1      予感
 
帝は、いつも僕に優しい。
 
ハインリヒ帝といえば、若き名君として敬われ、また畏れられてもいた。
その銀灰色の眼は全てを見通すような鋭い光を秘めている…と言われていて。
でも、僕はそんな光を見たことがない。
 
僕は子供の頃から、しばしば帝の傍近くに呼ばれ、珍しい菓子をもらったり、面白い話を聞かせてもらったり…時には楽や書を習ったりもした。
本当にごく小さい子供の頃からそうだったから、僕はそれを当然のことと思っていたし、両親のいない僕には、帝とそうしてすごす時間が何より幸せだったのだ。
 
少し成長した僕は、さすがに、帝の自分への待遇が尋常でない…ということに気づき、疑問に思った。
そんな僕に、帝は教えてくれた。
彼は亡くなった僕の父…というのはつまり、彼にとっては叔父であり母の後見人でもある人なのだが…に、僕のことをくれぐれも頼む、と言い残されたのだという。
 
一方、父に遅れて亡くなった僕の母は、そういう遺言を何も残さず逝ったそうだ。
あの方は、そういう姫宮だった。子供のころから、自分のために何かを望むことがほとんどなかったそうだ…と言葉少なく語る帝の、母は姉宮にあたる。
 
その頃、帝の傍らには、いつも優しく微笑んでいる美しい人がいた。
帝は、彼女をヒルダ、と呼んでいた。
 
雨の激しく降る寒い夜、眠れずにいた僕は、女房たちが慌ただしく駆け回り、何か囁きあっている声を聞いた。
話の内容はよくわからなかったが…どうやら、内裏でたいへんな事件があったらしい。
翌朝、いつものように帝に文を書いている僕に乳母が言った。
しばらく、内裏へお便りをされてはなりません…と。
 
子供なりに、あれこれ考えたり、女房達の言動に眼を光らせたりしながら…僕がわかったのは、内裏でヒルダが亡くなった…ということだけだった。
通常、帝の傍で人が亡くなるということはない。
その兆候が少しでも現れた者は、即座に帝から引き離される。帝を死の穢れから守るために。
 
ヒルダも、僕に優しかった。
優しいだけでなく、彼女は才気煥発で、一緒にいると気持ちが自然に明るく温かくなるような人だった…と思う。
が、時たま聞こえる女房たちの言葉から、なぜか彼女が多くの人々に憎まれているらしい…ということもわかっていた。
 
それは、彼女の出自がそれほど高くない…にも関わらず、帝の寵愛を独り占めしていたこと…に起因していたのだと知ったのは、ずいぶん大人になってからだ。
帝は、ヒルダ以外の女性は入内すらさせなかったのだから、まさに文字通り、独り占め…だったのだ。
 
それを押し通すことができた、ということだけでも、帝の心の強さに僕は圧倒される。
娘を中宮にしたて、次の帝を誕生させようと血眼になっている貴族達の圧力に、彼は最後まで屈することがなかったのだから。
 
ヒルダは病気にかかっていたらしい。
本来なら、病人だって帝の傍にいることなどできない。
それもまた、帝の恐ろしいまでの強さで押し切られたことなのだろう。
 
が、そんなことも、子供だった僕にはよくわかっていなかった。
ともかく、あのきれいで優しいヒルダが亡くなった…ということだけをどうにか探り当てた僕は、庭から初咲きの梅を折り取り、こっそりと内裏へ走った。
普段はたくさんの供を引き連れ、車でむかう内裏だけど、道は近いし、迷うことなどない。
 
今思うと不思議な気もするが、おそらく内裏の警護の者たちも、貴族の子供が内裏へ駆け込む、なんて事態は想像もしなかったのだろう。不意をつかれた彼らはただうろたえるばかりで、すばしこい僕をつかまえることなどできなかった。
僕は一息に清涼殿まで走り、簀子に飛び上がると、殿上人たちの驚きの声の中をまっすぐに駆け抜けて、簾を跳ね上げ、帝の座所に飛び込んだ。
 
さすがに帝は驚いて声も出せないようだった。
が、息を切らしながらひざまずいた僕が梅の枝を差し出すと、ややあって、帝は小さくうなるような奇妙な声を上げた。
僕が帝の目に涙を見たのは、後にも先にもあのときだけだった…と思う。
 
その頃から、帝は退位を強く望まれるようになった。
正直、貴族達の多くもそれを望んでいたに違いない。ヒルダを亡くしてからも、頑として内裏に誰も迎えようとしなかった帝は結局、東宮はおろか1人の若宮すらお持ちではない。
貴族たちの本音を言えば、一刻も早く帝を退位させ、自分の縁につながる東宮を立てたいところだったろうが、当時は東宮もまだごく幼かったのだ。
何より、強く優れた指導者であるハインリヒ帝に替わる為政者など、そうそう出るものではない。下手に権力に近づきすぎて彼と比べられてしまったら、大抵の貴族はひどく見劣りしただろうし、そこで揚げ足を取られれば、かえって地位を危うくするかもしれなかった。
 
そんなわけで、帝は今でも帝のまま…なのだけれど。
さすがに、それからかなりの年月が過ぎた。
幼かった東宮も美しい若者になられたし、その外戚たちも、それなりに実力をつけてきたのだろう、帝はようやく退位を果たされようとしている。
 
こんなふうに、まるで他人事のように世の流れをながめている僕を、いつも帝はおかしなヤツだ、と笑う。
 
「ジョー、お前、まさか俺と一緒に隠居するつもりでもあるまいな?」
 
たぶん、冗談でそう言われたのだと思うけれど…
僕は、実際そうしたいと思っているのだ。
本当に、心から。
 
 
 
「そんなわけで、お気の毒な姫君…なんだけどね…どう思う、ジョー?」
「どう…って。たしかに、お気の毒なんだろうなあ…」
「でも、興味はない、か」
「…興味、と言われても」
「うーん…僕なんか、興味津々だけどなあ…」
「だったら君がどうにかすればいいよ、ピュンマ」
「まさか!…身分がちがいすぎるし」
 
乳母子のピュンマは、二人だけになると、とたんに言葉遣いが気安くなる。
もっとも、僕もその方が気楽で楽しい。
 
マジメで、頭が良くて、穏やかで優しい性格の彼は、本当に信頼できるヤツなのだけれど、この頃はちょっと辟易している。
どうも、彼は僕に「女性」への興味をもたせようと懸命になっているようなのだ。
おそらく、僕の兄…左大臣の命令をひそかに受けているのだと思う。
 
「それにしても、君はしぶといなあ、ジョー…ホントに女性に関心がないのか?」
「今さら…だなあ…だって、僕の回りには子供の頃から、女性しかいなかったわけだし」
「それは女房たちだろう?君の身分なら、誰だって同じことじゃないか!…ったく、少しは宮様を見習ってほしいよ…」
「ジェットを、かい…?ふふ、たしかに彼なら君をやきもきさせることもないだろうなあ…」
「…別の意味でやきもきしそうだけどね」
 
ピュンマの言葉に、僕は思わず吹き出してしまった。
 
「それで…支度はできているかい、ピュンマ?」
「もちろん…一分の隙もないよ」
「ありがとう…君がそういうなら安心だ。粗相があったら大変だからね」
「粗相…かあ。別に、どうでもいいと思うけどな…大昔に隠匿された、よぼよぼの偏屈な宮さまなんて…っと!」
「口の利き方に気を付けろよ、ピュンマ!…ギルモアさまは、できることなら師と仰がせていただきたいご立派な方だ。僕など足元にも及ばない…」
「はいはい。…君がそういうなら…そうなんだろう、と思って支度したわけだけどね、一応は」
 
ったく、この気合いがどうして妙齢の姫君に向かないかなあ…という彼のぼやきは聞こえなかったことにして、僕は持参するつもりの書物をすばやく点検した。
 
ギルモアさまは、僕の父の弟宮にあたる方だった。
学識に優れ、心も強く、それでいて穏やかな性質の方だったので、若い頃は多くの人に慕われていたのだという。
が、それゆえに権力闘争に巻き込まれ、敗れてしまった。
ちなみに、勝利したのは僕の父だったというのだが。
 
父は、帝の第二皇子として生まれた人だったが、母親の身分が低かったために、成人の際、源の姓を賜り、臣籍に下った。
父自身が皇位に関わることは当然なかったのだが、彼は源氏の長として皇統の守護に当たり、外戚の貴族たちと時に激しく対立することもあったのだ。
 
ギルモアさまは第八皇子だった。
父が後見していた先帝がまだ幼い東宮だった頃、父に対抗する貴族勢力は、ギルモアさまに目をつけた。
東宮を廃太子とし、代わりにギルモアさまを東宮につけようと画策したのだった。
 
当時の東宮…先帝もまた父の弟宮であり、ということはギルモアさまにとっても弟宮にあたる第十皇子だった。末弟の皇子ではあったが、晩年の帝に深く愛された若い中宮を母としていたため、帝の異例とも言える強い望みに押されて立太子を果たされた。
 
帝は、かつて外戚の貴族たちが推すまま、第一皇子に位を譲った。それだけでなく、その地位を脅かすかもしれなかった第二皇子…僕の父を、おそらく断腸の思いで臣籍に下ろしたのだ。
そうしたこと全てとひきかえに、いわば最後の望みとして、帝は自分が最も愛する女性を中宮の座に据え、その皇子を東宮に立てたのだろう。
 
その女性…中宮は内親王であり、身分は非常に高いものの、これといった外戚勢力を後ろ盾にもっていなかった。
そこで、父が彼女と東宮の後見となっていたのだ。
 
父と外戚の貴族達の間で、その時どんな抗争が繰り広げられたのか、僕は知らない。
が、息詰まる駆け引きの末、勝ったのは父だった。
 
敗色が濃厚と見るや、貴族達の多くは掌を返して、我先にと父の元へ走り、父に跪いた。
そして、第八皇子である、という身分を変えようのなかったギルモアさまだけが、ひとり取り残され、敗北の責を負わされたのだった。
 
父のやり方は徹底していた。
東宮を即位させると同時に、退位した兄帝の若宮…つまり、ハインリヒ帝を新しい東宮にたてたのだ。
ハインリヒ帝の母はやはり内親王で、父が後ろ盾をしている女御だった。
 
こうして、父は先帝とハインリヒ帝の二代にわたって、内親王を母に持つ帝を立て、自分は源氏として強力な皇統の守護者となったのだった。
 
父とギルモアさまはその後、仲違いを続けていたわけではなかったらしい。
むしろ仲むつまじい兄弟であることは父が亡くなるまで変わらなかったのだという。
だから…かもしれない。
おそらく、父と相争う立場に担ぎ出され利用されることが二度とないように…と考え、ギルモアさまは自ら隠居され、北の方とともに、都のはずれの山奥に入られたのだろう。
そして、その北の方も数年前に亡くなられている。
 
僕が、ギルモアさまのことを詳しく知ったのは、ハインリヒ帝にギルモアさまからの文が届けられたトコロにちょうど居合わせて、その話を聞いたとき。
不思議と、心が動いた。
 
帝は、ギルモアさまの学識の高さ、人柄の高潔さについて語り、文を見せてくれた。
単純な時候の挨拶…だったが、その手跡と文体は、僕をあやしいまでに引きつけた。
僕はまもなく、彼に文を送るようになり…文通を始めた。
 
僕が彼に惹かれたのは、彼のどこかに僕と同じような…影、のようなものを感じたからなのかもしれない。
彼の手跡も文章も見事としか言いようのない端正なものだったし、はかりしれない学識の深みをうかがうこともできた…のだが。
その中に、どうしようもない寂しさ…孤独…絶望のようなものも、僕は感じとったのだ。
何をしても止まることのない、心の奥に吹きすさぶ風の音を。
 
この人にお会いしてみたい、と強く思った。
お会いして、話を聞きたい。
僕の話を聞いてほしい…とも。
その願いが、今夜、ようやくかなうのだった。
 
 
 
ギルモアさまの邸だという建物の前で馬を下り、僕はしばし呆然と立ちすくんでいた。
あまりに寂しい、粗末な家だという気がしたのだった。
 
よくジェットに、お前は世間知らずだからな、と言われる。
宮である彼も同じようなモノのはずだけれど、彼は大人になってから、いろいろな女性の家を「訪問」している。
そこで初めて見たもの、聞いたことを、彼はよく僕に話してくれた。
 
おそらく、彼は次の東宮に立つのだろう。
彼の一件無軌道な女性遍歴も、もしかしたら広く世の中の暮らしを知るための手段だったのかもしれない…と、初めて間近で見る「荒れた家」を前にして、僕はふと思った。
 
が、門をくぐると、僕の印象は一変した。
広い庭は、凝ったしつらえにこそなってはいなかったが、塵一つ無く、草木の手入れが行き届いていて、趣深い風情に満ちていた。
ああ、こんな風に暮らしていけたら…と、僕はギルモアさまへの敬意をあらたにしていた。
 
僕の記憶に僅かに残る母は、既に尼の姿をしていた。
父の生前から…僕が生まれて間もなく、出家したのだという。
乳母は、僕が生まれるときに大病をした母が、もう長くは生きられないと悟って出家を望んだのだと教えてくれた。
 
が、そんなことが、あるものだろうか…と、今でも思わずにはいられない。
端正な尼寺を父に与えられ、そこに籠もって過ごした母と僕が顔を合わせる機会はごくわずかだった。
 
母は、美しい人だったという。
そして、母の寺の庭もまた、美しかった。
塵一つ無く整えられ、月の出る晩には特にその神々しい光に、いっそう美しく…そして、冷たく照らし出されていた。
 
今夜も月が出ている。
ギルモアさまの庭は、母の庭と同じように清浄で美しく…が、冷たくはない、と僕は感じた。
ひどく、懐かしい気がした。
 
年配の女房に迎えられ、母屋へと上がった。
女房は彼女1人だけのようだった。
 
やがて、静かな足音が近づき、ギルモアさまがゆっくりと部屋に入ってこられた。
僕たちはお互いに深く深く一礼した。
 
「今をときめく若者であられるあなたのようなお方が…まあ、こんなところまで…よく起こしになられました」
 
顔を上げたギルモアさまは静かに微笑された。
その表情の澄んだ穏やかさに、僕はまた強く惹きつけられていた。
 
やはり、この人だ…と、直感した。
この人が、僕の運命を変える。
 
それは、何の根拠もない…が、確信に近い思いだった。
 
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