11      暁光
 
 
ああ、秋なんだ…と思った。
 
この地に吹きすさぶ風は、都のそれとは比べものにならないほど冷たく、厳しく感じられた。ただそれしか感じていなかったから、季節の移ろいにも気づかなかったのかもしれない。
 
僕は、思わず深く息を吸い込んだ。
ようやく慣れてきた潮の香りが、体いっぱいにみちていくような気がした。
昨夜、ピュンマが浮かべていた穏やかな笑顔を思い出す。
 
「僕は、ここが気に入ったよ、ジョー。たぶん、都にいるよりも性に合っているな…何より、海がすばらしいからね」
 
彼は、とうとう海人たちの中へ分け入って、彼らから漁を習い始めた。その上達振りは驚くほど早く、間もなく僕たちの食膳には、新鮮な魚や貝が豊富に並ぶようになった。
 
冗談まじりに、君もやってみたらどうか、と漁に誘われたりもしたが、さすがに断った。
ピュンマは、余分に採れた魚や貝を、その日病や怪我で漁に出られなかった村人に惜しみなく分け与えているのだという。
その話に心ひかれたことは確かだったが…だが、それは僕がなすべきこととは違っていると思った。
これという確信はなかったが、僕はそう思ったのだ。
 
秋の気配を含む潮風は、いっそう厳しく僕に命じる。
お前のなすべきことをせよ、と。
 
それが何であるのか、僕にはまだわかっていなかった。
が、その声を聞くことができるようになった…そのぶんだけでも、この地に来てよかったのだと、僕は思う。
 
生きよ、と潮風は僕を叩く。
そのすさまじいまでの力に息が止まりそうになりながらも、僕は懸命に立とうとしていた。
 
そんな風に、僕の新しい生活は動き始めたのだ。
 
 
 
藤壺の女御…フランソワーズの弔いを済ますと、僕は都を去る準備をひっそりと始めた。
それは、これまで僕を支えてくれた…そして、僕を大切にしてきてくれた多くの人々の心を裏切る行為でもあったが、そうせずにはいられなかったのだ。
 
ちょうど、内裏は突然の女御の死と、帝の退位に揺れていた。
僕が参内を一切せず、邸に籠もっていたのも、亡き女御の後見として不自然には見えなかっただろう。
 
だから、全ての準備が整ったとき。
突然、参内して、いきなり官位を返上し、辞去した僕の不意打ちに、即位されたばかりの若い帝はなすすべもなかった。
 
兄の左大臣は驚き、嘆きながらも、どこかで諦めていたようだった。
彼はむしろ、僕が出家をしなかったことに安堵していたのだと思う。
世を捨てたわけではなく、ただ都を辞去する…ということなら、つまり、いつかは戻ってくる意志もあるのだろう、今は傷心を癒す時期なのかもしれない、と、兄は考えたにちがいない。
 
僕が出家をしなかったのは、あの方…フランソワーズへの誓いのためだ。
僕は、あの日…あの方に、ともに罪に落ちてくださいと言った。
ともに、地獄の業火への道を歩んでほしいと。
あの方は、うなずいてくださった。
そして…そうされるためのただひとつの方法として、ひとり、暗い流れに身を投じられたのだ。
 
あの日、有頂天になった僕は気づかなかった。
あの方がどれだけの重い荷を負っていたか。
 
父宮の遺志。
両親が、姉宮たちがそれぞれの命を賭して守った宮家の誇り。
そして、帝と交わされた想い。
 
そこに、僕の罪に汚れた執着など、本来入り込む隙などなかったはずだ。
あの方は僕の狼藉を斥け、容赦なく罰することもたやすくできた。
が、そうされなかった。
それどころか、全てと引き替えに、僕を…受け入れてくださったのだ。
 
だから、僕は生き続けなければならない。僕があの方に求め、強いた道をそのままに。
決して救いなど求めてはならない。
 
準備が整った夜。
僕は、誰に挨拶をすることもなく、都を離れた。
二度と戻る気はなかったから、供の者もない。
どうしても置いていくというのなら、ここで今すぐ…その手で俺を斬り捨てろ、と叫んだピュンマをのぞいて。
 
 
 
その修行僧は、赤銅色の肌をした巨体の持ち主だった。
ジェロニモ、と名乗った彼は、まさに仁王尊そのものに見える。
彼が都から携えてきた上皇ハインリヒからの文を、僕は何度も読み返し…胸を熱くしていた。
 
「お元気そうで、何より。院が、それだけが気がかりだと」
「…畏れ多くも、院にお気づかいいただけるような身の上ではないものを…その上、このようにありがたい勅をお下しくださるとは…!」
「それでは、お受けくださるのか」
「もちろん…僕にできることは、全て…いや。まず教えていただかなければ。ジェロニモ殿…一体、僕に、何ができるだろうか?」
「…面白いお方だ。院の仰せのとおりに」
 
ジェロニモは僕を見つめ、微笑した。
驚くほど優しい…慈悲深い笑みに思えた。
 
院の文は、この修行僧…ジェロニモに、力を貸してやってくれないか、というものだった。
ジェロニモは、各地を転々と渡り歩き、こつこつと寄進を集めては、人々の為に川に橋を架けたり、道を築いたりしているのだという。
そして、彼が今、志しているのは、この村の河口より海に流れ込んでいる、大きな川の治水なのだ。
 
彼が広げた図面を見て、僕は思わず息をついた。
それは、あまりに壮大な計画に思えた。
 
この川は、昔から洪水を繰り返し、人々を苦しめてきたのだという。
それを封じるために、彼は、上流に遊水池を数カ所作ろうとしていたのだ。
この近辺は、険しい山地にへばりつくようにして、ごく狭い平地が海岸沿いに伸びている…という地形だ。
山からいきなり流れ込む川の流れは当然激しい。滝のようだといっても過言ではない。
 
川の上流に大量に雨が降ったとき、それを一気に流してしまうのではなく、一旦溜めておけるような池があれば、水の勢いを留めることができる…と、ジェロニモは語るのだった。
 
もちろん、簡単にできることではない。
僕の力を…というのは、資金の援助と、彼が数冊持っている、唐から渡ってきたというそうした技術に関する最新の書物の解読だった。
 
ジェロニモの学識は僕など及びも付かないほど深い…ということは、すぐにわかった。
が、そもそも書物というものが希少なこの国で、あらゆる文字に精通する機会を与えられているのは、ごくわずかな特権階級…僕たちのような身分の者だけだった。
僕はジェロニモと相談を繰り返し、何度も都から必要な書物を取り寄せた。
 
そして、彼のイメージする工事が、本当にできるかもしれない…と僕たちが手応えをつかんだのは、彼が僕を初めて訪れた日から、ほぼ一年を数えた頃だった。
 
やがて、工事が始まった。
そうなると、ジェロニモやピュンマはもちろん、僕もその現場でしなければいけないことが山のようにできた。
ジェロニモが作った仮小屋に、ほとんど住み着いたような状態で、僕たちは働き続けた。
 
全てが順調にいったわけではない。
命を削るようなこともしばしば起きた。
時には恐ろしい事故も…誠実に働いてくれた佳き若者たちを失うこともあった。
 
働く若者たちは、ジェロニモを「導師」と呼び、僕を「をさ」…長、と呼び、敬い慕ってくれた。
僕達が彼らに過酷な指示を出しても、彼らは笑顔でうなずくのだった。
だからこそ僕もジェロニモも、自分の全てをかけ、彼らとともに働いた…が、それでも、最後には、僕たちは必ず彼らの命を踏み台にしたのだった。
 
どうしようもない危険に見舞われると、若者達は僕とジェロニモを真っ先に待避させた。
僕たちがあらがうと、彼らは涙ながらに叫ぶのだった。
 
あなたがたは、私たちの光です。
消すわけにはいかないのです。
 
 
そのようにして、僕たちは…僕は、多くの命をのみこみつつ、ひたすらに進んでいった。
そして、いつしか、僕もジェロニモも気づいていた。
この事業を、僕たちが生きているうちに完成させることは、きっとできない。
次代へと引き継がなければならないだろう…と。
 
 
 
数年後。
ようやく、小さいものであったが、遊水池がひとつ、初めて完成した。
数日をかけて、ゆっくりと溜まった水は、僕たちが予想したよりも、はるかに澄んで美しかった。
 
喜ぶ若者達をねぎらうために、僕たちは月夜の晩、その池のほとりでささやかな宴を開いた。
やがて、ほどよく酔った彼らの幸福そうな力強い歌声に心を動かされながら、僕は何となく物寂しさを感じていた。
 
それは…都を離れてから、初めてしみじみと感じた、望郷のような思いだった。
彼らの歌は、美しかった…が、やはり都の音楽とはかけ離れている。
そんな僕の想いを見透かしたかのように、ピュンマが静かに差し出したのは…あの笛だった。
 
「久しぶりに…聞いてみたくなってね」
「…ピュンマ」
「あの者たちにも、何よりのねぎらいとなる…と思うよ、ジョー」
 
ふとジェロニモを見ると、彼も微笑してうなずくのだった。
僕は、思わず深呼吸しながら、笛を手にとった。
 
正直、音が出るだろうか…などと思っていたのだが、そんな心配は必要ないと、すぐわかった。
捨て去ったはずの都の日々が、次々に胸をよぎっていく。
 
すすり泣く声に、僕ははっと手を止めた。
ピュンマかと思ったのだが…そうではなかった。
若者達が、いつのまにか僕の笛に聞き入り、涙を流してくれていたのだ。
 
ほう、と息をつくと、胸が不思議と軽くなったような気がした。
…が。
次の瞬間、僕はどきりとした。
ジェロニモが、これまで見たことのないような厳しい視線で、僕を見つめていたのだった。
 
「…ジョー」
「あ…?どうか、したのかい?」
「その、曲は……なんだ?」
「曲…?」
 
僕はちょっと躊躇した。
心のままに吹き鳴らしたのは、実は「秘曲」とされる曲だったのだ。
このように、大勢の人々の前で軽々しく奏でてよい曲ではない。
 
が、今はもはやそんな気遣いなど無用だ。
伝える者が誰もいない僕の境遇を思えば、文字通り、この世から消え去るさだめの曲なのだから。
 
「由緒ある…曲なのではないか?」
「……」
 
僕は黙ってうなずいた。
それでも、今心からわき出たのは…この旋律だったから。
そう弁明しようとしたとき、まったく思いがけないことをジェロニモは言うのだった。
 
「今の曲…一度だけ、聞いたことがある」
「…え?」
「笛ではなかったが…同じ曲だ」
「いや、まさか…そんなはずは」
「うむ。そうなのだろうが」
 
それきり口を閉ざそうとしたジェロニモの様子が、何となく気になった。
 
「どこで…いつ、聞いたのか、覚えているかい?」
「ああ。美しい曲だと思ったから…覚えている。変わり者の、長者の家で聞いたのだ」
「…長者…?」
 
ますます不思議だった。
長者、というのはつまり、豊かなくらしをしてはいても、貴族階級の者ではない。この曲を耳にする機会など皆無のはずだ。第一、僕自身がこの曲を奏でること自体が、数えるほどしか……
 
「誰かはわからない。だが、美しい声だった」
「声…誰かが、歌っていたということかい?」 
 
不意にピュンマが口を挟んだ。
緊張した声音に、ジェロニモは僅かに不審そうな色を浮かべたが、黙ってうなずいた。
 
「…女性、だったんじゃないか?」
「そうだ」
「どういう娘さんだったか…何か、覚えていることは?」
 
身を乗り出すピュンマの顔は青ざめていた。
おそらく、僕も同じような顔色をしていたにちがいない。
 
「…わからない。お前たち、何を、気にしている…?」
「あの曲を知っている人は、ほんのわずかしかいないんだ、ジェロニモ。それも、ごく限られた階級の者だけで…だから、あれを内裏の外で聞くことなどあるはずがない…でも、もしかしたら…」
 
僕は、声が震えるのを留めることができなかった。
…もしかしたら。
 
ジェロニモは、そんな僕をじっと見つめながら、静かに言った。
 
「確かなことはわからないが…あの家には、盲目の娘がいて、長者が大切に養っていると聞いたことがある」
「…盲目…の?」
「そうだ。実の娘ではないらしいが」
 
彼はそれきり黙った。
僕も、何も言うことができなかった。
 
もしかしたら。
 
そんなことを、願ってもよいものだろうか。
あの方が、もしかしたら、生きておられると…そんなことを。
 
 
 
それでも、僕はそれ以上のことをジェロニモに尋ねる気にはなれなかった。
ピュンマも、何か言いたそうに何度となく僕を見つめたが、やはり何も言わなかった。
ところが、それからしばらくしたある日。
寄進を申し出てくれたという土地の有力者を訪ねにいき、帰ってきたジェロニモは、例の長者の家へと足を伸ばしてみたというのだった。
 
「娘は、今、病をわずらっているらしい。長者がひどく心配して…祈祷をしてほしいと頼まれた」
「…それじゃ、その娘に会ったのかい?」
 
思わず声を上ずらせたピュンマに、ジェロニモは静かに首を振った。
 
「娘が、必要ない、と言ったそうだ。祈祷はしなかった」
「…必要ない…?」
「そうだ…長者が言うには、娘は物の怪に見入られたことがあるのではないか…盲目になったのもそのときだろう、と」
 
娘は、祈祷を受けてくれと泣く長者に、自分にそれは許されないことだと言い続けたのだという。
普段は優しい、親思いの娘なのだというが…
 
長者は渡来人で、唐渡りの良い薬を持っており、しかも珍しい優れた包丁人でもあるということだった。おそらく祈祷を受けずとも、その薬と滋養のある食べ物とで、娘の病は十分回復するだろう…とジェロニモは微笑した。
 
「普段から、仏を顧みようとしない娘なのだという。罪深いことだと、長者はそれも心配していたが…」
「それは、罪を受け、生き続ける誓いのため…なのかもしれない」
「…ジョー?」
 
ジェロニモはけげんそうに僕を見つめ…やがて、ゆっくり口を開いた。
 
「そういうものなのかどうか、わからない…ただ、娘はいつも言っているそうだ。自分には、いつも消えない光がある…だから、恐ろしいものはない、と」
「消えない、光…?」
「…ピュンマ」
 
僕は震えそうになる足を踏みしめ、ゆっくり立ち上がった。
ピュンマがそんな僕を見上げ、しっかりとうなずく。
 
「行ってこいよ、ジョー。後のことは、僕にまかせろ」
「…すまない」
「だが…あんまり長く留守にするのは困る。早くすませてくれ」
「わかっている」
「そして…一人で帰ってきたら、承知しないからな」
「…それは」
「ついでにいうと、今度は二人で消える、なんてのもなしだ!」
「…ピュンマ」
 
やっとの思いで、僕は彼に微笑を返した。
 
 
 
もうすぐ夜が明ける。
 
ジェロニモに教えられた、長者の家があるという村はこの山の向こうだ。
そこに、本当にあの方がおられるのだろうか。
もしおられるのだとして…僕に会ってくださるだろうか。
 
まだ、何もわからない。
 
ただ、もしもあの方が…かつて僕が魂を込めて奏でたあの曲を、今でも心にとめていてくださるのなら。
そして、お会いすることは叶わずとも、あの方にお伝えすることができるのなら。
 
フランソワーズ。
 
僕は、今も罪に穢れた道を…地獄の業火へと向かう道を歩いている。
歩き続けるのができるのは…あなたとの誓いがあるから。
 
あなたは、僕の光だ。
僕が初めて見つけた…ただひとつの光だ。
 
僕は、あなたに会えてよかった。
それが、あなたを不幸に落としたのだとしても。
それでも、あなたに会えてよかったと思う。
 
あなたは、僕を許さなくていい。
ただ僕は、あなたに知ってもらいたい。
 
あなたへの、変わらぬ想いを。
僕はいつでもあなたのものだということを。
今は、ただそれだけを。
かなうことならば、それだけを、あなたに伝えたい。
 
もうすぐ夜が明ける。
まぶしい一筋の光に導かれ、僕は旅立つ。
 
それが、終わらない道でもかまわない。
僕は、いつまでも歩き続けることができる。
 
この道の先に、必ずあなたがおられると…信じているかぎり。
 
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