ばたばたと小さい足音を立て、それでも息を殺して駆け込んできたところをみると、一応、隠れようとしているらしい。
そんなことをしても003には無駄なんだけど……とイワンは思うが、ジョーに言ってもわかるわけがない。
『ジョー、どうしたんだい?フランソワーズに叱られたの?』
「ううん……イワン、ボクちょっと隠れるからね、ママには内緒だよ!」
『すぐ見つかると思うけど…?』
……ってか、もう見つかってるし。
イワンは、近づいてくる軽い足音と、僅かに苛立っているフランソワーズの思念とをとらえた。
そうか。
引っ越しは今日だったんだ。
だからフランソワーズは珍しくイライラしているし、ジョーはここに隠れている。
『ジョー、君、新しいおうちがイヤなのか?』
「いやじゃないよ……でも、イワンもおじいちゃまもいないんだもん」
『好都合ってことだと思うけど。ママを独り占めできちゃうんだぜ?』
「……うーん」
それは魅力的らしい。
うんうん悩んでいるジョーを、イワンはひょい、と廊下に放り出した。
「わぁっ!?」
「もう!見つけたわよ!……ジョー!」
「なんだよー!イワンのバカ!」
どっちがバカなんだか……と、息をつきかけたイワンは、いや、まだ3才なんだからそれなりにバカだってだけなんだけど、と思い返した。
――ありがとう、イワン。
フランソワーズだ。
どうってことないよ、と、イワンは小さくあくびをし、何も答えなかった。
不意に棚の本がばらばらと落ちた。テレキネシスのコントロールがうまくいっていないらしい。
フランソワーズに気付かれていなければいいんだけど……と危ぶみながら、イワンはゆっくり本を元の場所に戻しながら深呼吸を繰り返した。
ボクらしくないな、と、少しだけ思う。
でも、それも無理もないことだ。
バイバイ、ジョー。
ボクは、君のことが結構好きだったよ。
ジョーが3才になる前に、フランソワーズは彼を連れて研究所を出て行く。
それは、以前から計画していたことだった。
イワンが成長しないことをジョーが不審に思うより前に。
サイボーグたちは、ジョーを普通の子供として育て、平凡であっても穏やかな人生を与えたいと願っていた。
つまり、年を取らない超能力ベビーが身近に存在するなどとは思いつくことすらない、ごく普通の人間として生きて欲しい……と。
そのためにジョーの記憶を操作する必要はない、とイワンは結論していた。
もちろん、ごく幼いうちに研究所から引き離し、更に以後ジョーに「イワン」の存在を一切知らせないように心がければ、の話だが。
同様の問題は、いずれフランソワーズを始めとする他のサイボーグたちの上にも起きるはずだった。
が、そのことにジョーが気付き、不審に思うようになるまではまだ猶予があったし、その間に状況が変わる可能性もある。それ以前の問題として、ジョー自身がどんな少年となり、青年となるかも、まだ見当がつかない。
とりあえず当面はボクをどうにかすればいいってことさ。
後のことはその都度考えていくのがいい。
イワンの考えに、サイボーグたちは同意した。
同意するしかなかった、とも言える。
「ママ、アルベルトおじさんは?」
「え?……来ないわよ?」
「えー。じゃ、トラックは?」
「トラック……?」
「おひっこしのトラック!」
しばらく考え、フランソワーズはようやくああ、とうなずいた。
何がどうつながったのかよくわからないものの、ジョーは引っ越し、トラック、トラックのおじさん、アルベルト、と連想しているらしい。
たしかに引っ越しといえばトラックだし、ドイツから時たま送られてくるアルベルトの写真には大抵トラックが写り込んでいる。それは、乗り物好きのジョーのためだと薄々わかっているのだけれど。
「トラックはないのよ、ジョー」
「えーっ!」
「だって、荷物はほんの少しなんだもの。それに、新しいお机やベッドはもう向こうに届いているの」
「……ふーん」
「あとはこのタンスのお洋服をカバンに入れて……」
「おてつだいする!」
叫ぶなり、ジョーはフランソワーズの脇から引き出しを覗きこみ、止める間もなく、一番奥の方から長い布を引きずり出してはしゃぎ始めた。
「ジョー!……それは……!」
「すごいー!きいろいヘビだぁー!」
「ジョー、いたずらしてはダメ!それは大事なモノなの、ママに返してちょうだい!」
思わず声を荒げ、フランソワーズはひったくるようにそれをジョーから取り上げた。
それは、あの……もう結び方も忘れかけた、防護服の黄色いマフラーだった。
どうしてこんなところに……とつぶやき、フランソワーズはふとこみ上げる涙に戸惑った。
離れがたかったからこの部屋に残し。
二度と見たくなかったから引き出しの奥底に隠した。
「それ、ママの?」
「……いいえ」
首をかしげるジョーに、フランソワーズはやっとの思いで微笑んだ。
そのマフラーは予備としてとってあったもので、つけたことのある者はいなかった。
でも、もし、あなたが帰ってきたら……
そんなことを、もしかしたら私は思っていたのかしら?
丁寧にマフラーをたたみ直し、フランソワーズはそれをまた引き出しに戻した。
「これはね、ここにずうっとしまっておくものなのよ、ジョー」
「ふーん……?」
いよいよ出発のとき、イワンに会いたがるジョーを、もう寝てしまったから無理よ……と、フランソワーズはなだめた。
「またすぐ遊びに来るんだから、イワンとはそのときにいっぱいお話しできるわ」
「……ウン」
この子に嘘をつくのは、これが初めてではないけれど……。
フランソワーズは軽く唇を噛んだ。
自分は、これからどれだけの嘘を、この柔らかな耳に吹き込むのだろう。
それでも、やらなければならないのだ。
「ギルモア博士、本当にいろいろとお世話になりました」
「……うむ。ジョー、ママを大切にするんじゃぞ?」
「ウン!」
「よしよし、いい子じゃ……元気な子じゃ」
新しい住まいは張々湖飯店の近くのマンションだった。
飯店の常連客たちとは顔見知りだし、その中には子育てを終えた気のいい女性たちもいる。
なんでも相談してちょうだいね、と彼女たちは「シングルマザー」のフランソワーズに、その事情を聞くでもなく、いつもさりげない温かさをくれる。
それに、きっと……
「ママ、ガンバレ、だって!」
「え?……誰が?」
フランソワーズは首をかしげ、チャイルドシートにおさまったジョーを振り返った。
ジョーは楽しそうに両手を振り上げ、「知らない!」と笑っている。
イワン……のはずはない。
「ほら、ママ、また!」
「……っ!?」
まさか。
フランソワーズはきゅっと唇を結び、車のエンジンをかけた。
――ガンバレ、フランソワーズ。――
まさか……でも。
静かにアクセルを踏む。
二度と戻らないわけではない。
でも、次にイワンに会うのはいつになるだろう。
――ガンバレ、ですって、イワン……「あの人」の言いそうなことじゃない?
――まったくだね、父親の自覚ゼロ、だ。相変わらずノンキで困るよ。
跳ね返るように戻ってきたテレパシーに思わず肩をすくめ、フランソワーズは素早く指で涙を払った。
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