わすれがたみ



 5   大人料金
2015.01.06 
 
僕の名前はジョー・島村・アルヌール。
名前の割にはかなり日本人の風貌をしていると思う。
母のすすめもあって、普段「アルヌール」を名乗ることは滅多にない。
 
アルヌールは母の姓だ。
これが、いかにもフランス人!な金髪と碧の瞳、映画に出てくるお姫さまのような、絶世の美女ってやつなのだ。
正直、母よりもキレイな女性を僕は見たことがない。現実の世界ではもちろん、フィクションの世界でも。
 
子供の頃は友達に大いに自慢して、彼らの羨望のマナザシにいい気分になっていたけれど、最近はそんなことなどしない。
やっかみ半分でマザコン呼ばわりされるのが面白くないし……それに、容姿が僕と全然違っていることを突っ込まれるのもかなり面倒だし。
 
そうだ。
母と僕は全く似ていない。
血が繋がっていないのだから、当然だ。
 
僕は日本人の両親から産まれた。
父の方には外国人の血が流れているんじゃないか、という話もちょっと聞いたことがあって、そうなるとクォーターってことなのかもしれないが、まあ、たぶんそうも見えないだろうと思う。
 
両親は僕が産まれたばかりのときに事故で亡くなったのだという。
奇跡的に助かった僕を、二人の親友だった母が引き取って育ててくれた。
母は時々僕を奇跡の子だと冗談めかして言うが、ソレを言うなら、母こそが奇跡の女性だ。いろいろな意味で。
もちろん、そんなことを母に言ったことはないし、他人に言うつもりももちろんない。
 
そうはいっても、ちょっといいな、と思う女の子としばらく一緒にいると、どうしてもいつのまにか母とその子を比べてしまったりして。
マザコンと言われるまでもなく、それはちょっとヤバいよな、と自分でも思う。
 
中学生になって最初の夏休み。
その晩、僕は最近仲良くなった子とのデートを終えて、のんびり歩いて家に向かっていた。
本当を言うと、帰りの電車賃が足りなくなっていたのだ。
つい、大人料金になったことを忘れてしまう。
 
母は、中学生になったのを機に、僕にかなりの小遣いを預け、自分で管理するようにと言い渡した。
頑張ってはいるつもりだけど、時々こういう失敗をしてしまう。
もちろん、家に連絡はいれてある。
母はあきれた声をあげながらも、歩いて帰るから、という僕を叱りはしなかったし、迎えにいってあげるとも言わなかった。
母のこういうところが、僕は結構気に入ってる。
 
そんなわけで、馬鹿馬鹿しい失敗をしていたのにも関わらず、僕はかなり上機嫌で、鼻歌なんか歌いながら、ようやくたどり着いたマンションのエレベーターに油断しきって乗りこんだ。
いや、油断……というのは言い訳になるのかどうかわからない。
とにかく、エレベーターを降りた途端、辺りに響き渡る耳障りな男の怒鳴り声に、僕は何の心の準備もしていなかったのだ。
 
「ふざけるな、あばずれが!……ここをどこだと思ってる?!ウチの娘は、まっとうな育ちの、純粋な日本人なんだぞ!」
 
ここはどこだと言われて考えるまでもないが、僕の……僕と、母が住む部屋の前の廊下だ。
そして、僕は「アバズレ」という、あまり品の良くない言葉の意味をとりあえず知っている。
何かの口まねでそれを声にしたとき、母にこっぴどく叱られた言葉だ。
 
で……まさか、と思ったが。
 
その、よく見ればケダモノのような汚らしい野蛮なオッサンが「アバズレ」と罵り、節くれ立った醜い指で図々しくも指し示したその先に立っていたのは、まぎれもなく僕の母親……フランソワーズ・アルヌールだったのだ。
 
今思えば、その時点で僕は十分に逆上していたのだ。しかも、それに気付かないほど烈しく逆上していた。
僕の父がそういうタイプだった、と、以前、グレートさんが酔った勢いで話してくれたことがあったけれど、そのときの僕も、なんだか妙に意識がクリアになっていて、研ぎ澄まされたカミソリの刃のような感じになっていた……のだと思う。
 
そのオッサンが、今僕が会ってきたばかりのちょっとカワイイなと思った女の子の父親で、僕が先日彼女にキスしたことについて腹を立て、ちょいと親の顔を見に来たのだ……ということを、僕は瞬時に理解した。
 
そういえば、この春、かなりの小遣いを初めて僕に渡したとき、母は言ったものだ。
 
大人になれば、世の中には、いろいろな人がいるわ、ジョー。
あなたを愛してくれる人ばかりではないの、もちろんよ。
でも……心をこめて、わかり合えると信じて話せば、きっとわかってくれる。
それには勇気がいるわ。でも、諦めてはだめ。
 
母の美しく優しい声が紡ぎ出すその言葉はなかなか感動的だった。
……けれど。
 
それじゃ、母は……フランソワーズ・アルヌールは、今まさに勇気をもって、諦めることなく、この人語を解せるかどうかも危ぶまれるケダモノと理解しあおうとしているのか?
 
そんなことをして、何になる?!
 
アタマが真っ白になりかけた僕の耳に、母の悲しそうな「申し訳ありません」という細い声が届いた。
もう、何をか言わんや、だ!
 
「失礼ですが、僕にご用なのではありませんか?」
「なんだオマエ?……そうか、貴様が汚らわしいナンパ野郎……」
「お話をうかがっていましたが、僕がお嬢さんにキスしたことを汚らわしい、とおっしゃっているようですね」
「そのとおりだ!なんだ、手前、生意気に……開き直るつもりか?!」
「お嬢さんをかわいい人だと感じたまま素直にキスさせていただきました。……汚らわしいのは、それをそれをそういう汚い言葉で表現することしかできないあなたのアタマの方ではないかと、僕は思います」
「ジョー!」
 
母が、それまで聞いたことがない鋭い声を上げ、炎のようなマナザシを僕に投げた。
オッサンは彼女のその様子にあからさまにびびったが、僕は平気だった。
 
「お嬢さんは素敵な人だと思ったけれど、あなたのようなケダモノが家族としてもれなくついてくるなら、そうまでしてつきあいたい子ではないという気がします。もう二度とお嬢さんには近づきません。口もききませんのでご安心を。もっとも、彼女が僕に近づいたり口をきいたりしないよう、あなたの方からもよく言い聞かせていただけるとありがたいです」
 
僕はまだ何か言いたそうにしているオッサンを丁重に押しのけると玄関に入り、ドアを閉めた。
もちろん、きっちりと鍵を閉め、ドアチェーンもかける。
……そして。
 
そのまま、振り返ることができず、僕はそこに立ち尽くしていた。
母がしゃがみこんですすり泣く気配を背中に感じていたからだ。
それこそ。
そういうときこそ「勇気」が必要なのではないか?
 
僕はそう思い、必死で……歯を食いしばりながら振り向き、精一杯穏やかに母に話しかけようとした。
 
「ママ……その、心配かけて」
「大丈夫……よ。張々湖おじさんに相談してみましょう。こういうトラブルには慣れていらっしゃるから」
「いや、そうじゃなくて!別にママが気にすることなんて……!」
「でも、相手のお嬢さんは学校のお友達なんでしょう……?」
「……」
 
そのとき。
僕は突然気付いたのだ。
 
母は……いや、ママは、フランス人だ。
結婚もしていない。
おじさんたちはいるけど、血の繋がった家族ではない。
そういえば、ママの実家がどこにあるとか、親戚がどこにいるとかいう話も聞いたことがない。
 
ママは、ずっと日本で育ったわけでもないらしい。
要するに、異国で、たった一人で、血の繋がらない……どう見ても日本人の子供である僕を、ここまで、今日まで育ててきたのだ。
 
僕は、知らなかった。
何も気付かなかった。
気付くはずがない、母は懸命にそうやって僕を守っていた。
 
この……異国で。
ひとりぼっちで。
 
「いいんだ、学校には、もう行かない!」
「ジョー?!」
 
僕は大声で叫び、そのまま部屋を飛び出した。
あのオッサンと出くわすのがイヤだったから、非常階段を駆け下り、そのまま全力で走った。
 
電車賃なんかもちろん持っていない。
だから、走った。
 
僕は、行かなければならない。
近くの張々湖飯店に……ではない。
もっと……そう、あの、海辺の邸だ。
 
――おじいちゃま!
 
 
僕が、ごくごくまれにしか行ったことがない……もちろん、一人で行ったことなどないギルモア研究所に、どうやってたどり着いたのか、それはよくわからない。
走っていたら着いた、としかいいようがない。
ものすごく不思議なことかもしれないが、そのときの僕はそんなことは考えなかった。夢中だったのだ。
 
そして、突然現れた僕を、おじいちゃま……ギルモア博士はびっくりしながらも、すぐにリビングへと迎え入れた。
興奮しきって、途切れがちになる僕の言葉を、おじいちゃまはうんうんとうなずきながら丁寧に聞いてくれた。
 
「なるほど……しかし、ジョーよ、お前に好きな女の子ができたか……その子とキスして父親に怒鳴り込まれたか……それはそれは!」
 
おじいちゃまはなんだかひどく嬉しそうだった。
もう学校にいきたくない、という僕にやや眉をひそめたものの、まあそれもいいじゃろう、と笑った。
 
「どうじゃね、ジョー、それでは、いっそ日本を出て留学してみないかな?」
「留学……ですか?どこへ?」
「とりあえず、ドイツかのう……?」
「アルベルトおじさんのところ……ですか?」
「そういうこと、じゃよ」
 
やがて、母がギルモア研究所に駆け込んで来たとき。
僕たちは、ドイツへの出発の日取りまで決めてしまっていた。
そんな僕たちに母はあきれながらも……しかたないわね、と最後には笑ってくれた。
 
出発の日。
体に気を付けてね、と母は僕を抱きしめてくれた。
ぎゅっと抱きしめ返したとき。
彼女の体がとても小さくて細いことに気付いた。
 
それが、母との永遠の別れになるとは、夢にも思っていなかったのだ。
 
 
ドイツでの生活は楽しかった。
クリスマスに帰ろうかどうしようかと迷い始めた11月。
アルベルトおじさんが、沈痛な面持ちで、僕に一通の手紙を渡した。
 
……ママが、死んだ?
 
夢を見ているようだった。
僕が日本に戻ったとき、葬式は既に終わっていて。
母はもう墓の下なのだという。
呆然とする僕の肩をアルベルトおじさんが抱く。
 
おじいちゃまが僕にくれた母の形見。
それは、細長い柔らかい黄色い布で……マフラーなのだという。
アルベルトおじさんが何か言いかけて……やめた。
 
それを受け取ったとき。
突然、僕の胸に熱いものがこみ上げた。
僕は、初めて泣いた。
 
 
その晩、僕は夢を見た。
一人の若者が、僕に何か話しかけようとしている。
聞かなければならないと思うのに、聞こえない。
 
ドイツに帰った僕は猛勉強を始めた。
 



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