真実であっても、そこからしか先には進めない。
私たちは永遠に003であり、009でなければならないのだから。
私は、誰にもなにも告げず、日本に向かった。
アルベルトが教えてくれた住所を頼りに、彼の部屋を探し……それはあっけないほど簡単に見つかった。
研究所からクルマで一度行っていた経験も、私を助けてくれたのだと思う。
「目と耳」を使いたい衝動を懸命に抑え、私は彼の部屋のチャイムを鳴らした。
慌ただしい足音と同時に、ドアが勢いよく開く。
彼は、一人だった。
心底驚いたように大きく目を見開いて私を見つめ……でも、そこに迷惑そうな色は浮かんでいなかった。
そのことに安堵し、それでも私は動くことができずにいた……のだけれど。
ふと、温かい手が私の手を包んだ。
「会えて嬉しいよ、フランソワーズ……よく来てくれたね」
懐かしい声と優しい眼差しに包まれ、私の緊張と恐れはあっけなく解けていった。
あまりにも他愛ない自分を情けなく思いながら、私は一生懸命、彼に笑顔を返した。
7
彼の部屋は一見前と変わっていなかった……が、気のせいか、落ち着いた暮らしぶりがゆったりと表れているように感じられた。
彼は、以前のように私を台所に立たせはしなかった。
そうやって彼が手際よくいれたお茶は香り高く、おいしかった。
やっぱり、彼は変わった。それは間違いないことだった。
誰があなたをそんなに幸せにしているの……?
尋ねてみたい気持ちは、彼と会話を交わしているうちに、少しずつ消えていった。
ジョーは……前よりもずっと優しく、大人になっていて……それでも、あの頃のジョーと何も変わってはいなかったから。
……あなたが、好き。
一度も彼に伝えたことのない言葉を、今なら言えるかもしれない、と思った。
彼がそれを受け入れてくれても、くれなくても……。
が、不意に鳴った電話が、私のそんな気持ちを突き崩した。
「耳」を使うまでもなく、相手が女性であることがわかった。
交わされた会話はごく事務的な、仕事の手続き、打ち合わせの確認のようなことだけで、恋人同士らしい甘さは感じられなかった……けれど、彼らがお互いに深く信頼しあい、尊敬しあっていることは十分に伝わったのだ。
――私は……ここで、何をしているのかしら。
どうしようもなく不安になった。
自分が何をしようとしているのか、急にわからなくなってしまったのだ。
電話の相手の女性は、ジョーの恋人か……そうでないとしても、信頼できるパートナーであることは間違いない。
かつて、私もそうでありたいと思ったのではなかったか。
ここを訪れたときの、彼の表情……声……言葉をゆっくり思い出し、めまいがしそうになった。
彼は、私をどこか庇うように……何かを恐れるように……扱ってはいなかったかしら。
私は、彼の何であろうとしているの?
それがわからないままこうしていても……彼の負担になるだけなのに。
――私、は……
「どうした、フランソワーズ?!」
突然両肩を強くつかまれ、私ははっと我に返った。
ひどい顔色をしていたに違いない……どう言い訳しようかと戸惑っているうちに、さっと抱き上げられてしまった。
「すぐ研究所に行こう。いいね?」
「いいえ……いいえ、ごめんなさい、ジョー……そうじゃないの」
一生懸命首を振った……が、そんなことでごまかされる彼ではない。
それでも、私は必死で離して、と訴え続けた。
こぼれ落ちる涙を止めることができない。
このままでは彼を一層不安にさせるだけだとわかっているのに、どうにもならなかった。
やがてジョーは諦めたように私を椅子に座らせ……台所へ入ると、何かを持って戻ってきた。
「とりあえず……少し元気をつけようか。お腹がすいただろう?」
それは、あの……私のためにと、彼がメモをとっておいてくれた……蜂蜜の瓶だった。
8
優しい甘味と彼の穏やかな笑顔が、私を少しずつ落ち着かせてくれた。
焦ることはないのだ……と思った。
彼の前でどんな顔をしていいのか、わからないのなら。
彼にとって、どういう存在であればいいのかがわからないのなら。
それなら、無理をすることはない。
わかるときまで、彼に会わなければいい。これまでのように。
何を急いでいたのだろう、と思った。
彼はこうして変わらずに私の場所を残しておいてくれているのに。
だから……もし、彼が誰かを愛しているのだとしても、私は……。
……いいえ。
それでもかまわない、とはやっぱり言えない。
胸が痛くてたまらない。
それなら、私がしなければいけないことはひとつしかない。
私はゆっくり立ち上がり、言った。
「ごめんなさい。帰るわ……ありがとう」
さようなら、とは言えなかった。
ずるい……のかもしれない。でも。
彼が何か言う前に、部屋を出てしまおうと思った。
不審に思われるかもしれないし……呆れられるかもしれない。
身勝手な娘だと軽蔑されるかもしれない。
それでも、仕方ないと思った。
もう二度とこの部屋を訪れることはないだろう。
次に彼と会うのは、いつになるかわからない……いつか、戦いの始まりのとき。
そう思いかけた次の瞬間、身動きができなくなった。
なに、と思うまもなく、温かいものに唇をふさがれる。
それが、彼の唇だとわかったのは……そこからほのかに蜂蜜の香りを感じたときだった。
その後の、嵐のような時間……抱きしめられ、体の隅々まで愛撫されて、気が遠くなりかけながら、私は何度も何度も彼の名を呼んでいた。
怖い?と尋ねられ、うなずいた。
君に嫌われるのが怖い、という苦しげな囁きも聞いた。
自分に何が起きているのか、わかっていないわけではなかった。
彼が何をしようとしているのか……それもわかっていた。
わからなかったのは……なぜ、彼がそんなことをするのか、ということ。
みんなを呼べばいい、誰も僕を許しはしないだろう、と囁く彼の言葉に、アルベルトの面影がよぎった。
――アルベルト……あなたは、こうなると、わかっていたの……?
その思いを……戸惑いをかき消すように、彼は私の体の奥をかき乱しながら熱い吐息をもらし、言った。
「いいのかい?……これから何をされるか、本当にわかってる?」
――これから、何を……?
すうっと、体が冷えていくのを感じた。
私は、何もわかっていない。
何も確かめていない……いいえ。それどころか。
あなたに、何も伝えていない!
9
「あなたを、愛しているの……!」
ほとんど悲鳴のように叫んでいた。
こんな伝え方をするつもりではなかったのに……!
彼の力が僅かに緩んだ。
私は必死でベッドから転がり落ちるように降り、でも、そのまま動くことができなかった。
混乱しながら、深い自己嫌悪に苛まれながら……私は、懸命に言葉を繋いだ。
――あなたを愛しているの……あなたを幸せにできないことは、わかっているけれど。
心を切り裂かれるような痛みに耐えながら、私は次々に思い出していた。
戦いの中で、ほんのつかの間、彼を幸せにしてくれた……優しく美しいひとたち。
それは、私には永遠にできないこと。
彼の傷を思い起こさせるだけの……サイボーグ003でしかない私には。
――こんな気持ちでいるのは、もう耐えられない!
だから、諦めたいの。諦めさせて。
どんな方法でもいい、私はあなたを諦めたい……!
私は夢中で「告白」を続けた。
それがどこまで彼に伝わったのか、何も伝わりはしなかったのか、それはわからない。
いずれにしても、私はいつのまにか抱き上げられ、再び唇を奪われていたのだ。
彼が苦しそうに何かを訴えている。
混乱しきった私に、その言葉は届いていなかった……が、彼が苦しんでいることだけは、はっきり伝わった。
このまま犯されるのだろう、と思った。
そのことが、この優しい人をどれだけ苦しめるかわからないのに……どうすることもできない。
やっぱり来てはいけなかった……そう思いかけたとき。
――誰にも、渡さない……!
彼が血を吐くように叫んだ。
私の全身からふっと力が抜け、同時に熱いものに貫かれた。
「ジョー……?!」
新しい涙が次々にこぼれる。
痛みは感じなかった。
ただ……ただ、それは。
そういう言葉がもしふさわしいのなら。
それは……私を残酷に容赦なく貫いたものは。
どこまでも熱く、かなしく、凶暴で、罪深く……そして歓喜に満ちた「愛」そのもの……であるように思えた。
10
それから、私は数日間、彼の部屋にとどまった。
私たちは何度も睦み合い、抱き合い、愛し合って……少しずつお互いの想いを伝えていった。
全てを伝えきることなど、きっとできはしなかったと思うけれど……それでも、私は幸せだった。
3日目に、ジョーはようやく買い物にいこうか、着るものがもうないよね、と持ちかけてくれた。
本当にこのままずっとここに監禁されてしまうのかと思っていたわ……と漏らす私に、彼は楽しそうに笑った。
「僕はそうするつもりだけど……?イヤかい?」
「イヤよ。私は、自由でいたいもの」
「もちろん、君は自由さ。体だけならね。でも、ここは……」
微笑しながら、彼は私の左の乳房の下を強く指で突いた。
「痛い…!」
「ここは、僕のものだ……どこにもやらない」
「……勝手だわ」
「うん。勝手だと思う……嫌われたかな」
「そんなこと、どうでもいいと思ってるくせに……」
唇をとがらす私に、バレてたのか、と彼はまた笑った。
「でも、私……あなたには、本当に自由でいてほしい」
「どういう意味?……僕が、他の女の子を好きになってもいいってこと?」
「そういうことよ」
「信じられないけれど……どうして?」
「あなたには、わからないわ」
「やれやれ。残酷だな、君は」
え……?と見上げると、彼は切なそうに私をじっと見つめている。
「こんなに僕をめちゃくちゃに縛り付けておいて、自由でいてほしい、なんてさらっと言う」
「まあ……」
「君は、昔からそうだった。僕をがんじがらめにして、ふいにどこかに行ってしまうんだ。あなたは好きにしていいのよ、とか言い残してね」
「まさか。そんな覚えはなくってよ」
「だろ?だから、残酷だって言うんだよ」
「……そうかしら」
考え込む私の頬に強めのキスをして、彼は低く言った。
「でも、もうどこにもやらない……君は、僕のものだ」
「……ええ」
もちろんよ、ジョー。
私は……あなたのもの。
でも、きっとあなたにはもうわかっているのね。
それが、永遠ではないということが。
でも、いつか……そのときが来るまで、私はあなたのものよ、ジョー。
私があなたの傍にいられる間……生きている間は、ずっと。
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