| 1   今行くのは絶対にまずい。それはわかっている。 つまらないことをした。 どうして、寝た子を起こすようなマネをしてしまったのか。   それでも、起こしてしまったモノはどうしようもない。   せめて留守であってくれ、と心のどこかで祈っていたのかもしれない。 が、駆けつける軽い足音は、その期待を甘く裏切った。   「やっぱり、ジェットね…!」   ドアを開くなり、青い目が嬉しそうに瞬く。 そのまま飛びつくように腕を巻き付けてくるフランソワーズを、ジェットはそっと抱きとめた。   「レース、中継でずっと見ていたわ…おめでとう」 「厭味かよ」 「ううん…準優勝だって、立派よ…でもいいの?こんなところにいて…何か、パーティがあるんじゃなかったの?」 「優勝すれば、な」 「そうなの…?」   そうさ。 アイツは絶対に抜けられない。 仮に、抜けられたとしても……   「ちょっと出られないか?」 「え?」 「つきあえよ…準優勝祝いだ」     フランソワーズが案内したのは、小さいけれど落ち着いた感じの店だった。 アイツが好きそうな雰囲気だ…と思ったのが顔に出たのかもしれない。 彼女は、ジェットに囁くように言った。   「男の人と来るのは初めてなのよ」 「…へえ」 「だから、お行儀よくしていてね」 「へいへい。お嬢様の評判を落とすような真似はつつしみましょう?」 「もう…!」   軽く合わせたグラスをジェットは一気にあおり、フランソワーズが微かに眉を潜めるのを面白そうに眺めた。   「お行儀よくって言ったのに…変わらないわね、ジェット」 「悪いな、ちょっと酔いたい気分なんでね…あんなヤラレ方じゃあな」 「まあ」   フランソワーズはなんとなく視線をさまよわせるようにした。 ジェットがそしらぬ顔で続ける。   「ったく、かわいげのない男だぜ、アイツは」 「そうね…ふふ、元気出して、ジェット…アナタのせいじゃないわよ。怖いぐらいだったもの、今日のジョー」 「まったくだ。あんなヤツにかかっちゃ、ポール・ポジションなんざ、何の意味もねえよ」 「ジョー、予選では調子を落としていたみたいだから…きっと今日は気合いが入ったのね」   まあ、そういうことだな。 オレの詰めが甘かった。 いつもの009の勝ちパターンにはめられたというか。 大体、アイツにヤラレるときってのはそうだ。 オレもBGも変わりねえ。   だが。 こっちの勝負は… いや、もうとっくについてるわけだが。   俺は、諦めが悪いんだよな。     2   「ジェット…ジェットったら…起きて…!」 「あー」 「あー、じゃないでしょう…だから飲み過ぎだって言ったのに…!」 「これが飲まずにいられっかよ…ちくしょー!」 「もう…!」   フランソワーズは息をついた。 今回のレースで、ジェットはポール・ポジションをとっておきながら、5位スタートだったジョーにあっというまに抜き去られて、優勝をさらわれたのだ。 飲みたくなるのも仕方ない、と少し甘い顔をしてしまったのがいけなかった。   それにしても… こんなジェット、見たことないわ。 よっぽど、悔しかったのね。   なんだかんだ言っても、こんなに正体なく酔いつぶれたジェットなど見たことがない。 しかも、連絡先はわからないし、彼がどこからどうやって来たのかも見当がつかない。 彼のことだから、モナコから文字通り飛んできた可能性すら否定できない。 とにかく今夜は部屋に泊めるしかない、とフランソワーズは決意した。   「お嬢様の評判を落とすような真似はつつしむ…ですって。ホントに口ばっかりなんだから!」   ジェットに肩を貸しながら、フランソワーズは自分の寝室のドアを開けた。   目が覚めたら、きっと恐縮して、居間のソファにでも寝かせとけばよかったんだ…って言うでしょうけれど。 でも、長い厳しい戦いを終えてきたヒトに、そんなことできないわ。   なんとか彼をベッドに寝かせ、靴を脱がせて、フランソワーズはようやくほっと息をついた。 優しく毛布をかけながらそっと囁く。   「ゆっくり休んでね…ホントに困った人」   そのときだった。 いきなり、手首をつかまれ、ぐい、と引き寄せられた。   「ジェット…?」 「フランソワーズ」 「あ…起きたのね…帰る?でも少し酔いをさましてからでないと…お水持ってきましょうか」 「なんで、聞かねえんだ?」 「…え」 「聞きたいことがあるだろう?オレに、どーしても聞きたいことが…!」   息がかかるほど顔が近づく。 思わずうつむいたフランソワーズの耳を、ジェットはそっとついばむようにした。   「…!」 「なあ…?なんで聞かないんだ?」 「ジェット…ふざけないで。大きな声を出すわよ?」 「答えろよ、フランソワーズ」 「離して…!誰か…!」   大きく息を吸い込んだ瞬間、口を塞がれた。 そのままベッドに押し倒される。   「どうした、呼ばないのか?」 「……」 「通信をひらいて、呼べよ…アイツを」 「ジェ…ット…」 「このままオレにヤラレてもいいのか?お嬢さん?」   《どう…して?》 「オレに通信してどうする?…アイツを呼べ!」 《お願い…やめて、ジェット…離して!いくら酔ったからって…》 「悪いが、オレはシラフだ…いや」   確かに酔ってるのかもしれない。 なにもかも、自分で蒔いた種だ。それはわかってる。 だが、もう止められない。   「おとなしくしろ、フランソワーズ…かわいがってやる。オマエだって、昨夜はあんなに悦んで…!」   無茶苦茶だ。 アイツはフランソワーズじゃねえ。似ても似つかない女だ。   「女」である、というコトを除けばな。 ……チクショウ!   もういい、オレを止めろ。 なぜ止めない、フランソワーズ? ジョーを呼べ、早く!     3   鋭い殺気に目を上げる。 まず、黄色いマフラーの先が視界に入った。   「遅ぇんだよ、王子サマ…で?オレを殺すか?」 「彼女に、何をした?」 「ふん。自分で確かめろ…その勇気があるなら…な」   栗色の瞳はあくまで無表情だった。 冷たい手がジェットの喉に伸び、ぐっと襟元を締め上げる。 たちまち、首が引きちぎられそうになり、息が止まった。 が、ジェットは怯まなかった。   「だから、確かめてこいって…お嬢さんは気持ちよくおねんねしてる、ベッドの中でな」 「ジェット、まさか…」 「いや、気持ちよく…とはいかねえか。驚いたぜ、まさか彼女が初めて…」   鈍い音が響いた。 拳をジェットの腹にめり込ませたまま、ジョーは懸命に呼吸を整えようとした。   「な…んだ?へっ、ホントにそうなのかよ?」 「…何?」   一瞬怯んだジョーの手首をつかみ、振り払うと、ジェットは唇をゆがめた。   「あぁ、つまらねえコトしたぜ…ったく」 「…ジェット?」 「なぁ、どうやって仕込んだ?アイツ、とうとうオマエを呼ばなかったぜ…そうだよな、考えてみりゃ、ハリケーン・ジョーが、女の部屋でジェット・リンクを半殺しにするわけにはいかねえ…とんだスキャンダルだ」 「……」 「…ふざけやがって」 「ジェット、君は…いったい」   ジェットはぺっ、と血の混じった唾を吐き、口元を拭った。   「だが…もう、二度とオマエに遠慮はしないぜ、ジョー」 「……」 「いい女だ。いや、それぐらい、初めからわかっていたが…」 「遠慮しないのは僕も同じだ。いいか、彼女に触れるな…!」 「フン…指一本触れずにアイツを自分のモノにするつもりか?見上げたもんだ、王子サマのおっしゃることはさすがに違うな」 「フランソワーズは、『モノ』じゃない…!」 「そうとも、アイツは『女』さ。それも、とびきりの…な…おっと!」   ぱっと拳をよけながら、ジェットは舞い上がった。   「まぁ、せいぜい用心してろ。言っておくが、オレは諦めが悪い…今度は容赦しないぜ。じゃあな!」     4   「何を、考えているの…ジョー?」   心配そうな声に、ジョーはハッと振り向いた。 澄んだ青い瞳が見つめている。   わかっている。 はじめから、僕はわかっていた。 アレは、君じゃないって。   「無理しなくて…よかったのよ」 「え…?」   フランソワーズは微笑し、優しく言った。   「とても疲れているのに…それに忙しいはずでしょう?本当は、まっすぐ日本に帰った方が」 「なんだ…そんなことか」   苦笑しながら、ジョーはそっとフランソワーズを抱き寄せ、唇を重ねた。   たしかめる必要なんてなかったのに。 これが、君の吐息。君の髪。君の匂い。   「それに…あなたを…待っている人…だって」 「……」   そういうことか。 もしかしたら…それで、ジェットは。   「僕を待っている人…?まさか、グレースのことを言ってるんじゃないよね?」 「……」 「フランソワーズ…?」 「…わからないわ」 「わからない…?なにが…?」 「ううん…いいの。ごめんなさい、変なことを言って」   問いつめてくれればいいのに。 君に話せないようなことは何ひとつしていないのに。 フランソワーズ、君が一言尋ねてくれれば、僕は……   ジョーはフランソワーズの白い首筋にそっと口づけた。 とっておきの甘い声で、囁く。   「…ジェットが」   一瞬、彼女の体がぴくん、と反応したような気がした。 気のせいかもしれない。 もう一度言ってみる。   「ジェットが、来ただろう?レースが終わった日…ここに」 「いいえ」   やわらかく澄んだ声がジョーの耳朶を撫でる。 思わず微笑した。   「そう…?彼、君に会った…って言ってたけど」 「そうなの?」 「…うん」   やっぱり、聞く必要はなかった。   フランソワーズ。 君はいつも降りたての雪のようにきれいだ。 きれいで、優しくて…冷たい。   あの女は違った。 怖いほど似ていたけれど、やっぱり君じゃない。   ジェットに抱かれ、嬌声をあげていた女。 亜麻色の髪…華奢な手足。 ちらっと見た、整った顔立ち。 青い瞳。   そうやって、一芝居うって、僕を動揺させて、ポール・ポジションを狙ったってことか? ずいぶん姑息な手じゃないか。   いや、君のことだ。 そうやって彼女の仇を討つつもりだったのかもしれないね、ジェット。 僕がグレースのことで、彼女を悲しませていると思ったのかい?   でも、君は何もわかってない。 僕が誰を抱こうと、フランソワーズは悲しんだりしない。   ジョーはそっとフランソワーズを抱き上げ、ベッドに横たえた。 一点の曇りもなく澄んだ瞳が見上げている。 そっと手をかざし、その瞼を閉ざしながら、唇を重ね、体を重ねていく。   「…ジョー?」 「…ダメ…かい?」   ダメなはず…ないよね。     5   まるで気を失っているように眠るフランソワーズの裸体を、白いシーツにくるみ、抱き上げた。 本当に、気を失っているのかもしれない。   「それじゃ、行こうか…フランソワーズ」   優しく囁いて、陶器のような額に口づける。   夜明け前だった。 冷たく静まりかえった町を見下ろし、ジョーはフランソワーズを抱いて、建物の屋根づたいに走った。 森の向こうに、小型機を用意してある。   君は、僕の宝物だ。 誰にも汚されることのない宝玉。   君を汚すことができないということを誰よりも知っているのは僕だ。 何度抱いても、君は清らかな乙女のままだったから。 ならば…誰に抱かれても、それは同じはず。   ジェット…君は、本当に余計なことをした。 君の匂いが残るベッドで彼女を抱けるほど、僕は清らかな人間じゃない。 彼女は、変わらないのに。 何も、変わっていないのに。   だから、仕方がない。   本当を言うと、僕なんか、あの女と彼女の区別すらちょっと曖昧だったりするんだ。 まんまと君の策に乗ってしまったんだから。 やっぱり、どうしようもない。 僕は、どうしようもない。君と同様にね。   だから、仕方がない。   それにしても、ジェット、君は正気で言ったのかい? 「女」だって? フランソワーズが、この天使が、「女」だって?   ごめんよ、フランソワーズ。 僕が、君のように清らかなヤツだったら…そんな戯言、笑ってすませたのに。   ジェットは来なかったと言った君。 君は嘘をついていない。 だって、君は…君は汚れないままだった。 怖いほど。   彼の匂いが残るベッドで、僕に抱かれながら、君は清らかなままだったんだ。 でも…僕は。   僕は、君ほど清らかではない。 僕の醜い想いが、君を貶める。 君を「女」に堕としてしまう。   だから、仕方がない。 ごめんよ、フランソワーズ。   君を連れて行くしかない。 誰も知らないところへ。 誰の手も届かないところへ。   僕の苦しみを終わらせるために。   そうだよ、フランソワーズ。 僕は、苦しかったんだ。 君を他の男が抱くかもしれないと思うだけで。 ちらっとそう考えただけで、こんなに苦しいなんて。   汚れない君は天上で微笑んでいたというのに… 僕は、地獄の業火に焼かれていたってわけさ。 ほんとに、どうしようもないヤツだよね。   だから、仕方がないんだ。   目覚めた君は、僕を許してくれるだろうか。 きっと、許してくれる。   世界に、君と僕の二人しかいなくても。 君が二度と、他の誰にも会えなくても。   だって、仕方がないんだから。 そうして、僕はいつまでも、君を守ろう。   僕の宝物。 一点の曇りもない宝玉。   僕の、フランソワーズ。   |