超銀は、80年代初頭の劇場アニメで、製作は東映。
よく言われることであるけれど、この時代のアニメはまさに過渡期にあった。
新ゼロと同時展開していたガンダムを皮切りに、アニメは大人が鑑賞するモノ……ともなりつつあった。
そういう視点で超銀を見ると、いろいろ感慨深いのだった。
たとえば、超銀において、しまむらたちが謳うのは「愛」だ。正義ではなかったりする(悩)
でも、ゾア閣下は「悪の権化」なのだった!(倒)
「悪の権化」に対峙できるのは、やはり正義の味方ではないかと思う。愛ではちょっとずれる(しみじみ)
たとえば、仮面ライダーはショッカーと話し合いなどしない。
仮面ライダーが右だと信じたとき、ショッカーは必ず左だと判断する。両者の意見はどんな偶然があろうとも一致することなど絶対にないし、妥協も歩み寄りもあり得ない。
しかも、この場合、「左」は番組の神というか絶対意志のようなモノによって「間違った選択肢」とあらかじめ定められているのだった。
だから、両者の戦いはそもそも戦いというようなものですらない。
勧善懲悪というのはそういうものだと思う。
009は勧善懲悪の物語だろうか。
これが実は結構難しい問題なのだった。
違う、と言ってしまいたいトコロもある。
原作のヨミ篇後、勧善懲悪の色合いはかなり薄れた……ように見える。
一方、新ゼロは微妙だった。
ガンダールさまが現れたとき、しまむらが変なことを言っている。
彼は、ガンダールさまがもしNBGとつながっているなら絶対許せない、と怒りをあらわにする。
悪なら悪でいい、だが正義と悪をもてあそぶことなど許されない。
しまむらはそう語るのだった。
当時、このセリフになんとなく違和感を感じていた。
つまり、しまむらによれば、世界には絶対的な正義と悪とがあるのだ。
しかも自分が正義の側にいる、ということは自明の理となっているわけで。
…………?なんかヘンじゃないかしまむら(しみじみ)
新ゼロや超銀の頃。
戦いをモチーフとしたアニメでは、正義の味方のアイデンティティがものすごい勢いで崩壊していた。
ちょっと気の利いたアニメなら、主人公が「絶対正義」であることなどないし、悪の側にもやむを得ない事情のような別の一面が必要とされたのだ。
超銀でしまむらたちが正義ではなく愛を前面に出したのも、それがあったと思う。
……が。
にも関わらず、しまむらは正義でなければならなかった。
新ゼロにその混乱が多々見られたように、超銀においても、要するにそこがアキレス腱となっていたように思う。
時代は、正義の味方が悪の権化に美しく勝利することを求めていなかった。
でも、しまむらはそれとは関係なく、本質的に正義の味方であり、他のモノにはなれなかったのだと思う。
これは、本当のところ、時代がどうこう、という問題ではなく、イシノモリの問題なのではないかという気がするのだった(しみじみ)
イシノモリにおいて、正義の味方は正義の味方なのだ。
ところが、正義の味方なのだから、それを根拠に人々に愛され認められるのかというと、そうではない。その現実の中で、正義の味方のアイデンティティはひたすら苦悩する。
勧善懲悪は美しい。
私たちは美しいものを愛する。
なのに、私たちは勧善懲悪に耐えられない。
だからしまむらは苦悩するのだ。
80年代初頭、多くのオトナたちはアニメにおける勧善懲悪をひたすら否定した。
超銀はそのただ中で生まれた。
テーマは愛、とされた。
でも、しまむらは正義の人なのだ。
「オトナの鑑賞に堪えうる作品」を期待しつつ、009ファンは、正義の味方でないしまむらなど受け入れられないし、実際、正義の味方でないならソレはしまむらではないのだ。
だから過渡期の混乱が過去のモノとなってから作られた平ゼロにおいて、しまむらはいっそすがすがしいほど正義の味方だ。
そして、正義の味方であるがゆえに、世界との微妙なズレを抱えて生きていくことになる。
それが本来のイシノモリなのだと思う。
超銀において、しまむらたちの相手はすさまじい力をもった非常に攻撃的な宇宙人だった。
もちろん、彼らと交渉したり話し合いをしたりするのは無茶な話だ。
なしくずしにやるかやられるかの戦闘に入るのは仕方ない。
が、それは正義の戦いではない。
断じて違う。
超銀は、それをわかっていた……と思う。
でも、わかっていたからといって、それをどう表現したらいいのか、というところには到達できなかった。
「ヤマト」も「ガンダム」も「地球へ…」も、主人公たちには、あらかじめたどるべきストーリーが与えられている。
その骨組みが確かだから、それにオトナ好みのいわゆる「人間ドラマ(倒)」をちょこっと付け加えることは難しくない。
が、009にそんなストーリーはない。
しまむらたちはただ生きているのだ。どう生きればいいのか模索し続ける、その姿こそが彼らのストーリーで。
にも関わらず、彼らはフツーの人間ではなく、正義の味方であり、それが彼らの生を支えるアイデンティティだったりする。
そもそも、ややこしい人たちなのだった(しみじみ)
ゾア閣下は、ひょこ♪と作られたキャラクターだから、そんな面倒はない。「悪の権化」でたくさんだ。
しまむらは本来なら「正義の味方」として素直にソレを受ければよかった。
そういう物語にリアリティは全くないけれど、東映映画なんだから(倒)この場合それでいい。
が、時代がそれを許してくれなかったのだ。
もし、しまむらが典型的な「正義の味方」であり、ただそれだけ、という人だったら、時代に選ばれるはずもなく、映画などあり得なかっただろう。
が、しまむらはちょっとややこしい正義の味方だったので、時代の要請に微妙に応えることができてしまった……のだと思う。
だから、やっぱりヘン(涙)
ヘンだということはどーしても認めざるを得ない。
でも、なぜヘンなのか、ということを考えると、なんだか愛おしいのだった(しみじみじみ)
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