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  10   四人目の男
 
 
凄まじい雄叫びと共に、土埃が上がった。
 
「ストライック!バッターアウト!」
「ちっくしょおおおおおおうっ!!!!」
 
身を起こしたジェットは、落ち着き払ってマウンドを降りる、長身で細身のピッチャーをにらみつけた。
 
「卑怯者のくそったれがっ!……堂々と勝負しやがれっ!」
「堂々勝負のど真ん中だったアルよ。それも三球連続ね」
 
張々湖がのんびり言いながら、吹っ飛んだジェットのヘルメットを拾い、埃をはらった。
これで、8回の裏が終了。
 
「しかし、ジェットはん相手に、ホントに堂々ど真ん中勝負し続けるとは、できそうでできないことアル。やっかいな相手ねえ……この分じゃホントに延長になるアル」
「望むところだよ、大人」
 
背後からかけられたジョーの柔らかい声に思わず肩をすくめ、張々湖は無言でセカンドの守りへと走った。
 
準決勝。
イシノモリ高校の相手は、初出場のキラードス高校だった。
投打ともバランスの取れた、しかし決め手にかけるチーム…という前評判だったが、意外にしぶとく勝ち上がってきていた。
そして、この準決勝でも、8回を終えて両者無得点。
キラードス打線は、ジョーの好投の前に他愛ないほど無力で、気付けばジョーはここまでパーフェクトを続けている。
一方、にもかかわらず、イシノモリ高校もまた得点できずにいた。
ヒットは出る、犠打は決まる……のだが、それらがもうひとつつながらず、チャンスらしいチャンスにならない。
 
試合は淡々と続いた。
見せ場もチャンスもピンチもなく、ただ続いた。
実のところ、ジョーについて言えば、完全試合達成という大記録もかかっているのに、誰もがうっかりそれを忘れてしまいそうなほど淡々と続いた。
 
「非常識なまでの勝負への執念……いや、ただただ負けたくない、という執念だな、こりゃ」
 
ハインリヒはベンチで思わずほやいていた。
 
9回に入ってもジョーの調子は落ちていない、とピュンマは感じた。
やはり決め手に欠けていたモーゼ学院戦と一見よく似た試合展開だったが、大きな違いは、なぜか「負ける気がしない」ということだった。
それは油断につながる危険な感覚だと思うものの、そう感じずにいられない。
で、ジョーもそう思っているようで、焦る様子がまったく見られないのだった。
 
それにしても……。
ピュンマはジョーの投げた球数を思い、息をついた。
延長はマズい。
この試合に負ける気はどーしてもしないのだが、勝てば次に待っているのはヨミとの決戦だ。
こんなところで彼をじわじわ消耗させるのは本意ではない。
 
まったく、ダニのようなヤツらだ、とピュンマは忌々しく思う。
といっても、そのダニをきっぱり打ち崩すことができないのだから自分が情けない。
いや、焦ってはいけない、のだが……。
 
「アウトっ!」
 
…三者凡退。
 
やれやれ、とピュンマは立ち上がった。
いよいよ9回の裏だ。
自分にも打順が回ってくる。
 
「悪かったな、ジョー。……次で必ず決める」
 
声をかけると、ジョーはふと遠くを見る眼差しになり、それから静かに微笑した。
 
「…ジョー?」
「気を悪くしないでくれよ、ピュンマ。延長になるような気がしているんだ。でも、僕たちは負けないさ……何があっても、ね」
 
 
 
9回の裏。
キラードス高校の投手は3番手のシヴァ。7回から登板している。
…といっても。
バッターボックスに向かいながら、張々湖はうーん、と首をひねっていた。
 
「さすが三つ子アル……ホントに別人アルかね?」
 
もちろん、別人なのだ。
既に投げ終わった同じ顔の投手が、ちゃんとベンチに二人いるのだから。
 
キラードス高校は、ブラフマー、ビシュヌ、シヴァという三人の投手を擁していた。
彼らは三つ子、ということで、外見上の区別がほとんどつかない。
唯一の決め手がホクロだった。
ブラフマーは顎、ビシュヌは右頬、シヴァは左頬にある……という。が、バッターボックスからでは確認できない。
ということは、そんな違いはどうでもいいことだともいえる。
 
球威も球種も球筋も、投球の癖さえも三人は瓜二つだった。
そして、きっちり三回ずつ投げ、その三回を守りきる。
地区予選からここまで、そうやって勝利を重ねてきたのだった。
 
「こっちはどうしてもコイツらを別人だと思うアル……それが案外、落とし穴かもしれないねえ……いっそ、1人だと思ってしまえばいいかね?」
 
張々湖は深呼吸してバットを構えた。
やってみよう、と思う。
1回の表、ピッチャーはブラフマー。
そうイメージした。
 
1球目は高めのストレート。ボール。
2球目、ゆるく曲がるカーブ。ストライク。
3球目、またストレート、今度は低めに外してボール。
 
……と、いうことは!
 
「見えた、アルねっ!」
 
ワテは、アンタをよく知ってるアルよーーーっ!
 
4球目。
シヴァがモーションに入った瞬間、張々湖の体が跳ねた。
はっと息をのむ観衆。
 
「秘打、回鍋肉アル〜〜っ!!!!!」
 
――真夏にはスタミナとビタミン、これ大切ねっ!
 
小気味良い音を響かせ、打球が飛んだ。
 
「やった!大人!」
「ついに捕らえたぞ…!」
 
イワンとピュンマが思わず立ち上がった。
大歓声の中、一塁を駆け抜けた張々湖が得意そうに手を振っている。
 
「さあっ、これからが本番アル!……イワン!」
「もちろんさ!まかせといてよ、大人!」
 
意気込んでイワンがバッターボックスに向かったとき、審判が動いた。
 
「……え?」
「まさか……投手交代?」
 
スタンドがどよめいた。
シヴァがマウンドを降り、代わりにベンチから現れたのは……
 
「また…同じ顔アルよ?」
「馬鹿な!」
 
アナウンスが響く。
 
「キラードス高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、シヴァくんに代わり、ガンダールくん。ピッチャー、ガンダールくん。背番号、4」
 
イワンは思わずピュンマを振り返った。
ピュンマはただゆっくり首を振った。
初めて聞く名前だ。
 
「秘密兵器……アルか?いや、もしかして、コレってインチキ……ブラフマーかビシュヌなんじゃ……」
 
一塁で屈伸しながら、張々湖はちらっとキラードス高校のベンチを覗いた……が。
そこには同じ顔がちゃんと三つ並んでいる。
 
「…あ。ガンダールくんには、ホクロがないアルか?」
 
思わずつぶやいた。
が、もちろんそんなことはどうでもいいのだと思い直し、張々湖はぴょん、と跳ねてみた。
 
「なんか、イヤな予感がするアルねえ……」
 
 
 
張々湖の「イヤな予感」は的中した。
続くイワンがあっけなく内野ゴロに倒れたのだった。
 
見かけよりも身軽で足の速い張々湖が二塁へ疾走するのをガンダールは落ち着いて確かめ、着実に一塁へ送球した。
これで、ワン・アウト。
 
イワンが悔しそうにガンダールを見やり、ピュンマに目を移した。
ピュンマはうなずいた。
 
「わかってる、イワン……お前のアウト、無駄にしないさ」
 
――今までの3人と違う。
 
ピュンマはガンダールを見据え、バットを構えた。
ここまでの、どこかのんびりした気分は雲散霧消していた。
 
――コイツ、二塁を刺そうとしなかった。
 
張々湖はサヨナラのランナーだ。
続くバッターは、イシノモリ高校、不動の四番打者ピュンマ。
 
イワンの打球と張々湖の走力。二塁は刺せるか刺せないか、ぎりぎりのタイミングだった。
普通の投手なら、本能的に二塁にボールを送るだろう。
仮に失敗してランナーが溜まったとしても、張々湖がホームを踏めばそこで終わるのだ。
イワンをランナーとして数える必要はない。
 
――だが、コイツはそうしなかった。
 
張々湖をスコアリングポジションに進めても、アウトを一つ確実に取る。
もし、一か八か二塁に投げ、それが大当りのダブルプレーだとしても、まだ二死だ。
ピュンマにホームランを打たれればやはり終わってしまう。
とにかく、アウトを三つとらない限り、どうしたって試合は終わる。
 
――つまり……僕を討ち取るつもりでいる、ということだ。
 
ここまで、キラードス高校はピュンマに対してほぼ完璧な敬遠策をとっていた。
スコアリングポジションにランナーがいるときはあからさまな敬遠。
ランナーがいないときは、四球を覚悟の上での勝負。
 
今、一塁は空いている。スコアリングポジションにサヨナラのランナーもいる。
間違いなく、敬遠のパターンだ。
しかし、おそらく……
 
――コイツは、アウトを取ることしか考えていない。
 
ピュンマの予想どおり、キャッチャーは立ち上がらなかった。
じっと見つめると、ガンダールは意外なほど線が細く、優しげな顔立ちの青年だ。
 
「ストライクっ!……アウト!」
 
球場が大きく揺れる。
ピュンマのバットが続けて三回、空を切ったのだった。
 
「三球……三振。ツーアウト、か」
 
ジョーはつぶやき、戻ってきたピュンマにキャッチャーミットを投げた。
 
「……面白く、なってきたじゃないか、ピュンマ」
「勘弁してくれよ、ジョー」
 
苦笑するピュンマは、しかし思いのほか明るい表情だった。
 
「今、わかったよ。あのガンダールというピッチャー……お前に似ている」
「……僕に?」
「ああ。たしかに、面白い相手だ」
 
 
 
ピュンマの読み通り、ガンダールはある意味単純なピッチャーだった。
作戦も何もない。
ただ、ひたすらアウトを積み重ねようと努力しているだけに見えた。
恐ろしくシンプルで、それだけに攻略の糸口もない。
試合は両者凡退を重ね、延長11回の裏、イシノモリ高校の攻撃に入っていた。
先頭打者は9番、ジョー。
 
――お前に似ている。
 
ここまで、ガンダールの投球を注意深く見つめていたが、彼のどこが自分と似ているのか、ジョーにはわからなかった。
が、ピュンマが言うのだから、それは間違っていないだろう。
だとすると……
 
初球。
ジョーは素早くバントの構えを取った。
 
コン、と勢いを殺されたボールが、三塁線上をゆっくり転がり……止まった。
セーフティバントが成功した。
 
「……よし!」
 
沸き立つベンチの中で大きくうなずくピュンマの姿を認め、ジョーはじっとガンダールを見つめた。
 
――僕に似ているというのなら、僕がされるとイヤなことをしてやればいい……ってことだ。
 
続くバッターはジェット。
その初球、わずかなモーションの隙をついて、ジョーは盗塁に成功した。
その後、ジェットは三振に倒れ、ワンアウト二塁。
 
二塁上でガンダールの背中を睨みつつ、ジョーはまた走った。
同時に張々湖が鋭いピッチャー返しを放った……が、ガンダールは素早くそれを止め、落ち着いて一塁を刺した。
ツーアウト三塁。
 
グラウンドの空気が動き始めるのをジョーは感じていた。
もう少し。
もう一押しで、この均衡が崩れる。
それが、勝負のときだ。
 
しかし、そのあと一押しがうまくいかない。
肝心のガンダールにまったく動揺が見られないのだった。
彼はあくまで静かで、穏やかで、優しげな空気を身にまとっている。
その空気を、バッターボックスに立ったイワンもまた感じていた。
 
「一応二回目だからね。さっきのようなわけには……いかないよ」
 
イワンは、注意深くガンダールを見つめ……ふと目をそらして三塁上のジョーを見つめた。
たしかに、よく似ている。
 
「……とはいえ、参ったな。一番イヤな相手だ……正直、打てるとは思えない……けど」
 
だったら、どうするか。
イワンは不敵に微笑すると、悠然とバットを構えた。
 
13本のファウルで粘った揚げ句、イワンは四球で出塁した。
ツーアウト一塁・三塁。
 
「19球投げさせたか……鬼だな、イワン」
 
バッターボックスに向かいながら、ピュンマは思わず肩をすくめていた。
イワンの四球狙いは、第一には自分につなぐための作戦だったのだろうが、それだけではなかった。カウントがツースリーになってから、イワンは少なくとも3回、明らかなボール球をファウルしたのだ。
 
「僕と同じことを考えたんだろうが……やることがえげつないよなあ……」
 
絶対に敵には回したくない男だ。
澄ました顔で一塁に立つイワンを見やり、ピュンマはひそかに息をついた。
 
ガンダールは、ジョーと似たタイプの投手だ……ということは。
つまり、これといった欠点がない、ということでもある。
 
ジョー自身は、精一杯考えて、自分がされるとイヤなこと……セーフティバントと盗塁……をやったわけだが、たかがそれぐらいのことで心を揺らすジョーではない。ピュンマはそれをよく知っていた。
 
「ジョー。お前を倒そうと思ったら……惨いが、体力を奪うしかない。気力を奪うことは絶対にできないんだからな」
 
ガンダールについて言えば、勝算は大いにある。
彼が、この準決勝で初めて出てきた「4番目の男」であることが、その決め手だ、とピュンマは思った。
ガンダールは、明らかにブラフマーたちよりも格上の投手だった。
その彼が先発でもなく中継ぎでもなくストッパーでもなく、秘密兵器として温存されているのは、要するに、彼に長いイニングを投げるだけの体力がないからだ。
 
ブラフマーたちの限界が、3イニング。
ということは、ガンダールのそれは更に短い、とピュンマは考えた。
 
バッターボックスに入り、ゆっくり構える……と。
不意に、ガンダールがプレートを外した。
はっとするのと同時に、スタンドから悲鳴が響いた。
ガンダールがふっと体をふらつかせ、その場に膝をついたのだった。
 
キラードス高校の監督が慌ててタイムをかけ、マウンドに駆け寄った。
同時に、担架も運ばれた。
……が。
 
球場は大歓声に包まれた。
青白い顔で、それでもガンダールは立ち上がったのだった。
穏やかな仕草で担架を拒否し、立ち上がると、ガンダールは帽子を取り、ピュンマに軽く一礼した。
勝負に水を差してしまい、申し訳ありません、ということのようだった。
 
「すてきーっ!ガンダールさま!」
「ガンダールさま、がんばって……!」
「いやーっ!死なないで、ガンダールさまーっ!」
 
次々に必死、といった風情の黄色い声が飛ぶ。
初登場から1時間とたっていないのに、いつのまにか少女たちから「さま」付けで呼ばれてしまうあたりも、ジョーに似ている、といえる。
 
「……なんか、やりにくいな」
 
ぼやいたが、そんなことを考えている場合ではない。
一方で、三塁ではジョーもまた、少女たちの声援を浴びているのだった。
 
結局。
ガンダールが渾身の力を込めて放った……ものの、力はほとんどない初球を、ピュンマは容赦なくクリーンにはね返した。サヨナラヒット、ゲームセット。
少女たちの悲鳴を聞きながら一塁に走りつつ、ピュンマは、本当の鬼は僕なのかもしれない、などと思うのだった。
 
 
 
「すごい!ジョーくん、完全試合ですよ!おめでとう、フランソワーズさん!」
「おめでとう…!いよいよ決勝ですね…!」
 
病院のロビーは静かな歓喜に包まれていた。
フランソワーズは僅かに頬を染めながら、次々にかけられる祝福の言葉に笑顔で応え続けた。
…ところが。
 
「ありがとうございます、皆さん………あり…が……」
「…え?……フランソワーズさん?!」
「どうしました?!……しっかり!」
「おい、マズイんじゃないか?…先生を、グレート先生を、早く!」
 
ロビーは瞬時に騒然となった。
笑顔だったフランソワーズが突然、蒼白になったかと思うと、その場にくずおれたのだった。
ほどなく駆けつけたグレートは、脈を取るなり、顔色を変えた。
 
「集中治療室の準備を……!早く!」
「…あ、あの…!」
「ぐずぐずするな!」
 
スタッフを一喝したグレートは、その怒号にびくっと身を震わせ、おずおず後ずさりした少女にまったく気づかなかった。
やがて慌ただしくストレッチャーが到着し、ぐったりとしたフランソワーズが乗せられた。
 
「……フランソワーズ……さん……」
 
グレートたちが去った廊下を見つめ、ヘレンは震えながら立ちつくしていた。
先日、勇気をふるってフランソワーズに会い、優しい言葉をかけられたことをきっかけに、もう一度甲子園に戻ろう、彼らの戦いを見届けようと決意することができたのだった。
そのことを伝え、礼を言うつもりで、ヘレンは再び病院を訪れた。折良く、イシノモリ高校は、ジョーの完全試合で決勝進出を決めたところだった。
思わず歓声を上げ、フランソワーズに駆け寄ろうとした、のに……。
 
どうしたらいいかわからず、といってそこを離れる気にもならず、呆然と座り込んで、どれくらいたっただろう。
慌ただしい足音に、ヘレンはふと顔を上げた。
息せききって駆け込んでくる二人の老人に、見覚えがある。
 
「ウラノス先生と……ドクター・ギルモア…?」
 
ヘレンははっと立ち上がり、足音を忍ばせて、二人の後を追った。
二人とも、ジョーに縁のある老医師だということを、ヘレンは知っていた。
 
ギルモアとウラノスは、集中治療室をガラス越しに長い間眺めていた。
まず沈黙を破ったのはギルモアだった。
 
「ウラノスくん……これは、ジョーくんを呼ばなければなるまい。いくら彼女が望んだ事だとは言っても……」
「そうはいかんのだよ、ギルモアくん。約束は神聖なものだ。フランソワーズさんは、いいかげんなことを言う女性ではない。文字通り、彼女は命を賭けて誓い、私に頼んだのだから……明日は決勝戦だ。ジョーくんは、戦わねばならない」
「…馬鹿な!第一、明日というが、知ってのとおり、明日は豪雨になるという予報が出ておる…おそらく試合は延期になるし、駆けつけようにも、交通機関が麻痺してしまうかもしれないのだ!」
「フランソワーズさんは死んだりせん。彼女は、ジョーくんと誓ったのだから…!」
「それは、ただの希望的観測じゃろう!考えてもみたまえ、彼女はジョーくんにとっては、たった1人の母親であり、肉親でもある!…彼にとって、この世にフランソワーズさんより大切なモノなどあるわけはないだろう!」
「だから!……だからこそ、なのだよ、ギルモアくん!」
「だから、とはどういうことだ?…わしは…わしは納得できん!」
 
それ以上聞くのが恐ろしかった。
ヘレンは耳を塞ぐようにして少しずつ後ずさりしていった。
 
どうやって病院を出たのか、よく覚えていない。
生ぬるい風が頬を撫でていく。
 
「……ジョー」
 
ヘレンは、よどんだ空を仰ぎ、彼の穏やかな眼差しを思った。
もし、あの優しい母親を失ったら……それも、自分が知らないうちに、何も知らされることもなく、別れを告げることさえできずに失ったら……ジョーは、あの人はどうなってしまうのだろう。
 
伝えなければいけない、と思う。
しかし。
 
――スパイ、というわけか!
 
吐き捨てるようなハインリヒの声が、今も耳の奥に残っている。
そして、驚きに見開かれた、澄んだ茶色の瞳も。
 
二度と、彼らの……彼の前に姿を現すことはするまい、と心に誓った。
そんな自分を、ビーナは弱虫、となじったけれど……
……でも。
 
「ヘレン……ようやく見つけたぞ」
「…え!」
 
低い声に、ぎくり、と顔を上げると、黒い瞳が静かに見下ろしていた。
 
「……アル……テミス……?」
 
どうして、という問をのみこみ、ヘレンは唇を噛んだ。
結局私はどこにいても、何をしようとも、兄さんの手の平で踊っているだけなのかも……しれない。
ふと、そう思った。


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