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困る記念品

思慕(本文)
イワンが、熱を出した。
ギルモアは「風邪じゃな」とあっさり診断した。
いつ、風邪を引くようなことになったのかはわからないが、風邪とはそういったものなのだろう。
 
「で、でも…今まで、こんなことはなかったはずです。本当に、それだけなんですか?」
 
フランソワーズが不安そうに尋ねると、ギルモアはふむ…と天井を仰いだ。
 
「はっきりとは言えないが…免疫が切れたのではないかのう?」
「…え?」
「赤ん坊が母親から初めて与えられる母乳には、強力な免疫機能があると言われておる。その効果は半年ほど続くのじゃ…イワンはごくゆっくりじゃが、成長しておる…おそらく、彼は今、ちょうどそのあたりの月齢に達した…のではないかな」
「そうか…そんなことが、あるんですね」
 
つぶやくようなジョーの言葉に、フランソワーズは何となく胸をつかれた。
そうっと見上げると、彼の横顔はいつもと同じように穏やかで。
…でも。
 
フランソワーズは静かに診察台からイワンを抱き上げた。
 
「これからは…気をつけてあげなくちゃいけないわね…かわいいネボスケ王子さま」
 
 
 
診断どおり、ただの風邪だったらしい。イワンは程なく回復した…が。
フランソワーズはそれから、何種類もの育児書を買い込んでは、熱心に赤ん坊の健康管理について調べるようになった。
そのあたりのことはギルモアの専門外だったし、イワン自身も赤ん坊扱いされるのを嫌うのか、その手の知識についてはきわめて関心が薄い。
 
「あの、ジョー…お願いがあるの」
 
育児書の山が全て彼女によって読み尽くされ、本棚にきちんと収められたころ。
ジョーは、いつになく真剣なフランソワーズのまなざしに、少々戸惑った。
 
「なんだい?僕にできることなら…なんでもするけど」
 
妙な予感がした。
 
「私ね、これから、イワンをちゃんとお風呂に入れてあげようと思うんだけど…」
「…え?」
 
彼女が何を言っているのかよくわからず、ジョーはぼんやり首をかしげた。
フランソワーズは、毎日イワンに湯浴みをさせている。
場合によってはジョーがすることもあるし、他の仲間たちも研究所に滞在しているときにはよく手伝ってくれる。
誰がするのかはともかくとして、とにかくイワンは毎日ちゃんと風呂に入っている…はずなのだ。
 
フランソワーズは、きょとん、としているジョーをじれったそうに見つめた。
 
「あの…だから、イワンをフツウのお風呂に入れてあげようと思うの。日本では、そうするみたい。考えてみたら、イワン、ずいぶん大きくなったでしょう?これからも日本でくらしていくなら、この国のやり方で世話をするのが、イワンのためにはいいんじゃないかしら…」
 
なるほど。
よくわからないけど…そうなのかもしれない、とジョーは思った。
 
「だから私が一緒にお風呂に入って、だっこしてゆっくり暖まって…」
「……」
 
ええと…?
一緒にお風呂に入って…だっこして…ってことは、つまり。
…その。
 
ジョーは瞬きした。
 
いや、問題ない。
別に何も問題ないはず。
イワンは赤ん坊なわけだし。
頭脳は大人を遙かに超える…といっても、赤ん坊には変わりない。
…けど。
 
頭脳が…大人を越える…ってことは赤ん坊じゃない…ってことには…ならないか…
ならないよな…うん、ならない…たぶん。
 
「ジョー?」
「え、ええっ?」
「…いいかしら?」
 
澄んだ青い瞳に心配そうに見つめられ、ジョーは思わず何度もうなずいた。
 
何を迷う必要があるんだ、馬鹿か、僕は。
イワンは赤ん坊なんだぞっ!
 
「よかった…それじゃ、今日から…お願いね」
 
フランソワーズはジョーからふと目をそらし、微笑んだ。
 
「ちょっと恥ずかしいけど…イワンのためだものね」
 
ジョーは、心なしか頬を赤らめたフランソワーズをぼんやり見つめた。
 
ええと?
つまり、僕は…
 
何を…頼まれたんだ?
 
 
 
とにかく、他の仲間がいないときで、よかった。
大丈夫、きっとすぐ慣れるし…慣れれば、なんでもなくなるんだ、もちろん。
 
ジョーは居間の端から端まで何度も行ったり来たりしながら、懸命に深呼吸を繰り返し、自分に言い聞かせ続けていた。
ソファの上には、赤ん坊用のバスタオルと、肌着と、着替えと、おしめが用意してある。
 
なんでもないことなんだから。
ただ、イワンをここに連れてきて、よく拭いてあげて、着替えをさせてあげればいい。
素早く、湯冷めしないように。
今までだって、何度もしたことがある。
大丈夫…大丈夫にきまってる。
 
とにかく、自然にしていればいいんだ。
みんなが見たとしても、何の疑問も感じないようにしなくちゃ…。
 
「ジョー…、お願い…!」
 
通信に、ジョーはぎくりと顔を上げ、拳を握りしめた。
…どうしよう。
 
どうしよう、とか言ってる場合じゃないっ!
すみやかに、自然に…
 
ジョーはバスタオルをぞんざいにつかむと、堅く唇を結び、大股でバスルームへと急いだ。
深呼吸してそっと扉を開く。
温かい湿った空気。
そして。
 
「はい…お願いね」
 
よそ見していたら、ちゃんと受け取れない。
ジョーは勇気を振り絞って顔を上げた。
 
つまり、受け取るべきモノ…うっすらバラ色の肌をした赤ん坊…だけを見ればいいのだ、そうだ。
 
「…大丈夫?」
 
もちろん、大丈夫だとも!
 
イワンを抱き取るなり、くるっと背を向け、猛然と駆け出したジョーを、フランソワーズはあっけにとられて見送った。
 
「そんなに…急がなくても…」
 
009にかぎって、家の中で転んだりするはずはないけれど。
 
フランソワーズは、ジョーがソファにイワンを下ろし、手際よく体を拭いてやるのを「目」で見届けると、ほっと息をついた。
体に巻き付けたバスタオルをはずして、浴室に戻る。
ゆっくりバスタブに入りなおすと、ふっと全身の力が抜けていくような気がした。
 
「やっぱり…緊張しちゃったわ…」
 
つぶやき、そっと両頬を押さえた。
 
駄目ね、私。
ジョーは、なんでもない様子だったのに。
 
 
 
赤ん坊の世話というのは、所詮日常の雑事なのだった。
と、ジョーは改めて思った。
 
もし、フランソワーズが1人でイワンの世話をしているのだったら、自分の入浴は二の次にするしかないだろう。
それはそれで、慣れてしまえばきっと日常になる。
 
でも、せっかく手伝える人間がいるのだから、手伝ってあげればいい。
それだけのことだ。
赤ん坊を信頼できる者の手に託すことができれば、彼女はその後安心してゆっくり入浴できる。
できるならそうした方がいいのだ。
 
いつの間にか、気にならなくなっていた。
イワンを受け取るとき、見えているはずの白い肩や、ふれあっているはずの柔らかい腕や、鼻孔をくすぐっているはずの甘い香りや…とにかく、そういうものを全然感じなくなっているのに、ある日ジョーは気づいた。
 
フランソワーズの方も気にしていないようだった。
そんなわけで、昨日などは、彼女に乞われるまま、彼女の体に巻かれたバスタオルの端をきっちり押し込み直してあげたりもしたのだ。彼女は、「ありがとう」とにっこり笑って、いつものように、彼にイワンを手渡した。
 
こんなことをしているのを、仲間に…特にジェットあたりに知られたら、何を言われるか…と思っていたけれど、それも今となってはなんでもないことだ、とジョーは思った。
彼がどんなにからかっても、もう平然としていられるだろう。
 
赤ん坊を風呂に入れる。
その手伝いをする。
 
そこにそれ以外の何があるというのか。
あるような気がしていたのは、その仕事が身についていなかったからなのだ。
 
…そうだ、仕事だ。
 
ジョーは几帳面にイワンの肌から水滴を拭き取りながら、心でつぶやいた。
 
これだって、僕の仕事なんだ。
仕事に私情は禁物だよな、どんな場合でも。
私情…というか、なんというか。
 
「でも、愛情はこもっていてほしいな」
 
不意打ちをくらって、ジョーは飛び上がりそうになった。
 
「…イワン…起きてたのか?」
「ウン。君の気持ち、わからなくもないけどね」
 
わからなくていいよ。
ったく、油断も隙も……。
 
「まぁ、そのへんが君の限界なのかもしれない。でも、フランソワーズは違うよ」
「……。」
「彼女は、コレを『仕事』だなんて思っていない。心から僕を愛してくれているんだ。すごくあったかくて…やわらかくて、幸せな気分になれる。悪いけど、他のみんなとは雲泥の差だね」
 
そりゃ…そうだろうけど。
 
「君の世話の仕方も悪くない。誠実で、さばさばしてる。夢見心地から現実に帰るのにちょうどいい感じかな」
「…そう」
 
この赤ん坊に、不愉快を隠す必要はない。どうせお見通しなのだから。
 
 
 
「愛情…か」
 
顎まで湯につかりながら、ジョーは口の中でつぶやいた。
 
…あなたは、愛するってことがわからないのね。
 
そう言われたのは、いつのことだったろう。
遠い昔、ただの少年だった彼にそう言い放った少女の顔を、ジョーはもう覚えていない。
ただ、悲しみに満ちたその声だけが、時折、痛みとともによみがえる。
 
イワンは、たぶん寝起きの機嫌が悪かったんだろう。
と、ジョーは思った。
 
もうあと10分早く目覚めていたら、大好きな優しい胸の中で、至福の時を過ごしていたはずだったのだ。
いまいましかったに違いない。
 
イワンは、知っている。
かつて、自分を温かく包んだ腕を。
 
その記憶が彼にとって優しいものなのか残酷なものなのかは…計り知れないけれど。
でも、少なくとも彼がそれを知っているのだとしたら…きっと、受け取ることもできる。
彼女のぬくもりを、安らぎとともに。
 
きっと、僕には…わからないんだろうな。
もし、僕がイワンだったとして。
もし、彼女に同じようにしてもらっても……
 
そこまで考え、ジョーは思わず天井を仰いだ。
 
…馬鹿。
何考えてるんだ、僕は。
 
ジョーは物憂げに手を伸ばし、壁のタイルにひっかけてあったゴムのアヒルを取った。
フランソワーズが買ってきたのだ。
これを浮かべるとイワンが喜ぶのだという。
 
原子力潜水艦の設計を楽々こなす赤ん坊が、ゴムのアヒルを風呂桶に浮かべて、何が嬉しいか。
 
なんて、フランソワーズは考えないんだろう。きっと。
僕にはとても真似できない。
 
水色のアヒルがぷかぷか浮いているのをぼーっと眺め、ジョーはため息をついた。
ちょっと沈めてみる。
手を離すと、浮かんでくる。
 
これで、遊んでいたのか。
こんなふうに。
 
楽しい…のかなぁ…?
 
よくわからない。
ジョーはもう一度ぐいっとアヒルの頭を押さえつけるようにして、沈めた。
手を離すと、勢いよく浮かび上がる。
 
もう一度。
 
今度は底につくまで沈めよう…としたら、手元が狂った。
アヒルは、思いがけず、すぐ近くの水面に浮かび上がった。
 
「ぅわっ!」
 
思わず声が出てしまった。
つい水面をたたいてしまい、しぶきが顔にかかる。
ぎゅっと目をつぶり、手でぬぐおうとしたとき。
 
柔らかいタオルで、ごしごし顔を拭かれてしまった。
 
「な…っ?!」
 
驚いて首を振り、目を見開くと…
笑いを含んだ青い瞳が、少し心配そうに見つめていた。
 
声も出せず見上げていると、フランソワーズは柔らかく笑った。
 
「びっくりしちゃったのね…大丈夫…もう、大丈夫よ」
 
アヒルさんはおしまいにしましょうね、と彼女はそのおもちゃをもとの場所にかけ直した。
いつのまにか彼女の腕に抱かれ、膝の上にちょこん、とのせられている。
 
わけがわからない。
…が。
いきなり抱き寄せられ、ジョーは息を呑んだ。
ものすごく柔らかいものが手に触れる。いや、手だけではない。
全身がすっぽりそれに包まれて…
 
わああっ!とか何とか叫んだのかもしれない。
気づいたら、ジョーはバスタブの真ん中に突っ立っていた。
 
な、なんだ…今の?!
 
あわててぐるっとあたりを見回した。
水色のアヒルは壁のタイルにきちんとかかっている。
 
夢ではない…としたら。
 
ジョーはゆっくり深呼吸を繰り返した。
 
きまってる。
イワンだ。
 
 
 
「醒めるのがさ、はやすぎるんだよな君は」
 
にらみつけてもモノともしない。
赤ん坊は腕の中でミルクを飲みながら、すまして言うのだった。
返事をする必要などない。
どうせ、こちらの気持ちは筒抜けに…
 
「いや、そうでもないんだよ、009…君の心はすごくガードが堅い。一見そうは見えないんだけど。わかりやすいトコロは超能力なんて必要ないくらいわかりやすいんだけどさ、わからないトコロとなったら、僕の力をもってしても…」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く飲めよ。フランソワーズに言いつけるぞ」
「ふふっ」
 
何がおかしいのかわからない。
もっとも、本当に笑っているわけではなく、テレパシーなのだが。
 
「どういう…つもりだったんだ?」
「説明するのは難しいな…つまり、言葉では説明できないことを伝えようとしてた途中で、君が醒めちゃったわけだから」
 
なんだよ、それ。
 
「10分ぐらいで伝えるつもりだったのに、10秒で覚醒されちゃったら話にならない。さすが009、洗脳には強いね」
「洗脳…?」
 
穏当でない言葉に、ジョーは哺乳瓶をぐい、と引きはがすように奪い取った。
 
「…あ。怒ったかい?」
「当たり前だろう!いくら仲間だって…君が赤ん坊だからって、やっていいことと悪いことがある…!いいか、001、僕たちは力をむやみに使ってはいけないんだ…!いや、君がしたことはそれ以前の……って、え?」
 
バラ色だった001の肌が急速に朱に染まり、柔らかい体が激しく緊張し、一瞬小さく縮んだ…と思った次の瞬間。
すさまじい鳴き声が研究所を揺るがした。
 
「イ、イワン〜〜?!」
「…どうしたの…?イワン…?!」
 
あっという間に軽い足音が駆けつけ、ドアが開く。
001は激しく泣きながら浮かび上がり、フランソワーズの腕の中に舞い降りた。
 
「ご…ごめん…なさい…っ、ゼロ…ゼロ、ナイン…ご…めん…っ、ご…」
 
切れ切れのテレパシーに、フランソワーズは当惑してジョーを見やり…イワンを見下ろした。
 
「どうしたの…?いいこね…泣かないの…ね、イワン…」
「ご…めんなさい…ごめ…ん…」
「いいのよ…ね、そうでしょう、ジョー…?イワン、ごめんなさい…って言ってるんだもの…許してあげるわよね…?」
 
優しい声に、カッと頬が紅潮する。
 
ハメられた!
 
どうにもならない。
怪訝そうな…いくぶん非難の色がこもった青い瞳の追及を避けるため、ジョーは足早に居間を飛び出した。
 
 
 
「…それで、本当は何があったの?」
 
少し厳しい声で、フランソワーズは泣きやんだイワンを見下ろした。
 
「…ウン。ホントに、僕が悪かった…やりすぎちゃった」
「ジョーを、からかったの…?」
「そういう…わけじゃないけど…」
 
ちょっと、ムッとしたんだ。大人げなかったけど。
いや、それでいいのか。
僕は赤ん坊だ。
 
だって、彼が、あんまり頑なだったから。
それが彼のいいところと言えばそうなんだけど…
でも、僕が世界で一番素敵だと思っているモノをぞんざいに扱うのは勘弁ならない。
 
沈黙するイワンに、フランソワーズは軽くため息をついた。
 
「困った子ね…何も教えてくれないの?ジョーに聞いたって、きっと埒があかないし…ホントに、頑固なところはよく似てるわ」
 
…まさか!
 
叫びそうになるのをイワンは懸命に押さえた。
 
彼と一緒にしないでほしい。
僕は、あんなんじゃない。
 
彼が、あんまりすましかえっているから、意地悪したくなったんだ。
もちろん、僕が悪い…そんなことはわかってる。
 
「イワン…本当に、どうしたの?ケンカした…ってことなの?」
「…そういう、わけじゃないよ…もういいんだ、フランソワーズ」
「でも…」
「僕が…いけなかった。ジョーに、僕の大事なものを少しだけ分けてあげようとしたんだ」
「大事な…もの?」
「ウン…でも、それは分けてあげられるモノではなかった。だから、ジョーは怒ったんだよ」
 
結局、きっぱり拒絶されてしまった。
10秒で。
当然と言えば当然なんだけど。
僕にとっての彼女と、彼にとっての彼女は全然違うんだから。
 
…いや。
ホントに違うのかな。
 
そこが、僕にももうひとつ読み切れない。
それは、彼の心の闇。
どうしても覗くことができない、漆黒の。
 
 
 
こんな夜がくるとは…思っていなかった。
これは、本当のことなんだろうか。
 
ジョーはおそるおそる腕の中の恋人をのぞきこんだ。
そっと柔らかい髪に触れてみる。
 
「フランソワーズ…?」
 
閉ざされていたまぶたがゆっくり持ち上がった。
 
「…いい…のか…?」
 
返事の代わりに、青い瞳が海のように震える。
息がつまるような衝動にかられて、唇を重ねた。
 
ずっと…ずっと、こうしたかった。
気が遠くなるほど長い年月。
僕の傍らにはいつも君がいて。
 
もう、止められない。
 
こんな夜がくるとは、思っていなかったんだ。
ほんとうに…でも。
 
「なんど…も…」
 
烈しい鼓動。
息が乱れる。
 
「…ジョー…?」
「なんども…きみに、ふれた…のに」
「…あ…っ」
「おぼえてる…?」
 
瓦礫の下で。
暗い海の底で。
乾いた風が吹き荒れる荒野で。
 
何度抱きしめたろう、この腕の中に。
あんなに、無造作に。
…でも。
 
もう、だめかもしれない。
僕は、二度と君に触れることができない。
きっと。
この、熱い想いなしに。
 
止めるなら、今しかない。
どこかでそうつぶやく声を聞きながら、ジョーは強く彼女を抱き寄せた。
細い悲鳴が暗い部屋に満ちる。
 
もう遅い。
 
そこが瓦礫の下でも。海の底でも。地の果てでも。
僕は君を抱きしめてしまうだろう。
抱きしめて、すべてを奪ってしまうだろう。
ただ触れるだけなんて、もう二度と、僕には。
 
愛しい、愛しい、愛しい、僕のフランソワーズ。
 
でも、ほんとうに。
ほんとうに、僕は思っていなかった。
こんな夜がくるなんて。
 
ほんとうだよ…フランソワーズ。
 
 
 
「あなたは、後悔…してる?」
「何を?」
 
心底不思議そうに見つめ返すジョーに、フランソワーズは微笑した。
 
「ううん…そんなはずないわね」
「フランソワーズ?」
 
後悔はしない。どんなときも。
 
それが、いつもの約束。
明日がわからない私たちだから。
…でも。
 
不意に強く抱き寄せられ、フランソワーズは思わず目を見開いた。
深い茶色の目が思い詰めたように見つめている。
 
「君は…後悔してるの…?」
 
震える声。
フランソワーズは優しく首を振った。
が、ジョーは抱きしめる腕に一層力を込め、彼女の胸に顔を押しつけるように埋めた。
 
「だめだよ…後悔したって、だめだ」
「後悔なんかしていないわ…私は、ただ…」
「だめだってば…!」
 
後悔は、していない。
でも…このひとは。
 
フランソワーズはそっとジョーの背中を抱きしめた。
子供をなだめるように。
 
あなたは…こうならなかったほうが幸せだったような気がするの。
でも…それは、無理ね。
 
私たち、近づきすぎた。
近づかずにはいられなかったから。
それも、ほんとうのこと。
 
「ね、ジョー…変なこと言ってごめんなさい…帰りましょう。夕ご飯、作らなくちゃ」
「…フランソワーズ」
 
気づかれているのかもしれない。
君には、何も隠せない。
 
優しく腕をふりほどき、研究所へゆっくり歩き出す恋人を、ジョーはぼんやり見送った。
 
どんなに君を抱きしめても、君に抱きしめられても…満たされない何かが、ある。
僕の心の奥に。
 
僕を温かく包んでくれる何か。
限りなく優しく、甘い…何か。
 
どうして僕がそんなものを知っているのか…わからない。
幻のような、微かな記憶。
あるはずのない記憶なのに。
 
でも。
でも、フランソワーズ。
 
君を抱きしめることができなければ。
君に抱きしめてもらえなくなったら。
僕は、生きていけない。
 
君の代わりなんて、どこにもいない。
…だから。
 
ふとフランソワーズが足を止め、耳をすませた。
 
「たいへん…!」
「どうしたんだ?」
「イワンが、目を覚ましたのよ…泣いてる…ミルクがほしいみたい」
「え…もう?予定では、明日あたりだったんじゃ…」
「そうね…もしかしたら、悪い夢を見たのかしら…?」
 
気遣わしげに顔を曇らせ、駆け出そうとするフランソワーズに、ジョーは弾かれたように駆け寄り、強く肩を引き寄せて振り向かせた。
 
「ジョー…?」
「そんなに…急がなくてもいいよ。博士がいるんだし」
「でも」
「…いいから」
 
戸惑うフランソワーズを、ジョーは強引に抱きしめた。
どうしても、手放したくなかった。
行かせたくない。
今は。
 
「どうしたの、ジョー?離して」
 
いやだ。
離さない。
 
遠く、赤子の泣き声が聞こえる。
イワンの声のようにも、そうではないようにも思えた。
 
ジョーはフランソワーズの抗議を唇でふさぎながら、その体にそっと掌を滑らせた。
確かめるように。
 
きっと、すべては君の中にある。
僕がほしいものはみんな。
手に入るものも、入らないものも。
 
みんな、君の中にあるんだ。
 
 
更新日時:
2004.04.27 Tue.
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Last updated: 2013/8/18