当時はあまり考えなかったが、日本の中学生だった僕にドイツで中等教育を受けさせるための手続きはそれなりにいろいろ大変だったんじゃないかと思う。
が、そういうことをさらりとやってしまい、オマエは自分のことをちゃんとすればいい、としか言わないのがおじさんたちの基本的なやり方だった。
僕がドイツでの生活に慣れたとみるや、アルベルトおじさんは、寄宿舎での生活を勧めた。
たしかに、運送の仕事に出かけてあまり家に帰らないおじさんと暮らすのは気楽といえば気楽だったが、それでは保護者としての責任が果たせない、と彼が思ったとしても不思議ではない。
寄宿舎での生活は充実していた。
勉強は思う存分できたし、先生にも友人にも恵まれた。
結局、母の葬儀の後、僕は日本に帰らなかった。
あのマンションはそのままで、張々湖おじさんが時々様子を見に行ってくれているらしい。
僕が成人するまではそうやって維持しておく、ということになっているようだ。
張々湖おじさんもグレートさんも、おじいちゃま……ギルモア博士も、僕がそのままドイツに居着いてもよいと思っているようだった。僕もそうしてもよいかなと考え始めていた。いずれにしても大学を終えてからの話になる。どの国の大学に行くか、というのも問題ではあったけれど。
一方で、僕は誰にも言わず心に決めていることがあった。
18歳になったら、日本へ行ってみる、ということだ。
18歳、という年齢には一応理由がある。
僕の父親が亡くなったときの年齢がだいたいそのあたりだったらしい。いや、19だったかな、などと酔ったグレートさんはしきりに首をひねったりしていたけれど。
いずれにしても、日本で生まれ育ったにしては、ずいぶん若いうちに結婚したものだと思う……高校は出たらしい……けれど、たしかに写真の父はまるで少年のようにも見える。
もっとも、ずっと前からそう決めていたというわけではない。
最近になって、時たま会うおじさんたちが僕を見るなり口を揃えて、父親に似てきた!というようになったのがかなり影響しているのかもしれない。
理由はもうひとつあった。
それまでドイツで暮らし続けていたのは、それが快適だったから……ではあるが、やはりどこかに、あの故郷にもう母がいないということを認めたくない気持ちもあったのではないかと思う。
無理に認めなくてもいいのかもしれない。少なくとも、アルベルトおじさんたちは僕にその話をしたことなどない。しかし、やはりこのままではいけないのだと、僕は思い始めていたのだ。
日本に行ったら墓参りをして、それから、張々湖おじさんたちに、母の話をいろいろ聞いてみようと思った。
僕が大人になったら……と彼らが考えているようなことをそろそろ片付けていくべきだと僕は思ったのだ。それだけの年齢になったことを僕は自負していた。
それに、おかしな言い方になるが、父が18歳のときに僕と別れたというなら、母と本当の意味で別れるきっかけを持つ年齢として、18歳はふさわしいようにも思ったのだ。
これは大人としての一歩だ。
そう思ったから、僕はアルベルトおじさんにも、張々湖おじさんにも、ギルモア博士にも、何も言わずに日本に発つことにした。最後の夏休みに、旅行をしたいのだと、アルベルトおじさんには手紙を書いた。
もっとも、行く先はよーく考えないとマズイ。
ヨーロッパ周遊とかいうと、アルベルトおじさんが、じゃあ、どこかで落ち合うか、なんて言うかもしれない。アメリカだとジェロニモおじさんがいるし、アフリカにはピュンマおじさん。二人とも異様にフットワークがいいから、今どこに住んでいるかなんて、見当がつかない。
あれこれ考えているとだんだん馬鹿馬鹿しくなるが、一方で、おじさんたちはいったい何者なのだろう、という疑問もぼんやりとわいてくる。世界のどこに行っても、彼らの目を盗むなんて無理なのではないか。もちろん、そんなはずはないのけれど。
結局、僕は無難な行き先としてオーストラリアを設定し、アルベルトおじさんにそう連絡した。
日本に着くとまず蒸し暑さに驚いた。こんな気候だったか?とうんざりする。
ひとまず、母と暮らしたマンションへと向かった。
手入れをしている、という話は本当のようで、何年ぶりかで足を踏み入れたその部屋は、あの頃のまま、といってもよかった。電気もガスも水道もちゃんと来ている。
クーラーのスイッチを入れ、冷蔵庫をのぞいてみると、ウイスキーの瓶がひとつだけ入っていた。たぶん、グレートさんだ。氷もあったので、もらってしまうことにする。日本の法律では飲酒は何歳からだったか……ちらっとアタマをかすめたが、よく思い出せなかったし、まあいいやと思った。
持っていたパンとチーズをかじり、ロックをちびちびやっているうちに夕方になった。
これから改めて食事に行くのもなんだか面倒だし、知り合いに会ったりしてもきまりが悪い。
僕の部屋も思ったとおり、あの頃のまま何も変わりが無かった。このままここで眠ってしまおうと思った。
目覚めたときは、すっかり夜が明けていた。
思わず、ママ……?と言ってしまいそうになり、はっと唇を噛む。
僕は、のろのろと起き出し、顔を洗った。
丁寧にたたまれたタオルはふわふわしていたが、さすがに僅かな埃の匂いがする。初めて、この部屋には誰も住んでいないのだということを感じた。
――ママ。
突然倒れて、そのまま亡くなったという母。
あのときはアタマが真っ白になっていて何も考えられなかったし、その後はつらくて考えようとしなかった。
でも。
母は、この部屋で倒れたのだろうか。
ここで、ひとりで。
もし、僕が傍にいたら……すぐに救急車を呼ぶことができていたら、もしかしたら。
僕は勢いよくアタマを振った。
そんなことを考えてもしかたがないし、母も僕にそんなことを考えてほしいとは思っていないだろう。
僕は大きく深呼吸して、身支度をととのえ、カバンを肩にかけた。
墓参り、といっても、それがどこにあるのかわからない。
ここまでが限界だ。ギルモア研究所を訪ねてみようと思った。
張々湖飯店の方が近かったが、おじさんはいつもてんてこ舞いの忙しさであることを思い出したのだ。
電車を乗り継ぎ、駅からはタクシーを使った。
あの夜、ここを飛び出した中学生の僕が走ってたどり着いたとはとても思えない道のりだ。
本当にこの場所でいいのかと、僕は何度か危ぶんだ……が、心配は無用だった。
玄関で呼び鈴を押してみたが、反応はない。
留守のようだった。
合い鍵は持っていたので、僕はためらうことなく扉をあけ、中に入った。
人気のない玄関はがらんとしていたが、誰も住んでいないという感じはしなかった。
ごく幼い頃、僕はここで育ったのだという。記憶はなかったが、中学生のとき通されたリビングと、おじいちゃまの書斎と、泊めてもらった部屋は覚えている。
リビングはきちんと片付いていたが、部屋の片隅にタオルのようなものが何枚かたたまれ、積まれていた。洗濯物らしい。
母がよく使っていた柔軟剤の匂いがしたような気がして、僕はふと頬を緩め、大きく伸びをしながら辺りをぐるっと見回して……壁にかかった小さな額縁に気付いた。写真だ。
何げなく近づき、僕は思わず息をのんだ。
その古い写真には、幸せそうに微笑し、赤ん坊を抱いた母が写っていた。そして、見慣れた顔……おじいちゃまにおじさんたち……それから。
「……これ、は」
間違いない。
僕の……父親だ。
母がくれた写真と同じように、まるで少年のような父は、やはり幸せそうに笑って……母の肩に自然な仕草で手をおいている。
ふと、違和感を感じたのは、その中に僕の生母が写っていないことだった。
僕は首をかしげ……そうか、彼女が撮影者だったんだろうとすぐに思い至った。
しかし、産まれたばかりの自分の赤ん坊を親友に抱かせて記念写真を撮るなんて、ちょっと珍しいことかもしれない。
……などと考えながら、僕は母の腕に抱かれた赤ん坊を改めて見つめ……また首をかしげた。
写真は、これも珍しいことだと思うが、白黒だった。
だから、はっきりわかるわけではないが……ふさふさと柔らかそうな赤ん坊の髪がずいぶん白っぽく見えたのだ。そう疑問に思い始めると、その赤ん坊が僕であるような気がだんだんしなくなっていく。
そうだ。
第一、こんな写真を、僕は見たことがない。
母は、僕と僕の両親の写真を大切に保管し、折に触れて僕に見せてくれた。
が、この写真は見たことがなかったのだ。
いったい、どういうことだろう。
僕は、答えを求めるように居間をぐるっと見回した。
僕は、間違いなくここで育った。母とおじいちゃまと一緒に。
はっきりした記憶はない。
でも、間違いないはずだ。
たとえば……
――ジョー、そこに入ってはダメよ。
母の柔らかい声をふと思い出す。
そうだ。
この、大きなマントルピース。
かくれんぼには絶好の場所だった。
――ここはたき火をするところなの。もしおじいちゃまがあなたに気付かすに火をつけてしまったら……
その想像は、さすがに恐ろしかった。
そんなはずないとも思ったけれど。
だから尋ねてみた。ホントにここでたき火なんかするの?と。いつものように。
いつもの……ように……尋ねた。
……誰、に?
急に頭が割れるように痛み、僕は思わずその場に膝をついた。
マントルピースの中には、わずかな灰の形跡すらない。
夏だから当然だ……けれど。
そもそもここで火が燃えていることなど、一度も……僕、は。
痛みにうめきながら、僕はじりじりとマントルピースの中へ膝を進め、突き当たりの壁に額を押しつけた。
すると、ほとんど同時に、微かな電子音とともに壁がゆっくりと動き始めたのだ!
数秒後。
あっけにとられた僕の前で、壁はぽっかりと黒い口をあけ、そこから地下へむかう階段が見えた。
……入ってはダメ、というのは……こういうこと、だったのか?
僕はまだ痛む頭を片手でおさえるようにしながら、ゆっくり階段を降りていった。
その先には廊下があり……いくつかの扉があった。
そして、そのひとつから、微かに灯りが漏れている。
僕はためらわず、その扉に手を掛けた。
「……誰だっ?!」
白衣の老人が、凄まじい形相で振り返った。
おじいちゃま……ギルモア博士だ。
「……き、きみは……まさか……ジョー?」
「……」
僕は、口がきけなかった。
ただ呆然と立ちすくみ、見つめていた。
おじいちゃまの後ろで、手術台のようなモノに横たわっている……女性。
『ジョー、久しぶりだね』
頭の中に声が響く。
でも、僕は驚かなかった。
「……イワン」
『思い出してくれて嬉しいよ、ジョー。……すっかり大人になったね。僕もよく見ると、ちょっとは成長しただろ?』
「……」
「ど、どういうことじゃ、イワン?!……なぜ、ジョーがココに?これでは話が……ルール違反じゃ!!」
『これも一つのシナリオだったということさ、ギルモア博士……全てはジョーの意志だ。僕らは、ジョーの意志を何よりも尊重する。始めからルールはそれだけしかない』
「……」
『ジョー、お帰り……いや、ようこそ、ギルモア研究所へ』
「……」
『そこで眠っている女性は003。今、メンテナンスが終わったばかりだ。明日には会えるよ』
「……00、3?」
『そう。サイボーグナンバー003、フランソワーズ・アルヌール……君を育てた女性だ』
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