花火
 
花火を見に行かないか?……と話しかけてきたジョーに、フランソワーズは少し驚いた。そういうことには興味のない人なのだろうと思っていたから。
実際、その夏、ギルモア研究所のある海辺の町やその周辺でも何度か花火大会が催されたようだったが、それらにはいたって無関心なジョーだったのだ。
そしてフランソワーズもまた、日本のそれは規模も技術も桁外れに素晴らしいと聞いてはいたものの、花火大会にそれほど心を惹かれることもなかった。
 
動きやすく、汚れてもいいような格好にした方がいい。荷物もなるべく小さく、と言われたので、ポロシャツにパンツ、ウェストポーチという出で立ちでフランソワーズがリビングに下りていくと、ジョーも似たような準備をしていた。
クルマではなく、電車で行くのだと聞き、また少し驚く。渋滞がひどくなるし、会場近くは交通規制をしているから電車と徒歩で行くのが無難なのだという、
 
「東京に行くんだよ。隅田川」
「トウキョウ?……スミダガワ……」
 
聞いたことがあるような気がする……が、フランソワーズはやや戸惑った。
そこは、ビルや住宅が密集しているような地域ではなかったか。
 
思ったとおり、電車を乗り継いでいくうちに海は次第に遠ざかっていった。
車内もフランソワーズが経験したことのないひどい混雑振りで、これが有名なツウキンラッシュというものなのだろう、と、ひそかに思う。
 
――この人たちも、花火を見に行くの?
 
通信を開くと、ジョーは少し驚いたようにフランソワーズを見、それからうなずいた。
 
――たぶん、ね。
――キモノを着ている人が多いけれど……
――うん。あの人たちは間違いなく花火見物だな。
 
やっぱりそうなのかと納得しつつ、フランソワーズは静かに辺りを見回した。
かなりの数の女性が、色とりどりのキモノに身を包んでいる。よく見ると、履き物も少し変わっていて、いずれにしても「動きやすい汚れてもいい」服装には思えない。
 
Tシャツにハーフパンツ、というようなごくラフな出で立ちの若者も目立ってはいたが、それでもそれなりにコーディネイトには気を配った……晴れの日を意識した服装のように見えた。花火大会、というのはつまりフェスティバルなのだから、当然といえば当然かもしれない。
もう少し考えて着替えればよかったと、フランソワーズはひそかに後悔したが、ジョーの方はそんなことなど気にならないのだろう。
 
――着いた。降りるよ。
 
ぎゅっと手を握られ、フランソワーズはいつもの彼らしくない動作に僅かに動揺した……が、たしかに、そうしていないとあっという間に人波にのまれ、はぐれてしまいそうだった。
群衆はみんな同じ方角に、おそろしくゆっくりと進んでいた。それでいて、どこをどう歩いているのか、まったくわからない。
フランソワーズはようやく「動きやすい汚れてもいい」服装の必要性を理解した。
この中にあってなお、オシャレをしようとかキモノを着ていこうとかいう発想になることなど、ありえないわ……と思う。
 
「ここまでくれば、どうにかなるかな」
「……ジョー?」
 
群衆の歩みは更に遅くなり、もうほとんど動いていないように思えた。
が、まだ住宅地から抜け出すこともできていない。
花火は川沿いで打ち上げられるというが、川は……フランソワーズがこっそり透視してみると……相当遠く、いつたどり着けるのかわからなかった。
 
不意に、歓声が上がり、火薬が爆ぜる音が響いた。
ほら、とジョーが上を見るように促す。
 
「――っ!」
 
鮮やかな大輪の花……文字通り、花火が、空を埋め尽くしている。
フランソワーズは、呆然とその輝きを見上げ……次の瞬間、微かな悲鳴を上げ、身を縮めた。
火の粉が頭上にまっすぐ落ちてくるように思えたのだ。
 
「大丈夫……結構、スゴイ迫力だろ?」
「……え、ええ」
 
花火は次々に打ち上げられる。
だんだん落ち着いてきたフランソワーズは、こっそり力を使った。
花火が打ち上げられている場所を確かめ、距離を確かめ、火薬の規模をざっと見積もって、なるほど、危険はなさそうだと納得する。
 
「こんな町の中で花火大会をするのは、やはり危ないんだ。でも、それだけに、ここで打ち上げられる花火は、注意深く作られている。絶対に町や見物している人たちに危険がないように。それだけじゃない。これだけの人が集まっても事故にならないようにと、努力している人たちだって大勢いるんだ」
「そんな苦労をしても、一生懸命ここで花火を打ち上げる人たちがいて……こうやって一生懸命見に来る人たちもいる、ということなのね……でも、わかるわ。まるで手が届きそう……!他ではこんな経験、絶対にできないもの」
「ああ。……きれいだし、面白いだろう?」
「……ええ。本当に」
 
 
かつて。
この同じ場所で、全てを焼き尽くす炎が、逃げまどう群衆の頭上を襲ったのだという。
おそらく彼女はそのことを知らないだろうと、ジョーは思う。
今、話すつもりもなかった。
 
 
「私たちも……いつか、こんなふうになれたらいいわ」
「……」
 
 
不意に、フランソワーズがつぶやいた。
ジョーは返事の代わりに、つないだ手にそっと力を込めた。
七夕
 
そろそろメンテナンスのことを考えなければいけないわね、とフランソワーズはカレンダーを見ながら受話器を取った。この時間なら日本に電話をしてもぎりぎり大丈夫だと思う。
もっとも、自分は夜中の方がつかまりやすいから、むしろそうしてくれるといい、と、ジョーはよく言っている。そのことを思い出したとき、フランソワーズは、あ、と声を上げ、そのまま受話器を置いた。
 
――今日は、7月7日だわ。
 
詳しくは知らない。
が、日本にいたとき、聞いたことがある。
タナバタ祭り。
天の川に隔てられた恋人たちが一年に一度だけ会うことを許される日を、地上の人々が祝うのだという。
 
不思議なほど、星空を見上げるときの気持ちは以前と変わっていない、とフランソワーズは気づいていた。
宇宙の奥底にあるもの、星の輝きの彼方にあるものを見てきたはずなのに。
 
とはいっても、自分はほとんど宇宙船や宇宙要塞といった人工物の中にいたのだ。それでは結局のところ宇宙に「行った」「見た」ということにはならないのかもしれない。
でも、彼は。
 
あなたは、星空の中に何を見るのかしら……ジョー。
きっと、私にはわからない。
どんなにあなたを愛しても。あなたに愛されたとしても。
 
一年に一度だけの、特別な夜。
もし、あなたにとっても特別な夜なのだとしたら……私は、ここであなたを待つしかないんだわ。
 
溜息が出そうになり、フランソワーズは慌てて深呼吸した。
 
待つしかないんじゃなくて。
私は待ちたいのよ。だから、待つの。
そう、決めたくせに……!
 
メンテナンスのための休暇がとれそうなのはまだひと月先のことで、今急いで日程を決めることもなかった。
電話はまたそのうちにすればいいわ、とフランソワーズは簡単な夕食の支度にとりかかった。
 
ジョーからの電話があったのは、その数時間後だった。
え、と息をのむ気配に気づいたらしく、ジョーは申し訳なさそうに、何か取り込み中かな、と尋ねた。
 
「い、いいえ……そんなことはないわ。ただ、驚いたの。だって……日本はもう」
「ああ。……そうだね。ごめん……なんだろう、急に君の声が聞きたくなったのかな」
「……」
「用ってわけじゃ……ないんだ。ごめんね」
 
声が聞きたいと言われたのだから、何か言わなければいけない。
それはわかっている。
 
――でも。どうして?
 
黙り込むフランソワーズに、ジョーは困り果て、もう一度ごめん、と繰り返した。
そのまま、おやすみ……と、電話を切ろうとしたときだった。
 
「あ、あの、ジョー!……ごめんなさい、あの……私、メンテナンスに行かなくちゃいけないと、……思っていて」
「……ああ。そうか。そんな……時期だね」
「休暇はまだ決めていないの……でも、来月、大丈夫かしら?」
「うん。今のところ予定は入っていない。博士も、来月はそのつもりで空けていらっしゃるし……そのうち、ブリテンやアルベルトから連絡が入るかもしれないけど。君を優先できるよ」
「ありがとう……それじゃ……」
 
向こうからの電話だ、とふと気づいたフランソワーズは、なるべく手短かに考えていた予定を告げた。
わかった、それでいいよ、とジョーが何かをチェックしながら答える。
 
「それじゃ、博士に伝えておく。もうすぐ会えるね」
「ええ。楽しみにしているわ」
「僕も。……なんだか、安心した。ありがとう。……おやすみ、フランソワーズ」
「……おやすみ、なさい」
 
静かに受話器を置き、たたずんでいたフランソワーズは、いつのまにか頬が濡れているのに気づいた。
 
あなたは、どうして私を思い出したのかしら。
私の声を聞きたいと思ったのかしら。
一年に一度の……夜の終わりに。
 
そのときだから…?
そのときが終わったから…?
 
わからない。
でも、あなたがそう言ってくれて、私はこんなに嬉しい。
 
私も、安心したわ……ジョー。
ありがとう。
雲雀
 
あら、雲雀だわ……と、フランソワーズが不意に嬉しそうに言った。
 
「きれいな声ね。春が来た……っていう感じがするわ」
「うん」
 
ジョーは生返事でごまかそうとした。
雲雀、という名前ならもちろん知っていたが、それがどんな鳥で、どう鳴くのかなど、まったくわからない。
春の鳥、といえばそう聞いたことがあるような気もするが、とりあえず春の鳥ならホーホケキョだろ、ぐらいにしか思っていなかった。
 
「あ、また!」
 
フランソワーズがまた目を輝かせ、ジョーを見上げる。
しばらくすると、たしかに鳥のさえずりが聞こえたので、ジョーは大きくうなずいてみせた。
 
「本当だ。いい声だね」
「え……やだ、ジョー。今のはヒヨドリよ?」
「え?」
 
――ヒヨドリ?
 
「そ……う、かな。……あ」
「今のはスズメ」
「……」
 
弱ったな、とジョーは思わず天を仰いだ。
途端に、どこかけたたましいような鳥の声が響く。
 
「これは……ええと」
「……ツグミ」
「ごめん。……フランソワーズ、雲雀って、どんな声で鳴くんだい?」
「日本にはいないのかしら」
「そんなことはないと……思う」
 
ただ、そういうことにまったく関心がなかっただけ……だ。
 
フランソワーズは、今も鳴いているわ、と言うのだが、そう言われて耳を澄ましてみると、何通りもの小鳥の声がまざっていて、どれがソレなのかさっぱりわからない。
 
「待ってて……あ、今よ!」
「ああ…!」
 
声がひとつしか聞こえない。
さすがのジョーも、なるほど、とうなずいた。
 
「ずいぶん、慌ただしく鳴くんだな」
「ふふ、そうね……でも、きれいな声でしょう?」
「そうだね。そうか、これが雲雀か……」
 
むやみに感心しているジョーがおかしいと、フランソワーズはまた笑った。
それは戦場に到底似つかわしいと思えない、明るく暖かい声だった。
その戦いは、春を越え、夏を通り過ぎ……秋を迎えるころにようやく終わり、サイボーグたちは故郷へと戻った。
 
 
――日本には、いないのかしら。
 
不思議そうに、どこか寂しそうにそう言った少女の言葉を思い出し、明るい空を見上げながらジョーはふと苦笑した。
 
「……雲雀だ」
 
今年初めて聞く声だった。
春が来たんだな、と思う。
それだけのことなのに、なんだか嬉しくなった。
 
――僕は、君にいろいろなことを教わったね、フランソワーズ。
 
今は、どうしているのだろう。
もう会うことはないのかもしれないし、たぶんその方がいい。
 
それでも、絵ハガキぐらいなら出してみてもいいのかもしれない。
日本でも雲雀が鳴いたよ……と。
 
そんなハガキを出す自分ではないことを、ジョーは十分承知している。
でも、そう思わずにいられなかった。
 
 
始めは、偶然だったと言いたいぐらいだ。
 
靴の手入れをしているとき、唐突に、使っているぼろ布が汚れすぎている、と思った。
そこで、ジョーは新しい布を引っ張り出し、さっさと靴クリームをすくい取った……のだが。
そのときになってようやく、もう磨くべき靴はない、ということに気づいたのだ。
 
どうしようか、と目を落とすと、そこに小さい靴が揃えられていた。フランソワーズのものだ。
もちろんそれなりにきれいに手入れされてはいたが……
 
布が新しいモノでなかったら、あんなことはしなかった、とジョーはあとになって思った。
が、とにかく、そのときの彼は当然のようにその小さい靴を取り上げ、丁寧にクリームを塗り込んでいったのだった。
 
取り上げてみると、その靴はジョーのモノと同じ革で出来ているとは信じられないほど羽のように軽く、華奢だった。
更に、作業もあっという間に終わってしまったので、女の子の靴は本当に小さいんだな、とジョーはしばし感心したのだった。
 
それから、なんとなく、ジョーは自分の靴を手入れするついでに、フランソワーズの靴が目に入れば、一緒に磨くようになっていた。
それらの靴があまりに汚れていたり、傷んでいたりすれば、彼が手入れをしたことがたちどころにバレてしまうだろうし、彼女が何か気を悪くすることもあるかもしれない……が、幸い、彼女の靴は始めと同じように、いつもそれなりにきちんと手入れがされていた。
それらの靴が、華奢ではあるけれど、基本的にはシンプルな造りだったこともジョーにとっては幸いした。そうでなければ、やはり手を出す気にはならなかっただろう。
 
フランソワーズを好きだったから、というわけではなかった。
むしろ、当時、ジョーにとって彼女は単なる仲間……もちろん、かけがえのない仲間ではあったが……の一人であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
なぜ、と聞かれれば、面白かったから、としか答えようがない。実際、その作業はジョーにとってちょっとした楽しみだった。
彼女の靴を磨いていると、ただの雑用をしているのではなく、何か美しいモノの造形に携わっているような気分を手軽に味わうことができたのだ。
 
そして、磨き上げた小さい靴の美しさにしばし満足すると、きまって胸が痛んだ。
この靴を履く足で、彼女は自分たちと一緒に戦場を駆けるのだ。
それはどうにも非道なことであるように、ジョーには思えた。
とにかく、こんな戦いは早く終わらせなければいけない。彼女を帰してやらなければいけない。
いつも、そう思っていた。
 
 
それから長い年月が過ぎた。
帰してやらなければならないはずだった彼女を、他ならぬ自分が手放すことができないため戦場に引き込んでいる……ということになっている今、その罪悪感がジョーから消えることはなかったが、慣れることはできたのかもしれない。
こんなことが、できるようになったのだから。
支払いのサインを済ませ、伝票に彼女の部屋の住所を書き込みながら、ジョーはふと思った。
 
 
フランソワーズは届けられた包みを開き、箱を開け、思わず息をついた。
不思議なひと、と思う。
 
予想したとおり、箱には可愛らしい靴がおさまっていた。
履いてみるまでもなく、それがオーダーしたかのようにぴったり合うだろうことを、フランソワーズは既に経験で知っている。
それだけでなく、ジョーに贈られた靴は、似合うわね、といつも友人達に褒められる。
ごくシンプルな形で目立つ色でもないのに、なぜか目にとまるらしい。
 
君に似合うんじゃないかと思ったので、送ります。
気に入ったら、使ってください。
 
カードにはそう書いてあるだけだった。
彼らしいといえば彼らしい。
 
これを履いて日本に来い、と書いてあればすぐ飛んでいくのに……とフランソワーズは苦笑する。
履けば本当にそうできる……どこにでも行ける、と思うような靴なのだから。
 
ライバル
 
しばらくこの研究所に残るつもりだ、パリには行かない、舞台もキャンセルした、と話すと、ジョーはあからさまにさっと顔を曇らせた。
予想はしていたものの、フランソワーズは少し慌てた。
 
「あの、あなたと一緒に行くのがイヤだというわけではないの。パリに帰りたくないわけでもないわ。ただ……」
「ただ……?僕のことは気にしなくてもいいけれど、君、バレエはどうするんだ?」
「少し、休むわ。そろそろそうした方がいいと思っていたから……でも、一番の理由それじゃなくて……イワンなの」
「イワン……?」
「ええ。この頃、夜泣きをするのよ……無理もないわ。つらい思いをしたはずですもの。そんなことを聞いたらきっと、僕は君たちとは違う、変な気遣いは迷惑だ……って言うんでしょうけど……でも、イワンは赤ちゃんだもの。いくら賢くても、赤ちゃんであることに変わりはないと思うの」
「つまり、彼が落ち着くまで、傍にいてあげたいってことかい?」
「ええ。……ううん、違うかもしれない。私がなんだか不安なのかもしれないわ。自分がここに……この星にいる、いてもいいんだ……って、確かめたいのよ」
「……なるほど。そういえば、君はイワンを抱いていると不思議に落ち着くんだ……って、前から言っていたね」
「……ごめんなさい、ジョー」
「わかった。……謝ることはないよ。君がここにいてくれるなら、僕も安心だ。それに、パリにいるよりも会う機会が増えるだろうしね」
 
ジョーがいつもの穏やかな表情でうなずくのをたしかめ、フランソワーズはようやく安堵し……同時に微かな失望を味わっていた。
 
 
で、僕を絞め殺さないのかい?とのんびり尋ねるイワンに、ジョーは苦笑しつつ言った。
 
「まさか。日本には、泣く子と地頭にはかなわない……っていう言葉もあるしね」
「うーん?……それ、こういうときに使う言葉?」
「君に言われるといきなり自信がなくなるな」
 
肩をすくめるジョーを、イワンは面白そうに見上げた。
その表情は、やはりただの無邪気な赤ん坊……をどこか越えているところがある。
 
「僕としては、彼女に山ほど反論したい。何より、シマムラ・ジョーを一旦解き放ったら、戻ってくるかどうかなんてアテにならないってことを考えても、あまりいい選択とはいいがたいんだけどね」
「そう言ってやったらどうだい?……君が直接彼女に言えば……」
「聞くもんか。……彼女のそういうところ、わかってるだろ?」
 
まあね、とつぶやきつつ、ジョーはふと、さっきまで眠る……実際はタヌキ寝入りだったと思われる……イワンを抱いていたフランソワーズの姿を思い浮かべていた。
 
「たしかに、君に彼女をとられた、と思うと、心穏やかではないけれど……仕方がない」
「ふふ、余裕だね、ジョー?」
「言ってろよ。次のレースには必ず連れて行くから、覚悟しておくんだな」
「だから、僕は別に彼女がいなくても……」
「君も一緒に連れて行く、と言っているんだよ、イワン」
「……なんだって?」
 
それきりジョーは口を噤み、こみ上げる笑いをこらえているようだった。
やがて、イワンがいかにも不快そうに言う。
 
「僕を君のムスコに仕立て上げるツモリ……ってことかい?」
「彼女の息子になるんだと思えばいいだろう?……正直、うらやましいくらいだけど」
「……僕をあまりナメない方がいいからね、ジョー。言っておくけど、僕同様、君たちの人生も非常識に長いはずだ。僕はきっと君たちに追いつく。そういう日が必ず来る」
「もちろん、よくわかっているよ。……だからこそ、さ」
「だからこそ、今のうちに邪魔モノは体よく排除しようってこと?……作戦としては悪くないが、009にあるまじき卑劣で狡猾なやり口だ。恥ずかしくないのかい?」
 
とうとうジョーは声を上げて笑った。
 
「009がどう思うのかはわからないな……僕は、シマムラ・ジョーだからね」
 
憮然と口を噤むイワンのふっくらした頬をつつき、じゃ、解き放たれた僕が戻ってこないことを祈るってのはどう?と、ジョーは囁いた。
もちろん、全身全霊かけて祈ることにするよ、とイワンは答えた。
 
答える
 
間違いなく断言できる。
僕はボルテックスで、タマラの復活を願った。
願わなかったはずなどない。
 
彼女を助けたかった。でも、助けられなかった僕なのだから。
取り返しがつかなかったはずの過ちを贖うことが許されたのなら、その奇跡を逃しはしない。
絶対に。
 
僕は信じている……いや、知っている、といってもいい。
タマラは生きている。
今も、あの星で。
 
でも、フランソワーズ、それでは君に答えたことにならないね。
君は僕が「考えなかった」ことについて、なぜそれを「考えなかった」のかを問うたのだから。
 
たしかに僕は、タマラに「生き返ってほしい」とは考えなかった。
これからも、そう考えることはないだろう。
 
僕はボルテックスに触れて、感じた。
全ての始まりは終わりに向かい……全ての終わりは始まりを宿していると。
 
おそらく、ゾアはその永遠に止まらない流れに魅せられ、憑かれ……呑み込まれた。
僕がそうならなかったのは、その流れが僕にとって未知のモノではなかったからだ。
そういうことだと思っている。
 
初めて君を抱きしめたあのときから、僕はその流れが「ある」と知っていたのだ。
それは君を貫き、僕を貫き、全てを貫き……常によどみなく流れている。
 
タマラも……彼女の生も死も、その流れの中に在る。
僕が望んでどうなるものでもない。
 
過ちなら贖うことができる。贖わなければならない。
だから僕は、それを心から望んだ。
 
そして、望むことのできないものは……望むことができない。
ただ、それだけだ。そこに理由などない。
どうして望まなかったのかと問われても、わからない。僕には。
 
わからないけれど、確かなことなら、ある。
わからなくても、君は地球にいて、タマラはあの星にいて……
そして僕は、君の傍らにいる。
 
どうしようもなく確かなことだ。
理由などいらない。君がいるということ、ただそれだけでいい。
それだけで僕は信じられる。それが確かなことだと。
 
どうして、なのか。
わからなくても……永遠にわからなくても。
それでも、僕は君と生きよう。
 
僕たちが離れることなどない。
それだけは、わかっている。
それだけわかっていれば、僕は、もういい。
問う
 
始めなければ、終わることもなかった。
あの夕暮れ、彼に寄り添うあのひとを見たとき、咄嗟にそう思った。
 
それは、たしかに私自身のことだったのに。
終わりは、あのひとの上に訪れた。
あのひとには、始まりがそのまま終わりとなった。
 
日本の古い本に、ショギョウムジョウという言葉がある、と教えてくれたのはピュンマ。
どうしてそんな話になったのか、今は思い出せない。
 
始めれば、必ず終わるというのなら。
そして、終わることがこわいというのなら、始めなければいいだけのこと。
彼と私は長い間そうしてきたはずだった。
 
――でも。
 
「僕にももうひとつわからないんだけどね……終わりっていうのは、単純ではない。終わりそのものも、流れゆくものであり、ムジョウであることに変わりはないんだ」
「……どういうこと?」
「ジョーに聞いてみた方がいいかもしれないな。もっとも彼に説明できるかどうかはわからないけれど……例えば、彼ら日本人が愛する桜は、ただ散るから美しいというわけじゃない。次の春、また必ず咲くのさ。彼らはそれを知っている。何の疑いもなく無条件に信じているから、散る花を愛することができる……つまり、終わりは、はじまりでもあるということ、かな」
 
終わりは、はじまりの約束。
どんな残酷な終わりを知っても、必ずまた始まると信じるなら。
信じること、それが愛だというのなら……
 
 
ジョー。
どうしてボルテックスで、タマラのことを考えなかったの?
生き返ってほしいって……
マタドール
 
意外にも……と、ジョーは思った……フランソワーズは晴れやかな表情で立ち上がり、周囲の歓喜する群衆と同様に、鮮やかな一撃で猛牛の頸動脈を切り刺したジェットへと惜しみない拍手を送った。
 
やはり、文化が違うのかもしれない、となんだか感心しつつ、ふと隣を見ると、アルベルトは苦虫をかみつぶしたような顔になっている。が、これは彼のいつもの表情だといえなくもない。
ジョーの曖昧な様子に気づいたのだろう、アルベルトは面白そうに唇の端を上げた。
 
「どうした、ジョー?…東洋人には理解できない、という顔に見えるが」
「……そうかもしれないね」
 
振り返ったフランソワーズの華やかな笑顔に僅かな陰が落ちたので、ジョーはどうにも申し訳ない気持ちになった。
 
「ごめん、フランソワーズ」
「あ……そんなこと。そうよね、日本の人にとっては、牛は大切なパートナーだって聞いたことがあるわ。こんな風に殺してしまうのは、残酷なことにしか思えないでしょう」
「パートナーか……それはずいぶん昔の話だけれど……でも、たしかにそういう感覚は残っているのかもしれない。すまない、気にしないでくれ。ジェットが見事に闘ったということは十分伝わっているから」
「それなら、よかった……本当に彼、素晴らしかったもの」
 
素晴らしかった……というフランソワーズの言葉の意味は、わかるような気がした。
生と死の極限を見据えた命のやりとり。それだけなら、サイボーグとしての自分たちにも馴染みの感覚ではあったが、今目の前で展開した闘いは本質的に何かが違う、とジョーは思う。
 
すらりとした長身にまとう紅と金の豪奢な衣装。
それを着こなすだけの力と情熱と闘志とが、ジェットにはあった。
彼の動きにはまったく無駄がなく、冷徹で……それでいて、熱い血潮のたぎりが感じられた。
 
「案外、これがアイツの天職、だったのかもしれんな」
「そうね……美しかったわ……とても」
 
あなたのレースと同じね、と吐息まじりにつぶやきながら、フランソワーズが不意にジョーへと微笑んだ。
どう応えたらいいか咄嗟にわからず、戸惑う彼を、アルベルトが嘲笑う。
 
「まあ、その辺にしておけ、フランソワーズ。天職につくのが幸せかどうか、というのはまた別の問題だ」
「……え?」
「案外、アイツも……本当は牛を殺すよりは追う方が好みなのかもしれない、ということさ」
「そう……なの?」
 
不思議そうに首を傾げたフランソワーズが問うような眼差しを向ける。
助け船を出す気は毛頭なさそうなアルベルトをちらっと睨んでから、ジョーは思わず息をついた。
 
「もちろん、僕もレースは好きだよ……でも、そうだね、たしかに、本当はスピードのことなんて考えず、小さい車でのんびりドライブをする方がもっと好きかもしれないな」
「……まあ」
「ほらみろ……ふふ、がっかりするなよ、男なんざ、そんなものさ」
「がっかりなんて、していないけれど…」
「実のところ、男にとっての重要な問題はその先にある。フランソワーズ、君たち女性は、どっちが好きなんだ?」
 
美しい男と……幸せな男と。
 
途端に考え込む様子になったフランソワーズと、そんな彼女を気遣わしげに見つめるジョーがおかしいと、アルベルトはまた笑った。
そして数時間後、この話を聞いたジェットも遠慮無く……いかにも幸せそうに、大笑いしたのだった。
矢車草
 
その花の名は知らなかったし、特に好きというわけでもない。
しかし、少なくともチューリップやバラというような、誰でも知っている花ではなく、タンポポのようにそこら中で見かける花というわけでもない。そもそも、花になど何の興味も持っていない自分が、どうしてその花に限って目がとまるのか、ジョーにはもうひとつわかっていなかった。
 
雑草にしては華やかであるように見え、といって、花壇で大切に育てられているというよりは、庭先や畑の隅や時には空き地に無造作に固まって咲いている。固まっている、ということはやはり人の手によって植えられているのだろうが。
 
普段は、思い出すこともないその花なのだが、咲き始めると、ああ咲いているなと目が止まる。
それが一年に一度、春の盛りから終わりにかけて……といった、決まった季節であるということにすら、ジョーは気づいていなかった。
 
紫、青、水色、桃色、白……少しずつ色合いを変えてその花々は群がり咲き、風に揺れる。
葉は細く、その色もややくすんでいて、それだけに花の色はくっきりと浮き立って見える。
きれいだな、と素直にジョーは思う。
思うけれど、それ以上心が動くというわけではない。
 
「あら、矢車草ね……こんなところに、たくさん。きれいね……」
「ヤグルマソウ……?」
 
思わずぼんやり繰り返すと、フランソワーズはそうよ、と微笑み、好き?と尋ねた。
曖昧にうなずく。
 
「やっぱり……珍しいと思ったの、あなたが花をじっと見ているなんて」
「そんなに見ていたかな……」
「ふふ、いいじゃない。私もこの花、好きだわ……少し、摘んで帰りましょうか」
 
と、彼女が言うのだから、やはり雑草の一種ということか。
そんなことを考えているジョーを振り返り、フランソワーズは、どれがいいかしら、とまた尋ねた。
そう問われてみると、なんだか考え込んでしまう。
少しずつ色の違うその花々はどれもキレイに見える……のだが、選ばなければならないとなると……。
 
突っ立っているジョーの様子に、これでは埒があかないと思ったのか、フランソワーズは苦笑しながらも花をゆっくり選び、摘み始めた。
彼女が選ぶ花をひとつずつ見ていくと、なるほど、どれも他と同じようでいて、どこか際だった美しさがあるような気がする。さすがだな、とジョーは感心した。
 
「はい、できたわ……これがプレゼントになってしまうかしら、今年は」
「プレゼント……?」
 
差し出された小さな花束に、ジョーは首を傾げた。
プレゼントって……僕に、か?
 
……なぜ?
 
「もうすぐお誕生日でしょう、ジョー。やっぱり、忘れていたのね。無理もないけれど……」
「……あ」
 
そういう、ことか。
この花は、僕の誕生日の頃に咲く花だったのだ。
だから、何となく目に止まっていたのだ。
そして……
目に止まった理由はたぶんそれだけではない。
 
ありがとう、と花束を受け取り、ジョーはフランソワーズを見つめた。
 
一番キレイな色。
似た色を見たら思わず探さずにいられない、でも決して他では見つからない……僕の青。
 
「でも、しおれてしまうかな。僕たちのトコロに持っていくなんて、可哀相なことをしたのかもしれない」
「大丈夫、水に挿しておけば……それぐらいの水なら用意できるわ。それに、強い花だもの。どこででもキレイに咲いてくれるはずよ」
 
やっぱりそうなのかと言いかけて、ジョーはあやうく口を噤んだ。
けげんそうに見つめるフランソワーズの瞳を、どうにもまともに見返すことができなかったから、無造作に彼女を抱き寄せながら、ありがとう、と、ようようそれだけ言った。
 
ありがとう……ごめん。
でも、今は僕の傍にいてほしい。
今だけでいいから。
 
僕の、青い花。
2月14日
 
――告白の日、なのだという。
 
恋愛を扱った小説やドラマや漫画に、取り立てて興味を持ったことはない。
だから、そういったモノの中で「告白」が重要視されていることぐらいなら知っていても、それがなぜそんなに重要なのかということについて、ジョーは具体的なイメージを持っていなかった。
 
思えば、告白したことも、されたこともない。
今、こうして抱きしめている、誰よりも愛おしい女性との間でさえも。
 
そんなことはない……のだろうか。
僕は、何か大切なものを見落としているのだろうか。
 
わからない……が、それが大切なものだとはどうしてもジョーには思えなかった。
 
君は、僕を……好き?
僕は、君が好きだよ。
 
思いは走り、ほとんど暴走している。
何もかももっていかれそうな激情に身を任せ、ジョーはひたすらフランソワーズを求めた。
どんな言葉でこの思いを伝えろというのか。
そもそも、それは伝えるべき思いなのか。
 
数時間前、彼女はいつもの暖かい居間で、美しい包みを差し出した。
そこにはカードも愛の言葉も添えられてはいなかったが、湖のような青い瞳は深く澄み、自分をまっすぐに見つめていたのだ。
それ以上、何を望むことができるだろう、とジョーはその心地よい甘さにほとんど陶然とする。
 
そして、それとこれとは別だ。
……たぶん。
 
あの美しい包みと美しい眼差しから僕に伝わったモノは、こんなモノじゃない。
だって、君は、僕にこんなコトをされたくて、あの包みを渡したわけではないだろう……?
 
でも、僕は知らない。
「告白」の先にある、これ以外のモノを。
君が僕に望むのはこんなモノではないはずなのに。
 
僕は、どうしようもなく、君が好きだ。
それが君にわかっていないとは思えない。
だから、僕が伝えたいことは、ソレじゃない。
 
僕は、君に応えたい。
君がくれたもの……美しい、暖かい、優しいもの……その全てに応えたい。
応えたい……のに。
 
 
やがて。
細い声を上げ、それきり意識を失った彼女を壊れ物を扱うように抱きしめながら、ジョーはベッドサイドに手を伸ばした。
 
先刻贈られた美しい包みを丁寧に開き、甘い香りのするチョコレートを一粒つまみ上げて、口に含む。
そのまま、眠る彼女にそっと唇を重ねた。
 
 
それでも、僕は、何ももっていないから。
きっとこうすることでしか、伝えられない。
 
――好きだよ、フランソワーズ。
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Last updated: 2015/11/24