12      千歳
 
 
「いやあ…まったく、本当に手のかかるお方ですな、あなた様は」
 
のんびりとした言葉とは裏腹に、男の目は鋭い光を帯びている。
喰えない野郎だ…と、ジェットは舌打ちした。
 
「ちょっと散歩に行こうとしただけじゃねーかよ」
「それがマズイんですな。あなた様はそれだけのおつもりでも、そう思わない御仁もきっといらっしゃる。世の中は広いですからなあ……」
「…けっ!」
 
さあさあ、と背中をぐいぐい押され、不承不承、邸へと戻る。
昔の俺なら、こんなジジイ、問答無用でぶっ飛ばしているところだが…と、ふと思った。
 
「おい、グレート…俺におとなしくしていてほしいのなら、何か手を考えろよ。とにかく、俺は退屈しているんだ」
「…また…難しいことを」
「さっさとしねえと、そうだな…朝廷を呪詛する歌でも書きまくってやるぜ…もちろん、この俺の血を搾って、だ」
「な!なななななにをおっしゃるかあ〜〜っ!」
 
あわてふためく「ジジイ」の様子に少しばかり溜飲を下げる…が、もちろん自分が放った言葉の危うさは承知している。
さすがに、それぐらいの経験は重ねてきたはずだ…とジェットは我ながら思う。
 
慌ただしい立太子から10数年が過ぎた。
兄である帝は心優しい男だったが、一方でそれまでのハインリヒ帝たちとは違い、外戚勢力を押さえ込む力を持ち合わせてはいなかった。
朝廷は、少しずつ変わっていった。
 
やがて、都を襲った疫病が、その変化に拍車をかけた。
国家の重鎮であった上達部たち…中には、光る源氏の長男として栄華を誇った左大臣もいた…は、次々に病に倒れ、政情は急転していった。
 
帝は重なる心労のため、少しずつ弱っていった。
譲位を匂わせる言葉を、ジェットもたびたび聞くようになった。
 
「ジェットよ。お前なら、この窮地を切り抜ける力を持っているだろう」
 
そうすがるように語る兄に、うかつにうなずくわけにはいかず、とはいえ、彼を励ます言葉も見つけられず、ジェットは次第に苛立ちを募らせていった。
そんなとき、数年前に出家を果たし、山にこもっていた法皇ハインリヒから、ごく内密に、召集を受けたのだった。
 
 
 
久しぶりに対面した法皇ハインリヒは、ジェットに、今すぐ都を出ろ、と言った。
 
ここのところ、貴族たちの間で熾烈を極めていた権力闘争が、まもなくその限界を超え、燃え上がろうとしている。
世の中は混乱を極めるだろう。
戦が起き、都が炎上することになるかもしれない。
 
「彼らは、お前を利用しようとしている…巻き込まれるな」
「で…だから、俺に都を捨てろ、と言うのかよ?…出家遁世して澄ましていやがるアンタはそれですむだろうが、俺は違う。戦が起きそうだからといって、皇族が真っ先にこそこそ逃げ出したら、残された者はどうなる?…俺たちは、世を治めるために在るんだ…成功しようと、失敗しようと…そこから逃れるわけにはいかねえ」
「その通りだ。…だが、お前が都に残れば、混乱はいっそう深まる」
「……っ!」
「今は、退け、ジェット。そして力を蓄え、時を待て。お前の代ではならずとも、残されたお前の血は、いつか必ず世の乱れをおさめる鍵となるだろう」
「残された…俺の血…だと?」
 
ジェットは言葉を失い、銀灰色の澄み通った目を呆然と見つめ返した。
 
「そうだ…お前自身が、都に戻ることは…生涯、ないだろうからな」
「…てめぇ…っ!」
「すぐに支度をしろ。手配はもうすんでいる」
「…手配、だと?…面白い。どういう筋書きをこしらえやがった?」
「謀反では流罪にするしかない…乱心のため、静養…ということにしてある」
「ふん…まあ、あたらずとも遠からず…ってやつか」
 
不敵な微笑を浮かべつつ、腰の太刀に手をかけるジェットを、ハインリヒは表情を動かすことなく見据えていた。
 
「ここで、俺を斬る…か。たしかに乱心だが…それでは謀反になるな」
「俺の心配をしてくれるとは、親切なこった…だが、まず自分の心配をしたほうがいいんじゃないのか?」
「……」
「俺を逃がして…アンタはどうするんだ?…兄上はあてにならない男だ。アンタこそ、あいつらにいいように利用されまくるんじゃないのか?」
「そう、だろうな…それができると思う者は、やってみればいい」
「…法皇」
「あとのことは、すべて…俺の仕事だ」
 
きっぱりと放った言葉は、鋼の響きをもっていた。
ジェットは唇を噛みしめ、太刀から手を離した。
 
「ジジイのくせに、この意地っ張りが…俺の手でそろそろ楽にしてやろうと思ったのによ…可愛げがねえ」
「心配無用。そして、お前の仕事は他にある…さらばだ、ジェット」
 
法皇ハインリヒは穏やかに微笑した。
そしてそれが、彼との永遠の別れとなったのだ。
 
 
 
都からはるか離れた地に、ハインリヒがジェットのために用意した邸は、小さいが住み心地のよい住まいだった。
呆れるほど何もない田舎ではあったが、豊かな土地柄らしく、村人たちの暮らしも落ち着いているようだった。
 
この地で彼の「世話役」とされたのは、グレートという、その土地の長者だった。彼はどうやら、純粋な土地の者ではないらしく、元は都にいたこともあるようだった。
おそらく…法皇にゆかりのある男なのではないか、とジェットは思っていた。
 
ごく希に聞こえてくる都の噂は、あまりよいものではなく、世は、ハインリヒの予見したとおりに動いているようだった。
 
それにひきかえ、このような田舎に、乱心の廃太子を訪問する者などあるはずもなく、世から忘れられた暮らしはたしかに穏やかではあったが、ジェットはもどかしい思いを抑えきれずにいた。
そんな彼を、グレートははらはらしながら見守り、時に激しく衝突することもあった。
 
グレートは、都の音楽や歌をことさらに好み、その教養は時にジェットを驚かせた。
始めは、世話役というよりも、鬱陶しい見張り番のジジイ…としか見えなかったグレートのそうした人柄に、ジェットは次第に慣れ、やがては親しみを覚えるようにすらなっていった。
ようやく、彼自身が、自分の運命を受け入れる心境になり始めていたから…なのかもしれない。
 
ハインリヒは「血」を残せと言ったが、ジェットにはいまだ子というものがない。
女性への情には厚いつもりでいたが、縁がないということなのだろう、と半ばそのことには見切りをつけている。
「血」そのものではなくとも、自分の志を伝える者があればいい。それがつまり「血」ということだ…と、ジェットは思うようになっていた。
 
とはいえ、グレートはそう思い切れないらしく、美しい娘がどこかにいないものか、と方々に手を伸ばして探しているようなのだった。
 
若い頃の自分なら、聞き逃しはしなかった…と思うような美女の話にも、なぜかジェットは心を惹かれることがなかった。
そんな彼に嘆息しながらも、グレートは半ばヤケクソのように噂話を並べるのだった。
そして、その話も、そのようにしてグレートが語ったものだった。
 
「…このような鄙にあろうとも、素晴らしい女人と結ばれれば、そこは都も同然…我が輩、そういうご夫婦を拝見したこともありますが…それは、心をうたれるさまでありましたとも」
「なんだ?…お前、とうとう人妻の情報まで集め始めたか?…つくづく暇なヤツだな…」
「何をおっしゃる!…ああ、今でもはっきりと思い出されますなあ…あの、素晴らしい調べ…まさに天上の楽でしたな」
「…楽、だと?…それは珍しい。ああ、いや…都の話か」
「いえいえ!…ここよりももっと奥まった…山と海にはさまれた、険しい土地でのことですとも。直にお会いしたわけではないですが、彼の地では村人たちにそれは慕われているご夫婦でおられるとか…夫君は笛を、奥方は箏をあそばすのですよ…我が輩は、草枕に漏れ聞いただけでしたが…その音色といったら…!」
「笛…と、箏…?」
 
ふっと思いに沈んだジェットを、グレートはけげんそうにのぞいた。
 
「どうか…されましたかな?」
「いや…もしかしたら、と思ったのだが…奥方が、箏を弾いた…というのだな?」
「はあ。…たいそうお美しく、慈悲深い奥方と評判でしたが…お気の毒なことに、盲目でいらっしゃるという噂も」
「…盲目…?」
「え。…あの、まさか…その奥方に興味が…?」
「うーむ…?」
「ちょ、ちょっとお待ちください。いや、その、それはなりませんぞ!…とにかく、そのご夫婦は村の光と慕われた方々で…いくらジェット殿でも、そこに割り込むことはなりません…!いやー、なんでまたイキナリ興味をもたれてしまったのやら…よいですか、ジェット殿!それは、断じて…」
「うるっせーなっ!…見当違いだ、ジジイ!」
「は?」
「問題は奥方より、むしろダンナの方だ…!」
「え、ええええっ?!」
「明日、出発するぞ!…その村に案内しろ」
「ちょ、ちょっとお待ちを…!ダンナの方にって…え、あの…まさか、ええっ?!」
 
あわてふためくグレートに嘆息し、ジェットは席を立った。
妙な勘違いをしているらしいのは鬱陶しいが、説明するのも面倒だ。
第一、確信もなにもない。
笛…というだけでは……しかし。
 
そういえば、そういう噂を聞いたことがあった…かもしれない。
もしかしたら、お前なのか?
 
…ジョー!
 
 
 
たしかに、険しい道だった。
ゆけどもゆけども続く山道に疲れ、こんな奥まった土地に、本当に人が住めるのか?…と、ジェットがうんざりしてきたころ…不意に視界が開けた。
 
「…ほう?」
「これ…は!」
 
眼下に広がった海辺の村に、二人は思わずほうっと息をついていた。
 
「美しい…村ですな…昔訪れたときとは…ずいぶん違っております」
「村を治めるのが、俺の思う男であるなら…さもあろうことだ。楽しみになってきたぞ」
「思う男…というと…その」
 
急に複雑な表情になるグレートに、そういえばまだ説明をしていなかった…と、ジェットが肩をすくめた…そのとき。
 
「おじさんたち、旅の人…?」
「…え?」
 
澄んだ声に、二人は振り返った。
小柄で色の白い、銀髪の少年がたたずんでいる。
 
「あ…ああ」
「坊主…あの村の者か?」
 
少年はうなずき、じっとジェットを見つめた。
その不思議な視線に、心を貫かれたような気がして、わずかにたじろいだときだった。少年は不意に、思いがけないほどあどけない微笑を浮かべ、ジェットに軽く目礼した。
 
「おじさんたち、ジョーに会いにきたんだね?」
「…な、に?!」
「…ジョー…ですと?」
「僕が案内するよ…こっちに来て」
「待て、坊主!…なぜわかった?お前は、何者だ?!」
「……」
 
少年はまた微笑した。
 
「僕は、イワン。物の怪じゃないよ、おじさん…驚かせてごめん。ジョーの友達なら、僕たちにも大事な友達だ」
「……」
「ちょ、ジェット殿…!まさか、ついていくつもりじゃ…!」
「るせーな。俺はたしかに、ジョーに会いにきた。案内してくれるというなら、願ったりだ…怖いならお前は帰っていいぞ、ジジイ」
「ま、まさか!…そのようなことは!」
 
グレートは大きく深呼吸を繰り返すと、さっさと歩き始めたジェットを慌てて追った。
 
 
案内…といっても、少年は、二人が進むはずだった道をどんどん下っていくだけだった。
やがて、道はなだらかになり、村へと入った。
村のたたずまいは、上からの眺めどおり…いや、それ以上に美しく豊かだった。
 
「ジョー…というのは、いったい、どなたですか…?」
「俺の古い友だ…いろいろあったが…俺にとっては弟同然のヤツだった…昔、いきなり官位を返上し、都を離れ…それきり雲隠れしちまったのさ」
「あ!…それは…あの、光る源氏の…ご子息…?!」
「物静かだが…強い男だった。ヤツが長なら、たしかにどんな村でも栄えるだろうよ」
「なるほど…これは…お会いするのが楽しみになってきましたな」
「…ついたよ、おじさんたち」
 
イワンが立ち止まったのは、小さいが瀟洒な作りの家の前だった。
 
「ここが、ジョーの家さ。…ピュンマ、張々湖!お客さんだよ…ジョーに会いに来たんだって!」
「おや、イワン、戻ったアルか?…お客さんとは、珍しいアルね…!」
「長旅をしてきたらしいんだ…張さん、おもてなししてあげてよ」
「承知アル!…さあさあ、入るヨロシ〜!」
 
戸口から出てきたのは、丸々と太った小男だった。
張々湖、という男らしい。
そして、ピュンマ……ピュンマ…?
 
何となくひっかかるものがある。
首を傾げていたジェットは、続いて出てきた黒い肌の男に、思わず叫び声を上げた。
 
「ピュンマ!…お前、ピュンマじゃないかっ!」
「…ジェット…様?!」
 
しばしジェットを見つめて呆然と立ちつくしていたピュンマは、やがてはっと我に返り、その場に跪いた。
 
 
 
「せっかく来てくださったのに…申し訳ありません。ジョーは…奥方さまと山へ出かけているところなんです」
「…山?」
「はい。…僕たちは…この村では、もう長い間…治水の仕事を続けているのです」
「治水…か。なるほど、たしかにこの地形では…」
「まだまだ終わりは見えませんが、それでも人々の暮らしはずいぶんよくなりました…ジョーは、俺たちの長であり、指導者でもあります」
「それで、先頭きって山へ分け入ってる…ってわけか。アイツらしい…いや、もういい年になっただろうに…だが、うらやましいな」
「…うらやましい…?」
「ああ…なすべきことがあるというのは、うらやましいことだ」
「それは、あなたも同じことでしょう、ジェット様」
「…そうか…そうかもしれないな」
 
深くうなずき、ふっと部屋を見回したジェットは、隅にひっそり置かれている箏に気づいた。
 
「あれは…奥方さまの箏、か…ずいぶんと雅やかな趣味だ…ジョーが教えたんだろう?仲むつまじいことだな」
「…ええ、そう…ですね」
「この土地の娘と結婚したのか?」
「違うアル…!フランソワーズは、私の一人娘アルよ!」
「ああ、そういうことか…!張々湖、だったか…?ってことは、お前はつまり、ジョーの舅殿、なんだな?」
「そうね!…ジョーは自慢の婿アルね」
 
この男の娘…ということは、美女だ、というグレートの話もアテにならないな、とジェットはふとおかしくなった。
が、続けて静かに口を開いたピュンマの言葉に、ジェットは驚いた。
 
「奥方さまは…あなたもご存じの女人でいらっしゃいます…信じられないかもしれませんが」
「…何?」
「といっても、あの箏は、あなたがお聞きになったものとは違います…張大人が手に入れてくれた渡来品ですが、音は昔と遜色ありません。お二人の合奏も…あのころのままです」
「…合奏…だと?…それでは、まさ、か…」
「……」
 
ピュンマは黙って微笑した。
 
「おいたわしいことに、御目を患われ、盲目となってしまわれましたが…ジョーが傍らにいれば、光は見える、といつも仰せになる…本当に、彼が手を取っているときの奥方さまは、目が見えないなどとはとても思えないご様子です」
「あなた、都の人アルなら…昔の事を…フランソワーズを知っているかもしれないアルけど…それは、あの子とは違う娘アル。私は、神様のお導きであの子に会えたネ…神様が、あの子を私にくださったのだと思っているネ」
「…そうか」
 
藤壺の女御…三の君が亡くなったときのジョーの憔悴を思い出し、ジェットは深く嘆息した。
そして、遠い昔、自分が彼女を奪おうとしたとき、立ちふさがった彼の燃えるような目…。
 
「俺は…人を愛するということはどういうことなのか、アイツに教わったのかもしれないな…」
 
ぽつりとつぶやいたジェットに、ピュンマが躊躇いがちに尋ねた。
 
「おそれながら…四宮さまは、いかがお過ごしでしょうか?」
「ああ…あの、じゃじゃ馬か」
 
ジェットは愉快そうに笑った。
ジョーとの縁談が破れても、どこか一風変わった姫宮であった彼女は、それほど気落ちした様子ではなかった。
が、その思い出は彼女の心に深く刻まれたものでもあったらしく、四宮は独身のまま、当代随一の天才歌人と讃えられるようになった。
 
「四宮さまの恋歌は、それは素晴らしいものでございます…哀切でありながら女人のしなやかな芯の強さが感じられ、何より透明で美しい…」
 
彼女の歌に心酔しているグレートの語りに、ピュンマも張々湖も興味深そうに耳を傾けていた。
 
 
辺りが茜色に染まる頃、張々湖が手製の料理と酒を用意した。
どれも素晴らしい美味だった…が、ジェットは次第にわき上がる疑念を抑えきれず、ついにピュンマに尋ねた。
 
「時に、ジョーはまだ戻らないのか?…その、山奥とやらに、まさか泊まり込んでいる、というわけでは…アイツだけならまだしも、奥方も一緒なのだろう?」
「…え、ええ」
「…まだ、戻らないアル…よ」
 
ピュンマと張々湖はふとうつむき、それきり口を閉ざした。
ジェットが首を傾げていると、イワンが新しい膳を捧げ、入ってきた。
 
「張大人、ジョーとフランソワーズのお膳、ここでいいよね?」
「ああ、そうするヨロシ」
「…せっかく古い友達が来てくれたのだから…今日帰ってくればいいのにね」
「…イワン」
「お二人とも、お泊まりになるでしょう?…しばらく、ここにおられると僕も嬉しいな…ジョーの話をたくさん聞きたいから」
「…おい?」
 
疑念が、不意に確信へと変わった。
ジェットはピュンマをにらみつけた。
 
「どういうことだ、ピュンマ?!…ジョーは…二人は、帰ってくるのか?…本当に?!」
「…帰って…こられるとも」
「では、それはいつだ?!もしかしたら…アイツは、もう、ずっと前から…」
「…ずっと前から、帰らない。その通りだよ、おじさん」
「……っ!」
「イワン…!」
 
イワンは、澄んだまなざしをまっすぐジェットに向けた。
 
「まだ…帰ってこないんだ。そして、いつ帰ってくるのかは…僕にもわからない」
 
 
 
ピュンマは、ぽつりぽつりと語った。
 
もう、数年前になる。
激しい豪雨が、村を襲った。
 
上流には、遊水池がすでに二つ完成していたが、雨の勢いは、村一番の年寄りでさえも、経験したことがないほど激しかった。
 
ちょうど、工事は難しいところにさしかかっているところだったが、働く若者達を、既に全て待避させていたために、現場は無人となっていた。
そして、ジョーは、ちょっと様子を見てくるから、と言って、ごくさりげなく家を離れたのだった。
ほどなく、フランソワーズも彼の後を追った。
 
どうして、二人を止めなかったのか…今思いだしてもわからない、とピュンマは声を震わせた。
危険だとわかりきっている場所へ、ジョーを一人で…それだけではなく、盲目のフランソワーズまで、なぜ送り出してしまったのか。
 
「そのときの僕は…何かに操られていたとしか思えないのです…どこまでも、ジョーについていくのだと…全てを捨ててここまできたというのに…大事な奥方様をさえお守りすることが…できなかったなんて」
「…それが、運命だったからと、私は思うネ…ジョーはよく言っていたアル。自分と同じ運命を負う者は、フランソワーズだけなのだと…フランソワーズも、それを誇りにしていたアルよ」
「…しかし、それは…!」
 
ピュンマは更に語った。
雨が上がり、村人たちは総出で二人を捜し回った…が、彼らの手がかりになるようなものは何一つ見つからなかった。
そして、激しい雨で、あちこちが土砂崩れをおこしている中、ジョーが案じていた現場だけが、不思議なほど無傷を保っていた。
 
数ヶ月後、絶望した村人たちが、涙にくれながら二人の弔いをしようとしたとき、それを留めたのは、ジェロニモだった。
彼は、二人はまだ生き続けている、信じろ…と語った。
 
その言葉と眼差しに、ピュンマも村人たちも、勇気を奮い起こすことができた。
再び立ち上がった彼らの様子に満足したジェロニモは、今は別の地で、人々の求めに従い、働いているのだという。
 
「本当をいうと…お二人が生きておられるとは…とても思えません。でも、ジェロニモの言ったことが…今は、わかるような気がしています。僕達が、ジョーの志を捨てないかぎり…諦めず、挑み続ける限り、彼はここに…僕達とともにいるのだと」
 
言葉を失ったジェットに、今は「仮に」村を長として治めているのだというピュンマは、そう告げると、明るく微笑するのだった。
 
 
 
数日の滞在の後、ジェットとグレートは村を辞去した。
始めと同じように、イワンが見送りについてきてくれた。
 
「僕は…ジョーとフランソワーズに育てられたんだ…血のつながりがないことは知っていたけれど、二人が僕の両親だと思ってる」
 
うなずくジェットに、イワンは楽しそうに続ける。
 
「ピュンマも張々湖も、二人は本当は死んだんだと思ってる…でも、僕は違うんだ。フランソワーズは目が見えなかったけれど、ジョーのいるトコロはわかるんだよ…ただ一筋だけ感じることのできる光をたどっていけば、必ずそこに彼がいるんだって…いつも言ってた。だから、絶対に迷うはずない。あの夜、出て行くとき、フランソワーズは僕を抱きしめて言ったんだ…いい子で待っているのよ、イワン…って」
「…イワン」
「だから、僕は待ってる」
「そうか…そうだよな。いたいけな子供に、待ってろ…って言っておいて、帰ってこない、なんてことはあり得ねえ。あれは、そんなむごい女じゃないだろう」
「…ジェット殿!」
 
咎めるように囁くグレートを目で制し、ジェットはイワンの髪をくしゃくしゃ、と乱暴にかきまわした。
子供らしいはしゃぎ声を上げ、イワンは満足そうにジェットに繰り返すのだった。
 
「二人は、必ず帰ってくる。僕たちは、また会えるよ……たとえ」
 
 
イワンのあの不思議な目が、高く澄んだ青空へと向けられる。
ジェットも立ち止まり、まぶしい空を仰いだ。
 
 
「…たとえ、千年の時を隔てようとも」
 
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