2      俗聖
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ギルモアさまの邸へ通うようになってしばらくすると、やはりジェットがさりげなく僕に探りを入れるのだった。最近どこへ通っているのか、妙に熱心じゃないか…と。
もちろん、ありのままを答えたのだが、彼は納得しなかった。
 
「お前なあ…たしかにお前は変人だが、そんな説明を誰が信じると思う?」
「信じてもらうしかない…本当のことなんだから」
「ふん…だったら、今度は俺も行く。ギルモアといえば、俗聖の爺さんで有名だ。一度顔を見ておいてもいいからな」
「やめてくれよ…!もし君が何か失礼なことでもしたら、僕があの方に顔向けできないことになる」
「あの方?…ホラ出てきやがった!…あの方って誰だ?おい?」
「…ギルモアさまのことだよ。他に誰がいるんだ」
「かーっ!マジかお前?…まさか、本当にその爺さんに会うために、いそいそ遠出してやがるのか、お前は?」
「だから、君には興味がもてないようなコトだと…はじめから言ってるじゃないか」
「…ジョーよ。俺は、お前を心配しているんだぜ…お前の親父は、父上の恩人だ。俺にとっても父上のようなものなんだ…だからよ、俺はお前を…弟だと思っている。信じないかもしれないが…」
「信じるよ、それは。君は、僕にこれ以上ないってぐらいよくしてくれているじゃないか…感謝してる、いつも」
 
ジェットはまじまじと僕を見つめ、大きな溜息をついてみせた。
僕が嘘をついていない、ということはわかってもらえたらしい。
もっとも、僕が彼に嘘をついたことなど、一度もないにちがいないのだけど。
ついでに言うと、彼が僕に嘘をついたことも、おそらくない。
僕達は、彼の言葉どおり、本当に兄弟のように育ってきたのだから。
 
兄弟のように…といっても、彼と僕の性格は正反対といっていいほど違っている。
女房たちが僕達を日輪と月になぞらえているのを聞いたこともある。
もちろん、彼が日輪で、僕が月だ。
 
日輪のジェットは、明るく華やかで、自信に満ちた男だった。
多くの女性を愛し…というと、不実な男のように聞こえてしまうが、彼はどの女性にも惜しみなく愛情を注ぎ、幸せにしてしまうことができるのだという。
こういうことに辛辣になりがちな女房たちも、彼の「浮気」に関してだけは、おかしいんじゃないかと思うくらい寛大だ。
ちょうど、僕の父が若い頃こうだったのだ…とも、年配の女房たちはいう。
そういう意味では、僕は父に少しも似ていない。
 
いや、似ていないのはそういう意味で…だけではない。
そもそも僕は、父と少しも似たところがない…らしいのだ。
 
僕ぐらいの年齢の若者が、頻繁に夜歩きをしている…となれば、ジェットでなくても、恋人ができたからだろう、と思うのかもしれない。
まして、僕は「あの」父…光る源氏とうたわれた男の息子であるのだから。
 
でも、僕は本当に…ジェットもピュンマも首を傾げるけれど…女性に心を惹かれるどこか、関心をもったことすらないのだった。
そんなことより、僕にとっては、ギルモアさまが語る経典の解説の方がずっと楽しみだった。
 
やはり父の息子でありながら、極端に真面目で堅物だと評判の左大臣…年の離れた兄さえも、僕に言うのだった。
自分が堅物なのは、父に厳しく監視され、育てられたからであって、本当のトコロ、勉強など好きではなかったし、美しい女性に密かに心を奪われたことも少なくなかったのだ…と。
 
 
 
その年の秋は、ひどく早く更けていった。
昼は暖かくても、僕がギルモアさまの邸を訪れる時刻には、もう風は相当冷たくなっていた。
ギルモアさまは馬で訪れる僕を気遣い、炭櫃の火を絶やさないよう、ずっと気を配っておられた。
 
僕の彼への眼差しは、おそらく尊敬だけでなく、抑えきれない羨望に満ちていたのだろう。ギルモアさまは、初めてお会いしたときのように「今をときめく若者」という言葉をその後もよく使っては、僕を見つめ、なぜそのようにあなたはこの世を厭うのか…と、不思議そうに首を傾げた。
 
たしかに、僕はこの世を厭わしく思っているのだろう。そして、それほどまでにこの世を厭うのなら、すっきりと出家遁世してしまえばいいのかもしれない。
でも、両親を亡くした後、僕を慈しみ育ててくれた人々の恩を思うと、どうしてもそれはできなかった。
いや、それだけではない。
僕の心の奥には、やはり、母への思いがあった。
 
母は、なぜ出家してしまったのか。
なぜ世を捨てたのか。
全てを…父も、生まれて間もない僕をも捨てたのは…なぜ?
 
その理由を…母の思いを本気で知ろうと思えば、誰かに何らかの話を聞くことはできるのかもしれない。
でも、知るのが怖い。
 
俗聖として…出家をしないまま、修行僧のような生活を続けているギルモアさまの生き方に、僕はどんどん惹かれていった。
誰も傷つけず、誰も悲しませず、ただひたすら己を律することで、澄んだ心を保ちつつ生きていけるのなら…
 
そう思いながら、一方で僕は、そういう生活を選び取ったギルモアさまだからこそ、何か大きな深い悲しみ…いや、罪のような恐ろしい暗い何か…を心に沈めておられるのかもしれない、という予感も感じていたのだ。
 
何の根拠もない予感だった。それが正しいのかどうかを探ろうとも思わなかった。
そして、同じ根拠のない予感を、僕は僕自身にもいつも感じていたのだ。
 
僕の中に潜む、何か大きな深い悲しみ。
それは、恐ろしい暗い何か……罪?
 
もし、それをギルモアさまも抱えておられるのなら。
そして、それを乗り越えようとされておられるのなら。
 
僕にとって、「俗聖」はそのようなモノだった。
そういうモノに僕もなれるのかもしれないと、その頃の僕は、闇の中で小さな光を見つけたような気持ちになっていたのだ。
 
 
 
ギルモアさまの顔色が何となくすぐれないのでは、と気づいたのは、秋も深まったある夜のことだった。
心配する僕に、ギルモアさまは微笑され、大したことはありません、と言われたのだが…。
次に訪れたとき、彼は床についたまま起き上がれなくなっていた。
 
驚いた僕は、すぐさま医師を呼んだ。
それまで気になっていたものの、失礼になるかもしれないと申し出るのをためらっていた、邸の修理にもとりかかり、少しでも彼が居心地よく休めるように…とつとめた。
 
医師は、難しい、と言った。
すぐに命に関わるような病ではないが、治るという見込みもない。
少しずつ少しずつ、彼の命はむしばまれていくだろう…それを止める術はない、というのだった。
 
それでも、苦痛を和らげ、わずかでも命を延ばすことなら、なんとかできる…できるはずだと僕は信じた。
この人と別れるのは、あまりにつらいことだったから。
まだ教えていただきたいことが数え切れないほど残っているというのに…
 
そんなふうに、毎日のようにギルモアさまの邸に通っていると、内裏へ顔を出す時間もなくなってくる。
とうとう、ハインリヒ帝が僕の不自然な行動に気づいた。
 
急ぎ召し出された僕は、帝に問われるままギルモアさまの病のこと、その暮らしぶりのこと…を詳しく話した。
 
「そうだったのか…ギルモアがそのようないたわしいことになっていたとは」
 
帝は眉を曇らせ、何度もうなずきながら僕の話を聞いた。
そして、見舞いの品々を手早く取り寄せ、僕に託したのだった。
どれも心を尽くした見事なモノだったが…その中に、妙に色鮮やかな冬衣装ひとそろいを見つけ、僕は首を傾げた。
あの家に女性は…少なくとも、こんな華やかな衣装を身につけるような年齢の女性はいなかったはず…と。
が、そんな僕に、帝は微笑しながらこう言った。
 
「では知らなかったのか…まったくお前らしいな、ジョー。ギルモアの邸には、たしか三の君がおられるはずだ…お前とほとんど同じ年の…いや、少し上だったかな」
「そ…うなのですか?」
 
僕は驚いた。
あの邸に若い姫君がおられる気配など、どこにもなかったのだ。
しかも、三の君、ということは…更にお二人の姫君が…?
 
「いや、大君と中君は亡くなられているから、姫君は今お一人だけだろう」
「…亡くなられた?」
「うむ。大君はごく幼い頃に。中君が亡くなられたのはギルモアが北の方を亡くされて間もなくだったように思うが…」
「…そんな…ことが…まさか」
 
それでは、ギルモアさまは北の方だけでなく、姫君をお二人も亡くされていた…ということなのか。
呆然としている僕に、帝は優しく言われた。
 
「だが、あまり気に病むな、ジョー。たしかにギルモアは多くの悲しみに見舞われたにちがいないが…それでも、不幸であるとは限らないのだ」
「…え?」
「あまりに深い悲しみが、それゆえに彼を浄化し、世間の言う俗聖の境地へと押し上げたのだとしたら…?」
「それ…は。でも!」
「うらやましい…とは言うまい。そのように軽い事柄ではない。が、彼のようにありたいと願う人間は、多くあるだろう」
 
私自身も…と、帝は言われなかった。
が、僕はその声を聞いたような気がした。
 
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