知人の墓参りに行くのだが、一緒に来てくれないかというジョーの言葉に、深く考えることもなくフランソワーズはうなずいた。
空はいわゆる秋晴れで、散歩には気持ちのいい天候だったし、日本の墓地というのに好奇心もあったし、何より彼にそうして声をかけられることも滅多にない。他愛ないと我ながら思うが、嬉しかった。
お弁当は何がいいかしらと尋ねると、ジョーは驚いた顔になったが、はっきりと拒絶はしなかったので、いつもの彼らしい遠慮なのだろうとフランソワーズは思っていた。
だから、到着して車を降りると、彼女は思わず呆然と辺りを見回してしまった。
「……こっちだよ、フランソワーズ……大丈夫か?」
「え、ええ……ごめんなさい。あ、それ、私が持つわ」
「ああ、ありがとう」
ジョーが何やらいろいろと入っている紙袋を二つトランクから取り出し、更に花束を抱えようとしたので、フランソワーズは慌ててそれを受け取った。サンドイッチの入ったバスケットは車に置いていくしかなかった。
石の墓標が並ぶ静謐な雰囲気は彼女の故郷のそれと大きく異なるものではなかったが、通路がとにかく狭いし、香の煙が所々立ちこめている。のんびり散歩したり、ましてランチバスケットを広げてくつろぐという感じではない。
やがて、ジョーは小さな小屋のような建物から手桶とひしゃくを借りてきて、水を一杯に満たした。どうするのかと密かに周囲を見ると、どうやら、墓石をそれで洗うらしい。
たしかに、彼の持つ紙袋の中には掃除をするための道具らしいものも入っている。
彼が立ち止まったのは、他と何も変わったところのない小さな墓石の前だった。
「君は見ていていいよ」と言われたものの、フランソワーズも彼に倣って、見よう見まねで墓石を清めたり草をむしったり、花を花入れに活けたり……と、働いた。
最後に香に火をつけ、墓前に備えると、彼はしゃがみ込んで両手を合わせた。
その後ろに立ち、胸の前で両手を組んで頭を垂れながら、フランソワーズはそのとき初めて、ここに眠っているのは誰なのかしら……と思った。
石に刻まれているのはファミリーネームだけだったし、「島村」でもない。
彼は天涯孤独の身だと聞いたことがあるから、それは当然のことなのだろうけれど。
顔を上げ、ふと振り返ったジョーは黙祷するフランソワーズを見上げ、君も祈ってくれたんだね……ありがとう、と生真面目に礼を言った。
戸惑う様子になった彼女にジョーは思わず苦笑し、よく何も尋ねずついてきてくれたものだと改めて思った。
「説明もしないで、ごめん……この人は、僕が子どもの頃、施設で面倒を見てくれた保母さんなんだ」
「……」
「去年、亡くなったって、偶然聞いて。全然知らなかったけれど、あまり身よりのない人だったらしい。施設を出たみんなでお墓を建てようって話になってね、僕もそこに入れてもらったんだ」
「そうだったの……優しい、いい方だったのね」
「うん。今思えば、ずいぶん迷惑をかけたなあ……叱られてばかりいた。大人になってからは一度も会ったことがなかったから、この人は今でも僕を手のつけられない悪ガキだって思ってるに違いないよ」
「そうかしら……もしかしたら、あなたの活躍をご存じで、誇りに思っていらしたかもしれないでしょう」
「F1になんか興味のない人だったと思うよ。……訪ねてみればよかったんだ。でも、会えなくなるなんて……僕より先に逝ってしまうなんて、思ってもいなかったから」
「……」
単純に年齢を考えただけでも……まして、サイボーグとなったことを考え合わせれば、彼の言葉は奇妙に聞こえる。が、そう思う気持ちはフランソワーズにもわかった。
「私たち……もしかしたら、思ったよりずっと長生きするのかもしれないわね」
「そうでないと困る。……少なくとも、君は」
あなたもよ、と即座に言おうとして、しかしフランソワーズは口を噤んだ。
不意に彼の纏う空気が冷たく堅く……全てを跳ね返す鋼のように感じられたのだ。
墓地から少し離れたところに静かな小川があった。
その土手になっている草地に腰を下ろし、フランソワーズがようやくランチバスケットを開くと、ジョーは面白そうに尋ねた。
「フランスでは、墓参りのときにこうするものなのかい?」
「そう決まっているわけではないけれど……墓地は公園みたいなものなの。お散歩したり、読書をしたり……のんびりすごすのにいい場所なのよ」
「それはいいな……そんな墓地なら寂しくならないね、きっと」
「……ごめんなさい、ジョー」
「え?……」
「日本のお墓参りって、ごく親しい人が心をこめてするものだったのね。私、気軽に考えすぎてしまっていて……」
「いや……それで、よかったんだよ。僕だってあの人にはそれほど親しい人間じゃない」
「……」
「気軽に考えすぎていたというなら……僕たちだってそうだ。こうしてお墓をたてたなら、誰かが守り続けなければいけないのに。自分がこの世からいなくなってからもね。それだけの覚悟が、僕たちにはたぶんなかった。一時の感傷で、こんなことをしても……あの人には迷惑になるかもしれない」
「そんなこと、ないわ!」
フランソワーズは思わず叫んだ。
墓地を歩いていたとき、ぽつりぽつりと、荒れた感じの墓石を目にした。
それは、彼の言う「守り続ける」ことがなされなくなった……「寂しい」墓所なのかもしれない。
……でも。
「お墓がなければ、祈ることもできないわ。どこで祈ればいいか、わからない」
「……フランソワーズ」
「私は、その人のことを知らないけれど……何もできないけれど、祈ることならできるもの。あなたに優しくしてくれた、あなたの大切な人のために……私は祈りたい。それができて、嬉しい」
「……」
ジョーはしばらく黙ってうつむいていたが、ふと目を上げると、いきなり小川の向こう岸を指さした。
真っ赤な花がひとかたまりになって咲いている。
「彼岸花だ」
「……ヒガン、バナ?……まあ、なんてきれい。あんなところにも花を植えるのね、日本の人って。素敵だわ」
「いや、あれは野生の花だよ……ああ、違うか。もともとは人が植えたものだな」
「そうなの?……それじゃ、摘んでも構わないのかしら」
「うん。摘む人はあまりいないけれど……毒のある花なんよ」
「……毒?」
「それに、こういう……墓地の近くによく植えられているから、不吉な花だという人もいる。色も血のように赤いだろう?」
「そう……言われてみれば……でも」
「彼岸花はね、昔、飢饉のときに食料にするために植えられたんだそうだ」
「え…?毒があるのに?」
「だから、さ。食べられるものなら、収穫して税を納めなければならないだろ?毒なら、そうしなくてすむ。それで、さかんに植えられた。小川のほとりや、あぜ道や、墓地のように……田畑ではない場所にね。いよいよ食べるときには、手を掛けて毒を抜いたんだ」
「……まあ」
「考えてみると……面白い花だね」
ジョーはどこか遠い目をしながら続けた。
「あの花は、ちょうど、この墓参りの季節に……彼岸の頃に咲くから彼岸花っていうんだよ。たしかに、きれいだ……君の言うとおりかもしれない」
「……私……の?」
「もし、訪れる人が誰もなくても……墓地では、あの花が必ず咲く」
「……」
「それで、いいのかもしれない」
何が「それでいい」ということだったのか。
そのときのフランソワーズにはわからなかったし、尋ねることもできなかった。
それを思い出したのは、パリに戻ってしばらくしてから、花屋で、あの花とよく似た……しかし白い……花を見かけときだった。
花の名を頼りに調べてみると、あの赤い花は中国原産で、それが日本に渡ったものなのだという。
広く植えられているが、品種改良などはされておらず、ただ一株の球根が無数に増え……今も増え続けている、ということらしい。
そもそも、種は、できない。
それでも……咲き続ける。
名もない人々を見守りながら、永遠に。
それで、いいと……そういう、ことだったのかしら。
あなたがそのように生きるというのなら。
それなら、私は……
……私は。
どうするというのか。
やはり、そのときのフランソワーズにはわからなかった。
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