2      水がめを守れ!
 
 
「こんにちはー!…あれ?」
 
ギルモア研究所の玄関を開き、009は首を傾げた。
いつも出迎えてくれる003の気配がない。
 
「留守かな…?だとしたら、不用心だなあ…」
 
靴を脱ぎ、とりあえず上がる。
まず居間に向かったが、誰もいない。台所も。
ますます首を傾げたとき、背後で慌ただしい足音がした。
 
「あら、009!いらっしゃい…」
「やあ、003。どこにいたんだい?」
「地下の研究室よ。暑かったでしょう、何か冷たいもの、いれるわね」
「気を遣わなくていいよ、それより…地下に行くなら、戸締まりぐらいしていけよ」
「え?…いやだわ、開けっ放しだった?」
「ああ」
「ごめんなさい…ちょっとだけのつもりだったから、油断してしまったのね……」
「ちょっとだけのつもりが、夢中になっちゃった…ってわけだ。一体、何を調べていたんだ?」
 
けげんそうに訪ねる009に、003は小さく肩をすくめた。
 
「大したことじゃないの…セブンにちょっと頼まれてしまって」
「…セブン?」
「ええ。今年は、梅雨なのに、雨が少しも降らないでしょう?」
 
たしかに、そうだった。
ここ数日、ニュースの天気予報では必ずその話題になる。
 
「渇水の心配がある…って、そういえば言っていたね…でも、それとセブンとどういう関係があるんだい?」
「セブン、心配なんですって。このまま雨が降らなければ、夏休みにプールが閉鎖されてしまうんじゃないか…って」
「…ああ。そういうことも、あるのかな」
「だから、研究所で調べてほしい…って。本当に雨は降らないのか…」
「ふうん…たしかに、心配は心配だけど…でも、調べたって、雨を降らせることはできないだろう?いくら僕達サイボーグでも」
「本当ね…でも、そんなに悲観しなくてもよさそうなの」
 
003はにっこり微笑んだ。
 
「大気の様子を詳しく調べてみたら、来週、水源の辺りにまとまった雨が降りそうなのよ。001も大丈夫だろうって」
「そうか!…それはよかった…いや、待てよ?」
 
ふっと難しい顔つきになった009に、003は瞬きした。
 
「…どうしたの?」
「うん…もっと詳しく調べた方がよさそうだな。急に大量の雨が降る…ってことは、崖崩れや土石流も起こるかもしれない…ってことだぜ?」
「あ、そうね…!」
 
003は大きく目を見開いたまま、うなずいた。
 
 
 
数日後。
009と007、003は東京の水がめと呼ばれる巨大ダムを訪れていた。
事務所で案内を乞うと、二人の技師が出迎えてくれた。
 
「ようこそ!ギルモア研究所からいらした方達ですね、お待ちしておりました」
「こんにちは…お世話になります」
「いえ、こちらこそ…ええと、お嬢さんが003…ですか?」
「はい」
「では、早速で申し訳ないのですが…よろしくお願いします」
 
手渡されたヘルメットを被り、3人は技師たちの後をついて行った。
003の「目」で、ダム周辺の地盤の様子を探り、崩れるおそれのある場所に009と007が応急処置を施す…というのが、訪問の目的だった。
 
雨が降るのは、早くて3日後だという。
休むヒマはなかった。
 
 
日がすっかり落ち、3人は用意された夕食を囲んでいた。
003が発見した補強ポイントはそれほど多くなかったが、やはり一日で対処できるものではなく、そのまま事務所奥の宿舎に泊まり込むことになったのだった。
 
「あーあ、くたびれたなあ…!」
「お疲れさま…もう少しだから、明日もがんばってね」
 
溜息をつく007を003は優しく労った。
 
「009も、大変だったわね……あら、どうしたの?」
「あ?…ああ、いや…ちょっと、気になることがあって」
「まあ。なあに…?」
「うん……今日、僕らを案内した技師の一人が言ってたのさ。この水不足で、また新しいダムの建設が始まるんじゃないか…って」
「へえ!すごいなあ…!こんなダムがもうひとつできたら、そりゃあ安心だね!」
「そんな簡単な話じゃないんだよ、007」
「…009?」
「彼は、心配しているんだ。こういうダムは、たしかに大切なものだけど…でも、山の環境を大きく変えてしまう…ってね。もしかしたら、山が本来持っている、水を溜めるはたらきを弱めてしまうかもしれない」
「そう…なのかい?」
「そういえば、聞いたことがあるわ。外国で、大きなダムをむやみに造ったら、砂漠化が進んでしまった…って」
「うん…だから、建設に反対する人たちはたくさんいる。彼も、実はその一人なんだ」
「難しい、話ね」
「…ああ」
 
それきり009は口を噤んだ。
 
 
 
「007、起きろ!」
 
激しく揺さぶられ、007は飛び起きた。
まだ夜明け前だ。
 
「ど、どうしたんだよ、009〜?」
「…003がいない」
「え…?」
 
慌ただしく防護服に着替えて宿舎を駆け回った二人は、ついに、門に挟んである手紙を発見した。
乱れた筆跡で殴り書きされたソレは、009への脅迫状だった。
 
「『003は麓の村で預かっている。今すぐ山を下りろ。』」
「…どういう、こと…?」
 
009はぎゅっと唇を結ぶと、厳しい表情のままラジオのスイッチを入れた。
気象情報が流れてくる。
 
「…雲の動きが速まっている。昼にはこの辺りも豪雨になるかもしれない」
「009…?」
 
009は真剣な表情で007を振り返った。
 
「麓へはオマエが行ってくれ、007。僕はこれから残った補強箇所を急いで仕上げてくる」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、それって…!」
「おそらく…あの技師たちのグループだ。僕達にダムの修復をさせまいとしているんだろう。渇水に、大規模な水害…こういうダムの弱点を世間の人たちに思い知らせるには絶好の材料だからな」
「…009」
「でも、そんなやり方は間違っている…007、頼んだぞ!」
「ゼ、009!…待ってよー!」
 
懸命に叫んでも、009は振り向こうともせず宿舎を飛び出していった。
007は大きく息をつき、ぼやいた。
 
「まったく…!人使い荒いんだから!」
 
 
 
すう、と冷たい空気が流れてくるのを感じ、003はゆっくり目を開いた。
頭の芯が鈍く痛む。
 
「…あなた、は…!」
 
003ははっと息をのんだ。
温厚そうな青年が正面に座り、こちらを見つめている。
あの、ダムを案内してくれた技師の一人だった。
 
「どういうことですか?…これを、ほどいて!」
 
手足はロープでしばられ、柱にくくりつけられている。
003は素早く辺りを見回し、古い農家の納屋のような所に閉じこめられているのだと悟った。
 
「手荒なまねをして申し訳ありません。彼が…009がここにやってきたら、すぐ解放しますから」
「…009…が?」
「そろそろ、あなたがいないことに気づき、手紙を見つけるころでしょう。いくらサイボーグといっても、あの場所からここまで1時間はかかる…それで、十分です」
「何を…言っているの?」
「これ以上の修復はさせません。これから来る豪雨で、あのダムは確実にダメージを受ける。昨日の修復のおかげで、大災害にはならないが、それでも人々を驚かすには十分な被害が出る」
「……。」
「災害が起きるのは、無謀な開発のせいです。それに目をつぶって、都会の欲望にまかせてダムを造り、後始末にはサイボーグの力を使う…それが、科学技術の勝利だというのでしょうか?ただの、人間の驕りにすぎません!」
「それで、私を…?私を人質にすれば、009が山を下りて、作業を中断すると…思ったのね?」
「昨日、彼とずいぶん話をしました。彼は、心優しい男だ。あなたを見捨てることなどないでしょう」
 
003はじっと技師を見つめた。
上着の内ポケットに、小型のピストルが差し込まれている。
こめられた弾は…3発。
 
《003…!フランソワーズ!》
 
不意に、通信が飛び込んできた。
思わずびくん、と反応しそうになる003を、007は慌てて抑えた。
 
《動かないで!心配いらない、オイラ、もうここにいるよ》
《…セブン?》
 
後ろに回され、柱にくくりつけられた手に、柔らかいものが当たった。
ハツカネズミに変身した007だった。
 
《ロープを切るからさ、ちょっと時間稼いでおいてよ》
《わかったわ…セブン、009は?…まさか》
《心配ご無用!…って言っていいのかなあ、この場合…?》
《ダムに残っているのね、よかった…》
《そういうこと!》
 
007は003を縛り付けているロープを慎重にかじり始めた。
003は小さく深呼吸すると、ゆっくり顔を上げ、技師の目をじっと見つめた。
 
 
 
「…どうして、昨日は私たちに修復をさせたの?」
 
青年は、ふと003から目をそらした。
 
「それは…たしかに、危険が大きかったからです。あのままでは、この一帯だけでなく、下流の町まで大規模な被害が及ぶ可能性があった」
「でも、今なら…それほどの被害は出ない…そう思うのね?」
「…ああ。僕たちは、この山のことなら知り尽くしています」
「知り尽くしている……それは《人間の驕り》ではないの?」
「何…だって?」
 
003は目を閉じ、じっと耳を澄ましてから、静かに青年を見つめた。
 
「雨雲が近づいているわ…予報よりかなり速く。それに、勢力も強い」
「……」
「これくらいなら大丈夫、と、どうして言えるの?…被害を受ける人が少なければ、それでいいというの?」
「そうじゃない、でも、やむを得ないんだ!何らかの被害がでなければ、誰も目を覚まそうとしない!」
「そんなことはないわ!…今、009は必死で作業を続けている。彼は、あなたほどこの山のことを知らない。でも、あなたと同じように、山を守りたい…人々の暮らしを守りたいと願っているのよ!自分の命とひきかえにしても!」
「調子のいいことを言うな!」
「彼は、来ないわ」
「…何?」
「あの人が守らなければいけないのは、私ではないから」
「どういう、ことだ?」
 
眉をひそめた青年は、次の瞬間、思わず息をのんだ。
ロープが魔法のようにほどけ、003が素早く立ち上がったのだ。
夢中でピストルを構え、立て続けに引き金を引く。
…が。
 
「あっぶないなー!」
 
頓狂な声にハッとする間もなく、手首をしたたか叩かれ、彼はピストルを取り落とした。
もっともらしく額に皺を寄せた007が、慎重にピストルを拾い上げる。
 
「大丈夫かい、003?」
「ええ…ありがとう、007…行きましょう!」
「は?」
「009のところへ。雲の動きが速いわ。間に合わないかもしれない!」
「…ちぇーっ、こっちも人使い荒いや!」
 
ぼやきながら、大鷲に変身すると、007は青年を振り向こうともせず、003を無造作につかんで飛び立った。
呆然とそれを見送った青年は、ふとラジオに目をやった。
のろのろと手を伸ばし、スイッチを入れる。
 
気象情報が流れ始めた。
 
 
 
既に、かなり強い雨が降り始めている。
007が舞い降りると、振り返った009は思わずほうっと息をつき、003に無言で微笑んだ。
小さく微笑み返してから、003は表情をひきしめ、少し離れた沢をまっすぐ指さした。
 
「もう少し雨が降り続ければ、あそこに土砂が集中すると思うわ」
「…わかった、ありがとう。003、君はもう避難しておいた方がいい。007と事務所に戻って…」
「いいえ、駄目。一刻を争うわ。私の眼と耳がどうしても必要なはずよ」
「…003」
 
009は静かにうなずいた。
 
 
叩き付けるような雨の中、3人は泥まみれになりながら、黙々と作業を続けた。
 
「003、上の様子はどうだ?」
「もう…かなり危ないわ。これがすんだら急いで撤収しましょう」
「わかった。この処置では、まだ安心とはいえないが……」
「でも、仕方ないよ!こっちだって命は惜しいもんね!」
 
おどける007を軽くにらむようにした003が、はっと顔を上げた。
 
「どうした?」
「土石流よ…!急いで!」
「よし、003、こっちへ…!007は空へ…ああっ!?」
 
009は鋭い叫び声を上げた。
手を伸ばして、003の腕をつかもうとしたとき、すさまじい衝撃が全身をつらぬいたのだった。
落雷だ、と気づいた。
 
「003!…007っ!」
 
懸命に身を起こし、叫ぶ。
ほどなく、007の怯えた声が応えた。
しかし。
 
「003…003は、どこだっ?」
「あ、あそこだよ、009!」
 
007が上ずった声で叫んだ。
落雷の衝撃で、003ははね飛ばされ、十数メートル下の林道に倒れていた。
009がぐっと唇を噛んだ。
 
「…チクショウ…!007、君は戻れ!」
「ええっ?」
 
慌てて大鷲に変身した007ははっと上を見上げ、息をのみ、叫んだ。
 
「駄目だ、009!…来る!」
 
大量の土砂がなだれをうって押し寄せてくる。
が、009はただひたすら003のもとへと駆け下りていった。
 
「間に合わない…間に合わないよーっ!」
 
007は絶叫した。
土砂はまっすぐに003の倒れている林道へと押し寄せていく。
その流れは、明らかに009よりも速い。
 
そのときだった。
突然、一台のジープが林道に現れ、003の前で急停車した。
一人の青年が駆け下り、倒れた彼女を抱き上げると、素早く車内に押し込み、また急発進する。
次の瞬間、彼女が倒れていた場所に大量の土砂が流れ込み、林道をえぐるように削り取っった。
土砂は更に林道を削り続け、ほどなく、疾走するジープをもとらえ……
 
「あぶ、なーーいっ!!!」
 
思わず両目を塞ごうとした007は、翻る赤いマフラーをみとめた。
009だ。
 
《007、聞こえるかっ?…二人を救出した!事務所に戻って、医療室の準備を!》
《りょ、了解〜!》
 
 
 
「…ありがとう。君のおかげで、003を助けることができた」
 
009の穏やかな声に、青年は唇を噛んだ。
 
「雨が上がったら、警察を呼んでください」
「……」
「僕は、彼女を誘拐した…それだけじゃない、僕は…」
「003は、麓の村で、君にたくさんの話を聞いた…と言っている。このダムについて。開発の危険について。山を守ることがどんなに大切であるか…について」
「…009」
「つい夢中になって、時間がたつのを忘れて…朝になってしまったんだってね。まったく、まだやらなければならない仕事が残っていたのに、困ったやつだ」
「009、それは…!」
「君は003の命の恩人だ。それだけじゃない…このダムに…この山に、どうしても必要な人なんだ」
「…それは、違う…!僕は、彼女を助けられなかった。あなたの力がなければ、彼女も僕も、今頃、あの濁流にのまれて…」
「君が駆けつけてくれなければ、僕だって間に合わなかった。本当に、感謝しているんだ…ありがとう」
 
009は青年の肩を強くつかみ、言った。
 
「僕たちでは…科学技術だけでは、どうにもならないことがたくさんある。そして、科学技術なしにはかなわないことだって、たくさんある。……それだけのことさ…違うかい?」
「009……!すまない…っ」
 
そのまま声を殺して泣く青年の両手を、009は強く握りしめた。
 
 
 
先日来の雨で、当面の水不足は解消された…というニュースを、3人はじっと眺めていた。
 
「これで、どうにかプールにも行けそうだな、007」
「…うーん」
「あら、どうしたの…?」
「なんだかさぁ…喉もと過ぎれば熱さを忘れる…っていうじゃない?こういうことなのかな?」
「セブン…」
「そんなことはないさ」
 
明るい声に、003は思わず顔を上げ、009をまじまじと見つめた。
 
「人間はたしかに愚かだけど、それだけじゃないからね…彼のように」
「…そう、ね」
「うーん?」
 
まだなんとなく首を傾げている007にくすくす笑いながら、003はソファから立ち上がった。
 
「プールかあ…私も泳ぎに行こうかしら」
「君がかい?…おいおい、よせよ、コドモじゃあるまいし」
「コドモで結構よ…ね、007?」
「ホント?…003、水着持ってるの?」
「もちろんよ。いつにしましょうか…ねえ009、あなたもいらっしゃいな」
「まさか!僕は……」
「いいよいいよ、009が来ると、いろいろウルサイからさあ…!コドモはコドモ同士ってことで…ね、003?」
「ふふっ」
「…ちょっと、待てよ!」
 
009は憤然と立ち上がり、腕組みすると、二人をにらみつけた。
 
「仕方ないな!コドモだけで行かせるわけにはいかないだろっ!…ったく、どうして僕がこんな……」
「…だってさ。どう思う、003?素直じゃないにもほどがあるよねぇ…」
「しーっ!」
 
憮然としている009をちらっと見てから、003は007に人差し指を立ててみせ、小さくウィンクした。
 
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