風と太陽と枯れ草と埃の匂いをまとったあなたが「ただいま!」と玄関を勢いよく開ける。
靴を脱ぎ散らして駆け上がる音。
 
まるで、息を切らしているみたいな気配。
でも、そんなはずないわね。
 
「いい匂いだな……ご馳走だね」
「ふふ、残念でした。それほどでもないのよ。ジョー、手は洗った?」
「ウン」
 
素敵な音だわ。
あなたの体を、歌うように流れる血液。
軽やかにうなる機械音。
 
そんなことを言ったら悲しむかしら。
でも、よく澄んで、弾んだ音よ。
幸せな音ね、ジョー。
いったい何をしてきたのかしら?
 
「久しぶりに駆け回ったよ……もう少しでホンキになるところだった」
「まあ」
「ホントさ……足を滑らせて転んだりしたし」
「え?……まさか」
「大丈夫、受け身をとったりしなかったよ。ちゃんとソレらしく派手に転がったから。笑われちゃったけど、ああいうの、久しぶりだったなあ……!」
 
咄嗟にそういうことができるのも、あなたの能力の凄いところだと思うわ。
ううん、もしかしたら、咄嗟だったからこそ本当の姿が出たということかしら。
 
あなたは、やっぱり生まれつきの戦士ではないのよ、009。
そう心から思えるのが嬉しい。
 
「フランソワーズ。ケーキだけど……ちゃんと、焼いてくれたよね?」
「ええ。……どうしたの、心配そうに。甘い物はそれほど好きじゃないでしょう?」
「だって。クリスマスは特別だよ」
 
君のケーキは特別……って言えたら100点をあげたのに。
でも、ご褒美のキスをあげるわ。
あなたにしては上出来だし……それに、とても幸せな気分だから。
 
来年も、こんなクリスマスでありますように。
花見
 
話には聞いていたが、見事なものだな……とアルベルトがつぶやく。
まったくだ、隣にいるのがお前らだってのが残念だぜ、とジェットがうそぶく。
 
「ふふ、それはお互いさまだよ、文句いいっこなしさ」
「お前にだけは言われたくないぜ、ジョーよ。……ったく、小せぇ野郎だぜ」
「……どういうことだい?」
 
不思議そうに首をかしげるジョーに、アルベルトがにやりとした。
 
「つまり、どうしてお前はフランソワーズを連れてこなかったんだ……?って話なんだろうよ」
「え……?」
「そういうことさ……男の嫉妬は醜いぜ、ジョー」
「なんだ……誤解だよ、フランソワーズはメンテナンスの準備があって……」
「わかってるさ、いちいちマトモに取るな」
「……」
 
ジョーは憮然とした表情で一旦黙り込んだが、ほどなく楽しそうに振り返った。
 
「ボートに乗るかい?……思ったよりも空いてるみたいだ」
「おいおい。野郎三人でボートかよ、勘弁しろって」
「でも、ここの桜を堪能するにはボートが一番なんだけどな……ほら、水面まで枝が垂れ下がってるだろう?桜は枝先に咲くから、なかなか目の前で花を楽しむチャンスはないんだ。せっかくいい時期にトウキョウにいるんだから、見逃す手はないと思うよ」
「……お前がそこまで言うなら、まぁ、試してみるか」
「おいおい、ホンキかよ?」
「もちろん。……これこそ異文化の醍醐味ってやつかもしれないしな」
 
 
ジョーの言葉どおり、ボートからの桜の眺めは予想以上に素晴らしかった。
ほう、と息をつくジェットとアルベルトを嬉しそうに見ながら、ジョーはせっせとオールを動かしていた。
 
「二人とも、やっぱり日本人とは違うなあ……花がよく映えて、肌の色がすごくきれいだ」
「気色悪いヤツだな……ったく、そういうことはフランソワーズに言ってやれ」
「……そういえば、フランソワーズはこういう花見をしたことがないかもしれないな」
「へえ?……そうなのか?」
「ああ。日本にはそこら中に桜があるし、見た事がないってことはないけど……こういう本格的なのはね」
「そいつは気の毒に……何やってるんだ、お前は」
「……うん」
 
でも……と言いかけて、ジョーは後の言葉をのみこんだ。
言っても理解してもらえそうにないし、またどやされるだけだし……万一、フランソワーズの耳に入っても言い訳が難しいような気がする。
 
 
彼女と、こういう花見はあまりしたくないんだよなぁ……。
 
 
夢のように美しい、どこまでも続く淡い薄紅の雲。
その下に、雪白の肌と青く澄んだ瞳……輝く亜麻色の髪の乙女。
 
想像だけで、もう十分だ。
そんなモノがこの世にあることを見てしまったら。
 
……生きていくことが今よりもっと恐ろしくなるかもしれない。
白い猫
 
友達のドミニクが出張の間、預かっているのよ……と、けげんそうなジョーの視線にフランソワーズは笑顔で答えた。
久しぶりにパリに立ち寄り、彼女のアパルトマンを訪れると、フランソワーズの腕の中にはごく小さい白いかたまりがちんまりとしていたのだった。
 
「へえ……まだ赤ちゃんかい?」
「そうなの。だから手が離せないんですって」
 
ドミニクっていうと、男か女か……と微妙に気になったものの、それを聞き出すのは何となくはばかられた。会話をフランス語に切り替えればいいんだが……と思うが、二人きりのとき、フランソワーズはいつもジョーに合わせて日本語を使ってくれる。
 
「……かわいいね」
「そうでしょう?……今は眠っているけど、青い目をしているのよ、この子」
「名前は?」
「まだ決まってないんですって。よかったらつけてやって、なんて言うのよ、ドミニクったら」
 
彼女の様子から考えると、どうも、そのドミニクという人物を自分は知っていなければならないんだろうな、とジョーは思う。
そういう相手だということなら、男だろうと女だろうと関係ない。
 
「じゃ、僕がつけてあげようか」
「ダメよ。あなたがつけると、ブランシュになってしまうもの」
「……」
 
ってことは、この猫は雌なのか。
と、ジョーは思ったが、もちろんそんなことはどうでもいい。
 
「いくら僕だってそこまで酷くないよ。ブランシュ・ネージュ、ぐらいには工夫するけどな」
「あら、素敵。白雪姫ね」
「……そんなんでいいのかい?」
「ふふ、そうよね……やっぱりドミニクにつけてもらいなさいな、いい子ちゃん」
 
フランソワーズは柔らかそうな布が敷き詰めてあるバスケットにそうっと子猫をおろした。
のぞいてみると、本当に雪のように白い猫だった。
 
不意に、ああそうか、とジョーは思った。
さっきから漠然と感じていた奇妙な感覚は「ドミニク」じゃなく、この猫からのモノだったのだ。
 
ふわふわした雪のように白い小さい生き物。
それを愛おしそうに抱える彼女……
 
「……ピ」
「ピエレット?」
「え?」
「それもいい名前ね。とても元気な子だから」
 
にっこり振り返ったフランソワーズの無邪気な眼差しに、ジョーはたじろぎ、ほとんど反射的に彼女の腕をつかんで引き寄せると、力任せに抱きしめた。
 
――何を、言おうとしてたんだ、僕は。
 
「……ジョー?」
「君は猫なんて、飼わない方がいい」
「わかってる……私たちには無理、よね」
「……」
 
そういう意味じゃない……と言うことができず、ジョーはただ彼女を抱く腕に更に力を込めた。
その日の空
 
今年は覚えていた。ちゃんとケーキも予約してある。
晩ご飯もそのあともどうも二人きりになりそうだった……けれど、研究所ではその時になってみないとわからないから、一応、小さめのホールケーキにしておいた。
去年はすっかり忘れていて、彼女が自分でケーキを焼いて、それで、あ、そうか!と思ったんだ。
それはちょっとあんまりだとさすがに反省して、今年はカレンダーに印をつけておいた。
 
プレゼントも用意してある。ケーキのときに渡せばいい。
一応……これで、いいはず、だよな?
 
料理はどうしようもない。
大人はパーティが入ったとかで来られないし、僕には何もできないし。
もちろん、食事に出ようかと提案はしたけど、家でゆっくりしたいわ、と彼女が言うのでそれもなし。
 
人数の融通が利くし、君の負担も少ないから鍋とかどう?と言ったら、あなたにしては所帯じみたコトを言うのね、と笑われた。
少しは家事がわかってきた、と褒めてもらいたいところなんだけど。
 
そんなわけで、午後から買い物に出てケーキを受け取って……研究所へ向かう坂道を走っていたら、ちらちらと雪が舞ってきた。
そういえば朝から寒かったし、空もどんよりしていた。
ラジオをつけると、ちょうど天気予報をやっていて、今夜にかけて大雪になるという。
 
誰も来ないことになっていてよかった。
大雪ぐらいでまいる僕たちではない。交通機関がマヒしたなら歩いたり飛んだりするだけだし、ココでの大雪なんて、吹雪のヒマラヤに比べればなんでもないことだけど、彼女はやっぱり心配するからね。
 
 
 
天気予報はばっちり当たった。
鍋で温まって、彼女のいれてくれたおいしいコーヒーを味わいながらケーキにナイフを入れた頃、窓の外は真っ白になっていたのだ。
 
女の子へのプレゼントは指輪にしとけば間違いない、という話を聞いてから、誕生日のプレゼントはいつも指輪だ。
もういくつめかなーと思うし、いいかげん他のモノにしてもいいようにも思うけど、これといったアイディアが浮かばない。
幸い、指輪っていうのは無数にバリエーションがあって助かるんだ。
 
それに、指輪だったらはめてやるときに彼女の手に自然に触れるから、それをきっかけにできる。
ああそうか、それならネックレスでもいい。
来年はそうしてみようか。
 
とにかく、僕たちはそうやってソファに収まって、静かに窓の外を見ていた。
正確に言えば、窓はかなり曇っていたから、ちゃんと見えていたのは彼女だけだったのかもしれないけれど。
 
「私が生まれた日は、こんな大雪だったのよ」
 
不意に彼女が言った……その言葉に、アレ?と強い違和感を感じた。
気配に気付いた彼女が、不思議そうに僕を見上げる。
 
「そうだったかな?君が生まれたのは、よく晴れた日だった……ような気がしていたけど」
「あら。そんな話、したことあったかしら?」
 
彼女が首をかしげた。
言われてみれば、そんな話をきいた覚えはない。
でも……。
 
調べてみようと思い立ち、僕は彼女を離して立ち上がり、地下の研究室に向かった。
コンピューターをたたいて、データを検索する。
 
……あった。
 
考えてみれば当たり前だったけど。
その日、パリ地方は雪だった。
 
「……ジョーったら。どうしたの?」
 
いつのまにか彼女が後ろに立ってあきれ顔をしている。
それはそうだ。
せっかくなかなかいい雰囲気になっていたのに……と、我に返り、僕もかなり残念に思った。
 
でも、フランソワーズは優しい。
いつもそう思う。
今だって。
 
彼女は僕の失策を埋めるように、坐ったままの僕の背中を椅子ごと抱きしめてくれた。
首筋に柔らかい髪があたって、くすぐったい。
 
「ごめん。……なんだか、どうしても納得がいかなくて」
「お天気のこと?」
「うん」
 
でも、どうでもいいことだった。
今一番大事なのは、君がこうしてここにいてくれることだし。
 
僕は立ち上がって振り返り、彼女を思いきり抱きしめた。
今度は彼女が身じろぎして、コンピューターの電源を気にしているそぶりをする……けど、これ以上余計なことを考えるのはやめにするべきだ。
一番大切なことだけに専念することに決めて、僕は彼女を抱き上げ、足早に寝室へ向かった。
 
 
 
彼女の安らかな寝息が、僕をまどろみに誘う。
柔らかくてあたたかくて懐かしい肌。
 
眠りに落ちかけた僕の脳裡に、まぶしい青い空がよぎった。
この空を、僕は覚えている……。
 
 
 
あの日はやっぱり晴れていたよ、フランソワーズ。
凍える季節に奇跡のように恵まれた、日差しに満ちた一日。
僕は指先のしもやけの痛みも忘れて、空を見上げていた。
それは、本当に美しい青い空だった。
 
天気予報によれば、明日の朝は晴れるらしい。
 
目ざめた君に見せてあげたい。
晴れ渡った空。
君の目と同じ色に輝く、澄み切った空。
 
君はあの日からずっと、僕の希望なんだ。
クリスマスケーキ
 
ジョーが思わず足を止めたのは、ほのかなその店の灯りを不審に思ったからだ。
普段はクルマでさっと通りぬけるところで、特に注意して辺りを見ていたこともない。
だからもうひとつ自信はないが、この付近は閑静な住宅街で、店などなかったはず……だった。
 
ちら、とのぞき込んでみると、それは小さな洋菓子店だった。
こんなトコロにこんな店があったのか、とジョーは感心した。
この町に住むようになって数年になるが、今まで気づかなかった。
 
特に新しい店というわけでもなさそうだった。
ガラス扉はきれいに磨かれていたが、店内の灯りはどこか薄暗く間口も狭い。
そして、奥のごく小さなショーケースの中には、真っ赤な苺がぐるりと盛大にのっている雪のように白いケーキが、いくつも鎮座していたのだった。
 
「……え」
 
思わず声を漏らし、ジョーは腕時計を見た。
もう10時を回っている。
そして、日付は。
 
「そうか……今日はクリスマスだったのか」
 
ようやく納得した。
つまり、この店ではどういうわけか、クリスマスケーキを作りすぎたのか売れなかったのか……とにかく、結構な数が売れ残ったということなのだろう。
まさか、完売するまで店を閉めないつもりではないだろうが、せめて少しでも売れないかという期待をこめて、こんな時間なのに店を開けているのだ。
 
なんだか気の毒になってしまった……のがいけなかった。
その分だけ、立ち去るのがわずか遅れてしまった。
しまった、と思ったときには、ジョーは、いかにも臨時の店番らしいほっそりした少女と思い切り目を合わせてしまっていたのだ。
そして、少女は儚げに微笑み、か細い声で「いらっしゃいませ」と言うのだった。
 
 
ショーケースの中でもかなり大きく見えたケーキは、箱に入るとなお大きく、思わずまじまじと眺めてしまう。
支払いを済ませると、店番の少女は「ありがとうございました」と恥ずかしそうに言い、アタマを下げた。
 
ショーケースの中には、ジョーが買ったケーキと同じモノがあと6つ残っている。
これでは、まだ店じまいはできそうにないが……
 
そそくさと店を出る。
僕は何をやっているんだろう、とジョーは思わず息をついた。
 
店番の少女は、たしかにジョーが店に入ったとき、嬉しそうな表情になっていた……と思う。
だが、本当に彼女を助けたいと思ったのなら、あのケーキを全部買い上げてしまうべきだったろう。たとえば、ジェットなら間違いなくそうしたにちがいない。
金に困っているわけではないし、どれだけ大量のケーキだろうが、009にとっては要するにエネルギー源なのだから食べればよいだけで、無駄にはならない。そういう「処理」についてはかなり無理のきく体だ。
 
でも、自分にそういうことはできない、とジョーは思う。
気持ちの問題として、なんとなくできないのだ。
そして、それなら。
できないのなら、何もせず立ち去るべきだったのではないか。
 
「……中途半端、だよな」
 
今に始まったことではない。
要するに自分はそういう性格なのだ。どうしようもない。
 
子どもの頃、こういうケーキに憧れていた……わけではないような気がするが、少なくとも自分には縁がないものだと思っていたことはたしかだ。
あの頃と思えば何も変わっていないのに、こうして自分の手にはクリスマスケーキがある。
あっけないほど簡単に手に入ったが、馬鹿馬鹿しいほど意味がない。
 
のろのろとマンションに戻ると、003……フランソワーズからの留守番電話が入っていた。
そんなことはかなり久しぶりだったが、今日がクリスマスだと気づいていたから、うっすらと予想はしていた。
彼女はいつも、クリスマスや誕生日や新年に簡単なメッセージを届けてくれるのだった。
 
「ジョー、元気ですか?クリスマス休暇は日本で過ごそうと思っています。これからパリを発って、10日ほど研究所にいる予定です。大晦日には張々湖大人たちとパーティをすることにしたので、忙しくなければ来てください」
 
メッセージを聞き終えると、ジョーは再び再生ボタンを押し、注意深く耳を澄ました。
フランソワーズの声に混じって聞こえる雑音から、彼女がパリの空港から電話をかけているらしいことがわかる。
……とすると。
 
慌ただしくアタマを巡らせる。
おそらく、明日の夜には彼女は研究所にいる……のだろう。
彼女が到着時間について何も言わないのは、つまり空港への迎えは不要、ということだ。
こっちにいる友人か誰かに会う予定でもあるのかもしれない。が、いずれにしても、夕食は研究所でとるのだろうし、もしかすると、張々湖たちも来るのかもしれない。
 
それなら、このケーキを持って行けば、みんなで……と思いつき、しかしジョーはすぐに思い直した。
フランソワーズがよくあれこれと焼き菓子を作ることを思い出したのだった。
 
やはり、コレはひとりで一気に食べるしかないようだった。
とりあえずサイボーグでよかった……ということかもしれない。
 
うんざりするような笑い出したいような気持ちの中で、ジョーはそう思った。
 
たとえば。
君を力の限り抱きしめたら、壊してしまうかもしれない。
それが、僕はこわい。
 
昔、ジョーが生真面目にそう言った。
もちろん、比喩ではなく。
それなら、自分も彼を真剣に見つめることなどきっとできないのだと、フランソワーズはそのとき思った。
 
でも、たぶん。
彼がこわがっていたのは、その忌まわしい力そのものではなくて。
もっと……もっと。
 
「……あなたは、今でも、こわい?」
 
そっと尋ねると、ジョーは驚いたようにフランソワーズを見つめ、それから静かに首を振った。
 
「こわくない。こわがる必要なんてないとわかったから……たぶん、ボルテックスで」
「ボルテックス……?」
 
今度はフランソワーズが驚いたようにジョーを見つめた。
不意をつかれて赤くなった顔を前髪で隠そうとする彼がむやみに少年じみていて、フランソワーズは思わず笑った。
 
「笑うなよ……しかたないだろう?君の方は、そんなトコロまで行かなくても、とっくにわかっていたんだろうけれど」
 
男は馬鹿なんだよと、ジョーはふてくされたように言い、そのまま再び彼女を抱きしめた。
あらん限りの愛しさを込め、あらん限りの力を込めて。
それでも、彼女は壊れたりしない。
今はもうわかっている。
 
力は何も壊さない。何も救わない。
ただ、力であり続けるだけだ。
 
それなら、自分もきっと彼を真剣に見つめているのだろうと、フランソワーズは思う。
何が見えても見えなくても、見えるものはいつも愛しい。
ただ、それだけのこと。
 
「君は始めから何もかもわかっていた……そうだろう?」
 
とささやくジョーに曖昧な微笑を返し、フランソワーズは目を閉じた。
 
女は愚かなものなのよ。
何もわからない、わかろうとしない。
 
あなたはボルテックスでわかったことがあったというけれど。
それなら、私はあの星で、何もわかりはしなかった。
今も、きっとそう。
 
ただ、愛しいだけ。
それだけでいいの。
冷たい手 2
 
だからオマエは間抜けなんだ、とジェットがあきれたように言う。
たしかに、と肩をすくめるピュンマにうなずきながら、でもまあ、おまえらしいぜ、ジョー、と、アルベルトも彼にしては珍しくしんみりと言った。
 
そんな仲間の表情から何も読み取っていないらしい調子で、照れくさそうに、ジョーは言った。
 
「みんなも気づいていたのか……そうだよな」
 
彼女の手は、いつも冷たい。
 
※※※
 
冷え性、ということなのかと思ったが、そうではないらしい。
サイボーグにそういうものはないのだという。言われてみれば納得する。
眉をひそめるジョーに、むしろ不思議そうにフランソワーズは言った。
そんなにつらいわけではないのよ、と。
 
彼女はさらに何かを言おうとして、口を噤んだ。
同時に、ジョーは了解した。
「フツウは」寒いところにいれば手が冷たくなるものなのだ、と。
 
やはり、003の体は生身に近い。
そういうことなのかとひそかに嘆息しつつ、ジョーは再びフランソワーズの手をとった。
今度は、両手で、いたわるように包み込んだ。
 
知らなかった、と思わずつぶやく。
知らなかったのも当然だ。
これまで、こうして彼女の手に触れたことなどなかったのだから。
 
それは本当に小さくて、軽くて、柔らかくて。
そして、氷のように冷たかった。
 
数日後、ジョーから無言で渡された包みを開き、フランソワーズは思わず微笑した。
その柔らかい黒革の手袋は、不思議なほど彼女の手にぴったりと合った。
 
※※※
 
あれ以来、彼女の手は滑らかな黒革に包まれ、守られている。
とても暖かいわ、と嬉しそうに笑う彼女の手をさりげなく取ると、やはりひんやりとしているのだけど、それはおそらく、革の表面がそうであるというだけのことで。
 
何よりこの手を暖めたかったのだから、これでいいのだとジョーは満足する。
暖めるモノが自分の手である必要はどこにもない。
 
案の定、なぜオマエというヤツは結論が手袋になるんだ、そういうときは黙って手を握ってやればいいんだ、もうずーっと握っていろ、と、仲間達は次々に嘆いてみせた。
或る者はわざとらしく、或る者は真顔で。
 
適当にはぐらかしながら、やっぱりそう思うわけかそうだよな……とジョーは息をつくのだった。
本音
 
彼女のどこが好きかと聞かれたら、何も答が思いつかない。
でも、どこがキライかと聞かれたら、もちろんそんな質問には絶対に答えてやったりしないけれど、すらすら答える自信がある。
 
僕は、フランソワーズがキライだ。
 
彼女はおせっかいで、しかもその自覚がない。
彼女はやきもちやきで、しかもそれを隠しているつもりでいる。
彼女はおそろしく強情でわがままで、しかもそれを我慢強さだと勘違いしている。
そう、たしかに彼女は我慢強い。いつも我慢ばかりしているから、いいかげん、僕もわかるようになった。ああ、今我慢しているんだなーと。
我慢なんてしなくていいじゃないか。イヤならイヤだと言えばいいのに、彼女は絶対そうしない。
もしかしたら諦める、ということを知らないのかもしれない。勘弁してほしい。
 
とにかく面倒な女だ。
しかも、美人なのだ。それは認めざるを得ない。
もちろん、自分が美人であることを知らない美人なんていない。
彼女もしかり、だ。
 
僕はたしかにひねくれた男だが、これについては多数派というヤツらに諸手を挙げて賛成する。
彼女を恋人にする、なんて苦行だけはご免被りたい。
まかり間違ってそんなことになってしまったら、人生は終わったようなものだ。
僕の全ては彼女に握られ、永久に解放されることはない。
 
つまり、そういう風にして、たぶん僕の人生というものは……そういうものがあるとすればだが……終わってしまった。
今、僕が生きているのは、なんだろう、オマケみたいなものなのだ。
 
フランソワーズ。
僕は君がキライだ。
 
おそらく僕だけじゃない、どんな男だって君を嫌うだろう。
だから僕が君にとって初めての男だったのはまったくもって当然のことだし、同じ理由で、僕は君の最後の男でもある。
 
フランソワーズ。
僕は、君がキライだ。
 
僕は君から逃げたいといつも思っている。
チャンスさえあれば、僕は命をかけ、全てをかけて君から逃げる。
 
だから、どんなときも油断するな。
僕が最強のサイボーグであることも忘れるな。
僕から目を離すな、わずかひとときも。
 
だって。
僕は、君がキライなんだ。
彼岸花
 
知人の墓参りに行くのだが、一緒に来てくれないかというジョーの言葉に、深く考えることもなくフランソワーズはうなずいた。
空はいわゆる秋晴れで、散歩には気持ちのいい天候だったし、日本の墓地というのに好奇心もあったし、何より彼にそうして声をかけられることも滅多にない。他愛ないと我ながら思うが、嬉しかった。
 
お弁当は何がいいかしらと尋ねると、ジョーは驚いた顔になったが、はっきりと拒絶はしなかったので、いつもの彼らしい遠慮なのだろうとフランソワーズは思っていた。
だから、到着して車を降りると、彼女は思わず呆然と辺りを見回してしまった。
 
「……こっちだよ、フランソワーズ……大丈夫か?」
「え、ええ……ごめんなさい。あ、それ、私が持つわ」
「ああ、ありがとう」
 
ジョーが何やらいろいろと入っている紙袋を二つトランクから取り出し、更に花束を抱えようとしたので、フランソワーズは慌ててそれを受け取った。サンドイッチの入ったバスケットは車に置いていくしかなかった。
 
石の墓標が並ぶ静謐な雰囲気は彼女の故郷のそれと大きく異なるものではなかったが、通路がとにかく狭いし、香の煙が所々立ちこめている。のんびり散歩したり、ましてランチバスケットを広げてくつろぐという感じではない。
 
やがて、ジョーは小さな小屋のような建物から手桶とひしゃくを借りてきて、水を一杯に満たした。どうするのかと密かに周囲を見ると、どうやら、墓石をそれで洗うらしい。
たしかに、彼の持つ紙袋の中には掃除をするための道具らしいものも入っている。
 
彼が立ち止まったのは、他と何も変わったところのない小さな墓石の前だった。
「君は見ていていいよ」と言われたものの、フランソワーズも彼に倣って、見よう見まねで墓石を清めたり草をむしったり、花を花入れに活けたり……と、働いた。
 
最後に香に火をつけ、墓前に備えると、彼はしゃがみ込んで両手を合わせた。
その後ろに立ち、胸の前で両手を組んで頭を垂れながら、フランソワーズはそのとき初めて、ここに眠っているのは誰なのかしら……と思った。
石に刻まれているのはファミリーネームだけだったし、「島村」でもない。
彼は天涯孤独の身だと聞いたことがあるから、それは当然のことなのだろうけれど。
 
顔を上げ、ふと振り返ったジョーは黙祷するフランソワーズを見上げ、君も祈ってくれたんだね……ありがとう、と生真面目に礼を言った。
戸惑う様子になった彼女にジョーは思わず苦笑し、よく何も尋ねずついてきてくれたものだと改めて思った。
 
「説明もしないで、ごめん……この人は、僕が子どもの頃、施設で面倒を見てくれた保母さんなんだ」
「……」
「去年、亡くなったって、偶然聞いて。全然知らなかったけれど、あまり身よりのない人だったらしい。施設を出たみんなでお墓を建てようって話になってね、僕もそこに入れてもらったんだ」
「そうだったの……優しい、いい方だったのね」
「うん。今思えば、ずいぶん迷惑をかけたなあ……叱られてばかりいた。大人になってからは一度も会ったことがなかったから、この人は今でも僕を手のつけられない悪ガキだって思ってるに違いないよ」
「そうかしら……もしかしたら、あなたの活躍をご存じで、誇りに思っていらしたかもしれないでしょう」
「F1になんか興味のない人だったと思うよ。……訪ねてみればよかったんだ。でも、会えなくなるなんて……僕より先に逝ってしまうなんて、思ってもいなかったから」
「……」
 
単純に年齢を考えただけでも……まして、サイボーグとなったことを考え合わせれば、彼の言葉は奇妙に聞こえる。が、そう思う気持ちはフランソワーズにもわかった。
 
「私たち……もしかしたら、思ったよりずっと長生きするのかもしれないわね」
「そうでないと困る。……少なくとも、君は」
 
あなたもよ、と即座に言おうとして、しかしフランソワーズは口を噤んだ。
不意に彼の纏う空気が冷たく堅く……全てを跳ね返す鋼のように感じられたのだ。
 
 
墓地から少し離れたところに静かな小川があった。
その土手になっている草地に腰を下ろし、フランソワーズがようやくランチバスケットを開くと、ジョーは面白そうに尋ねた。
 
「フランスでは、墓参りのときにこうするものなのかい?」
「そう決まっているわけではないけれど……墓地は公園みたいなものなの。お散歩したり、読書をしたり……のんびりすごすのにいい場所なのよ」
「それはいいな……そんな墓地なら寂しくならないね、きっと」
「……ごめんなさい、ジョー」
「え?……」
「日本のお墓参りって、ごく親しい人が心をこめてするものだったのね。私、気軽に考えすぎてしまっていて……」
「いや……それで、よかったんだよ。僕だってあの人にはそれほど親しい人間じゃない」
「……」
「気軽に考えすぎていたというなら……僕たちだってそうだ。こうしてお墓をたてたなら、誰かが守り続けなければいけないのに。自分がこの世からいなくなってからもね。それだけの覚悟が、僕たちにはたぶんなかった。一時の感傷で、こんなことをしても……あの人には迷惑になるかもしれない」
「そんなこと、ないわ!」
 
フランソワーズは思わず叫んだ。
墓地を歩いていたとき、ぽつりぽつりと、荒れた感じの墓石を目にした。
それは、彼の言う「守り続ける」ことがなされなくなった……「寂しい」墓所なのかもしれない。
……でも。
 
「お墓がなければ、祈ることもできないわ。どこで祈ればいいか、わからない」
「……フランソワーズ」
「私は、その人のことを知らないけれど……何もできないけれど、祈ることならできるもの。あなたに優しくしてくれた、あなたの大切な人のために……私は祈りたい。それができて、嬉しい」
「……」
 
ジョーはしばらく黙ってうつむいていたが、ふと目を上げると、いきなり小川の向こう岸を指さした。
真っ赤な花がひとかたまりになって咲いている。
 
「彼岸花だ」
「……ヒガン、バナ?……まあ、なんてきれい。あんなところにも花を植えるのね、日本の人って。素敵だわ」
「いや、あれは野生の花だよ……ああ、違うか。もともとは人が植えたものだな」
「そうなの?……それじゃ、摘んでも構わないのかしら」
「うん。摘む人はあまりいないけれど……毒のある花なんよ」
「……毒?」
「それに、こういう……墓地の近くによく植えられているから、不吉な花だという人もいる。色も血のように赤いだろう?」
「そう……言われてみれば……でも」
「彼岸花はね、昔、飢饉のときに食料にするために植えられたんだそうだ」
「え…?毒があるのに?」
「だから、さ。食べられるものなら、収穫して税を納めなければならないだろ?毒なら、そうしなくてすむ。それで、さかんに植えられた。小川のほとりや、あぜ道や、墓地のように……田畑ではない場所にね。いよいよ食べるときには、手を掛けて毒を抜いたんだ」
「……まあ」
「考えてみると……面白い花だね」
 
ジョーはどこか遠い目をしながら続けた。
 
「あの花は、ちょうど、この墓参りの季節に……彼岸の頃に咲くから彼岸花っていうんだよ。たしかに、きれいだ……君の言うとおりかもしれない」
「……私……の?」
「もし、訪れる人が誰もなくても……墓地では、あの花が必ず咲く」
「……」
「それで、いいのかもしれない」
 
 
何が「それでいい」ということだったのか。
そのときのフランソワーズにはわからなかったし、尋ねることもできなかった。
それを思い出したのは、パリに戻ってしばらくしてから、花屋で、あの花とよく似た……しかし白い……花を見かけときだった。
 
花の名を頼りに調べてみると、あの赤い花は中国原産で、それが日本に渡ったものなのだという。
広く植えられているが、品種改良などはされておらず、ただ一株の球根が無数に増え……今も増え続けている、ということらしい。
そもそも、種は、できない。
 
それでも……咲き続ける。
名もない人々を見守りながら、永遠に。
 
 
それで、いいと……そういう、ことだったのかしら。
あなたがそのように生きるというのなら。
それなら、私は……
 
……私は。
どうするというのか。
 
やはり、そのときのフランソワーズにはわからなかった。
心臓
 
ジェットとフランソワーズの人工心臓は同じタイプなのだという。
僕がそのことを知ったのは、あの宇宙での戦いよりも少し前のことだ。
 
そのとき、僕は、メンテナンスのために研究所を訪れる予定を少し延期しなければならないと考えていた。仕事がどうしようもなく忙しかったからだった。
そこに、ジェットから連絡があった。悪いが、先にメンテに入らせてもらえないか、と。
彼の方は思いがけない休暇がとれたのだという。
もちろん、否やはなかった。
 
ようやくスケジュールが調整でき、久しぶりにギルモア研究所を訪れると、思いがけないことにフランソワーズがいた。
彼女のメンテナンスはまだ先だったはず……だから、何かあったのかと一瞬ぎくり、としたが、彼女はそんな僕の様子にすぐ気づき、何でもないのよ、と笑った。
 
「正確に言うと、何でもないわけではないのだけど……ジェットに、ちょっと大きな不具合が見つかったの。ああ、でも大丈夫、もう峠は越えたのよ。博士も十分休養をとられたから、あなたのメンテナンスにも影響はないわ」
「大きな不具合……?」
「ええ。心臓のパーツを交換したの」
「……心臓?」
 
それはたしかに大きな不具合だ。
しかし。
 
「で……君はどうしてここに?博士の手伝いに来たのかい?」
「あ。そうじゃないわ……私も念のため、点検を受けたのよ。それから、万一のときのために待機していたの」
「万一……って?」
 
フランソワーズは困ったように笑った。
そして、教えてくれたのだ。
彼女とジェットの人工心臓は同じタイプだということ。
つまり、ジェットの心臓に不具合が出たなら、彼女にもそれが出る可能性がある。
更に、彼の手術中、不測の事態になったときは……
 
「え?君の人工心臓を、彼につなげるのかい……?」
「ええ。もちろん何日もは無理よ……でも、研究所の人工心肺よりはずっと安全性が高いの」
「……知らなかったなあ」
「ふふ、そうね。そういえば、そんなひどい怪我、あなたの前ではしたことがなかったわ」
「ジェットが……かい?それとも、君が?」
「両方よ。……あ、ずっと昔の話なの。私たちがまだブラックゴーストにいたころの」
「……そう、か」
 
ということは、彼と同じ血が彼女の中に流れているということなのか。
文字通りきょうだいだね、と思わず唸った。
彼女は楽しそうに笑った。
 
 
※※※※※
 
 
「俺の調整器をアタッチメントすれば、きっと大丈夫だぜ」
「……ありがとう、ジェット」
 
何でもないことのように微笑み合い、コックピットを出ていく二人を、僕は黙って見つめていた。
 
そうだ。
きっと特別なことではないのだろう。
これまでも、何度もそうやって命をわけあってきたという信頼感が、二人を優しく包んでいた。
 
これは嫉妬ではない。
彼女は、僕のものだ。嫉妬する理由などどこにもない。
ただ……
 
そして、シャトルに乗り込むとき。
ジェットはフランソワーズを優しく抱きしめ、それから僕の手をしっかりと握りしめた。
 
――任せたぞ。
 
そう言われたわけではない。
だが、彼の手は鋼のように強く、火のように熱かった。
 
 
※※※※※
 
 
僕の腕の中で、彼女の鼓動がみるみる烈しくなる。
彼と同じだという心臓は今にも破れそうだ。
それを快く感じながら、僕は今夜も彼女を抱きしめる。
 
これは嫉妬ではない。
彼女とは違う僕の心臓が、今、彼女のそれと同じ速さで高鳴っているのだから。
それこそが僕の望むところだ。
僕は、君たちのきょうだいであることを望まない。
 
やがて。
僕の腕の中で、ゆるして、と彼女が切なげに喘ぐ。
 
――ゆるすわけないだろう?
 
できることなら、このまま壊してしまいたいのに。
このまま、君たちの熱い血をこの身に浴びて……。
 
彼女は誰にも渡さない。
僕が守る。
すべて僕のものだ。
 
すべて……最後の血の一滴まで。
 
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Last updated: 2015/11/24